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<東京怪談ノベル(シングル)>


はしけやし まほろばのみやこ

『ねえ。あの時の話をしませんか? 二人初めて出会った日のことを』

***********

 千代紙の中には、友禅染を真似て和紙を色とりどりに染めたものがある。春夏秋冬を象徴する草花をあしらったもの、十二単を纏った王朝の女性達を描いたもの、濃い色彩で花々を散りばめたもの……。身を包む衣の大きさ・色目には敵うべくもないが、それでも紙の中にはこの国の色や風物、美しきものが凝縮され、綾なる小世界を紡ぎ出している。
 いつものようにお気に入りの和紙屋でその友禅染の千代紙を見つけた柏木アトリは、ほうと感嘆の溜息をつき、掌中の和紙を凝っと、微笑みを含んだ瞳で見つめた。
 「気に入ったの?」と声をかけてくる女の店長にアトリは「はい」と首肯する。この店には度々足を運んでいるので既に顔を覚えられているらしく、彼女はふふと笑みを唇に刷くと、
「あなたは本当に、この国のものが好きなのねえ」
 言われたアトリは恥らうように僅か肩を竦めるものの、勿論反論はしない。四季と、なだらかな山並みと、人を育む幾つもの川と。大いなる和やかさと銘打たれたこの国が生み出す景色、色彩ほど、アトリの琴線に触れるものはない。自ら和紙細工を手がけているのも、その心のままに指先が、色を、この国を、求めているからだ。
 またおいでね、との声に会釈して、アトリは店を後にした。寒い冬の日、流れ込んでくる街のビル風は冷たく、首元の白いマフラーを巻き直して暖を取る。このマフラーはずっと前から目をつけていたもので、冬も終わろうかという今日やっとのことで購入して、袋に入れてもらうのももどかしくこうして身に付けているという次第だ。
 その色は、まるで新雪を固めたかの如き純白。ふと空を見遣れば、本物の六花が舞い落ちてきそうな鈍色の分厚い雲。気の塞ぎそうな天気すらもが今のアトリには好ましく思えて、また頬を綻ばせ道を行く。

 上京し、独り暮しをしているアトリのアパートはやや交通の不便な場所にある。最寄駅から歩いて二十分ほど、夜道は少々治安が悪い。……まあそれでも、故郷と比すれば充分過ぎるほどに便利な街なのだが。
 途中スーパーに寄って食材や生活用品を買い込み、バッグとビニール袋とのバランスに悪戦苦闘しながらアトリは帰路を急ぐ。そろそろ日も暮れる、風は相変わらず冷たい。アトリは温かなマフラーに顔を埋めながら、ふと、道の右手に目を遣った。
 そこは小さな公園になっており、奥には桜の木が何本か植わっている。冬の今でこそ殺風景な場所だが、春になればあの薄紅色の花が満開になり、ささやかな夜桜見物には持って来いの場所だ。
 その木の下、ちょうどベンチのところに誰かが──自分と同じ年頃の女性が座っているのが見え、アトリは何故だか足を止めた。
 後々アトリはその女性に、「どうして?」と理由を問われることになるのだが、上手く説明することは出来ず、ただその時、どうしてだかひどく気になって放っておけないと思ったのだ、と答えた。彼女が気分悪そうに項垂れていたせいか、はたまた寒さに凍えているのが見て取れたせいか。理由を付けることは可能かもしれないが、やはりただ気になった、どうしてだか心が彼女に向かった、というのが正直なところだ。
 なので、その時のアトリは公園に足を踏み入れ、彼女に近づくとこう、声をかけた。

「あの……大丈夫ですか?」

 驚いたらしいは彼女は弾かれたように顔を上げ、丸く瞠った瞳で以ってこちらを仰ぎ見てくる。
「……あの、気分でも悪いんですか? 随分青褪めてるみたいですけど……」
 彼女はアトリと同じ年頃の女性で、同じほどの背丈と同じく長い黒髪を湛えていて。そして何よりも、甚く聡明そうな面立ちと、酷く健康状態が悪そうな顔色をしていた。
 しかし何よりもアトリの視線を釘付けにしたのはその瞳の色だ。夜が開ける直前、黎明の、澄んだ藍色をもつその青石のような瞳にアトリは一瞬息を飲んで見入った。日頃から色彩に敏感なアトリの心の糸を、その時彼女の瞳は確かに弾いたのだ。
「あ、その……」
 何か言いかけた彼女は、しかしすぐさま口を噤む。突然見知らぬ人に尋ねられた驚きと、やはり幾許かの警戒心があったのだろう。アトリが引き止める暇もない電光石火で彼女はバッグを掴み立ち上がると、「ごめんなさい、何でもないです!」
 叫ぶように言い捨てて、彼女はその場から走り去ろうと地を蹴った──のだが。
「……!」
 脇を通り抜けようとした瞬間、彼女の体が突如バランスを崩し傾いた。膝ががくんと折れ、足が縺れる。アトリが「あ」と息を飲んだときにはもう、彼女は前のめりに地面へと倒れ込んでいた。


