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冷蔵庫のこちら側より愛を込めて
不思議の国は向こう側。
でもそこに繋がる扉はいつでもアナタを待っている―――――
*
「これで買い忘れはなかったかしら?」
ファイルや帳簿用バインダー、カラーラベルにFAX用紙といった事務用品など備品がみっしり詰まった紙袋を抱え、買い物リストをチェックするシュライン・エマ。
走り書きされたそのメモの上に、淡い光を纏った不思議なものがふわりと舞い降りる。
「え?」
どこから来たのだろう。
目の前に降りて来たものにつられて空を見上げたシュラインの青い瞳に、水面のように澄んだ青空から降り注ぐ光の花が映る。
一瞬の既視感。
これはいつか見た優しい異世界の光景だ。
とても礼儀正しい茶色のクマのぬいぐるみに応えて、巨大な魚に挑んだあの不思議な時間。
「みんな元気にしてるのかしら」
色とりどりの光と優しく甘い香りが街全体を包みこんでいくその中を、シュラインは心地よい想い出に浸りながらゆっくりと歩いていく。
キレイな色と不可思議なカタチで夢と空想を現実に換えてくれたあの世界の冒険はたぶんそう簡単には忘れられない。
ふと視線を巡らせると、近付いた興信所の窓から草間武彦と零が空を見上げている姿が目に入る。
「あ!シュラインさん」
零がそこから手を振ってくれる。
同じく手を振ってそれに応え、シュラインはパタパタと事務所の階段をのぼった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
わざわざ入り口で出迎えてくれた零に手荷物の半分を預けながら、シュラインは窓の傍に立っている武彦に声を掛ける。
「ねえ、武彦さん。これってもしかして」
「ん?ああ、さっきこんなもんを受け取ったんだが見てみるか?お前の予想大当たりだ」
ほら。
そんな調子で手渡されたのは、何故かひんやりと冷気をまとう『草間興信所の皆さんへ』と宛名書きされた白い封筒と短い手紙だった。
じっとその文面を見つめるシュライン。
「……もしかして、この『クマの森から春をお届けします』って言うのが?」
「たぶんな」
くすりと武彦が肩をすくめて小さく笑う。
「しかし、一体どうなってんだろうな、コレは」
不本意ながらもいいだけ超常現象に慣れ親しんだ彼でも、まるで雪のように舞い降りては何かに触れてふわりと融ける花たちには純粋に驚きを感じているらしい。
「こういうのも『魔法』って呼ぶのかしらね」
幼い頃に読んだ絵本のように、ふんわりと優しい景色を武彦と一緒に見つめるシュライン。
もふもふとしたクマ達の姿がとりとめもなく浮かぶ。
黄色系のギンガムチェックに、青のマダラ模様。縞々模様や水玉模様。大小さまざまで実に個性的な柄を持ったくま村のクマ達が、自分たちに向けて贈ってくれたステキな不思議。
「お兄さん、冷蔵庫から引っ張り出すのにけっこう苦労したみたいなんですよ?」
紙袋から買ってきたものを机に並べつつ、零がおかしそうにくすくす笑う。
「……え?冷蔵庫?」
「まったく、どうやって押し込んだんだか……俺の目線の高さに合わせた場所にぎしっと手紙が収まってたんだ」
武彦が溜息混じりに給湯室を指差した。
「すごい絶妙なバランスだったぞ」
「食べかけのお弁当と買い置きのジュースと頂き物のフルーツケーキとお酒が入っているあそこにそんな隙間があったの?」
興信所経由で関わりを持った調査員達の差し入れで、冷蔵庫の中身はなかなかすごい状態になっているはずだ。
「ないはずだよな。ないと思うよな?だがな、あったんだよ……」
初めて茶色のクマがこの興信所に現れた時、彼は冷蔵庫の中身を床にぶちまけ、棚の間に挟まってもがいていたらしいことを思い出すシュライン。
あの時と同じように、武彦は手紙を引っ張り出したのか。
「あ、待って……という事はもしかして……」
唇に軽く指を添え、手紙にじっと視線を落としてシュラインは思考を巡らせる。
一度は閉じた向こう側の世界から、この手紙は届けられた。
そして、自分は一度、ここから向こうの世界に行くことが出来た。
ということは―――――
「お礼の手紙、書いてみようかしら?」
これはちょっと名案かもしれない。
