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<東京怪談・PCゲームノベル>


猫餡中心百物語 一の話―踊り猫は…を運ぶ―


○今宵この夜

 赤い、赤い提灯がゆらゆらと風に身を任せていた。
 いつもどおりに赤いちゃんちゃんこを羽織り、二足でもってすっと立つ黒吉は今しがた明かりを入れてやったばかりの提灯が照らす表通りを眺める。
 夕刻を僅かに過ぎた頃合だ。
 化け猫銀座と銘打たれたこの奇妙な商店街も、この時刻からは妙に騒がしくなる。
 稼ぎ時だ。
 胡乱といえば胡乱な店構えが続く商店街だが、訪れるものは以外に多い。
 昼日中には片付けられていた出店もぽつりぽつり、と出始めて、行きかうものどもはその一つ一つを賑わしく見定める。
 表通りを行きかう妖ども、時に紛れ込む人ども。どちらも存在する。交じり合って、当たり前のようにすれ違って、それでも何ら問題にはなりはしない。
 妖に度肝を抜かれて騒ぎ立てるような肝っ玉の人間はもとよりこの場所に足を踏み入れらぬものだし、人の味を忘れられぬ妖どももまた、この通りからは締め出される。
 何せ――商売をしたいものと、何かしら欲しいものがあって訪れるものたちしかいない通りなものだから。
 たどり着くことは簡単なようで、難しい。難しいようで、ひどく容易い。
 それが化け猫銀座だった。
 そして、その一角に「猫餡中心」なる店を構える店主が、この黒谷黒吉という化け猫。
 全身がふさふさとした真っ黒い毛に覆われ、光る両目は緑色。よくビー球のようだ、といわれるが、そういう時黒吉は、「では暗ぇ場所に立つ手前を遠くからごらんくだせぇ」と面白くなさげに呟く。少しは、気味が悪いと思いませんか、と。
 化け猫の瞳は本来、人を惑わし不安な気持ちを掻き立てるものである、という持論を持つ彼には小さな硝子球と自分の目玉が同じとされることが気に食わないらしい。
 だが、化け猫である自分がエプロンを着用して料理をすることには何の問題も感じない。黒吉はそういった変わったところのある妖だった。
 そんな変わり者が、今宵、小さな集まりを開く。
 しばしの間、夕刻の熱気覚めやらぬ風を身に受けて楽しんだ黒吉は、懐に手をしのばせると、器用に一枚の紙を取り出した。そう大きくもないそれを丁寧に猫餡中心の入り口――格子戸の中ほどに貼り付ける。
 そうして暖簾を一叩きすると、戸を開いて店の中に消えていった。
 張りつけられたわら半紙には、なかなか流暢な文字と、一匹の黒猫が二足で立ち上がり軽く頭を下げている墨絵が書きつけられている。
 文字はこう示していた。

【今宵 暮れ六つ 当店にて百物語をいたします どなたもお気軽においでなさいませ】

 さて。今宵は何人お集まりくださるやら。
 店の中で髭を掻いて、黒吉は嬉しげに笑った。


○招かれるものども

 気の早い月が姿を現し、きっちりと半分欠けていた。
 たまたま覗いた格子戸の向こうにそれが見えて、シュライン・エマは素直に綺麗だ、と思った。
 ひょい、と目を戻すと、辺りはとても暖かな白い湯気で満たされている。炊事場の方から、しゅんしゅん、と湯の沸く音が聞こえていた。何を、作っているのかしら。
 自分が座っている畳の上で足を組み替えながら、シュラインは物珍しげにきょろきょろと視線をあちらこちらに移動させる。
 すると、ちょうど座敷の横にす、と黒い影が立った。
「さぁさ、まずはこれをおあがりになってくだせぇ」
 愛想のよい笑み(と思われるもの)を浮かべながらそう勧めてきたのは、二足歩行の黒猫で、名を黒谷黒吉と名乗っていた。
 先ほど店に入ってすぐに見た時には随分驚いたものだったが、もうほとんど違和感はない。今までおかしなことにあい過ぎたせいかしら、とちらりと思ったが深くは考えないことにした。
 ありがとう、と微笑むと黒吉はどこか照れくさげに「とんでもねぇ」と首を振って、器用に持った盆を差し出してくれる。
「ねぇ、どうやって持っているの?」
 盆の上の湯呑みを受け取りながら、シュラインは素朴な疑問をぶつけた。
 黒吉は意外とがっしりとした(でっぷりかもしれないが)その身体を揺らして笑いながら、「そいつは、あれで。”きぎょうひみつ”で一つ」。そう言ってにしし、と髭を舐める。
「企業秘密を知ってるのね」
 いたずらっぽくシュラインが言うと、「俺が教えてやったんだー」、声は別の所から飛んできた。
 妙にあっけらかんとした喋り方をする青年。猫倉甚大だ。
 そもそも、シュラインが今夜、この店に招かれたのはこの青年がきっかけだった。
 草間に至極渋い顔をされながらもこりずにちょくちょく事務所にやってくるこの少年は、今日もその例に漏れずやってきた。ただ一つだけ違ったのは、厄介ごとを持ち込みにきたのではないということだ。
『今日さぁ。俺の行きつけの店で百物語ってのをやるんだけど、誰か行かない?』
 思わずその場にいた三人で顔を見合わせ。
 草間は『怪奇の類は依頼でぶち当たるだけで十分だ』と不機嫌そうに宣言し、妹の零は『今日は少し用事があるので』と残念そうに断った。
『そうなの? じゃあ、私行こうかしら』
 おもしろそうね、と甚大に笑いかけたシュラインに、背後の草間が勢い込んで何か声をかけようとして煙草にむせていた。……けれども、結局自分はその集まりにやってきた訳である。
(帰ったら武彦さん、むくれているかしら)
 苦笑とともにそんなことを思いつつ、シュラインは甚大に「あんまりおかしなことを教えちゃだめよ」と言う。
「べっつにおかしなことじゃないってば。……黒吉、俺にもお茶ちょうだい」
「へぇ、ただいま」
 頷いて一度厨房に引っ込む黒吉を目で追いながら、シュラインは熱い湯呑みを傾けた。
 瞬間、口の中にふわり、と広がる苦味、そして暖かさ。抹茶入りだという緑茶は、身体を芯から温めてくれた。
 春先といっても、まだまだ寒い日が続いている。
 夜ともなれば風も冷える。それを思って用意してくれたのだろうか。
 先ほど眺めた窓の外は、もう鮮やかな赤から薄暗さを含んでいた。まもなく、頃合の時間になるのだろう。
 もう少し……全員が集まるまでは、こうしてお茶を呑んでいよう。いつも忙しく動き回っているからこそ、こうした時間が愛しい。


