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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【永遠の狭間に響く唄声】

【T】

 病院の名前を掲げたバス停に降り立って、葛城樹は聳え立つという形容が相応しい総合病院を見上げた。無駄な凹凸が排除された四角い建物は、空から降り注ぐ陽光を受けて白く輝いているようだった。しかしその輝きはあまりに無機質で、ひどく排他的な気配を孕んでいる。内部のものを外部へと漏らすまいとしているような強固な姿勢は、奇妙な潔癖感を与えるものだった。樹はそうした思いを振りきるようにして、滑らかに開く自動ドアを潜った。
 院内は特有のにおいで満ちていた。潔癖なほどに漂う消毒のにおい。リノリウムの白い湯かは磨き抜かれ、多くの採光を得るために大きく開かれた窓から射し込む陽光を反射させている。樹はそんな病院の廊下をただ一つの病室を目指して歩く。白衣姿の男性や女性。等間隔に並んだ窓口。大きな紙袋を手にした老若男女。薄水色の質素な装いの人々はきっと入院患者だろう。思いながら歩を進めて、樹は依頼内容を回想する。
 行方不明になったピアニストを捜してほしい。言葉にすれば簡単なものだった。声を失った女性がピアニストの帰りを待ち続けているのだそうである。手短に聞いた話からでは女性がどのような状態にあるのかはわからなかったが、草間興信所の所長である草間武彦の鎮痛な面持ちから決して良好な状態ではないことだけはわかった。
 歌を唄うことを拒絶したシンガー。
 まるで唄を忘れたカナリアのようだと思う。しかしカナリアは唄を忘れたから捨てられたのであって、女性は違うと樹は思った。そして捨てられたから唄を忘れたのだろうかと思う自分を押し殺す。事情は本人たちにしかわからないことだ。推測の域を出ない考えで、印象を固定してはいけない。ただ事実が切ないと思う気持ちだけは拭い去ることのできない現実だった。この依頼内容をひきうけた理由もただそれだけに尽きる。樹自身も唄うせいもあってか他人事のような気がしなかったのだ。歌を唄うことは何かを伝えることだ。それを拒絶してまで女性は何を待っているというのだろうか。純粋に男性の帰りを待っているだけだとは思いがたい。もっと深く強い感情が作用しているような気がした。
 エレベーターホールは総合病院にしては閑散としていた。上を指し示すボタンを押して、箱が降下して来るのを待つ。程無くして閉ざされていた扉が自動的に開き、樹は空っぽのそれに足を踏み入れた。階数表示の五階のボタンを押す。扉が閉まり、滑らかに上昇していく箱。それは途中で停止することもなく五階に到着した。出て正面の壁に病室の位置を説明する看板が掲げられている。それで病室の位置を確認して、樹は淀みない足取りで廊下を右に折れた。そして目的の病室のナンバーを確認すると、控えめにノックした。硬質な音が響く。そしてすぐに応えがあった。それはささやかなノックの音よりも小さく、ようやく聞き取れるほど小さなものだった。音もなく開く重たい引き戸を開けると、依頼者とおぼしき男性が小さく頭を下げた。そんな些細な仕草に、ひどく空気が震えたような気がした。
 病室は静寂に満ちていた。それまで院内に犇めき合っていた雑音が音もなく背後で閉まったドア一枚に隔てられてしまったかのように、ただ純粋な静寂だけがその部屋を満たしていた。声を発することも憚られる。途方に暮れたようにしてドアの側に佇んで動くことを忘れるほどそれは絶対的で、唯一動くことを許されたような視線だけが窓際に設えられたベッドの上に横たわる女性を捉えていた。僅かに傾けられた頭。視線は窓の外よりもずっと遠くを見つめているようだ。胸の上で組み合わされた手。捲り上げられた袖から覗く白い腕からは透明な点滴の管が伸びて、スタンドに吊り下げられた液体の入った透明な袋へと続いていた。
 男性の声が小さく響く。気を遣っている声の発し方だった。なるべく室内の静寂を保とうとするかのように、小さな声で話すことに努めているのがわかった。男性が小さな声で自己紹介をする声に、依頼者だと認識してそれに答えようとした刹那、喉の奥まで静寂が満ちて声を発することを遮断しているようにうまく声を音にすることができないことに気がついた。声帯が干乾びてしまったような奇妙な喉の乾きを感じる。
 樹は失礼にならない程度に頭を下げて、依頼者に促されるようにベッドから少し離れた場所に設えられた簡素な応接セットのソファーに腰を落ち着ける。それは柔らかなスプリングで無音のまま樹の躰を受け止めた。