運に頼ってしまうことになるけれど、試してみる価値はありそうだ。
「あ!」
「どうしたの、零ちゃん?」
突然上がった声に思考を中断して振り返る。
「あの…せっかくなのでこのぬいぐるみにも外を見せてあげようと思ったら急にふわって光って……」
彼女が指差す先にいるのは、本棚の一角にちょこんと座っているはずだった夕日色の小さなクマのぬいぐるみ。
この色はシュラインのイメージだと言ったのは確か武彦だ。
それはさておき。
クマ達からお土産でもらった卵から生まれたそれが、頭のてっぺんに生えていた双葉を揺らして勝手に立ち上がっているのだ。
思わずまじまじと顔を近づけて観察してしまうシュライン。
心なしか、ぬいぐるみが一回り大きくなったような気がするのだが。
「何があったんでしょう?」
「何が起こるんだ?」
「なんなのかしら?」
3人の視線がじっとぬいぐるみに注がれる。
しかし、ぬいぐるみはそれ以上の動きを見せる様子はなかった。
「立ち上がっておしまいなんでしょうか?」
「おしまいかもな」
「ん〜もうちょっと何か起きそうな気がするんだけどね」
ちょんっと、試しにシュラインが人差し指で夕日色のクマをつついてみる。
「あ!」
ぴょこん。
つついた刺激なのか、揺れていた双葉がいきなりパッと光の粒子を散らしたかと思うと、突然頭に生えている植物が花を咲かせた。
「え?あ……」
ポン、ポン、ポンと景気よく、光の粒子が散るたびに頭の上の花からさらに小さな花が飛び出して空に舞う。
あっという間に机の周りがほんわりとして赤い夕焼け色に染まった。
「ただの置物かと思っていたわ……」
タマゴが孵った後、興信所まで零と武彦に見せに来てそのままここに飾っていたのだが、まさかこんな変化が訪れることになるとは思ってもみなかった。
あの世界の住人たちは、何度でも自分を驚かしてくれる。
「このことも一緒に報告、かしら?」
シュラインはくすくすと嬉しそうに笑みをこぼし、さっそく手紙の準備に取り掛かった。
事務処理用の便箋と茶封筒では少々味気ない。
「どこかにレターセットなかったかしら?」
「あ、それならこの間こっちにしまっておいたんですよ。待ってくださいね?」
ぱたぱたとスカートをひるがえして別の棚へ駆け寄り、零が抽斗の中から可愛らしいものを見つけ出してきた。
「ん、可愛い。有難う零ちゃん。これを使わせてもらうわね」
パステル調の淡い桜の花びらが散る可愛らしいレターセットは、こちらからの春を伝えるのにちょうどいい。
「あ、そうだ。ね、武彦さん?ちょっとお願いがあるんだけどいいかしら?」
せっかくだから手紙におまけもつけてしまおう。
「一応、俺にも出来ることと出来ないことがあるんだが?」
「大丈夫。武彦さんに無理なことをお願いしたりしないわ」
にっこり笑って差し出したのは、取材用に持ち歩いているデジカメだった。
「これで外の景色と夕日色のクマを撮ってプリントアウトしてもらえると嬉しいんだけど、いいかしら?出来ればうんと可愛い感じで」
「お兄さん、頑張ってください」
むしろこれはお前たちで撮った方が……
そんな台詞をシュラインと零の笑顔に挟まれて飲み込んだ武彦は、しぶしぶデジカメを受け取った。
「……ところでどこにデジカメのデータをプリントできるような文明の利器があるのか聞きたいんだが?」
「あら、その辺は抜かりないわよ?」
「安心してください、お兄さん。シュラインさん、今日はパソコンと一緒にプレインターも持参してくださってるんですよ?」
「………そうか……」
クマのぬいぐるみをいろんな角度から撮影する三十路男の図……ハードボイルドを目指す彼としては少々不本意な状況で興信所内をウロウロと歩き始めた。
そんな彼の姿にくすくすと2人で笑いあうと、零が首を傾げて問いかけてくる。
「あの……少しでもクマさんたちが見つけやすいように冷蔵庫の中身を減らしましょうか?」
「そうね。こちらの手紙が入らないって言うのも困るし。零ちゃん、お願いね」
「はい!」
みっしり詰まった冷蔵庫。その内のいくつかは昼食という形で消費できると思われた。彼女に任せておけば、きちんと整理してくれるだろう。
2人の貴重な協力者を得て、シュライン自身は机にレターセットを広げた。
春の贈り物が確かにこちらへ届いたこと。
それがすごく素敵で驚いたこと。