○さても団欒

 お天道様の色が、随分希薄になる刻限がやってきた。
 暮れ六つを過ぎた空は、もう薄闇が降りつつある。
 それぞれに揃った面々をとても嬉しそうに眺めた黒吉は人に比べれば小さな身体――けれどがっしりとした身を丁寧に折って挨拶をした。
「ようこそおいでくだせぇやした。手前が、この店の主。黒谷黒吉と名乗るものでございます。今宵はこれほどお集まりくださいまして。胸が躍るようでさぁ。ささ、まずは、白飯でもおあがりになってくだせぇ」
 ちゃあんと釜から炊きやした。うちの白飯は、うまいですよ。
 そういって昔ながらの黒釜の木蓋をとった途端、ほわっ、と真っ白い豊かな湯気が店内に上がる。
 その光景を見るだけで、自然と皆の顔が緩む。
「甚大さん、ちょっくら手伝ってもらえますかい」
「あー、うん、いいっすよ」
 すぐにすっと立って炊事場に回り、人数分整った食器を眺めながら「俺ってどうすればいいの?」と聞くと、黒吉が割烹着を揺らして振り返る。
「そこにでかい鍋があるでしょう。そこ、それです、金物鍋……そう、それに蕪汁(かぶらじる)をこさえてありやす。皆様の分をついでもらえたら」
「うっし、了解!」
 威勢良く答えて、甚大が碗に汁を注ぐ。その様があまりに豪快で、汁が飛び散りはしないか、と少しだけ気にしながら黒吉は茶碗いっぱいに盛った白飯を座敷に運んだ。
 肉球のついた手で器用に盆をもち、皆の前に丁寧に並べる。箸は、自分が不器用ながら切り出して、綺麗に整えたものを添えた。ほどなくして、蕪汁も運ばれてくる。
 ちょうどいい具合にあったまった味噌の香りがぷん、と鼻をついた。碗には蓋さえされていないし、その素材自体も上等の朱塗りなのではなく、とても素朴な木色の碗だ。だが、味噌の色が妙にうまそうに見える。白く濁った味噌の中にぽかん、と浮かぶ蕪は白から少し色を変えて、よく煮込まれていることが見ているだけで分った。
 すべての料理を並べ終えて、ようやく黒吉は頭に被った三角巾をとり、全員に向き直る。
 場が整うまでは、となんとなく話もせずに座っていた面々は、そこで初めてそれぞれに口を緩めた。
「おいしそうー……お味噌の香りがすごいわね!」
 感嘆の声をあげたシュラインに、黒吉は照れたように喉を鳴らした。
「味噌もあっしの手作りですんで……いい大豆からできた味噌です。どうぞ、味わってみてくだせぇ」
「この白飯も……まさしく銀シャリ、というか。僕、仕事帰りなのでとてもお腹がすいていたんですよ。ありがたく、頂きます」
 折り目正しく、穏やかに微笑み、箸を割ったのは匡乃だ。小気味のいい音が響く。くつろげたシャツはそのままで、この場でそれなりにくつろいでいることがわかる表情だった。
「すぐに、お茶を淹れますよ」
 座敷の一番端で甚大と彼の本業である古本屋猫又堂の場所を語り合いながら、「おいしいですよ、本当に」と蕪汁の碗を上げてくるモーリスにも会釈しながら、黒吉は微笑む。
 人が、自分が作った物を嬉しそうに口にしてくれる。生きる中で、それは黒吉の幸せの一つである。だらしなく髭を緩ませてお茶を淹れに厨房へ戻りかけた背に、とても静かな声が届いた。
「……おいしいよ……」
 ――黒吉さんは、まるで響が二本足で立っているようですね
 店に入って自己紹介がすんだあとに、とても不思議そうに、柔らかい目で自分を見ていた少年――今の声は、遠夜さんだろう、と黒吉は思った。どちらかと言えば無口であろう彼が、そういってくれたのだ、と思うと、それだけで。
 こうして気ままに店をやる意味もあるってもんだ。ねぇ。
 そう思いながら細い目をさらに細め、化け猫銀座の当たり籤でもらった薬缶からお茶を注いでいると、今度はひょい、と厨房をまたぐ者がいた。
 不思議に思って眺めると、そこには畳座敷に座っていたはずの卦見の姿が。
「おや……どうかなさったんですかい、卦見さん――」
 首を傾げて尋ねると、卦見は穏やかに「いえいえ」と言いながらじーっと黒吉の全身を眺める。
「……いい割烹着ですね」
「へぇ。甚大さんにいただきやして」
「なるほど。その下の毛って、ふかふかですか?」
「へ? ……はぁ、まぁ、その、それなりに」
 戸惑いながらも黒吉が数度頷くと、卦見は満面の笑みを浮かべてそうですか、と呟いた。
「それは……とても楽しみで……あ、お茶、わたくしも手伝いますよ」
 なにやらとても浮かれ気味な足取りでお茶を淹れたの盆を手に、座敷へと戻っていく。
「……?」
 彼は……占い師と言ったか。あっしと同じような匂いがするが……変わったお人だ。
 そう思い、もう一度首をかしげながらも、小皿に付け合せの漬物を盛り付けて、自分も厨房の暖簾をくぐる。