「インスタントで申し訳ないのですが……」
 小さな声で云って、依頼者が樹の前にコーヒーの注がれたカップを置いた。それの底がローテーブルの表面に触れた刹那に響いた音はひどく大きな音として室内に木霊したような気がした。
「お構いなく」
 だから自ずと答える声も小さくなった。
 どれだけの間沈黙していただろう。静寂に全身を侵食されるような心地で随分長く沈黙していたような気がした。女性も依頼者も物音一つたてない。音という音を拒絶しているような気配さえした。どんな声で話すのだろうか。樹は痩せた女性の輪郭を眺めるでも長めながら思う。あの声は誰のために響き、どんな言の葉をつづることができるのだろうか。唄うことで何を伝えようとしていたのだろう。思うと神経は静寂の源であるような女性に集中し、目の前に腰を下ろす依頼者の男性の存在も忘れてしまいそうだった。
「……あの、本当に捜して頂けるのでしょうか?」
 依頼者が遠慮がちに訊ねる。落ち着きなく絡み合い、解ける指は不安の現れだろうか。思いながら樹は女性に向けていた視線を戻す。
「頼りないかもしれませんが、出来る限りのことはさせて頂こうと思っています」
 云うと依頼者の顔に安堵の気配が僅かにだが感じられた。女性を見つめていたいと思う心を押し殺して樹は藤。
「どうしてそのピアニストの方でなければならないのでしょうか?」
 女性を包む静寂をなるべく乱さないよう心がけながら発する声は本当に小さく、ささやかな音としてしか響かない。けれど依頼者はそういう会話に慣れているのか、一語一句間違えることなくきちんと聞き取る事ができているようだった。
「彼は妹とってただ一人のピアニストなんです。彼以外の人間が妹のためにピアノを弾いても、それは妹には届きません。だから彼ではなければならないんです。何度も試しました、彼と似た音を奏でる人間を捜したこともあります。それでも駄目なんです。妹は彼の音しか受け付けません。彼の音だけを認識しているのです。だからその彼が突然姿を消してしまって動揺しているのでしょう。以前は彼がいなくとも手の届くところにいるというのがわかったせいか、彼以外とも話をしました。笑うこともありましたし、冗談を口にすることだってありました。……それが、彼が突然姿を消してしまってからというもの……」
 ゆったりと何かの軌跡をなぞるように向けられた依頼者の視線は女性の辺りを彷徨って樹のところに戻ってくる。
「ピアニストの方が失踪した時のことや、彼について知っていることを教えて頂けますか?」
 樹が云うと依頼者は承知の上だとでもいうように滑らかに言葉を綴った。
 ピアニストの失踪は突然のことだったという。ステージのある夜、いつもならリハーサルの一時間前には姿を現す律儀な男だったというのに、その夜に限ってはリハーサルに現れることもなければ、ステージにも現れなかったのだそうだ。ステージは中止になった。ピアニストが現れなかったことで唄い手である女性が唄えなくなってしまったからだ。勿論連絡を取ろうとしたとも云った。しかし唯一の連絡手段であった携帯電話は解約された後で、住んでいたアパートもその日の昼間に引き払われていた。彼を知る人々はそれぞれに連絡を取り合い、必死になって彼を捜したが、彼の行方を知らされている人が誰一人としていないということがわかっただけだった。警察にも届けを出したと依頼者は云った。しかし状況から事件や事故に巻き込まれた可能性が低いと判断されたのか、有力な情報は得られていないという。
「ですから、最後の頼みの綱として草間興信所さんにお願いしたのです」
「そうですか……。では今、そのピアニストがどこで何をしているのかということに関しては全く心当たりがないんですね?」
 樹が云うと依頼者は残念ながら、と云って俯いた。そしてふと思い出したように顔を上げると、
「手がかりになるかどうかわかりませんが、二人が、妹と彼が演奏していた店は一つだけです。他の店で演奏していたということは決してありません」
と断言した。その言葉の強さに樹は微笑みと共に答える。
「それだけでも十分です。僕も音楽をやっているものですから、そうした伝を頼りに捜してみます。ご期待に添えるかどうかはわかりませんが、出きる限りのことはさせて頂こうと思っています」
 すると依頼者は深々と頭を下げて、よろしくお願いします、と云った。
 その声からは途方に暮れた疲労感が色濃く感じられた。

【U】