お土産でもらったタマゴから生まれたクマのこと。
そのクマからさらに生まれた太陽のような花のこと。
お礼だけでは物足りなくて、興信所の最近の出来事を加えてみる。
それから、くま村での楽しかった思い出のこと。
溢れて来る言葉たちを、桜色の便箋にキレイに写していくシュライン。
宛名書きが終わると、封筒に少々厚くなってしまった便箋3枚分の手紙と武彦にプリントアウトしてもらった写真、そして最後に夕日色のクマから生まれた花をさらさらと詰めて封をする。
「シュラインさん、お兄さん。冷蔵庫、けっこう片付きましたよ」
ふんわりと良い匂いを漂わせながら、零がこちらへ戻ってきた。
準備完了。
後は手紙が無事届くことを祈りつつ給湯室へ向かう3人の後を、何かがぽてぽてとついてくる。
「……え?」
「あ」
訝しげに振り向いたそこ視線の先には、夕日色のクマが何気ない顔で歩いているのだ。
クマは頭に生えた花を揺らしながら、とてとてぽてぽてと固まってしまった自分たちを追い抜いて給湯室に向かって勝手に歩いていく。
思わずその動きを目で追ってしまう3人。
長い長い沈黙。
そして。
「置物じゃなかったんだな」
「花を生むだけでもなかったみたいね」
「あ、なんだか私たちを呼んでいるみたいですよ?」
気付けば冷蔵庫に到着したクマが、自分たちに向けてもふもふとした両腕を振っている。
「何をしてくれるのかしら?」
封筒を手に、最初に動いたのはシュラインだった。
「なあに?」
ぬいぐるみと目線を合わせるように屈んで声を掛けてみる。
夕日色のクマがやわらかい手でシュラインの頬をぽふぽふと叩き、その手で今度は冷蔵庫の扉をぽふぽふとする。
「開けたいの?」
こくこく。まるい目でシュラインを見つめ、何度も頷いてみせるクマ。そしてもう一度ぽふぽふと今度は腕を叩いてくる。
「あ、届かないのね?」
こくこく。
「冷蔵庫なんか開けて何がしたいんだ、ソイツ?」
「ん〜何か意味があるらしいことは分かるんだけど……」
そんな言葉を交わしながら、シュラインはちょうどクマの手が冷蔵庫の取っ手を掴める位置まで抱き上げてみる。
ふかふかの手が扉を開いたその瞬間――――
「え?」
いま冷蔵庫にクマのぬいぐるみがみっしり詰まっていたように見えたのだが、はっきりそれを確認するより早く、いきなり横から伸びてきた腕がその扉を閉じてしまった。
「武彦さん?」
「…………」
「何があったんですか?一瞬冷蔵庫の中が青く光ったように思えたんですけど……」
後ろから零が覗き込んでくる。
「…………なんでもないはずだ……」
夕日クマが抗議のためにぽふぽふと武彦を叩いているがそれには一切構わず、彼は深呼吸の後、意を決して自分でその扉を開いた。
「………なんでもない。いつもの冷蔵庫だ」
安堵の溜息とともに閉じる武彦。
腕の中で、夕日クマがシュラインを見上げる。
つぶらな瞳が懸命に何かを訴えるので、もう一度彼に冷蔵庫を開かせてあげる。
「これって」
やはり、さっきのアレは幻覚じゃなかったらしい。
草間興信所の冷蔵庫が、異次元になっている。
しっかり開いた冷蔵庫の前にぴょんと飛び降りると、夕日クマがぽふっとシュラインの足を叩く。それから封筒をさしてまた叩く。
「なあに?……あ、もしかしてこれを届けてくれるの?」
こくこくと頷く夕日クマ。
『くま村の皆様へ』
素敵な魔法の時間をくれた彼らの想いへ溢れるようないっぱいの有難うを添えて、こちら側からあちら側へ。
願わくば、彼らにこちら側の春が届きますように。
やけに胸がドキドキとして不思議な高揚感を伝えてくる……それはとても懐かしい感覚。
「無事に届くといいな」
「なんだか大丈夫そうな気がするんだけど、この確信ってどこから来るのかしらね?」
冷蔵庫のこちら側から、不思議の国へ愛を込めて。
「さてと、そろそろ遅いお昼にしましょうか?」
「賛成だ」
「じゃあ、今こっちに持ってきますね?」
穏やかな春の午後の、そんな優しくあたたかなひととき。
次の日の朝。
夕日色のクマはいつもどおり棚の上にちょこんと座って、ただのぬいぐるみのふりをしていた。
―――――不思議の世界へようこそ。
END
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