○どのような話がお好みで?

「さて、お集まりくださった皆々様に。今宵は奇妙な夜にございます。どうぞゆるりとお楽しみを」
 そう言って腰を曲げた黒吉は割烹着を外して初めの赤いちゃんちゃんこ姿に戻っていた。
 それぞれに談笑しながらの食事もあらかた終わり、今は畳に車座に座っている。
「――――百物語というものは、皆様大体くらいはご存知でしょうか」
「……幾人かの人々で寄り合い、百本の蝋燭をたて、話し終わるとそれを一本ずつ消していくと……百話を話し終えた時に何かが現れる、といったものですか」
 簡潔に概要を纏めたモーリスに、黒吉は「左様で」と頷く。
「確かに、そういった類の遊戯でございます。江戸の時代には、妙に流行っていやしたよ」
「江戸時代に、本当に何か起こったりはしたのかしら?」
「……そうですなぁ。あっしが知っている限りでは、起こることも、起こらないこともあった。数限りない人々が百物語をしていた時代ですからねぇ」
 首をひねってそう言うと、黒吉はぐるり、と首を回す。
「あっしの生まれは今からちょうど三百五十年の昔で宝永に入った頃ですが、まだまだ徳川の世でござんしたね。家宣さまといいやしたか。まぁ町で暮らすものには将軍様の名など大した問題ではない。その日その日の銭を稼ぐことの方がよほど大事なようでした。あっしら猫どもは、そんな人どもの行いの中に薄く混ざって、それなりに暮らしていやした。――江戸の時代はようございましたよ? 闇がみなの中に生きていた。飼い猫が何年かを生きると化け猫になることが当たり前だったんですから……あっしだってね、あれは小さな商い屋でしたが、飼われる前には五年、飼ってやる。五年過ぎたら出て行けよ、と年季を言いつけられたもんです」
「……そうしないと、猫は祟る、と言うから?」
 表情を作らないままに、自分の膝でくつろぐ響きを撫でてやりながら遠夜が呟く。黒吉は大仰に何度も頷いた。
「よくご存知で。その通りですよ。江戸は、寛永にもなると段々と松平さまの締め付けがひどくなり、やれ贅沢なものはやめろ、公を乱すものはやめろ、というお触れが回り始めて、随分面白くもない時期もありやしたが……やはり闇が深かった。夜ともなれば、人は提灯の光以外に照らす光を持たないんですから」
「……きっと、とても月が明るかったんでしょうね。電灯も、真夜中の家の明かりもない時代なんだから」
 遠い時代。見えない世界に視線を這わすようにそう漏らしたシュラインに、黒吉は少しだけ笑う。
「――――まことの闇が、ありやしたから」
「……いいわね。是非、今日はその時代の話をお聞きしたいわ。江戸という時代だけでもとても遠いものなのに、その時代の貴方の視点の話が聞けるなんて……嬉しいし」
 微笑む彼女に大した話ができるかどうか、と言いながら黒吉は他の面々を眺める。
「皆様方は。何か、こんなものがいい、とございましたらご遠慮なく。ここでは一夜に百話は話しませんが、なあに。この場はご覧の通りの不可視の場所。たった一話なりとも、不思議が起こる可能性がございやす。――どのような話がよろしいですか? どなたか、語ってくださっても結構です」
 さあ。
 黒いずんぐりとした手と身振りで進められ、それぞれはしばし考え込む。
「……僕は。基本的にお任せだけど……江戸時代、猫か鳥が出てくるタイプの百物語を聞かせてくれると嬉しい」
「おお、これは嬉しいや。猫の話となればあっしの領分で」
 嬉しそうに頷きながら畳に腰を下ろす黒吉に次いで、匡乃も口を開く。
「僕は、これと言って面白い話は持っていないので、他の方のお話を聞かせていただけたら――……ああ、けれど。少し興味があります。心霊という物自体にはよく遭遇する方だし、とりわけ……気になるテーマはありますね。不幸な男、というものが」
