|
書店記
さてさて、こちらは古書を専門に取り扱う「しののめ書店」。たった十二畳ほどの小さな売り場ではあるが、品揃えは上等、本棚の数もまあまあそれなりに趣があってよろしい。
売り場の奥は店主の居住部屋になっている。この「しののめ書店」の店主であるのが東雲飛鳥。金の髪に青い目という、いささか日本人離れした容姿ではあるものの、実際のところは日本”人”どころか――まあその話は置いておく。
西日もいよいよ地平に落ちようかという時刻、東雲はハタキと文庫本を片手に本棚の間を行ったり来たりする次第。勿論無駄に行き来しているわけではなく、片手に持ったハタキで小気味よい音を立てながら整然と並べられた本の背表紙を撫でて、まぁ俗に言う掃除である。
彼の目線は文庫本の文字を多い、意味を成して並べられた文章が面白みを増すと同時に、ハタキのスピードは遅くなったり早くなったり、時には足を止めて本に集中したり。
よほど面白い内容の本なのか、時々眉を綻ばせたりゆがめたりすることもある。と言っても、傍から見て変に思われない程度に、である。
店主の奇行により客足が途絶えるのだけは、どんな店を経営していようが避けたいところ。
しかし、そんなひっそりとした眉の動きだって、間近で見れば他人からもばれてしまう。
「面白いですか?」
「えっ?!わぁ!はい、はい、いらっしゃいませ」
突然の来客に東雲店長は思わず文庫本とハタキをいっぺんに落とした。オマケとばかりに、足元に積んであった古本に蹴躓いて危うくしりもちをつくところだった。
大きく体勢を崩したお陰で、本来の役割を果せない位置にまでずり落ちた眼鏡を直しながら、声をかけてくれた相手からハタキと文庫本を一緒に受け取った。
「や、やあ、いらっしゃいませ、斗子さん」
「こんにちわ、東雲さん」
間抜けなところを見られての恥ずかしさが少し、それ以外の気持ちが少し、東雲はバツの悪そうな顔で軽く会釈した。
「今日はどういった御用で?」
「大学のレポートに使えそうな資料を探しに来ました」
まあまあこちらへどうぞ、と斗子の言葉を耳にしながら、東雲は奥のカウンターへ彼女を案内した。
「それで、テーマは”鬼”なんですけど」
彼女を椅子に座らせて、東雲が奥で茶の準備をしていると、背中に斗子の声が聞こえた。急須の注ぎ口が、カツン、と湯飲みの縁に軽く当たる。
「そうですか」
背中から、東雲は答えた。
「そう、で、能楽の観点から鬼について、ちょっと書いてみようかと思って」
「それで、資料を探しに来られたんですね」
東雲は茶を乗せた盆をカウンターに置いて、どうぞ、と一言。
「いただきます」
礼儀正しく、湯飲みを両手で持ち、音を立てずに一口啜るその仕草は美人画のようであった。
「それで、能楽の観点から、と言いますと」
言いながら、東雲はカウンター奥の本棚から二、三冊本を取り出して、湯飲みの横に、斗子が見やすいように広げてやった。
「そうそう、三鬼女物が有名なので、無難なところから書き始めるつもりなんです」
斗子は開かれたページの一点を指差しながら、湯飲みを片手に少し笑った。
「葵上、道成寺、安達原、がそれですね」
「はい」
こちらもどうぞ、と東雲は茶菓子も出した。
「どれも五番目…紅葉狩を入れると四大鬼能と言いますね」
パラパラとページを捲る斗子に言う。
ある程度内容を把握したのか、その本を閉じて、斗子は、本を受け取ることにした。何度かこうして話すこともあり、目の前に出された本は即ち、家に持って帰っても良いという暗黙の了解が、二人の間にはある。
ある程度知り合いの間柄として関係が出来ていれば、このようなことは珍しくもないだろう。
夕日はすっかり落ちて、残光が街を照らす。日の暮れとは一旦沈み出したら早いもの。
二人は、他に何か使えそうな本はないかと、狭い本棚の間を行き来していた。
「随分暗くなりましたね」
斗子が言った。 暗くなった店内では満足に相手の顔も見ることができない。
「そう言えばそうですね。待って下さいね、ええと電気のスイッチがここに…」
半分手探りで東雲はスイッチを探し、パチン、と蛍光灯の明かりをつけた。無機質な光が店内を照らし、途端に視界が開けて明るくなった。
「ありがとうございます」
