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<東京怪談ノベル(シングル)>


はしけやし まほろばのくに

『ねえ。あの時の話をしませんか? 二人初めて出会った日のことを』

***********

 東雲舞は曇天の空を暫し見上げ、それから肩を竦めるようにしてコートの前を掻き合せた。
 季節は冬。口唇から零れた吐息は霧のように白く煙り、雑踏ひしめく街の中へと溶けて、消えていく。
 身も凍るような、とても寒い夕刻だった。舞は歩きながら両手を擦り合わせ、赤く乾いたそこへと懸命に息を吹きかける。しかし立ち並ぶビルの間を流れていく風は行き交う人々のように無表情で無関心で、舞のささやかな暖など容易く攫い行き去ってしまう。それは心細いと言うには辛過ぎて、また切ないと言うには寂し過ぎて。
 ただ、寒い日だった。
 寒さしか感じられない、凍えだった。

 『東雲舞』という雅語を連ねた言の葉は、誕生と同時に授けられた真名ではない。舞が自分で撰び、自分で考え、そして自分で名付けた舞だけの”日本”名だった。つまり、『東雲舞』は異邦人である舞が創り出した仮の名・仮の姿。故郷を離れ、恋焦がれた国で暮らしたいと願った舞の望み、そのものなのだ。
 昔から、舞は所謂『和文化』に憧れて止まず、特にこの国独特の芸術作品は、故郷の風景よりも何よりも心を昂揚させ、震わせてきた。そしてその恋心はいつしか具体的に形を成し、遂には邦を飛び出して愛するこの国へと降り立った、のが先日のこと。それなりに覚悟をし、不安を噛み締め、それでもいいと決意した上での巣立ちだったのだ。────けれども。
 今、舞はこの国の寒空の下で独り思う。
 自分は、どこかで甘く過信していたのかもしれないと。この美しい国はきっと自分の想いに答えてくれるに違いない、温かく迎えてくれるはずなのだと、そう。
 ────螺鈿細工の如き美しい夢幻をみていたのかもしれない、ということを。

 大通りを外れ、脇道に入った小さな公園のベンチに腰を下ろす。ペンキの剥げかけた木肌はやはり冷たかったけれども、すっかり歩き疲れていた舞は我慢する方を選び、そう重くはないボストンバッグを横に置き座った。
「……寒いなあ」
 思わず洩れた呟きに答える人は誰もいない。頭上には葉を落とした黒く大きな木が枝を伸ばし、それを見上げた視界の果て、鼠色の空から白いものがぽつりぽつりと降り始めていた。
「雪……か」
 白に覆われた日本の古い庭園を、舞は写真で見たことがある。その時はあまりの美しさ、静謐さに感動し、この国への夢をいっそう膨らませたものだ。いつか、ここへ行ってみたい。いつか、この景色の中に立ってみたい。そう思って、願って、その”いつか”をまさしく今、実現させた──のに。

 なのに。

 下を向くのは好きではないが、舞は重力に負けて俯いた。さらりと流れた髪の先、淡雪が降り立ち羽を休める。
 寒い。それだけが身に染みて、また棒になった足が痛んで。それから、無遠慮にも空腹を訴える下腹部に溜息が出た。
 奥の手で調合した薬によって言葉こそ不自由しなったが、邦から持って来た全財産は食費や交通費で瞬く間に減り、仕事や泊まる場所を探そうにも勝手が分からず身動きが取れず。日がな一日街を彷徨い途方に暮れて、今夜の宿とて定めなき有様。体力もそろそろ底をつき、ああこのままこの寒さで凍え死ぬのかも、なんて物騒な想像さえ許してしまう。
 もっと──もっと、優しいものだと思っていた。
 あんなに美しいものを生み出す国は、もっと自分を愛してくれると思っていた。
「まるで、片想いね」
 肩越しに頭上の木の、殊更黒いごつごつとした幹を見遣る。葉を落とし、裸の枝のみを広げた巨木。それを映した舞の瞳が、眩しそうにそばめられる。
「私、この木の名前すら知らないんだ……」
 この国のことを碌に理解っていなかったのに、国一つが美しさだけで出来ているはずなんてなかったのに。
「……どうしよう」
 舞の表情が悲しみを孕んで歪む。鼻の奥がツンとして、舞は両腕で自身を掻き抱いた。

「あの……大丈夫ですか?」

 声をかけられたのはその時だった。
 驚いた舞は弾かれたように顔を上げ、丸く瞠った瞳で以ってその声の主を仰ぎ見る。
「……あの、気分でも悪いんですか? 随分青褪めてるみたいですけど……」
 主は舞と同じ年頃の女性で、同じほどの背丈と同じく長い黒髪を湛えていて。そして何よりも、甚く優しそうな面立ちと、酷く心配そうな表情をしていた。
「あ、その……」
 舞は言葉に詰まる。突然見知らぬ人に尋ねられた驚きと、もしかしたら幾許かの警戒心があったのかもしれない。慌ててバッグを掴み立ち上がると、「ごめんなさい、何でもないです!」
 叫ぶように言い捨てて、その場から走り去ろうと地を蹴った──のだが。
「……!」
 彼女の脇を通り抜けようとした瞬間、舞の視界が突如暗転した。四肢から力が抜け、膝ががくんと折れる。え、ウソ! と思ったときにはもう地面が眼前に迫り、舞はあえなく前のめりに倒れ込んだ。