 知り合いに、この世の不幸すべてを背負ったような男がいるんですよ、と匡乃は語る。
「ただし、その不幸は真に彼を害したりはしません。そういう、不幸。純粋にすごいと思うんです。興味があるといってもいい」
 最も彼――三下くんの不幸の原因には随分自分も加担しているけれど、とこれは心中で呟きながら。
 黒吉は頷いた。
「――いつの時代にも、そんなぶに(運命)を持った輩がいるんでございますね。請合いました。……他にはいかがでしょう」
「……私は、人形の話がいいですね」
「人形? ああ、なんか色々いわくがありそうだもんね」
 呟いたモーリスの言葉に頷いて、甚大も賛成する。
「そう、いわく……。怖い話ですと、アンティークドールの中に赤ん坊の骨を抜いたミイラが入っているとか、そう云う無気味な事を随分昔に聴いた事がありますね。まぁ、真偽は定かではないですが……おやおや、そんなに気味悪そうにしないでもいいでしょう」
 急に顔を顰めた甚大に人のいい笑みでからかうように声をかけたモーリスは黒吉と皆に向き直る。
「日本の人形にも、様々な話があると聞きます。一つ、その話を」
「人形……なるほど。ひとかたですな。請けあいました」
 頷き、自然と黒吉、その他の視線が最後まで発言していない卦見に向くと、何故か絶対にここだ、と黒吉の隣を陣取った卦見は集まった視線ににこり、と笑った。
「わたくしも、今回は聞き役で。不思議な話を聞かせてください。ひと時を夢中に過ごせるような、そんな話を」
 それで、全員の要望が出揃ったことになった。
「……なんだ。今日は結局みんな聞き役なんだなー」
 どことなく残念そうに甚大が漏らすと、「そういう甚大さんは」と黒吉が水を向ける。
「俺が話すと怖くないんだってば。知ってるでしょ、もー。それより人の話が聞きたいんだっての」
「まぁ、いいじゃない。今日は店主さんのお話で。そりゃあ、私だって百物語は幾度か参加したことがあるから、話す話はあるわよ? 飴幽霊とか、隙間女の話はよく聞くでしょう。だけど、今日は少しだけ違う話が聞きたいだけ」
「実体験は?」
「それは守秘義務があるからダメよ」
「それはそうだ」
 苦笑したシュラインに、匡乃がふふ、と笑う。
「うっかり話したりしては、草間さんになんと言われるかわかりませんね」
「ほんとよ。だからダメなの」
「じゃあ、あんた……卦見は?」
 占い師なんだから、何かないの、と尋ねると、最近髪を切ったらしい彼は少々眠そうな声で、それでもふわふわとした笑みを浮かべた。
「占い師だからこそ……できません。だってほら。わたくしにも守秘義務というものがあるんですから。お客様のことなど話せませんよ」
「あー。そっか」
 最もな言葉に肩を落として今度は響を撫でる遠夜を見ると、彼は何も浮かべていない表情のままふい、と甚大から視線を外してしまう。
 甚大はきょとり、と目を瞬かせたが、やがてからりと笑って「ま、じゃあいいや。俺も聞きたいし」と納得して何故か遠夜の隣に身を落ち着けた。面食らったような、少し迷惑そうな遠夜の顔を見ながら、甚大は響さんが気になるのだろう、と心で笑う。彼はとても猫が好きだそうだから。

「さて、それでは――」
 ぴたん、ぴたん、と黒吉の尻尾が波打って畳を叩き、皆がふと黙る。
「皆様から頂戴した話の筋……遠夜さんは猫、シュラインさんは江戸の、ちょっとばかし奇妙なもの、モーリスさんは人形、匡乃さんは不幸……出たものはこれくらいのもんですかねぇ。では、その全てが関係したお話を一つ、語りましょう」
「そんな話が?」
 興味深げに首を傾けたモーリスに、黒吉はしゃしゃ、と口を開いて笑う。
「これでもそれなりの時を重ねておりますから。さぁ、では。ゆるりと、お聞き合わせくださいな……」