 依頼者から聞いた店に向かう前に、樹は自身のアルバイト先であるジャズ喫茶に寄った。そこに集まるジャズピアニストたちならピアニストについて何がしかの情報を持っているかもしれないと思ったからだ。しかしジャズピアニストたちの答えはどれも噂の域を出ないものばかりで、ただその業界ではひっそりと有名であったということがわかっただけだった。そして皆が、最後に同じことを云った。
「あの店に行けばわかるんじゃないのかな?」
 言葉から二人の活動範囲が本当にごく限られたものであったことを知る。閉鎖的な音楽活動だ。思うと、何故二人はそんな風にしてステージに立っていたのだろうかという疑問が生まれた。次いでそんな風に二人でステージに立っていたパートナーを置いて、どうしてピアニストが姿を消したのかが気にかかった。恋人どうしだったのだろうかと思ったが、ジャズ喫茶を訪れるジャズピアニストたちは一様にそれを否定した。恋人同士のようにも見えたけれど、決してそうではないのだと云うのだ。何を根拠にそんなことを云うのかまではわからなかったが、二人はシンガーとピアニストという枠のなかで関係を確立しているのが傍目にも十分にわかるのだと皆が口を揃えた。
 結局、当てになりそうな手がかりも見つからないまま樹は依頼者から聞いた店へと足を運んだ。その店は裏路地にテナントビルの地下にあった。小さな看板を出しただけの小さなジャズバーだ。場末感が漂い、質素でありながらも設えられたテーブルやカウンターが漂わせる古めかしさが狭い店内の雰囲気を心地良いものにさせている。きっと知る人ぞ知るといったような類の店なのだろう。カウンター席が六つ。四人がけのテーブルが二つだけ。店の大部分を占めるのはステージの上に置かれた所々塗装の剥げたふるいスタンウェイのグランドピアノだった。良いピアノだと思って、樹はカウンターの向こうに立つマスターとおぼしき上品な初老の男性に声をかけた。
「ちょっとお訊ねしたいことがあるんですが、宜しいですか?」
 するとマスターは上品な仕草で頷いた。
「以前ここで演奏していたピアニストとシンガーがいらしたと聞いたのですが、その二人が今どうしているかご存知ではありませんか?」
 樹が訊ねるとマスターは滑らかな仕草で腕を持ち上げ、
「それはあちらのお客様方のほうがお詳しいと思いますので、宜しかったらあちら様にお訪ね下さい。お二人のことに関しては快く教えて下さると思います」
と云って、四人がけのテーブルを五人で占拠している客を指し示した。その仕草は執事のそれを思わせるほどに優雅で洗練されていた。
 四人がけのテーブル席には五人の客。男性が三人と女性が二人。樹は丁寧な挨拶と共に事情を説明して、ピアニストの行方について訊ねた。
「彼らも有名になったのね」
 短い髪の女性が云う。装いからして裕福な暮らしをしていることが推測できた。
「あいつらがいなくなってしまってからこの店はつまらなくなったよ。酒は相変わらず美味いけどな。やっぱりあいつのピアノとあの子の唄がないと物足りない」
 髪の薄くなった男性が言う。
「でもあれだろう。まだどこかでピアノを弾いてるって」
「私も聞いたわ。噂だけどね」
 肩のあたりで切り揃えた髪の先程の女性よりも少し若い、洒落た装いの女性が云う。
「噂でもいいんです。店の名前とかはご存知ではないですか?」
「バーとかじゃないわよ。楽器店なの。教室も開いている店よ。そこで講師として働いているみたい」
「場所を教えてもらえないでしょうか?」
「えぇ。名前だけでもすぐわかると思うけど」
 そう云うと女性はハンドバッグから手帳を取り出し、走り書きのようにして店の名前と簡単な地図を書いてくれた。
「ありがとうございます。これからこの店を訪ねても営業時間に間に合うでしょうか?」
「大丈夫よ。まだ十分間に合うわ」
 教えてくれた女性が云う。柔らかな微笑はまるで樹を品定めしているようで、樹はそれとなく視線を逸らした。
「わかりました。これから行ってみようと思います」
 そしてなるべく女性のほうを見ないようにして云うと、不意にずっと黙っていた男性が口を開いた。
「あの二人は本当にお似合いの二人だったよ。恋人同士なのかと思うほどにね。どちらも口数が少なかったからその辺話を聞いたことはなかったけど」
 決して厭味ではない香水の香りが漂う。
「本当にありがとうございます。このお礼は……」
「彼らを連れて来てくださらない?」
 短い髪の女性が云う。
「事が上手く運べばという条件がつきますけど、それでもいいでしょうか?」
 五人はそれぞれに頷いた。