後ろを振り返ると、斗子は棚の上の方にある本を物色しているようだった。
「高い位置にあるものだから、暗いと余計に見辛くて」
そう言って、首を伸ばす。黒い髪が背に垂れる。理知的な目は真っ直ぐ目的の本を探し見ていた。口の中で何やら、背表紙に書かれた文字を反復しているらしい。
胸元が少し開いた黒い服。鎖骨から咽に伸びる曲線はとても女性的で、男性のような咽仏といった無骨なものも見当たらない。
蛍光灯の光の下、首の白い肌にうっすら浮かび上がる静脈は青かった。
顎を経て辿りつく唇は赤く、相変わらず何かを呟いている。白い歯と、赤い舌を使って。その奥にある咽から発せられる声は鈴のように軽やかではあるものの、重みと風情を持った大和撫子とも言うべき雰囲気の音。
「お取りいたしましょうか」
「あ、お願いします」
東雲は斗子の背後から声をかけて、斗子が見つめていた本に手を伸ばした。
本を受け取った斗子は満足そうにそれを小脇に抱えて、また次の資料探しに本棚を移動した。
東雲は、は、と息を吐いて肩の力を抜く。
暫くすると斗子は満足する量の資料が得られたのか、再びカウンターに座って、持ってきた本をパラパラ捲り始めた。
「お茶をもう一杯いかがですか」
言いながら東雲は急須から緑茶を注いだ。
「ありがとうございます。なんだか悪いですね。図書館でもないのにお茶までご馳走になって」
「いいえ、かまいませんよ。ご馳走するのもされるのも、世の中ギブアンドテイクって言うでしょう」
「私の方がいつもお世話になってばかりのような気もしますけど…」
「いいえいいえ、こんなしがない本屋の常連客になってくださるだけで、十分ですよ」
「それが私から東雲さんへのご馳走、ですか?」
斗子は顔をほころばせて、店主の面白い発想に答えた。
「そうですとも。あんまり繁盛して忙しくなるのも考えものですけど、全く誰も来ないお店っていうのも寂しいですから」
東雲は、少し先のことでも指すように、笑った。
時間は静かに過ぎていく。古時計が、カチコチとせわしなく秒針を打つ以外の音は暫く聞こえなかった。
斗子の心は本に熱中していたし、東雲もまた、読みかけの文庫本の世界に入りきっていた。
体だけここにあり、心は各々が手に持つ本の中を縦横無尽に行き来きしていた。
遠くで、ガラガラと店のシャッターを閉める音がして、漸く二人の心はこの「しののめ書店」のカウンターに戻ってくる。
先に言葉を発したのは斗子で、はーっと大きく息をつくと、軽く腕を伸ばして、凝った首を慣らすように頭を後ろに倒した。
さっき蛍光灯の元で、横から見た咽が、今度は目の前で無邪気に仰け反らされる様子に、東雲は、笑った。
「ご、ごめんなさい、はしたないですよね」
「いいえ」
慌てて姿勢を整える彼女に、東雲はまた笑う。
「希望に適った本でしたか?」
「はい、十分です。…参考までに東雲さんにお聞きしたいのですが」
「どうぞ」
「鬼の定義…いえ、鬼と人との区別はどのようなものだと思いますか?…六条御息所が嫉妬の鬼になったように、清姫が恋慕を断ち切られたゆえに鬼になったように…老婆が孤独と絶望の果てに鬼になったように、憎しみや悲しみに憑かれた者が鬼なのでしょうか。私は鬼女はどれもとても可哀想に思えます。憎しみを知らなければ、嫉妬を知らなければ、孤独も絶望も知らなければ、鬼にならずに済んだのに。……鬼は哀れむべき存在だわ」
最後の一言は、斗子は吐き棄てるように呟いた。
「時刻も遅いですし、途中までお送りいたしましょうか」
東雲はしばしの間を置いて、申し出た。気まずい雰囲気を打ち消すような東雲の声に、斗子は心なしかほっとした様子だった。
■
申し訳程度に地平線を照らす太陽の光はあと少しで消え入りそうだった。
斗子に店仕舞いを手伝ってもらい、そのお礼にと荷物にならない程度の小さな本を渡して、河川沿いの道を歩く。
左手に河川、右には桜並木。競うように薄紅の桜が、道の終わりまで続いている。
色々な人々が良く通る道だった。現に今も学校帰りの学生が歩いている。買い物の帰りであろう主婦も、数人連れ立って、二人とすれ違った。
サラリーマンが通るにはまだ早い時刻。
少し無言で歩いてから、斗子は珍しそうに一本の木を見上げた。
「不思議。この一本だけ花が殆どない」