○さぁさ、それではお立会い―踊り猫―

 先ほどシュラインさんがおっしゃられた通りに――あっしが生まれ育った江戸という時代はねぇ。月がひどく明るく見えた。ぽかーんと空に浮き上がった月がね。あっしにはひどく遠かった。もちろん、人どもよりも遠かったんですよ。生まれた時には、あまりにちっさな畜生でしたからね。
 見える光は月だけ。そんな場所も少なくはなかった。月が欠けてね、なくなっちまう日なんぞは……それはすごい眺めなんですよ。それが、当たり前だったんですけどね。今から思うとすごい眺めだったんだ、と、そう思いますや。ええ、それはもう。
 お天道様が暮れる時には、鐘撞堂から暮れ六つの鐘の音が重く、やんわりと鳴り響いてくる。そう、ちょうど先ほどのような時刻です。
 夕刻を過ぎれば稼ぎに出ていたものも帰り始めるし、店はぼつぼつと夜の商売の準備の為に、提灯に火をいれる。その様はね、そりゃあもう綺麗なもんでございますよ。薄明かりの中で光る提灯の先に、暖かい夕餉の匂いが漂ってね。
 さぁ、家に帰ろう、って思うと、自然と足は速くなる。あっしら猫どももそう変わるもんでもありやせん。野良の猫も、家に住む猫も……皆、帰る場所を持っておりましたからね。血の繋がったもの同士で暮らすことも、ひとっ所にい続けるわけでなくてもね。
 あっしらには、居場所があった。あの、江戸という時代にね。
 ――――話が少しそれやした。これから語るのは、そんな江戸の話でございやすよ。
 匡乃さん? お前さまは先ほど、奇妙な不幸を背負った男がいる。そうおっしゃっておりましたね。その時にあっしは申しました。どこにでも、そういったものがいるものなのか、と。
 命を奪うほどでない。けれども、繰り返し繰り返し、不幸が訪れる。……笑っておいでですね。そのお方はお前さまから見てさぞ滑稽なのでしょうねぇ。けれど、憎めるものではありますまい?
むしろ、好いておられる。そうでしょう……。
 江戸の時にも、そのようなものがおりましたよ。いいえ、あっしが実際にその男を知るわけじゃない。実際にこの話をてんから末まで承知だったのは、あっしの話し相手の一人でしてね。ええ、昔っから、あっしは話すことも聞くことも好きだった。ただの猫畜生であった時も、それは変わらず。そのままだったんで。だから、よくそういうおかしな話を耳にすることがありました。
 ともかく、あっしがその男の噂を小耳に挟んだのは、夜になると気まぐれにやってた猫の寄り合いでのことだったと覚えておりやす。あっしがその時飼われていたのが日本橋に店を連ねる商家の一つで……そう、商いのど真ん中ですよ。昼日中は絶えず商人や担ぎ売りの闊歩する土くせぇ通りも、夜中――九つも越えると、ああ、今で言うと零時ということになるんでしょうか。
 もうね。誰も通ってやしないんですよ。巾着きりだって寝ちまう刻限だ。ほんの、たまに、ちらちら揺れる手提灯などの影が見えることもござんしたけどね。あっしらには関係のないことだ。
 これ、この通り。闇に紛れるのは何よりも得意でして。おまけに人より小さいときてる。生き物などいねぇ風体で、足元をすり抜けて寄り合いに向かうことなんざ、簡単でした。ええ、まぁ見つからないに越したことはねぇんで。あっしらにはあっしらなりの約定がありやしたから。まぁ、それはいいんですが。
 足を向けていった先の寄り合いでは、いつもどおり猫どもがごろごろと馬鹿話に花を咲かしておりやした。さて、今日もそれに混ざろうかい、と。ひどく楽しみでね。輪の中に進み出たわけですよ。ちょうど、こんな風にね。
 そこで耳にした。話していたのは井筒屋という呉服屋で飼われている三毛という女猫で。え? えぇ、まぁ別嬪なんでしょうが、あっしにはそんなことはどうでもよかった。まだ餓鬼でしたんで。話している話の方がよほど気になったわけですよ。
 その話は、この所うちの店で主人が使っている下働きの男の様子がおかしい、というようなもんでした。尋常でないことがあった、とこう言うんですな。その男が、不幸な男――――名を、庄吉と言ったそうで。
 三毛はそこの主人の猫で、随分と可愛がられていた。それというのも、三毛めが一切商売ものには手をださず、店に出る鼠だけを追う賢しい奴だったからでしょうかねぇ。三毛が店のどこをうろついていても、それを咎めるものがいない。そんなこんなで、三毛のやつはいつも好き勝手に店中を歩き回っていたわけなんで、自然と店の者の動きも目に入る。三毛は、そんな中でその庄吉を見ているのがとりわけ好きだった、とおかしそうに言っておりやしたね。
 ……理由? それは、匡乃さんとご一緒ですよ。庄吉という男は、根っから真面目な性ではありやしたが、いかんせん力がそれについていかなかった。
 気も弱ければ、仕事にも不器用で、人の倍も費やす時間は多かったといいやす。それでも庄吉が暇を出されなかったのは、偏に井筒屋の羽振りのよさと主人の目。けして心根の悪い若者ではない、と知れていたからだと三毛は言っておりやした。
 ……けれども、それ以上に、厄を背負って歩いているような奴だ、と。まるで不幸の方から奴に吸い寄っているみたいだ、ということでした。ほんのちょっとしたことでもありやしたがね。雑魚部屋で自分の夜着だけが消えていたり、肝試しに引き出されて誰も見なかったものを一人だけ見たり……。貧乏くじ、というんでしょうかねぇ。
 そんな彼がね。ここのところおかしなことをする、と言って、三毛は話し始めやした。