「……ごめんなさい」
 彼女の家に連れて来られるなり、舞は心底申し訳無くて頭垂れた。彼女は「気にしないで」と微笑むと、自分の荷物を置くのもそこそこに、毛布やら膝掛けやらを取ってきて舞の体を包み込んでくれた。その温みに、逆にどれだけ体が冷え切っていたのかを思い知らされて。
「…………」
 徐々に温かくなっていく部屋の中、舞は有り難さと情けなさが綯交ぜになった苦い表情で毛布の端をぎゅっと握り込む。
「大丈夫ですか? 寒くありません?」
 やがて部屋に戻って来た彼女がローテーブルの向かいに腰を下ろした。長く柔らかな黒髪が肩からさらりと流れ、口許には優しい笑みを刻んでいる。親切な人、名も知らぬ日本の人。
 その顔を、舞は心持ち険しい上目遣いで覗った。そして、どうして、と無言の視線問うた。
 ────どうして、名前も素性も知らない私のために。
 ────私に、親切にしてくれるの?
 すると彼女は一瞬きょとんと目を丸くして。けれども、すぐに。
「……あなたの色が」
 全く邪気のない──思わず、見惚れてしまうほどに美しい笑顔を浮かべてこう言った。
「あなたの瞳の色が、とても綺麗だったから。それだけじゃ、駄目かしら?」
「…………」
「よかったら、ご飯も食べていきません?」
 ね、と首を傾ぐ彼女に、心の何処かが溶かされていくような気がする。先刻とは違う意味で痛む鼻腔を隠しながら、舞はこくんと頷いた。

 浴槽に満たされた湯の中へ、舞は冷たくなっていた体を浸して天井を仰ぐ。思わず洩れた安堵の溜息。こんなに心が落ち着いたのは幾日ぶりのことだろうと、温かさがじんと骨にまで染みた。
「どうしてかしら」
 彼女と、そして自分へも向けられた問いの答えは、やはり”分からない”だけれども。
「でも……いいわよね」
 舞は目を閉じ唇を湯に沈める。膝を抱え、水面に頬を寄せて、祈りのように心中で言葉を紡いだ。
 ────”きっと、大丈夫”。
 瞼の裏に鮮やかに蘇るは彼女の微笑み。まるでこの国に咲く春の花みたい、と舞は我知らず思っていた。

 独り暮しだという彼女の部屋は家具も然程なくさっぱりとしており、かといって殺風景とは思わせない、品が良く好ましい造りをしていた。全体的にオフホワイトやクリーム色・薄いグリーンといった淡い色調が多く、ゆったり寛げる雰囲気がそこかしこに漂っている。何だか落ち着く部屋ですね、と舞が素直に感想を述べると。
「ええ。天気の良い日には、そこの窓際でお茶を飲みながらお昼寝まで出来ちゃうんですよ」
 食器を片付けている彼女は、この部屋の主らしいおっとりした口調で答えてくれた。
 彼女の作ってくれた夕食は決して豪勢なご馳走という訳ではなかったが、まともな和食を初めて口にする舞にとってはどれもこれもが新鮮で、箸に悪戦苦闘しながらも「美味しい!」を連呼して綺麗さっぱり料理を平らげた。そして胃が満たされ四肢が温まると体は現金にも元気を取り戻して、舞は物珍しさに部屋を見回した。
 一際舞の目を惹いたのは、家具やTVの上に置いてある和風の紙細工だった。華麗な色彩や模様が施されている大小様々なそれは、一見して精緻な作りであることが覗える。舞をはそれをまじまじと見つめると、戻って来た彼女に「これは何ですか?」と訊いた。
「それは和紙で作った箸置きで……あ、そっちにあるのは作りかけだから」
 指した彼女を見て、舞はぱっと顔を輝かせる。
「え、あなたが作ったんですか? すごい、きれい、感動しました!」
「ありがとう。でもそれほど大したものじゃなくて」
「そんなことないです、とってもお上手ですよ!」
 思わず身を乗り出してそう言うと、彼女はほんのりはにかんだように微笑んで。
「……そんなに言われると、何だか照れてしまうけど……ありがとう」
 ────お礼なんて、私の方こそ。
 口をつきかけた言葉を舞は飲み込み、代わりに心からの笑顔を満面に浮かべる。彼女には感謝の言葉を連ねるよりもこの方が良い、そう思ってにっこりと────久しく忘れていた表情を、薔薇色の頬に咲かせた。

 聞いてみると、彼女も舞同様日本のもの──特に、手漉きの紙やこの国独特の色彩といったもの──を愛しているらしく、同好の徒同士、自然話は大いに盛り上がった。夜が深けると場所を隣りの寝室に移し、ちょっと狭いながらも二人でひとつのベッドに潜り込んで、時を忘れるほどに喋り明かした。

