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パ=ドゥの呪文
■序■
リチャード・レイは、カレンダーを見て深く溜息をついた。それは落胆や忌々しさからくるものではなく、何か充足感のようなものが含まれた、あたたかい溜息だった。
彼が日本に来て、月刊アトラス編集部経由で調査をはじめてから、ちょうど1年が経っていたのだ。歳をとることには何ら問題を感じない性分ではあったが、ある程度の時が経ったことを自覚すると、いろいろと自身の身に起きたものごとを反芻してみる性分ではあった。
それから、イギリスの出版社から提示された締切が迫っていることに気がつき、彼はと短く声を上げ、応接間のデスクに広げた資料の類を片付け始めた。原稿はまだ3割程度しか進んでいないのだ。
そこへ、彼宛の届け物があった。
リチャード・レイは、開けたらしい。
差出人の名前もなかったというのに、
助手のみさとが「爆弾なんじゃないですか」と冗談めかして忠告したというのに、
彼はうっかり開けてしまったのである。
目を開けば、視界に広がるのは鬱蒼とした森であったり、石畳の街であったり、城の前であったり――ともかく、そこはアトラス編集部ではなくなっていた。
ある者の前には、編んだ赤毛の壮年が、豪奢な玉座じみたものに座っていたのだ。そしてそこは、石造りの城の中だった。
「……如何した? 狐にでもつままれたか?」
壮年の男が話した言葉は、日本語ではなかった。だが、理解できた。
ある者の前には、どす黒く膨れ上がった死体の山があった。凄まじい異臭を放つ死の山の前で、自分は泣いていた。なぜ泣いていたのかわからない。だが、知っている。とてもとても親しい人間が、黒死病で死んだのだ。
ある者の前には、黒い黴か苔で覆われた小さな城のような建物がある。自分は松明を持ち、城に向かって振りかざしていた。なぜ、城に野次に罵声を浴びせようとしていたのか――ああ、知っている。この城には、魔術師がいる。やつが街に呪いをかけ、黒死病を広めたのだ。
住民たちは立ち上がる。領主クロード・カミュ=ジョルジュ・ラ・バスクスのおふれもあった。時と邪神を操る忌むべき魔術師、パ=ド=ドゥ=ララを葬り去らなければ、流行り病の恐怖は去らない。
だが、奮起する住人の中には、急に挙動がおかしくなった人間が数名いた。
「……編集長?」「……なに、どうなってるの?」「三下……?」「うぇぇぇん、ここどこですかぁぁぁ」「レイさん?」
彼らは曇った鏡、水、己の手を見つめても、すぐには事態が呑み込めなかった。
自分がどこにいるのか、何故ここにいるのかもわからず、
そもそも、身体は自分のものではなくなっていたのである。
リチャード・レイが小包を開けた途端、黒い光が爆発し、アトラス編集部に満ちた。すべてのものの意識が暗転し、その身体が倒れこむ。
だが、程なくして起き上がった者がいた。レイの助手と、応接室の前に突っ立っている警備員だ。
「な、なに……? 何が起きたの?」
みさとは、応接室の中を見回す。
レイが倒れていて、体温を失っていた。みさとは悲鳴を上げることしか出来なかった。
中には何も入っていない、黒い小包がデスクの上にある。箱の内側には、異様なかたちの印があり、見たこともない文字で何事かが記されていた。
つぎはぎだらけの警備員もまた、口を僅かに開いてぽかんとしている。
四六時中雑踏と喧騒に満ちたアトラス編集部が、しんと静まりかえっていた。そのうち、そこかしこで電話のコール音が響き始めたが、誰も受話器を取る者はない。
編集部にいた者は、みな冷たくなってその場に倒れていた。
「魂だ」
いや、みなではない。現に、警備員とみさとはそこで動いているのだから。
むくりと起き上がったアトラス常連の吸血鬼が、忌々しそうに口を開いた。
「みな、魂を抜かれたらしい」
なるほど、魂らしい魂をもっていない者は、抜かれるものもなかったというわけだ――
「で、でも、どうして――」
言いかけてから、みさとはドアを開けっぱなしにした応接室を見た。
小包。
光。
誰かが、リチャード・レイの魂を奪ったのだ。
おそらく、レイのみならず編集部にあった魂はすべて、抜かれてどこかに飛ばされてしまったのだ。
そう、どこか遠くの時間の国へ。
■目■
思い出そうとしてようやく思い出せたことはといえば、黒い奔流であった。