 ……ああ、どうも、甚大さん。お茶はみなさんに行き届きましたかね?
 卦見さん、そんなに毛に身をすりつけないでくだせぇ、けばだちますから。ああ、はい、そう、それでおかしな話が持ち上がった、ということなんですけどね。
 先ほども言ったように、商いをしているならば、昼日中なんぞはひどく忙(せわ)しないもんです。
 一日にできる商いは決まっている。けれども、お天道様は止まっちゃくれねぇ。江戸は、お天道様と共に暮らしていた。だからね、余分なことをしている暇なんてありゃしないんですよ。いくら腹が行灯を蹴破ったようでもとにかく、働かないといけねぇ。した働きともなれば、それはもう息をつく間も惜しいくらいのもんだった。人どもはねぇ、なんでまたあそこまで忙しねぇんだろう、と不思議だったもんですよ。あっしたちには、夜が見えましたからねぇ。好きなときに動けばいい。
 それが、時は真昼間。いい昼寝場所でもありゃしないか、と三毛が縁側近くを歩いている時、ひょっと見たわけですよ。ふらふらと、なんだか妙におぼつかない足取りでね。裏の庭の端をすいーと抜けて、さらに店の裏側――奥庭の方に歩いていく奴の姿をね。
 それが、どうにも庄吉に見えた。それで、三毛はなにやら気になって後をつけたんでございやすよ。
 それというのも、その庄吉のような奴が消えていった場所が、あまりに人の出入りしねぇ場所だったからだそうで。まぁ、奥庭といっても何があるわけでなし。以前三毛が行ってみた時にはただ単に腐れかかった竹の柵とぼうぼうに草が生えただけの場所で、薮蚊にさされて忌々しい、とこぼしておりやした。それで、余計に不思議だったわけですよ。この忙しいはずの真昼間に、庄吉の奴はあんなところへ何をしに行くんだろう、とね。それで、奥庭に回ってみた。
 そしたらねぇ、三毛はそこで気味が悪くなっちまった、というんですよ。
 庄吉は、特に何もしていなかった。ただ、奥庭の、草が生え放題の真ん中あたりで座り込んで、なにやらぼーっとしていた、ってね。まぁ、それだけならさぼってやがるのか、ということになるんでしょうが。これが、そういう風体でもない。まるで、そう、正気でも失ったんじゃねぇのか、というように。口をぽっかり開けてね。おぼつかない視線でただ前を見てね。その口の中に藪蚊が出入りしていることにも、奴は気づいていない様子だった、と。そしてね、そうしていながら、ぽっつり一言、呟いたって言うんですよ。

「あと、八つ」

 ……その声がねぇ。どうしようもなく気味が悪かった、と三毛は耳を垂らして言いましたね。いや、胆のすわらねぇやつじゃあないんですけどね。庄吉のしていることや、声が、どうにもいけなかったと。あれは、きっとおかしなものに憑かれてるに違いないよ、と繰言するんですよ。
 店でそれに気づいたのは、三毛だからこそだ、と奴はいいました。そりゃあそうでしょう。
 した働きのすることなんて、そんな四六時中目を見張っちゃいられませんからね。それぞれ、自分の仕事がある。何より、庄吉はその店(たな)に上がってから随分長かった。給金も上がらなくても、毎度懸命に働いているのは誰もが知ってる。一度や二度、裏庭でふらつく庄吉を見ても、そう咎めるものもいなかったでしょう。けど、だからこそ遅れた、ということになるのかもしやせんねぇ……。庄吉の異変に気づくことが。

 三毛はそれから毎日随分注意して庄吉の様子を見ていたそうです。すると、庄吉は毎日のように決まってその奥庭に出向いた。何をするでもなく、ただ、ぼーっと時を過ごしにですよ。それだけで、十分気味が悪いことといやぁ、そうですよ。だのに、さらに気味が悪いことがあった。
 庄吉が決まって呟く数がね。あれが、毎日一つずつ減っていくんだそうなんですよ。どうしてかね。何か、物を数えてるようでもないのに。ぽつん、と言うんですね。それが、やがて「あと、三つ」になった次の日。店では、大変なことが起こりやした。

