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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


九つの鍵


 指揮者は、だまって本を拾い上げる。
 焼け焦げた『漆黒の鍵』原本は血に染まってもいる。本文のインクはことごとく滲み、66ページなどは全く別の記述に変わっていそうな有り様だった。
「ふう、む」
 城ヶ崎由代という人間は、達観している。既に多くを知りすぎてしまっているのだ。
「これが欲しかったのは、僕だけか」
 それは独白。誰も聞く者はない。
 『漆黒の鍵』を由代に手渡す前に、由代の知り合いの識者は息絶えてしまっていた。ここは東京の郊外もいいところで、しかも鬱蒼とした森の中ときている。ボヤ騒ぎに警察や消防やが気づくのも、由代がいま通報しない限りかなり遅れることだろう。コロシの犯人の追跡など、何をか言わんや。
 識者が焼け焦げていた部屋は真っ黒に煤けていた。燃えやすいものばかりがその部屋にあった。即ち、カバラやソロモン王の秘術に深く関わる古い書物である。由代は識者の子を悼むと同時に、この部屋にあった本が全て失われてしまったことを心から哀しんだ。
 よりにもよって、由代が入手を依頼した本だけが残ったのは、奇跡的としか言い様がない。まるで大いなる意図が絡んでいたかのようだ。
 焼け焦げ、血に塗れた魔術書を鞄に入れようとしたとき、由代は明らかにその――何者かの意図があることを確信した。
 由代が鞄に入れていた『漆黒の鍵』――その写本が、たらたらと血を吐いていたのである。


 『漆黒の鍵』がいつ執筆され、それが8冊ぶん写されたのはいつの時代のどこの国なのか、実のところ見当もつかないのだ。古いヘブライ語で書かれていることはわかるが、由代が持っていた写本には奇妙なほど誤字脱字が多く、由代はそれゆえ、原本を手に入れたいと考えたのだ。
 40も過ぎた由代が経緯を話して聞かせているのは、まだ中学校に通っている少年である。憂いと陰を帯びた灰色の少年は、尾神七重という。少年は由代の屋敷のバルコニーで、どこか冷めた目で経緯を聞いていた(由代はまず、尾神家と縁が深い人間を死に追いやってしまったことを深く詫びもした。七重は識者を由代に紹介したことを少しばかり悔いたが、それを表には出さなかった)。
「仰っていたじゃありませんか。どうせ『レメゲトン』の二番煎じだって」
「最初はそう思っていたというか、読んでみたらわかるよ。言っている理論はほとんど同じなんだ。ただ今なら、それがカムフラージュということがわかる」
「アナグラムは時代遅れですよ」
「まあ、落ち着いて」
 耳に快い声で笑うと、由代は焼け焦げた魔術書の原本と、血に濡れたその写本を取り出した。血はすでに乾いていたが、奇妙なほどに生臭く、いつも無表情である七重がわずかに顔をしかめたのだった。
「遡ることが出来ただけでも、13件の怪死事件がこの本に関わっていてね。曰くつきの本だ。調べてみたら面白いこともわかった。この本は『1冊あっても意味がない』ものなんだ。妙な誤字脱字は、きまって9文字ずつ並んでいる。1冊から1文字拾って交換し合っているのではないかな。原本ですら、原本ではない」
「……9冊、必要だと?」
「9つの門を、9つの鍵で封じているのさ」
 涼しげな黒の瞳が、冷めた暗紅色の瞳とかち合った。
「現存する鍵は5つ。そのうちのひとつがこれだ。門の内側にいるものが、今までどうやって、いくつの鍵を開けたのか――きみの『目』で見ることは出来ないだろうか?」
 少年は溜息をついたが、血に濡れた写本は手に取った。
「……わかりました。調べてみます」
 しかし、何故僕に依頼などを? ……そういった疑問を、七重が抱くことはない。こういった依頼が何の前触れもなく彼の前に降って湧いてくるのは珍しいことではないし、そもそもそういった星の下に生まれてきたようなものなのだ。
「頼んだよ。9つの鍵が必要なほどの猛獣を、僕が手懐けられるかどうかは、正直疑問だ」
 言っているわりには、由代は呑気にコーヒーにミルクなぞを注いでいる。口元にはうっすらとした笑みさえあった。
「けれど、所詮ペンとインクの鍵ですよ」
 七重はにこりともせずに席を立つ。出されたコーヒーには、一応、手をつけてあった。


 瞼を閉じれば、全ては闇に沈む。
 誰が七重に、そう言い聞かせたか。
 七重はその夜、奇妙なほどに寝つけず、ベッドの中で何度もまばたきをした。
 血の臭いが――
 するのだ。


 走ることが出来ないほど身体が弱いはずの尾神七重が、リムジンから走って玄関先までやってきたのを見て、由代は人並みに驚いた。無理で漠然とした依頼をした翌日だったせいもある。
 何か掴んだのかね、と由代が問う前に、七重は口を開いた。
「付録がついていたはずです」
 と。
「付録?」
 由代は鸚鵡返しに尋ねた。
「亡くなった彼に原本の捜索をさせたこと、僕に真実を探らせようとしたこと。あなたは自ら、写本を持っていることを知らせてしまった。彼はもう、人の手を借りられるほど手を伸ばせます。もう、時間がありません」
「まあ、落ち着いて。付録のことを聞こう」
「カムフラージュだと言いましたね、城ヶ崎さん。本そのものがカムフラージュなんですよ。付録としてついていた羊皮紙があったはずです」
「ああ」
 写本自体は、フランスの古書店で十数冊まとめて買ったものの中に混じっていたのだ。確かに、羊皮紙が1枚挟まっていたことを思い出して、由代は大きくゆっくり頷いた。
「本が鍵をかけて守っていたのは、その紙切れに過ぎません。もうその紙切れも、残すところ1枚になってしまいました。城ヶ崎さんが持っているのであれば、それが最後の1枚です」
「けれど、もう本からは引き離してしまったよ」
「それを『向こう』が知ってしまったら、あとは破って焼き捨てるだけに」
 どこにしまったんです?
 七重の目は、由代に尋ねる。
 しかし由代は、正直にこまった顔をした。
「あるとしたら、僕の机の上だね」