そう言えば、アトラス編集部でいつものように仕事なり雑談なり電話なりをしようとしたよくある刹那、突如として意識が何者かに抜き取られた感覚があったように思える。
そして、意識は3本しか指がない手に掴まれ、放り投げられた。耳障りな笛の音と、ずるずると引きずるような鬱陶しい哄笑があり、あとはただ、一瞬の奔流を見たのだ。
遊びが過ぎるのだ、
黒い何かは言うのだ。
おまえたちには、そろそろ、灸を据えておかねばなるまい。
■<牛裂き公>のお膝元■
ふと、自分が眼鏡をしていないことに気がついて、武神一樹は目をこすった。
目をこする手に、手袋がわりの汚れたぼろが巻かれていることにも気がついた。
「な、なんだ、一体……?」
自分は確か、編集部の片隅の応接間についでに挨拶に行こうとしていたはずなのだ。それがなぜ、ドイツ人の古物商なぞになってしまっているのだろう。
空気が違う……。
瘴気が、重苦しく空を覆っている。
自分は、城下町の入口に立っているようだった。今しがた、<牛裂き公>のお膝元に着いたばかりなのだ。荷運びさせているラバが、ぶるると鼻を鳴らす。
町の入口からでも、膨れあがった黒い死体の山は見て取れた。
「黒い死体……黒死病……? 一体いつの時代のどこの国だ?!」
答えはすぐに、頭の中にひらめいた。
西暦は定かではないが、とりあえず、2004年ではない。日本でもない。
要するに、大昔のルーマニアに、一樹はいたのである。そして、他にすべもなく、ただ周囲を見回す彼の目に――明らかに挙動が不審な――つい今しがたの自分のような挙動の人間が何人かの姿が、飛び込んできた。
ふと、自分の身体が軽くなったような気がした。というよりも――何年か前の、人間としてあるべき重さに戻ったというか――懐かしくも、不便な感覚が、アイン・ダーウンの脳裏にもどってきた。彼は、聖書の文句がのどにつまった。
――聖書? え?
「あれっ?」
ついには、疑問は声に出た。
彼は黒いカソックを着て、手には分厚い聖書を抱えており、ひどい悪臭がするものの前に立っていた。生ゴミの山だろうか、とアインは目をすがめた。生ゴミには、間違いなかった――
「うわ……」
思わず、アインは後ずさる。
自分は、祈りを捧げていたのだ。この生ゴミたちが、安らかに眠りにつくように。病の苦しみから逃れられたことを、祝福するために。
積み上げられていたものは、真っ黒に膨れ上がった人間の死体だった。
「なんだなんだ……面白い呪いにかかっちまったぞ」
ガバと身を起こして、自分の手を見て、周囲を見回してから――有体に言えば、しばし呆然としてから、藍原和馬はふつうの犬歯を見せて笑った。
彼は長いこと生きていたが、さすがに、すべての時間のすべての場所を訪れていたわけではない。この時代のルーマニアの片隅は初めてだ。眼下に広がる城下町と城が、<牛裂き公>と名高いクロード・カミュ=ジョルジュ・ラ・バスクスのものであるという知識――それは、このオウルという男が持っていたものか、はたまた、和馬のものであったのか。
古い記憶と古いのに新しい記憶が入り混じり、和馬は苦笑するしかなかった。
「まァた500年生き直せってか。そいつはヤだなァ。面倒臭え……」
オウルという男は、茸取りに疲れて丘で昼寝をしていたようだ。身なりはみすぼらしいが、業物の短刀を持っていたり、何かと役立つ薬草をたんまり持っていたりと、まったくわけがわからない男だ。
――うむ。俺とどんな違いがあるのかって話だ。魂は似たような入れ物を求める、ってかい。
とりあえず、人狼ではないらしい。犬歯も耳もさほど尖ってはいない。だが運のいいことに、聴覚は人並み外れて利くようだ。がさり、と背後で起こった物音に、和馬は振り向いた。
銀色の狼が、怯えたような、困ったような目つきで、和馬を見つめていた。
とりあえず見つめ合うことになってしまった和馬と銀狼の背後で、突然、太いブナの木が倒れた。
「ぬぅあー! 一体どうなっておる! わしが人間じゃと! 冗談も大概にせい!」
山を揺るがすような怒声が周囲に響き渡る。ひとりの樵が、今しがた己が倒したばかりのブナの木を蹴り上げた。ヘジ、という巨漢の樵だ。オウルは知っている。が、今はヘジではなく――中に入っているのは、赤い異形の龍の魂だ。羅火、であった。気まぐれに覗いたアトラス編集部で、よくわからない黒い事故に巻き込まれたのだ。