 不思議ね、不思議ね。
 どうしてこんなにも言葉が途切れないのかしら。
 お互いに今までを知らない私達なのに。
 どうしてこんなにも、心に温かな明りが灯るのかしら。

「……私、一人っ子だから」
 眠りにつく間際、彼女がぽつりと呟いた。
「こういうの何だか……嬉しいな」

 舞は何も言わずに彼女に体を寄せ、その陽だまりみたいな温みを感じながらそっと。
 ────目を閉じた。


 翌日の朝早く、目覚めた舞は荷物をまとめ一夜の宿に別れを告げることにした。
 もっとゆっくりしていけばいいのに、と同じく起床した彼女は言ってくれたけれども。
「お世話になりました」
 後ろ髪引かれる思いを振り払うように、舞は殊更綺麗に笑ってみせる。あまり長居をしていてはきっと離れられなくなってしまう、居心地が良過ぎて甘えてしまう。そんな済崩しは駄目な気がして、舞は安寧へと傾いでしまいそうな心を叱咤した。
 どうもありがとうございました。そうも重ねながら玄関先まで見送りに来てくれた彼女へと頭垂れる。そして顔を上げると、彼女は「ならばせめてこれを」と純白のマフラーを首に掛けてくれた。舞は勿論固持しようとしたが、彼女のいつにない押しの強さに折れ、有り難く借り受けた。
「それ、温かいから」
 心なしかそう、寂しそうに微笑んだ黒曜石の瞳に映ってたのは、舞の後ろに広がっている夜明けの光景だった。
 徐々に辺りが明るくなっていく。空が段々蒼さを増していく。
 冬の身を切る寒さの中昇り来る、黄金色の太陽。逆光に照らされた彼女の輪郭がきらきら輝いて、神々しいまでに眩しくて。
 美しくて愛しくて、故にもう見ていられない。潤みそうな目を細めて誤魔化しながら、舞は別れの言葉を口にしようとした。────その時。

「……しののめいろ」

「………え、」

 一瞬、名を呼ばれたのかと思った。教えてもいない舞の、この国での名を。
 しかしそれは違ったらしい。瞠目している舞を通り越し、彼女が見ていたのは街へと満ち満ちていく朝の陽光だ。
 彼女は舞へと視線を戻すと、もう一度はっきり言葉を紡ぐ。「東雲色」、と。
「山の端からから太陽が昇る直前、空に紫雲が棚引く一瞬。あの光の色を東雲色、もしくは曙色って言うの」
 きれいね、と呟く彼女と同じものを舞も振り返り見る。
 ────ずっと焦がれて止まなかったこの国。
 ────故郷を離れてでも抱かれたいと願った、この美しい国。
 ────そのもののような、この人。
 きれいね、と唱和して、深呼吸で溢れ出そうな気持ちを鎮めて。
 舞は意を決して、告げた。

「……また、いつか」


 ────そう告げて彼女の元を去ってから早幾日経ったことだろう。
 舞は相変わらずの宿無しで、徐々に慣れつつあるもののやはりこの国は戸惑うことばかりで、ボストンバッグ片手に街を彷徨う状況は決して好転したとは言い難い。
 しかしそれでも帰ろうと思わないのは、この国を好きだという何物にも変え難い自覚のせいだ。片思いだろうと何だろうと、一番強くて一番真っ直ぐな光が舞の心を決めてしまっている。寒さが和らぎやがて暖かな季節がやって来るように、いつかこの国に受け入れてもらえる日が必ず来る。錯覚かもしれない勘違いかもしれない、でも。
 その日はいつか、来るのだ。
「……そうよね?」
 舞は独り呟きながら、晴れやかな表情で木の枝を見上げる。慈母のように両腕を広げるその木は他でもない、あの日、あの女性と出会った日に在った名も知らぬ樹だ。
「今はまだあなたの名前を知らないけど、いつか、分かる時がくるわよね?」
 うん、と頷いた舞は両手を握り締めて気分を奮い立たせると、踵を返して歩き出す。今日はこれからアルバイトを探しに行くのだ。この国でのたずきを得、この国で暮らしていく。その第一歩のためにも頑張らなきゃ、なんて一人拳を握り締めて笑って。そしてふと、顔を上げた所で。
 ────舞は公園に入って来た人物と、目が合った。

***********

 そう、そんなことがあったのね。
 そう、そうしてあなたの隣に居るの。
 だって、二度も巡り会えてしまったのだもの。
 そうね、二度も巡り会えてしまったのだから。

「……これはもう、運命としか言い様がないわね」

 そこで舞はくすりと笑う。
 思い出話に花を咲かせていた二人の頭上、ベンチの上の桜は早咲き初めの季節だ。
「これが桜だなんて、あなたに教えてもらうまで知らなかったの」
 肩を竦めて見せる舞に、彼女は言う。
「じゃあ、これから花が咲く度にその名前を、あなたに教えてあげなくちゃ」

 ────長い時間をかけて、私、やっとあなたに辿り着きました。
 ────この、真秀なる日の本の国で。

 これからもよろしくね、と見詰め合った二人の上で祝福の花が咲く。
 芽吹きの季節は今、始まったばかりだった。

 了