コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


あの空の向こうへ

 いつもと同じ、いつもの帰り道。
 ちらりちらりと降るものに、彩峰みどりはふと足を止めた。
「桜だ……また、一年経ったんだ……」
 静かに、静かに。音もなく舞う淡いピンク色。
 見上げれば、枝には桜の花が満開だった。
 仕事帰りに通った公園の中――街の灯は遠く、ゆえに、桜はより美しく見えた。公園内の小さな街灯に照らされた桜は、深い闇の中で鮮やかに浮かび上がっている。
 一瞬。
 この世から切り離されたような気がした。
 ……この世から、あの世へ。
 明と暗に彩られた幻想的な姿は、まるでこの世のものではないようで……。
 その時、みどちの心には一人の青年の姿が浮かんでいた。
「六年かあ……早いよね、お兄ちゃん」
 語るべき相手はここにはいない。いや、この世界のどこにも、いない。
 だがそれでも。
 みどりは、彼に報告するような気持ちで言葉を続けた。
「……私ももう十七……結婚できる年になったよ」
 瞳を閉じればいまでもありありと思い出せる。
 幼くとも真剣だった、大切な大切なその想いを……。


「お兄ちゃんっ」
 十一歳のみどりは、八つ年上の彼をそう呼んでいた。けれど、みどりは彼を兄のように慕っていたわけではない。
 確かに慕ってはいたが、それは兄に対するそれでなく、異性に対するものであった。
 ……心の底から愛する大切な人として。みどりは、彼のことを「お兄ちゃん」と、そう呼んでいたのだ。
「大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになりたいな」
 子供のそんな言葉を、彼は子供だからと簡単に聞き流したりはせず、真剣に考え、そして真剣に答えてくれた。
 そうして彼は、しごく真剣に、答えを出してくれたのだ。みどりを好きだと……愛していると。
 だが、幸せな時間は、唐突に終わりを告げる。
 当時みどりが住んでいた国で、戦争が起こったのだ。
 大切なもの同士が引き裂かれる――同じような悲劇を体験したのはきっと、みどりだけではなかっただろう。
 今はそう思える。が、あの時はそんな心の余裕はなかった。
 ただただ、哀しくて。
 戦争の混乱の中、彼が最期に遺した言葉が余計に辛かった。
 だって、もう、逢えないのに。
 もう二度と、抱きしめてもらうことも、触れることも、言葉を交わすことも……そっと見つめることすらできないのに。
「……忘れない……とか…そんな、言葉より……」
 彼は、言った。
 握った手が冷たくなっていくのに、なにもできなくて。そんな自分が悔しくて、ボロボロと涙を零す――彼は、ひどくゆっくりとした動作で、それでもなんとか手を動かして、みどりの頬を拭ってくれた。
「……お兄ちゃん……っ」
 呼ぶと、彼はまぶしそうに目を細めて笑う――が、その瞳の奥には寂しさと悲しみの色を湛えていた。
「もう一度……もう、いちど、だけ……」
 みどりが握っている片手。握り返す指にはもう、ほとんど力はこもっていなかった。
「抱きしめて……やりた、かった……」
 もう彼の腕は、みどりの背中にまわせるほどに動かなかったのだ。
 別れの時が、近づいている。
 二人ともそれを理解して、二人が浮かべた表情は、お互いまったく逆のものだった。
 とめどなく流れる涙を拭うこともせずになくみどりと。
 少し悔しそうに、でも、穏やかに優しく微笑む彼。
 彼は、ゆっくりと瞳を閉じた――びくりと身を竦めるみどりの前で、瞳は、再び開かれる。
 ……それはもう鮮やかな……幸福の色。
 死を覚悟し、過去を思った時……彼の人生は、確かに、幸せだったのだ。……終わりはあまりにも早かったけれど。
 彼は、告げる。
 幸福の色を湛えた瞳で。
「泣き虫で、甘えん坊な君が……誰より、好きでした」
 その言葉は、いやにはっきりとみどりの耳に届いた。瀕死の人間が発したとは思えないほど、強い、声。
 それはある意味では、初めての告白だった。
 もちろん彼は真剣に、みどりを異性として愛してくれていたけど。けれどどうやったって、みどりはまだまだ子供で、どうしても、子供扱いされてしまうことは多かった。
 お嫁さんにしてくれるという言葉は心からの本心であり、想いであったろう。けれど、「お嫁さんにしてあげる」なんて言葉、少なくとも、年の近い恋人同士であったら戯れの冗談に近い雰囲気でしか紡がれない言葉だろう。
 もう少し大きくなって――そう、結婚できるくらいの年になれば、八つくらいの差なんてどうってことはない。
 その頃には今よりもずっと近い位置に立てているはず。
 だが、その『時』はもう、永遠に訪れない……。


 ――ああ、そうだった。
 思い出してみどりは、閉じた瞳を開く。
 さっきまでとまったく変わらぬ風景が目の前にあった。
 ……つ、と。
 一粒だけ、涙が零れた。
 けれどそれは哀しみの涙ではなかった。……この感情は、なんと呼ぶべきものだろうか。今みどりの胸にあるのは、小さくとも暖かな想い。
 ……みどりは、しっかりと顔を上げて笑った。
 遠い空の向こう。この世ではない場所へ向けて。
「お兄ちゃん、見てる? 私――みどりは、今日も元気だよ」