「こいつは面倒なことになっちまった。こりゃ、結構な数がこっちに来てるぞ。な?」
和馬が気まぐれに同意を求めた銀狼は、間髪入れずにこくりと頷いた。
「……ブルータス、お前もか」
銀狼には名前がないだろうが、咄嗟に飛び出した和馬のその冗句から、その雌狼の名前は仮に『ブルータス』となった。銀狼の中に入ってしまっている魂は、必死になってその仮の名前を否定したのだが、狼の舌ではことばを紡ぎ出せなかった。
雨柳凪砂は、ブルータスになってしまった。
彼女は自分がブルータスという名前ではないことを主張したかった。
――ああ、どうして今日、あたしは編集部なんかに行ったんでしょう。せめて明日とか、せめて1時間後とかに行けばよかったのに。
けれども、事故に遭った人間がそうして嘆くのは、よくあることなのだと――彼女は知っていて、大きな口から大きな溜息を漏らしたのだった。
角のパン屋のおかみが、不意にその辺りの樽に寄りかかって、不機嫌な顔になり、腕を組んだ。それまでパン屋のアガタ姐さんはいつも通り威勢のいい声を張り上げて、魔術師の城へ往かんとするにわか戦士たちにパンを売りつけていたのだが……本当に不意に、彼女は黙りこんだ。
「アガタ、黒パンくれよ。金取ってきたからさ」
薄汚れた身なりの少年が、銅貨を握りしめてパン屋のおかみに駆け寄った。
気のいいはずのおかみが、無言で少年を睨みつけた。
少年は戸惑いながらも言葉を詰まらせ、「な、なんなんだよ」などと小さく呟きながら、アガタの前から立ち去った。
アガタは機嫌が悪い。
それもそのはず、中にすぽりと入り込んだ魂が、まったく違う時代の違う国の、人間でさえないものの魂だったからだ。
「……何なのよ、一体どういうことよ……。それにこの身体、動きづらいったら……」
アガタは呪詛のようにぶつくさと呟きながら、ばたばたと騒々しい石畳の町を見回した。彼女が、今まで知らなかった国だった。
がちゃりがちゃりと重々しい音を立てながら眼前を横切った騎士たちがあり、そのとき、アガタの目がきらりと光った。
パン屋のおかみはやおら立ち上がり、悠然と行列の最後尾を歩いていた騎士をひとり捕まえた。
「あなたも来てたのね。わかるわよ」
「何のことでしょう?」
騎士は明らかに笑いをこらえている様子で、アガタの問いを一蹴しようとした。
おかみは即座に、騎士の向こう脛を軽く蹴り上げた。
「ふざけてないで説明してちょうだい。あたしは今すごく機嫌が悪いのよ」
「それは見ればわかります、田中緋玻さん」
「だったら早く」
「……残念ですが、私にもまだ把握できていない部分の方が多いのですよ」
「役立たず」
「そんな、失礼な……。あまり平民風情が騎士を侮辱しない方がよろしいかと」
「何が騎士よ。あなたは神山隼人でしょ!」
騎士リヒャルドは、可笑しそうに笑った。
それを見ていたのは、先ほどの銅貨の少年。……彼は、いつも厳めしい面持ちの騎士リヒャルドが笑っているのを初めて見たために、開けた口を塞ぐことができずにいた。
いつもは静まりかえっている『城』の周囲が、騒がしい。
光月羽澄は、突如倒れた。気づけば彼女は走っていたのだ。あまりに突然、自分がしていたはずの行動が変わっていて、足がもつれた。フリルがほどこされた上質のドレスが茨に引っ掛かり、ぷちぷちと裂けた。
「……えっ……?」
膝と手のひらの痛みは確かに本物。
しかし、夢であればと思ったにも関わらず、羽澄の意識ははっきりとしたまま。
落ち着いて考えようとすると、『自分』が焦っていたような記憶に囚われた。
会いに行かなければならない人間がいる。
その人間に、訊かなければならないことがある。
そして自分は、光月羽澄ではない――
「大丈夫ですか? お怪我は?」
顔を上げると、海原みそのが微笑んでいるのが見えた。
直接話したことはあまりないが、羽澄は何度かアトラス編集部でもこの不可思議な少女と会っている。みそのは、みそのである。だが自分は――古めかしい本を抱えて、映画でしか見たことがないドレスをまとい、長い金髪を持っていて――
「……わからない! どういうこと?」
「時空の『流れ』が捻じ曲げられたのです。『流れ』は曲げられると、元に戻ろうと致します。その力に、皆様は巻き込まれてしまったようですわ」
「皆様……それじゃ、アトラスにいたひとが皆?」
「おそらくは。……わたくしも、そのうちのひとりです。『流れ』を読む限りでは、皆様はご無事のようですが……お姿が、変わってしまっていらっしゃるよう。わたくしは、何かの『意図』あって、この姿のままなのでしょうけれど」