 そして樹はカウンターの向こうで静かにグラスを磨いていたマスターに礼を云って店を出て、渡されたメモを見て歩ける距離だと判断すると足早にその店へと向かった。大した距離ではない。人波に揉まれるようにして大通りを歩きながら、樹は二人の関係がますますわからないと思う。そして同じ音楽家としてピアニストはシンガーである女性をどう思っていたのだろうかと思った。恋人ではないとしたら、音楽家として女性の唄が失われてしまうことを哀しく思うことはないのだろうか。
 もしピアニストが本当に客の女性から教えられた店にいたとしたら云わなければならないことがあると樹は思う。女性のとってのピアノはピアニストの男性のものだけなのだと、きちんと伝えなければならない。言葉を発することをやめてしまった女性の代わりといったらおこがましいかもしれなかったが、はっきりと伝えるべきだと思った。
 その店に辿り着くまでには思いのほか時間がかかってしまった。しかしその店は遠目にもわかるほど清々しい看板を掲げて大通りに面して建っていた。それは樹も馴染みの楽器店だった。まさかこんなに身近な所に。思いながら自動ドアを潜る。
「こちらでピアノ講師をしている方に用事があってきたのですが……」
 云って、ピアニストの名前を告げるとカウンターにいた女性は、
「はい。当店で講師として働いております。まだ残っていると思いますが、お呼びしましょうか?」
と極めて丁寧な口調で云った。樹が頷くのを合図に受話器を取る。そして内線を繋いだのか、ピアニストの名前を告げると短いやり取りの後、受話器を元に戻した。
「あちらにおかけになって少々お待ち下さい」
 商談用とおぼしき簡素なテーブルセットを片手で指し示しながら、女性はそう云って深々と頭を下げる。樹は云われるがままにそこに腰を落ち着け、楽器と楽譜に埋め尽くされた見慣れた店内を眺めるでもなく眺めていた。すると程無くして声が響いた。
「お待たせしました」
 云う声と共に現れたのは背の高い、穏やかな顔つきをした青年だった。白いシャツの上に黒のジャケットを羽織っているシンプルな格好が様になっている。
「僕に用事があるとのことですが、どういったご用件でしょうか?」
「シンガーの女性のことです。あなたが専属でピアニストを務めて方です」
 云った途端にッ青年の顔が強張る。
「彼女が待っています」
「……独りでは駄目でしたか?」
 縋るように青年が問う。
「それはどういった意味でしょうか?」
「僕が突然去っても独りで生きていけるのではないかと、これはある種の賭けだったんです。唄っている時の彼女は引き篭もっていた頃のような暗さは微塵も感じられないほど生き生きとしていました。だからもう僕がいなくても生きていけるのではないかと思ったんです。彼女のためにも、僕のためにも、一度離れなければならないと思ったんです。だから何も云わずに姿を消したんです」
「彼女は今、口を閉ざして病院のベッドの上です。医師も匙を投げています。もし今彼女を救える人がいるのだとしたら、それはあなた以外の誰でもありません。私は彼女のお兄さんに頼まれてあなたを捜していました」
 青年が小さく溜息をつく。
 しかしそれは呆れているといったようなものではなく、ただ切ない気持ちにやり場のなさを感じているようなものだ。
「僕たちは一緒にいるだけで幸せでした。でも彼女には僕しかいない。たとえ結婚しても、もし僕が彼女より先に死ぬことになったら彼女は独りぼっちになってしまうんです。それを考えると簡単にプロポーズなどできませんでした。だから彼女が独りでやっていけるかどうか、確かめてみようと思ったんです。それがこんなことになっていただなんて……」
 青年は知っていたのだと思った。樹が伝えようとしていた言葉は、樹自身が伝える前に女性がきちんと男性に伝えていたのだということがわかると自分の浅はかさと傲慢さに羞恥を覚えた。しかし樹はそれを押し殺すようにして問う。
「会って下さいますか?」
「はい」
 躊躇うことなく青年が答える。
「場所はどうなさいますか?」
「できることならあのバーで。―――彼女は外出できる状態なのでしょうか?」
「大丈夫でしょう。あなたが見つかり次第青兄さんが外出許可を取ってくれることになっています」
「それでは彼女の準備が整い次第連絡を頂けますか?」
 そう云って青年は楽器店の名前と住所、そして電話番号の記された名刺を差し出した。
「わかりました。―――僕が云うのもおかしいことかもしれませんが、あなたが彼女のことを捨てたわけではないのだとわかって安心しました」
 樹の言葉に青年が笑う。
「僕に彼女を捨てられるわけがありませんよ。彼女は僕にとって大切な唯一の女性なんです」
 恥ずかしげもなく云う青年が微笑ましかった。そして自分には云えないと樹は思う。そんな言葉を伝えようと思える存在もまだ樹の傍にはいなかった。