 由代の書斎の机上は雑然としていた。『漆黒の鍵』に関する資料が広げられ、現在進行形で端書きは増えている。
 七重が、彼らしくもなく、由代の机の上を引っ掻き回す。由代はそれを見ていた。
「そうだ、僕もひとつ、わかったことがある」
「はい?」
 魔法陣を探しながら、七重は由代を促した。
「原本を手に入れてくれた彼は、書斎に火がつく前に死んでいたようなんだ。原本についていた血は、彼のものらしくてね。きっと面倒なことになる」
「なぜ?」
「尾神君、きみ、よく走れたね」
 七重がようやく振り向いた。
 その目は――
 真実を見てしまったようだった。
 指揮者が、見えないタクトを振っていた。
「管弦楽などは好きかな、名無し君」
 七重ががくりと膝をついた。
 名無しのものが、ふたりの間に現れた――。


 城ヶ崎由代にも尾神七重にも、意識がある。意識のすべてを奪えるほど、彼は自由ではなかったからだ。ぼんやりとした夢見心地で、由代は識者の書斎に火をつけた。勿体ないことをしていると、自分で自分の行為を悔やみながら。
 そんなことをした気がする。
 七重は霞がかった現の中で、意味もなく今すぐに探さなければならないような焦燥に駆られて、由代の机の上を探っていた。由代の視線が鬱陶しかったので、先に由代の目を閉ざそうとも考えていた。七重はそうしていま、儀式用のナイフを取り落とした。
「何てことだ、城ヶ崎さん……あなたが……?」
「そうかもしれないし、多分ちがう。もしそうだったとしても、今になって悔やんでも仕方がない。けれど我々は、覚悟をしたはずだ。この世界に足を踏み入れるということは、地獄の中に片足を突っ込んだも同然なのだとね」


 這いずるものが、囁くものが、薄汚い声で罵るのだ。
『われは……天に……復讐を……果たすのだ。神のことばなど……いま、砕ける。うぬら人間の心は……空虚だ。われの指先が入り込めば、すべては……われの意のままだ……』


「尾神君」
 タクトを止めたままで、由代は膝をついている七重にするどく声をかけた。
「我々は彼をこの世に留めておくことは出来ない。還ってもらおう」
「しかし、そうなったら……」
「天に復讐しようが地獄で音楽鑑賞をしようが、もとより我々の手に負えるべき存在ではないのだよ」
 由代の黒い瞳が、七重の足元を示す。
「彼の望みのものは、そこに落ちている」
 それは、由代の本心のことばだったのだろうか。
 次の瞬間七重が成したことも、七重の望みであったのか。
 七重は、自分が引っ掻きまわして机から落とした書類の中に、一枚の羊皮紙を見出した。彼はそれをなにものからか奪うようにして手に取ると、今しがた取り落としたナイフでもって、羊皮紙に描かれた魔法陣を切り裂いた。
 名無しのものが歓喜の声を上げ、この世に現れた翼をごぅと広げた。
 同時に、七重と由代の指が動いた。
 『コンスタン』の指使いで七重は名無しを指差した。部屋中の重力が倍増したかのようだった――それほどに、その存在は大きかった。飛び立とうとしたものが、ぐしゃりと音を立てて床に這いつくばる。
「……『我は汝   に、ここに人や獣を傷つける事無く、立ち去る許可を与えよう。我は汝    が平穏に立ち去ることを願う。神の平和が汝    と我の間に永久にあらん事を』」
「――アーメン!」
 目に見えぬタクトが、やはり見えぬシンボルを描き出す。バリトンが紡ぐ唱を、七重の祈りが締め括る。

 がぅん、

 見てはならない門が開き、翼を飲み込んだ。
 指揮者がついでに描いたものは、七重が引き裂いた魔法陣。9つの鍵。

 ごぅん――

 門は、閉ざされた。


 ふう、と溜息をひとつ。由代が、『漆黒の鍵』の血塗れの写本と煤けた原本を手に取る。
「これでこの本はただの『レメゲトン』の二番煎じになってしまったなあ」
「まさか自首なんかはされませんよね、城ヶ崎さん」
「僕がやった証拠はないじゃないか、たぶん。第一身に覚えがないんだよ、本当に。真相を話したところで警察が信じてくれるわけはないし」
「でも――」
 言いかけて、七重はやめた。
 確かに、由代が誰を殺めたという証拠はない。ひょっとしたら、自分だけが見てしまった暗紅色の幻影に過ぎないのかもしれない。名無しの悪魔は、全ての人間を意のままに出来るものだったのだから。
 全ての人間が罪人で、全ての人間が地獄に堕ちる。
 七重が見た闇は、それだった。




<了>