羽澄はみそのの言葉を心中で反芻しながら立ち上がった。
もとの身体よりも、若干背が低いようだ。
「キャロレイン・ラスク……」
羽澄は、呆然と『自分』の名前を呟いた。
「光月羽澄に、戻れるかしら?」
「さいわい、そのあたりの問題に詳しい方がすぐそばにいらっしゃいますわ」
みそのがにこりと微笑み、木々の向こうに隠れる『城』に向き直る。
「パ=ドゥ……パ=ド=ドゥ=ララ……」
羽澄の囁きが、鴉を呼び寄せたようだった。
食事の支度をするといって、執事が下がってからだいぶ経つ。
魔術師は、数時間ぶりに顔を上げ、蝋燭の減り具合を見て白眉をひそめた。
食事の温かな匂いはまだない。
「……ミハイ?」
呼びながら、魔術師は腰を上げた。椅子から立ち上がるのもまた、数時間ぶりだ。薄暗い部屋の片隅から、紫の目の黒猫がすうと現れる。
「ミハイは何処だ」
紫の目の魔術師が尋ねると、猫は黙って、すいっと歩き出した。
黒猫と魔術師が向かった先は、『城』の中にいくつもある書庫のうち、最も古いものだった。本が重ねられる音と、ページがめくられる音が、暗がりの中にあった。
ふと、魔術師は転がっていたものを踏んだ。
切っ先にわずかな血がついた、儀式用の短刀だ。
それを拾い上げることもなく、魔術師は厳しい顔をして、書庫の奥へと進んだ。
「……ミハイ、そなたが書庫で調べものとはな」
老いた執事が、振り返る。
白手袋をはめた左手の甲に、血が滲んでいた。手袋に浮かび上がった血の痕を見て、魔術師は顔色を変えた。
「――<黄の印>だと……! ミハイ!」
執事は眼鏡を直すような仕草を見せたあとに、くつくつと喉の奥で笑った。
「お久し振りです、レイさん」
そう言って、また手元の魔道書に目を戻すのだった。
そして――
辺境伯バスクスの城で、不意に夫の前からかけ出した妃の姿があった。
「ちょっと、冗談じゃないわ、一体何が起きたの?!」
しっかりとドレスの裾を持ち上げ、高いヒールの靴で走る。
「三下君! どこ?! 何なの、どういう幻覚なのよ、これは!」
妃シーダは、あっと言う間に城を飛び出していた。
■エグザイル■
<牛裂き公>バスクスは、名声と悪名を併せ持つ貴族であるようだった。
少なくとも、突然この時代に放り出された者たちは、そう認識していた。
黒死病に蹂躙されつつある城下町に住む者にとっては、名君であり、従うべき指導者であり、近いうちには救世主にも成り得るだろう。
だが、他国に流れている噂の中では、三度の飯よりも処刑が好きな恐るべき暗君である。特に、大陸から伝わった『牛裂き』なる刑がお気に入りであると。何のことはない、四つ裂きの刑に使うものが馬ではなく牛であるだけの話なのだが、耳慣れない刑罰を好む領主というのは、他国の民の不安を招いた。
バスクスの民である者たちは、しかし、知っている。
いま領主は黒死病から領を救おうとしていて、問題が解決するのならば、魔術師をひとりやふたり殺すことも辞さないのだ。
そのバスクスに申し立てたのは、ドイツから流れてきた古物商だった。普段なら門前払いされるのが筋であるが、どういうわけか騎士団長がそれを許したのだった。
自室に戻っていたバスクスは、騎士団長が連れてきた古物商を見て、赤い眉をぴくりと跳ね上げた。彼はいま、魔術師討伐以外にも取りまとめなければならない事件に直面していた。自分の妻が突然わけのわからない言語を叫びながら城下に飛び出していったのだ。
それでも、彼は自分が冷静でいなければならないことを自覚していたし、目立つ姿の妃であるから、町を巡回中の騎士にすぐに城に連れ戻されるだろうと踏んでいる。
とりあえず、バスクスは古物商の進言を認めた。
「リヒャルド」
「は」
「そなたが流れ者を信ずるは、珍しいな」
「そうでしょうか」
「珍しいとも。まるでひとが変わったかのようだ」
ふん、と赤毛の領主は騎士に笑いかけ、ついで、その灰の目を古物商に向けた。ドイツ人の古物商は、堂々としていた。
「して、そなたは?」
「た……ちがった、ヴォルフガング・リヒトホーフェン。旅回りの商人です。この町の現状、お察しします。俺……私は、実に多くの町が、黒死病によって滅ぼされてきたのを見てまいりましたが……黒死病の猛威から逃れた町も、また多く目にしております」
「ほう」