「……ごめんなさい」
 自宅に連れて来るなり、彼女は心底申し訳無さそうに頭垂れた。アトリは「気にしないで」と微笑んで、荷物を置くのもそこそこに居間の暖房をフルパワーにすると、ありったけの毛布や膝掛けで彼女の体を包み込む。いったい何があったのやら、支えて来た彼女の体はすっかり冷え切っており、漂白されたような肌にはなかなか紅味が戻ってこない。これは直接温めた方がいいだろうと、風呂に湯もはりだした。
 珍しくぱたぱたと動き回りようやく一仕事終えて居間に戻ると、ふと、困惑しきった彼女の瞳とかち合った。
「……あなたの色が」
 彼女が口を開く前にアトリは衒いなく表情を緩める。
「あなたの瞳の色が、とても綺麗だったから。それだけじゃ、駄目かしら?」
「…………」
「よかったら、ご飯も食べていきません?」
 ね、と首を傾ぐと、彼女はややあってからこくんと頷いた。

 彼女が浴室で温まっている間に、アトリは二人分の夕食作りに取りかかった。実家を出て数年、自分以外の食事を作るのは久しぶりだと何だかわくわくすらして、アトリはせっせと料理する手を動かす。
 もしかしたら無用心過ぎるのかもしれない、とそう思わないわけではなかった。いくらのんびりした気質のアトリだとて、それなりに警戒心や疑心を持ってはいる。名前も素性の分からない他人をかくも容易く家に招いてしまってもいいものかどうか、本当のところ、確信があるわけではないのだ。
 でも──アトリは思う。でも、何故だか放っておけなかった。あの人を悪い人だとは思えない。
「どうしてかしら」 ────分からない。
「でも……いいわよね」 ────きっと、大丈夫。
 軽やかな包丁の音が台所に響く。アトリの表情はいつしか、春の花のように綻んでいた。

 独り暮しのアトリの部屋は家具も然程なくさっぱりとしており、かといって殺風景な訳ではない、品が良く好ましい造りをしていた。全体的に白や山吹色・若草色といった淡い色調が多く、ゆったり寛げる雰囲気がそこかしこに漂っている。それを感じ取ってくれたのか、何だか落ち着く部屋ですね、と彼女が漸くほっとした表情を見せてくれたので。
「ええ。天気の良い日には、そこの窓際でお茶を飲みながらお昼寝まで出来ちゃうんですよ」
 アトリは食器を片付けながら、生来のおっとりした口調で答える。
 用意した夕食は決して豪勢なご馳走という訳ではなかったが、彼女は「美味しい!」を連呼して綺麗さっぱり料理を平らげてくれた。心なしか箸の使い方が心許無いように見受けられたが、まあそれは人それぞれ、敢えて詮索はしないことにする。大体、あんな所で疲労困憊倒れこんでしまうなんて、何か事情があってのことなのだろうし、それを彼女が言いたくないのならば聞かなくたって構わない。────それでいいではないか。
 片付けを終えたアトリは淡く笑んで、エプロンで手を拭きながら居間に戻る。すると彼女は物珍しそうに部屋を見回していて、アトリが腰を下ろすや「これは何ですか?」と和紙細工を指して問うてきた。
「それは和紙で作った箸置きで……あ、そっちにあるのは作りかけだから」
 自室に飾ってあるのは、全てアトリが作った細工物だ。本棚の隅やTVの上、食器棚の端なんかにこっそりと自分の手から生まれ来た小物達を住まわせているのだが、どうやら彼女はそれを甚く気に入ってくれたらしい。アトリ作と知るや、ぱっと藍い目を輝かせて。
「え、あなたが作ったんですか? すごい、きれい、感動しました!」
「ありがとう。でもそれほど大したものじゃなくて」
「そんなことないです、とってもお上手ですよ!」
「……そんなに言われると、何だか照れてしまうけど……ありがとう」
 はにかむように笑んだアトリに、彼女も心からの笑顔で以って答えてくれる。────それがアトリにとっては何よりも、誉められたことよりもずっとずっと、嬉しかった。

 聞いてみると、彼女もアトリ同様日本のもの──特に、日本画・螺鈿といった細工物──を愛しているらしく、同好の徒同士、自然話は大いに盛り上がった。夜が深けると場所を隣りの寝室に移し、ちょっと狭いながらも二人でひとつのベッドに潜り込んで、時を忘れるほどに喋り明かした。

 不思議ね、不思議ね。
 どうしてこんなにも言葉が途切れないのかしら。
 お互いに今までを知らない私達なのに。
 どうしてこんなにも、心に温かな明りが灯るのかしら。