「ああ、先日、狂い咲きだったんですよ、その一本は。だからホラ、枝より足元が素晴らしいでしょう」
東雲は地面を指差した。それは一面の花びらの絨毯。
「ああ、なんだか勿体無いな、踏みつけるのが」
思わず足を退けてしまうその動作が、東雲の目には美しく映った。桜の花びらを避ける動きがまるで、舞踏でもしているようだったからだ。
「踊ってらっしゃるようですね」
「あら、私の得意分野はこんなダンスみたいな動きではありませんよ」
やっと足元が落ち着く場所になったのか、斗子は動きを止めて東雲の方を振り向いて、貴重な笑顔を見せた。
「先ほどの質問の答えですが」
「…はい。そう言えばお答え、聞いておりませんでしたね」
不意に話題を持ち出した東雲に、少し意外そうな顔を向ける斗子の目はやはり知的で美しい。
「鬼と人との区別は、二面性にあると思いますよ。能面のように、角度によって表情が変わる、そんなものだと思います」
いまいち分かりかねる、とでも言いたげな斗子に再度微笑んで、東雲は続ける。
「心ある生き物はみな二面、ないし多面性を持っている。その一面が鬼であると言えるでしょう」
「…つまり?」
「その生き物の心は鬼である面が大きいか、人である面が大きいか、それだけの事だと思いますよ」
「…鬼の面が大きければ、”それ”は鬼であり、人の面が大きければ”それ”は人である、と」
「さすが、秀才でいらっしゃいますね」
散らし残した桜の花が、斗子の髪に落ちた。
黒い髪に、少し熟れた色の花びらは良く目立ち、まるで夜の川に浮かぶ薄紅の蛍のようだった。
「花びらが、斗子さんの髪に落ちましたよ」
「えっ?どこですか?」
「黒い髪にはお似合いの髪飾りですけどね」
東雲は笑う。
「ど、どこに落ちたのかしら…ええと…?」
「払ってさしあげますよ。動かないで…」
懸命に後ろ髪を振り返ろうとする斗子の様子はどこか、自分の尻尾を追いかける犬のようにも見えた。実際は、大変美しい女性なのだが。丁度、この木の下に埋まる女のように。
東雲は斗子の背後に立ち、そのまま、と軽く肩に手を置いた。
ゆたう斗子の黒髪に指をごく自然に絡めて、花びらを払った。
すこし身を屈める。
その時、地面に落ちていた花びらが一斉に風で舞い上げられて、在りし日の花吹雪を模倣した。
川の流れがその風に煽られて音を増し、他の木から薄紅の花びらが舞い落ちた。上からも下からも、花吹雪。
下から舞い上がる、熟れた花びらは、どこか恨みがましく、誰かに嫉妬するように、荒々しく舞った。
――死人も鬼になるのだろうか――
東雲は斗子に聞こえるように囁く。少し声のトーンを落として、口元を深く綻ばせて。
「誰の中にも、それぞれの形で鬼は棲む。あなたの中にも、……もちろん私の中にも。鬼に食われぬよう、お気をつけ下さいね」
「……それは…自分自身の鬼に負けるな、という意味でしょうか?」
振り向いた斗子は相変わらずの知性的な目で言った。
「斗子さんは綺麗な方でいらっしゃる。鬼は美人を好むと言いますよ」
答えた東雲の声と表情は一瞬で斗子が来店した時のような平和そうな雰囲気を取り戻した。
「東雲さん、お上手ですのね」
「おや、私は嘘はつきませんよ」
おどけて言ってやれば、斗子は惜しげもなくその笑顔を東雲に見せる。
「さぁ、遅くなる前にお帰りなさい。夜道には鬼が出ますよ」
更に言えば、もっとおかしそうに、笑った。
「それじゃあ、今日はありがとうございました。おやすみなさい」
斗子は暗くなりかけたその道を真っ直ぐ、歩いていった。時々振り返って、会釈をする様子が目に嬉しかった。
東雲は思い出す。
高い位置にある本を取ろうと、背を伸ばし腕を伸ばし、何か呟きながら、蛍光灯の下に立っていた彼女に言った言葉。あれには続きがあった。
「お取りいたしましょうか
――魂を」
さてさて、こちらは古書を専門に取り扱う「しののめ書店」。たった十二畳ほどの小さな売り場ではあるが、品揃えは上等、本棚の数もまあまあそれなりに趣があってよろしい。
売り場の奥は店主の居住部屋になっている。この「しののめ書店」の店主であるのが東雲飛鳥。金の髪に青い目という、いささか日本人離れした容姿ではあるものの、実際のところは日本”人”どころか―――まあその話は置いておく。
終
|
|
|