領主の視線は真面目なもので、相槌は明らかに先を促している。
この領主は、下々の意見も聞き入れてくれる性分にあるか。
古物商は続けた。
「黒死病とは、呪いなのです」
古物商の言葉に、傍らの騎士が一瞬ながら、訝しげな視線を古物商に送った――。
アガタはまず、町の広場で小さくなって泣いている鍛冶屋のボシューを捕まえ、自分の店の小麦粉置き場に放り込んだ。隆々たる筋肉を持つ53歳の鍛冶屋は、
「ここどこですかぁ、へんしゅうちょおう、うぇぇぇぇんん」
……子供のように泣いていたのである。
アガタと神父アインの行動力は目覚ましく、すぐに数名の『流れ者』が小麦粉置き場に集められた。中でも、偶然アインが見つけた豪奢なドレスの中年女性が、鍛冶屋が探している『編集長』であることは収穫だった。編集長はいま、領主の妻でもあるのだ。熱に浮かされた町民たちの目に留まらなかったのは幸いだった。
「町が騒がしいわ」
「僕らが来たときからずっとですけど?」
アガタの呟きに、アインが尤もな答えを返したが――自称『茸取り』の浮浪者オウルが、頬杖をつきながらアガタの一言に相槌を打った。
「騒ぎ方が変わった。火の匂いもしてる」
その言葉に、しかめっ面で樵のヘジが外に出る。
すぐに、戻ってきた。
彼の身体は異様なほどに大きく、外に出るにも戻るにも苦心していた。
「屍骸を燃しておるようじゃ」
「黒死病の感染を止める正しいやり方の一つだわ」
妃が腕を組んだ。
「誰かが上手く対処法を領主に教えたのね」
ウウ、とオウルのそばにくっついている銀狼が唸った。
「戻ったほうがいい、ってブルータスは言ってるぜ。お妃さま」
「どうして? というか私はやっぱりお妃なの?」
ウウウ。
「その格好は500年ほど前のルーマニアの貴族のものです、だってさ」
「ルーマニア、ね」
アガタが溜息をついた。
「ルーマニアで、魔術師で……心当たりがあるわ。ま、皆知ってるだろうけど」
「腐れ阿呆のレイ! あのうっかり者めが、人間にしては長く生きておるの!」
「あ、あのっ」
アインの挙手に、全員の視線が動いた。大勢に一斉に見つめられ、若い神父は一歩退いた。
「……あの、リチャード・レイさんとこの近くにいる魔術師さんの、関係が、よく……見えないんですけども」
「同一人物なのよ」
「中身だけ」
「はい?!」
「腐れ阿呆のままかのう」
「本質は変わってなさそう」
「つうかアレだよな、魔術師がうっかりってのはかなり致命的な欠点じゃね?」
「あっ、あのっ」
「……なに?」
「そのレイさんな魔術師さんに事情を話してみたら、どうでしょうかね?」
アインの考えに、銀狼も含めた全員が顔を見合せた。
そうとも、そうしてみるとしよう。
とりあえず、生身の人間になってしまっている自分たちよりは、何かが出来るかもしれない。
ひんやりとした城の中に入りこんだふたりは、黒髪の異邦人と、町の有力者の娘。
みそのとキャロレイン。
ふたりを出迎えたのは、異様なほどに目に焼きつく、ぞっとする笑みの執事だった。執事はミハイと名乗った。みそのの笑顔が大きくなったが、ミハイはその笑顔に応えようとはしなかった。
「魔術師様は、もうご存知なのですか?」
「何をでございましょう」
「バスクス様の町のことです」
「ああ、おそらくは」
「お逃げになるおつもりは――」
「無い」
闇からすうと現れた魔術師の姿を見て、キャロレインは一瞬言葉を失った。
本を抱えたイギリス人に見えたのが、不思議でならなかった。魔術師はひどく長身な、白い髪に白い髭の、初老の男だ。灰色のイギリス人とは、外見はあまりにもかけ離れていた。それでも――同じ人間としか、思えないのだ。キャロレインではない少女が知っている男と、全く同一の人間だった。
「お目にかかれて光栄ですわ、パ=ドゥ様」
「ふむ?」
紫の目を細めて、魔術師はみそのを見下ろした。
「鱗と深淵が見える。海の者が森に入るとは。……儂はそなたと見えた覚えは無いが、そなたにはあるようだ。門にして鍵なるものの悪戯か――」
ぴくりと魔術師の顔色を伺い見た執事から目を背け、魔術師はキャロレインに視線を向けた。
「ともあれ、歓迎しよう。儂に残された時間は幾許もないようだ。儂に尋ねるべき事柄があるのならば、今ここで聞こう」
「では」
キャロレインが頷いた。
「魔術師様は、信じていただけるでしょうか? ……時間の門を歪められ、魂だけが飛ばされてしまった人間たちがいるということを」