【V】

 樹は二人が演奏していたという店の前で女性の訪れを待っていた。依頼者にピアニストが見つかった旨の連絡を入れると、外出許可が取れ次第折り返し連絡をすると云い、その結果が今夜だった。
 歩くのもやっとという状態の女性を伴って依頼者は待ち合わせ時刻に現れた。女性はシンプルな白のワンピースに淡いピンクの薄手のカーディガンを羽織っている。表情がどこかしら明るく見えるのは、ピアニストが見つかったという言葉が女性に何がしかの変化をもたらしたからかもしれないと樹は思う。
「お待たせしました」
 依頼者の男性が云う。
「いいえ。予定時刻には十分間に合います。ピアニストの方は先に来ていらっしゃいますから」
 最後の一言は女性に向けて云ったものだった。
 樹と依頼者は女性を気遣いながらコンクリートの階段を降りて、バーの古びたオーク材のドアを開ける。すると涼やかなドアベルが店内にいた人々に三人の訪れを告げた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの向こうでマスターが云う。そして樹と依頼者が連れている女性の姿を見て、明らかに驚いた顔をした。以前情報をくれた馴染み客たちも同じ顔をしていた。ピアニストの青年が訪れた時も同じ顔をしたのではないだろうかと思いながら、グランドピアノに視線を向けると青年はそこが居場所であったかのようにそこに腰を落ち着けていた。
 その姿を認めて女性の薄い唇から声が漏れる。
 青年の名前だった。
 青年は微笑みでそれを受け止めて、
「唄ってくれるね」
と云う。女性はゆったりとした足取りで青年に近づき、両腕を差し伸べる。青年はそれを拒むことなくそっと女性を抱き締めた。その手つきは壊れ物を扱うように丁寧で、やさしさに満ちていた。
 二人にはそれだけで十分だったのだろう。
 ピアノの傍らにはマイクスタンド。
「リクエストはありますか?」
 樹に向かって青年が問う。
「パティ・オースティンの『SAY YOU LOVE ME』をジャズアレンジで」
 樹が答える。
 すると青年はその意味を覚ったのか僅かに顔を赤らめた。そして女性に確かめる。彼女は知っているわ、と静かに微笑んだ。
 その笑顔に樹はいつか彼女が独りになっても、その笑顔を忘れずにいられるようになればいいと思う。
 二人はリズムを合わせるように目配せをして、小さな頷きと共に演奏を開始する。
 ピアノの最初の一音が空気を震わせる。
 馴染み客たちの間から小さな溜息が漏れるのがわかった。
 和音。
 そして滑らかな前奏。
 女性が深く息を吸い込むのがわかる。
 そしてマイクスタンドを支えにするようにしながら、細い声で唄を紡いだ。
 ピアノのヴォリュームが女性の声を惹き立てるように絞られる。
 ―――愛していると云って。
 女性が唄う。
 男性が答えるようにピアノを奏でる。
 二人の演奏はまるで生まれるもっと以前から繋がっていた恋人のようだった。
 カウンター席の片隅に腰を落ち着けていた見知らぬ客が二人の演奏に耳を傾けている。馴染み客もマスターも、そして樹も同様だった。
 細く、透き通るような声とそれに馴染む伴奏。ピアノの弦が震える。女性の細い声はそれに共鳴するように上手く馴染む。こんなにも二つの音が馴染むことがあるのだろうかと思うほどに、二つの音はよく馴染んだ。聴衆を幸福にさせる演奏だと思う。女性の僅かな我儘とそれに答える男性のやさしさ。温かな温度でそれらが伝わってくる。
 ―――愛していると云って。
 女性が唄う。
 答えは男性の奏でるピアノの音にあることに彼女は随分以前から気付いていたのだろう。
 思って樹は演奏が終わってしまったことに僅かな心残りを覚えながらも心から拍手を贈った。
 場末の小さなバーのステージ。
 それは数少ない聴衆から贈られる盛大な拍手によって幕を下ろした。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1985/葛城樹/男性/18/音大生】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度はご参加ありがとうございます。
音楽に対する葛城様のお気持ちがきちんと作品のなかに反映されていればと思います。
もしよろしかったら入手困難かもしれませんが、作中に出てくる曲を聴いて頂ければと思います。とても素敵な曲です。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
今後また機会がありましたら宜しくお願い致します。