 ……卦見さん。うつらうつらするのはよろしいんですけど、もうちいとばかりよけてもらえませんか。これじゃああっしが枕みたいですよ。ああ、どうも。遠夜さん、響さんはお茶を飲まれませんか。あっしが好きな飲み物もあるんですがね。いける口ならお出ししやしょう。
 それで。どこまで話しましたかねぇ。ああ、そうだ。大変なことが起こった、と言うところでしたね。
 ええ、そりゃあもう大変でした。なんせね、店の主人が大事にしていたものが急になくなっちまったんだ。なんでも、数日前、今まで見たこともない行商がふらりと訪ねてきて、それで一目で気に入って買ったものだ、というんですけど。
 ――――そう、人形、ですよ。
 それが、人形だった。
 これがまた変わった人形でしてね。猫が、手ぬぐいを被って、踊りを踊っている人形だった、といっていました。
 また、人とは酔狂なものだ。あたいたちに手ぬぐいかぶせて、人まねをさせるんだから、と三毛はどことなく嫌そうでしたけどね。あっしですか。あっしは嫌なわけもございませんよ。人間のように暮らすのも楽しいだろう、と思っておりやしたから。そんなもんだったから、今もこうしておるんでしょうね。
 その人形はほんの一尺(30センチ)ばかりで……ああ、それには少し及ばなかったと言いましたかね。なかなかに大きな人形だったんだと思いますよ。猫をかたどっているんですから、人形とは言わねぇのかもしれませんけどね。
 そいつが消えちまった。店の主人は気に入ったものは自分の寝間の棚に飾って寝るんだとかでね。消えるわけもないんですが。だって、主人の部屋ですよ? 入れるものだって、限られてくるでしょうが。けれども、実際なくなっている、っていうんだから、大変ですよ。賊が入ったということになりますわな。
 主人も、随分な剣幕だったそうで。店で働くもの、全てが厳しく取り調べを受けたんですよ。それでも、見つからなくてね。井筒屋は数日、ちょっとした動きに目を光らせるもので満杯になった。そんな中、庄吉の奇妙な行いが目につかない道理がねぇでしょう。――そう、庄吉は見つかりやした。その時には、もう、「あと二つ」になっていたと、三毛は毛を逆立てておりましたね。
 奥庭の草の中で、茫然自失となっている庄吉を見つけたのは同じした働きでも古株の治助という男でした。あと、二つ。馬鹿みてぇにね。そう繰り返す庄吉を見つけて、やつも三毛と同じことを思ったんでしょう。庄吉は店の主人の前に引き出されやした。当の庄吉は随分きょとん、としていたそうで。あんなところで何をしていたんだ、と問い詰めてもまったく話に要領を得ない。
 あそこに行ったことも、何かを呟いていたことも、まったく覚えがない、とこう言うんですな。ただ、この所とてもおかしな夢を見るんだと。それで、昼日中に仕事をしていて、記憶が判然としない時がある……。
 ねぇ、皆様。皆様はこれを、何だと思われやすか?
 庄吉はねぇ。今、もうほんの少しで、命を落とすところだったんでございますよ。ええ、これからその顛末をお話しやす。

 実のところ庄吉はね。ほんの十二日前の夜から、妙な夢を見るようになっていた。
 自分の匂いのする夜着を頭から引っかぶって寝ているとね。とても楽しそうな……それはもう、心躍る音が、聞こえてくるんだそうですよ。途切れ、途切れにね。
 それが、どうにも縁日で聞くような祭囃子のようだったので、庄吉はおかしく思って夜着から顔出す。けれども、自分の他にそれに気づくものはいないようで、雑魚部屋では相変わらず丸まって眠る者でいっぱいで、歯軋りや高いびきが響いている。気のせいか、と思って夜着を被りなおすと、また始まる。それにつられて、自分も何だか楽しい気分になってきて、おき出して、踊るんだ、と。
 踊りながら雑魚部屋を出れば、そこには、手ぬぐいを被った女がいて。
 女は一言も喋りはしないけれども、細い目を緩ませて、おしろいはたいた頬を引き上げてね。笑いかけてくるんだ、って言いましたよ。
 女は踊りだす。それを見てると、本当にこう、楽しくてね。一緒に踊ってしまうんだそうで。踊りながら、笑えてきてね、そうして女について、どことも知れぬ場所に行くんだ、と言う。いつも、最後に行きつく場所は決まっていて、石で塚が築かれた場所で踊るんだ、ってね。
 そうして、気が付いたらいつも朝で、自分は寝た時の通りに夜着の中にいる。それだからただの夢だったんだろう、と思うのだけれど、体が妙に重く、眠気もいつものように飛んでいかない。それで、昼日中、意識のはっきりしない時は寝ちまってるんだろうか、と不安になっていた、と庄吉は申し訳なさそうに語ったそうです。まさか、奥庭なんぞに行って、そんな正気からはずれたことをしていたとは思いもしなかった、と。
 話を聞いた主人と番頭はね。すこぅしばかり嫌な気分になったんですよ。
 十二日前といえば、例のなくなった手ぬぐいの猫の人形を行商から買い取った日だ。その夜に庄吉が見た夢に手ぬぐいを被った女が出てきて、踊りを踊ったというんだから。
 誰だって気味が悪くなるでしょう。――三毛でさえもそうだったんですから。けれども、三毛はもっと嫌なものを見ることになっちまった。

 店の主人はあまりに気味が悪いってんで、祈祷の拝み屋を呼びやした。そうして、庄吉を見せた。
 拝み屋は難しい顔で庄吉を眺め、「あと数日遅ければ、このものは命を落としていたぞ」と呟いてため息をついた。庄吉は、三毛の言った通り、悪いもんにとっつかれていたんだそうですよ。
 もうお分かりでしょう。庄吉がよんでいたのは、てめえの命の残り日数だったってことでさぁ。
 拝み屋は、そのなくなった猫の人形が根源であろう、と断じた。それで、祈祷をして、店の四隅を札で囲った。結界というんでしょうか。悪し者は出て行っちまうように。そして、もう戻ってこないように。しっかりとね。貼り付けたんですよ。
 その夜、三毛は見たくもねぇもの見た。何を見たか、って?