門にして鍵。時の流れの歪み。
魔術師とみそのが使ったものを拾いながら、慎重に言葉を選んだキャロレインが口を閉ざすと、ふうっと魔術師が微笑んだ。
「よくあることだ。そうだな、『ミハイ』」
「さようで」
老いた執事は、眼鏡を直す素振りを見せながらくつくつと笑った。その顔には眼鏡などないのだ。それを見たとき、キャロレインはようやく理解した。
「執事さん、あなたも――」
「歪みを正すことは、儂には出来ぬ。儂に限らず、人間如きには触れられぬもの。だが、お主らの助けになることは出来るだろう。問題は、儂の眠りが近いことだ。儂は殺められ、この城で朽ち果てるさだめにある」
「何故、それを知りながら?」
「未来を垣間見た報いだ」
魔術師はみそのに笑いかけた。
「覚悟は出来ている。バスクス……あやつが槍をもって儂を屠る前に、門を開くとしよう」
「助けていただけるんですか?」
「無論だ。『ミハイ』、準備を手伝えるな」
「ええ」
「お主らは、好きにするがいい。だが、儀式の邪魔立てはするな。儂は集中せねば、どうにも致命的な誤りを犯す」
「お変わりありませんのね」
「ん?」
「よく知っているだけですわ」
「そうか」
魔術師と執事は湿った闇の中に消えた。キャロレインは――そこに留まった。
日はとうに沈んでいる。確か、日没とともにこの城を襲撃する手筈になっていたと、キャロレインは思い出した。だが、見れば、町が赤々と明るくなっているだけで――城のすぐ手前まで来ていたはずの討伐隊の姿は、なかったのだ。
「町で何か起きてるわ」
「どなたかが、時間をお稼ぎになっておられるのでしょう」
「……編集部の人たちかしら?」
「ええ、きっと。けれど――」
「……?」
「パ=ドゥ様が討ち取られるのは、歴史の流れというものです。流れは、永遠に堰き止められるものでも、簡単に変えられるものでもありません……」
みそのの声が、少しばかり曇っていた。
■門が開く音■
黒死病の呪いを解くために、魔術師討伐隊を含めた町民たちが、ばたばたと慌しく城下町を駆けずり回った。
黒死病の呪いは、呪いにかかった者が死んでもいつまでも残り、寝具や衣服、死体にこびりついている。それに不用意に触れるから、呪いが伝染していくのだ。またその呪いは、魔術師が操る鼠の姿をした使い魔が広めている――。
古物商と怪しい茸売りがもたらした情報が、死の病に怯える者たちの焦燥を駆り立てた。死人が出た家はことごとく燃やされ、積み上げられた黒い死体にも火がつけられた。鼠という鼠が叩き殺され、炎の中にくべられていく。
「だが、その呪いをかけたのが誰かということになっていくだろう」
騎士リヒャルドに連れられて小麦粉置き場にやってきた古物商が、顎を撫でた。
「起き得るべき事象は、何者が何を成そうが起きると聞く。避けられぬのじゃ」
ヘジ。
「どっちみち死ねないやつなんでしょ? ほっといても問題ないじゃない」
アガタ。
「あのでも、パ=ドゥさんてどういう形で見つかったんでしたっけ……」
アイン。
「槍でグサリ」
オウル。
「……痛い……」
アイン。
「魔女狩りの制裁にしては、とても親切だと思いますよ。苦しまずに眠れたでしょうから」
リヒャルド。
しくしく泣いている鍛冶屋のそばで立ち上がり、妃シーダがドレスの裾を持ち上げる。
「戻ってきたわ」
偵察に行っていた銀色の狼が、小屋に戻ってきた。唸り声と仕草に、オウルがいちいち大きく頷く。
「西側の入口が手薄っつうか、もぬけの空だとさ。大回りになるけど、そっちから森に入って、パ=ドゥの城に行こう。……なに?」
ウウウ。
「……女がふたり、城に入ってったそうだ」
「そのふたりが、俺たちと同じ状況のやつらなら……」
「もう話をつけてるかもな。急ごうぜ」
ばたん、と小屋を全員が出たところで――
ちっ、
誰かが舌打ちをした。
間が悪いことに、兵士が数名、小屋の前を通りがかっていたのである。兵士たちが視界の中にとらえたのは、行方不明になっている妃シーダだった。
町の西側で騒ぎが起きているという報せは、すぐさまバスクスの耳に入った。そして、騎士団長と妃が中心になっているらしいという不確かな情報もついでのようについてきた。彼は顔をしかめて、愛用のフランベルジェを手に取るも、思い留まって城に残った。
「魔術師の呪いか」
呟く領主の言葉には、どこか嘲りじみたものが混じっていた。