「……よかった」
 眠りにつく間際、彼女がぽつりと呟いた。
「思いきってこの国に来て……よかった」

 その意味を知ることは叶わなかったけれど、アトリは満ち足りた気分に包まれてそっと。
 ────目を閉じた。


 翌日の朝早く、目覚めた彼女は早々に荷物をまとめアトリの家を後にした。
 もっとゆっくりしていけばいいのに、と同じく起床したアトリは引き留めようとしたけれども。
「お世話になりました」
 彼女はボストンバッグを提げながら殊更綺麗に笑ってみせる。「どうもありがとうございました」とも重ねて、玄関先まで見送りに来たアトリへと頭垂れた。そして上げた顔は、笑んだ表情を崩さないためにか心なしか強張っていて、言いたいことを咽喉元で押し留めているのがアトリですらも分かるほどだ。
 ならばせめてこれを、と昨日買ったばかりのマフラーを彼女の首に掛けてやる。アトリより幾分か肌の白い彼女に、その純白は益々映え、固持しようとする彼女に半ば無理矢理受け取ってもらった。
 そうしてアトリは彼女の後ろ、明け行く街へと視線を転じる。もう少しあと少しと、別れの時を先延ばしするように、夜明けの光景へと瞳を逃がした。
 徐々に辺りが明るくなっていく。空が段々蒼さを増していく。
 冬の身を切る寒さの中昇り来る、黄金色の太陽。光に照らされた彼女の輪郭がきらきら輝いて、神々しいまでに眩しくて。
 美しくて愛しくて、故に一旦は逸らした視線を戻さずにはいられない。潤みそうな目を細めて誤魔化しながら、アトリはその光の名を口にした。

「……しののめいろ」

「………え、」

 一瞬、彼女が瞠目する。
 しかしアトリは街へと満ち満ちていく朝の陽光をしっかり目に焼き付けた後、彼女へと視線を戻し、はっきりとその名を──朝の名を紡ぐ。「東雲色」、と。
「山の端からから太陽が昇る直前、空に紫雲が棚引く一瞬。あの光の色を東雲色、もしくは曙色って言うの」
 きれいね、と呟く自分と同じものを彼女も振り返り見る。
 そしてややあってから、きれいね、と唱和して。
 彼女は意を決したように、告げた。

「……また、いつか」


 ────そうして彼女がアトリの元を去ってから早幾日経ったことだろう。
 アトリは今までと変わらぬ穏やかな毎日を送っていたが、時折何かが欠けているかの喪失感に捕らわれるようになった。理由は明白で、たった一晩共に過ごした彼女の残り香に違いない。
 そう、たった一夜。然程長いわけでもない人生の中でも、ほんの一瞬のひとときを共有しただけだというのに、彼女の面影はアトリの脳裏から離れていくことがなかった。髪の黒、肌の白、頬の紅色、そして瞳の澄んだ藍色。どれもこれもが鮮やかに蘇り、彼女の居ない元通りの部屋が妙にがらんとして見える。
 何故だろう。もう会えないだろう人をこれほど恋うのは、これほど────。
「……違うのかしら」
 アトリは独り呟くと、一度下唇を噛み締めて「そうよね」と言葉を次ぐ。
「違うからこんなにも、気になるのよ」
 うん、と頷いて、アトリは再び駅への道を歩き出す。大学の授業に出るために家を出たのがつい先ほどのこと、もうすぐあの桜の木が在る公園へ──彼女と出会った場所へとさしかかるはずだった。
 忘れられないのは、消えないのは、きっと意味があってのことなのだ。美しいものが溢れているこの世界はきっと優しく出来ていて、心の底から望んだならば必ず、その夢を現へと変えてくれるに違いない。
 そう思うからこそアトリは笑みを絶やさず歩き続ける。最後の言葉を信じて、それが果たされた暁には今度こそ彼女の名を聞こうと心に決めて。
 そうしてやがて見えだしたあの公園を、アトリは「まさかね」と思いつつちらと一瞥してみた。そして。
「………え?」
 ────木の下に佇んでいる人物を見て、息を飲んだ。

***********

 そう、そんなことがあったのね。
 そう、そうしてあなたの隣に居るの。
 だって、二度も巡り会えてしまったのだもの。
 そうね、二度も巡り会えてしまったのだから。

「……これはもう、運命としか言い様がないわね」

 そこでアトリはくすりと笑う。
 思い出話に花を咲かせていた二人の頭上、ベンチの上の桜は早咲き初めの季節だ。
「これが桜だなんて、あなたに教えてもらうまで知らなかったの」
 肩を竦めて見せる彼女に、アトリは言う。
「じゃあ、これから花が咲く度にその名前を、あなたに教えてあげなくちゃ」

 ────長い時間をかけて、私、やっとあなたに辿り着きました。
 ────この、真秀なる東の京で。

 これからもよろしくね、と見詰め合った二人の上で祝福の花が咲く。
 芽吹きの季節は今、始まったばかりだった。

 了