 それはそれは楽しげな祭囃子ですよ。ちんとんしゃん。しゃんしゃん、とん。鳴り響くそれは、江戸の夜に響き渡っていたと言う。けれども、誰も気づく様子がない。
 その時三毛は屋根で宵を楽しんでいた最中だったそうで。けれどもそんなもんが自分の真下で始まっちまえばそれどころでない。そろり、そろり、と屋根の上から覗いてみれば。
 下に、確かに奴が。
 楽しげに踊る猫の人形の姿があった、というんですね。
 毛の生えた身体に着物を羽おり、手ぬぐいを被り、囃子に合わせて――――人形が踊っていたって。
 ちんとんしゃん。しゃんしゃんとん。
 あまりのことに、背の毛はすべて立ち上がり、それでも目が離せなかった。
 二つの眼で動くこともできず眺めていると、手ぬぐいの隙間からほんの少し――そいつが三毛を見たんだと言いますよ。その目と言ったら……。
 三毛は、そこは詳しく語りませんでしたけれどもね。きっと、見たくもない目だったに違いねぇ。命を奪うものの目は恐ろしい。掛け値なしに、恐ろしいものなんでさぁ。
 何のいわくかしれねぇそいつが、何の為に庄吉とやらの命を奪おうとしたのか。それだって知れねぇんだから。あっしは恐ろしい話や、奇妙な話が好きですけどね……この話を聞いた時には、ちぃとばかし三毛を哀れに思いましたよ。奴にも不幸がついているのかもしれねぇ、ってね。
 その行商がなんだったのか、今でもあっしは考えますよ。命を吹き込まれた踊り猫……奴は、死を運んでいたんですからねぇ。

 だからね、匡乃さん。その不幸によく見舞われる男は、よぅく見ていてやった方がようございますよ。そういう者は、何に魅入られるものやら、わかったもんじゃあありやせんからね……。


○宴のあと

「いかがでしたか、今宵の話は。いいえ、お気持ちは、その心の中に留めてくだされば。今日はもう店じまいでやすから……またいつでも、おいでくだせぇまし」


 話を終えた黒吉は、そういって皆を送り出した。
 月が、空の中天にひっかかっている。半分の月。
 何だか妙に眩しい気がして一瞬だけ目を閉じたその時に、聞きなれた雑踏が耳に舞い戻る。
 目を開けたシュラインは、しばしぼうっとして「あら」と呟いた。
 自分が立っているのは、いつの間にやらあの奇妙な通りではなく。様々な色の光がまたたく歩道の端、街灯の下だった。
 歩道のすぐ真横を、夜も更けたというのに一定の間隔で車が通り過ぎていく。
 この道をもう少し行けば、行きなれた草間興信所に行き着くはずだった。
(……終わりは、なんだかそっけないのね……)
 ひゅうひゅうと吹きつけてくる風に嬲られる髪を押さえて、シュラインは小さく息をつく。
 まるで……本当に夢だったのかしら、と思うじゃない。さっきまでの出来事が。
 行きがけは、甚大に案内されていた。道を覚えるのは苦手じゃない。だから、よく道順を頭にいれていたつもりだった。けれども、今は何故かすっかり忘れてしまっている。
 もう一度行けるのか、と考えればきちんと行き着けるかどうかはひどく曖昧だった。道を思い出そうとするとまるで頭にもやがかかったかのようになる。
 これも、あの店の――あの、黒吉の術なのだろうか。心の中に、不思議な、なんとも言えない感覚を残して、送り出すことも。
 佇んでいたシュラインは、小さく首を左右に振ってから、やがて歩き出す。
 はきなれたヒールの音が硬い地面を叩いた。
 また行けるのかしら。どうなんだろう。
 そう思った時、ふとあの暖かい蕪汁の味噌の味わいが、口の中にふっと広がった。

『また、いつなりと。おまち申しておりますから』

 人から見れば小さな体。けれども、少しばかりがっしりとした化け猫。
 彼が丁寧に腰を折って、独特の笑顔で微笑むのが妙に頭に思い浮かんで。まるで、本当に彼が応えてくれたようだと思った。
 もし、また行くことがあるなら。
 武彦さんは、付き合ってくれないかしら。本当に、おいしいご飯だったわ。
 そう思うと、勝手にほころぶ頬を、シュラインは止められなかった。

END

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0642/榊・遠夜(さかき・とおや)/男/16/高校生/陰陽師】
【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1537/綾和泉・匡乃(あやいずみ・きょうの)/男/27/予備校講師】
【2318/モーリス・ラジアル(もーりす・らじある)/男/527/ガードナー・医師・調和者】
【2519/白瀬川・卦見(しらせがわ・けみ)/男/800/占い師】

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■         ライター通信          ■
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おばんです。ねこあです。
はじめましての方も、毎度の方も、この度は百物語にご参加くださってありがとうございます。

今回はまずはとにかく謝らせてください……ごめんなさい。すいません;
とうとう遅刻してしまいました……。

本当にお待たせしてしまって申し訳なかったです。その分、お楽しみいただけたらせめてもの、なんですけども。

一度こういった形のものを書いてみたいと思っていましたので、とてもよい機会になりました。
ご参加くださったみなさまに、最大級の感謝を。

本当にありがとうございます。
それでは、今回はこの辺で。

ねこあ拝