<牛裂き公>の思惑は、誰も知らない。
その夜、不意に領主の姿は城の中から消えていた。
けれどもその日は色々なことがありすぎて――きっと、誰もそれには気がついていなかったのだ。
銀色の狼はためらっていたが、やむなく兵士の腕に咬みついた。あっと声を上げたその兵士を、樵が嬉しそうに笑いながら殴り飛ばす。なおも暴れようとする樵を、必死で古物商が制した。鍛冶屋が泣きながらパン屋のおかみの後ろにまわり、腕を掴まれそうになった妃が、兵士の腕を振り払う。怪しげな茸取りは後ろで小さくなってにやにやしている。神父は身体のあちこちを叩いてみて、何の反応もないことに愕然としてから、茸売りの隣に移動して小さくなった。兵士たちをなだめながら嘆息している騎士団長は、しまいには魔術師に呪いをかけられたのだと罵られる。
だがその騒ぎも、森の中から現れた無数の翼たちによって妨げられた。
アインは空を見上げて呆然とした。神父なら、十字を切るべきであったかもしれない。
紫の目の鴉たちが、町の空を覆った。
「パ=ドゥ! 何をする気だ?」
古物商が囁いた。空から降ってくるものは、黒い雪にも似たもの。鴉の羽根。鴉の鳴き声が重なり合い、魔術師の声を形作ったようだった。
『門は開く。肉が通ることまかりならぬ門が。
覚えあるものは、勇気を示せ。
魂を肉体より解き放て。
取り戻すべき刻を思い描き、かの神、ウムル=アト=タウィルに示すが良い。
時の流れは、黒き巫女が正す。
絡み合った魂は、己が手で解き解せ』
しゅりぃん――
騎士団長が、腰の剣を抜き放った。
「ああ、私は、確かに魔術師に呪いをかけられた」
黒い雪の中で、
「さあ、私たちを殺すといい」
騎士団長が微笑んだ。
■示されるもの■
準備を済ませたあと、執事ミハイはぎりぎりまで書物を読み漁っていた。手の甲に現れた――と、彼は自覚している――印が痛い。彼が崇拝する神の力は、この時代においても全く変わらず、偉大なままであるようだった。確認するまでもなかったが、確認することで彼は大きく安堵した。門の僕に呪われた魔術師も、風や水や火や地を止めることはできない。
「確か、武神さんがいらっしゃいましたねえ……」
黒い光が弾ける直前に見たのは、灰色の紳士に届けものをした宅配業者と、和装の男。どちらもこの時代に飛ばされているのならば、ここに置き去りにしたままにしておきたいと、執事は考えた。
だが、置き去りにされるほど要領の悪い人間たちではないことは、心得ている。
鴉が――
紫の目の鴉が、城の周囲で喚きたてた。
「おお、門が開く。とても、あのいつもうっかりしている方の術とは思えませんね」
ミハイは切っ先に血がついた短刀を手に取り、ヴェールをかぶった神の化身に思いを馳せた。
「魂を肉体から切り離す……? それって……」
鴉が伝えた魔術師の言葉に、キャロレインの顔色がさっと変わった。
みそのは哀しい笑みを浮かべた。
「ええ、そうです。いまパ=ドゥ様がお開きになった門が吸い込めるのは、魂だけなのです。やむを得ません」
「キャロレイン・ラスクはどうなるの? 黒死病で死んだ彼氏のところに行くしかないってこと?」
「門の向こう側に居られる御方に、示すのです。戻るべき時間を。そして、すべての流れを正すのです。黒い爆発は、流れに相応しいものではないはず。その流れを上書きすることを、真理が拒むことはないでしよう」
「……わかったわ。でもみそのちゃん、……みそのちゃんは、どうするの?」
「皆様のお手伝いを致します」
ふわり、と黒い巫女は微笑んだ。
キャロレインはかたい表情のまま走り出す。城の屋上へと続く石段を、彼女は駆け上がった。
剣がひらめき、血が瞳を染める。
黒死病が燃え上がり、鼠が砂を噛む。
金色の髪は空を踊る。
黄の印が干からびて、
竜たちは死んだ。
黄金の穂。
赤毛。
ああ、ヴェールをかぶった嘲笑。
時が元に戻ろうとしている。
河の流れは、
みずいろだ。
■1年後■
リチャード・レイが、カレンダーを見て溜息をついている。
胸や喉を突かれたような痛みと、地面に叩きつけられたような痛みを夢に見た気がして、その場の誰もがはっと辺りを見回した。
何かを見たような気がする。
黒い男のような、ヴェールをかぶった小男のようなものを。
「はい、どうも、ご苦労様でした」
低い、耳に快い声が、英語訛りの日本語を紡いでいた。
見たことも聞いたこともない運送会社の配達員が、サインを受け取って帰っていくところだ。
リチャード・レイが不思議そうに抱えていたものは、黒い小包だった。
いくつもの電話がけたたましく誰を呼び出す中、編集部にいる者たちは、互いに顔を見合せて――黙りこみ――
「……まずい、あれだ!」
はじめに動いたのは、アイン・ダーウンだった。彼は褐色の風になり、レイがまさにドアを閉めようとしていた応接間に飛びこんだ。
「そうか、あの阿呆めが!」
続いて、応接間の入口に突っ立った人造人間をふっ飛ばし、羅火が応接間に駆けこむ。
「レイさん!」
「リチャード!」
羽澄と緋玻が応接間に飛びこみ、
「おーい、開けねエほうがいいぞう!」
「パ=ドゥ、そいつから手を離せ!」
「ああっ、皆さん、乱暴はいけませんっ!」
何故かにやにやしながら和馬、鬼気迫る表情の一樹、そのふたりを含めたすべての者を、むなしく凪砂の言葉が制しようとした。だが、時はすでに正されてしまった。灰色の紳士は驚きのあまり紫色に目を光らせたが、亜高速で突進してきたアインのタックルをまともに食らい、羅火に圧し掛かられ、和馬や小包を取り上げられた。部屋の片隅で、黒尽くめの少女が驚き、身をすくませていた。
めきっ、と不快な音がした。ぼきり、と確実な音もした。
押し殺した呻き声が、人だかりの中心で上がった。
「死ぬ、という感覚は初めて味わいましたよ」
応接間の騒ぎからは一歩引いたところで、神山隼人はさほど乱れてもいないスーツの襟を正す。そのそばには、海原みそのがいた。
「皆様、ご無事で何よりです」
「あなたの導きがあってこその未来ですよ。感謝します」
「……わたくしは、星間様が見たものを追っただけですわ」
「星間さんが見たもの――?」
みそのの、見えてはいないはずの目が、編集部の片隅に向けられる。
星間信人はそこにいて、俯き加減で眼鏡を正していた。
リチャード・レイの他に、彼だけが、見ていたのだ。
見たことも聞いたこともない運送会社の配達員を――。
「――ャル・シュタン ニャル・ガシャンナ ニャル・シュタン ニャル・ガシャ――」
黒い小包が、開けられることはなかった。
■400年ほど前■
本を閉じて振り向いた魔術師の胸を、槍が貫いた。
それまでバスクス領の空を覆っていた鴉という鴉が、一斉に地に堕ちる。紫の光が煌き、漆黒の空へと消えていく。
これで呪いが解けるなら、安いものだと――
<牛裂き公>バスクスは踵を返した。
彼が踏みにじられた妃の屍をみるのは、間もなくである。
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0173/武神・一樹/男/30/ヴォルフガング・リヒトホーフェン】
【0377/星間・信人/男/32/ミハイ】
【1282/光月・羽澄/女/18/キャロレイン・ラスク】
【1388/海原・みその/女/13/海原みその】
【1533/藍原・和馬/男/920/オウル】
【1538/人造六面王・羅火/男/428/ヘジ】
【1847/雨柳・凪砂/女/24/銀狼】
【2240/田中・緋玻/女/900/アガタ】
【2263/神山・隼人/男/999/リヒャルド】
【2525/アイン・ダーウン/男/18/アイン】
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ライター通信
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モロクっちです。大変お待たせいたしました。このたびはモロクっちクリエイター活動1周年記念特別企画(な、長い)にご参加いただき、まことにありがとうございました! お祭りということで、長文です。お楽しみいただけたら幸いです。
リチャード・レイは全身打撲といろんなところ骨折につき、入院することになりました(笑)。
幾人かのPCさまがプレイングで仰っていた通り、歴史を変えることはほぼ不可能に近いのですが……今回起きた事件は、本来ならば起きてはならなかった出来事です。皆様のお力で正しい道筋を築き上げることが出来ました。お疲れ様でした!
……黒い神様は、ご機嫌ななめでしょうけれども。
というわけで、これからもモロクっちとうっかり魔術師をよろしくお願致します!
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