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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


黄昏時の……

【受難?】

 黄昏時の美術館。
 白亜の静謐な建物が、緋色のベールを薄く纏って、まだ辛うじて青さを湛えた東の空を背景に、幻のように浮かび上がる。
 強い日差しを避けて作った部屋の中は薄暗く、足下に備えられた照明が、やがて、一つ、二つ、と、明かりを灯す。
 人気はほとんど無く、恐ろしいほど、静かだった。自分の歩く靴音が、うるさいと責めているようにも聞こえて、櫻疾風は、その必要もないのに、叱られた子供のように、首を竦める。
「静か、だなぁ……」
 ここには、まるで、自分しかいないような。
 細い通路を折れて、だが、疾風ははっと立ち止まる。
 一人の女性が、壁に飾られた絵を前に、泣いていた。
「あ……?」
 夕暮れ時に、片隅に掛けられた絵を前にして、涙を流す……長い髪の女。
 それ自体が、まるで、一枚の絵画のように、趣を湛える。
 疾風が普通の男なら、きっと、何かを期待してしまうことだろう…………例えば運命の出会いとか。
 が、疾風は、「普通」ではなかった。その秘密の職業はもちろんのこと、そもそも性格と感覚が、どう考えても、「普通」ではなかったのだ。

「お腹でも壊したの?」

 だから、いきなり、どうしてそういう質問が飛び出すのか。
 色仕掛けも、どきりとするようなシチュエーションも、この消防バカは、素敵にスルーしてしまう。彼の情熱に火を付けることが出来るのは、今のところ、火事場だけなのである。燃えるファイアーマンが、別のことに萌えてくれる日が訪れるのは、とりあえず、天の彼方よりも遙かに遠い。

「あ。違うや。絵の方が壊れてるな」

 悪気は全くないのだが、しかも、何げに失礼である。
 が、櫻でなくても、絵については、誰もが「壊れている」としか評さなかったに違いない…………ちょっと人様とは異なる審美眼の持ち主でない限りは。
 それは、美術館に飾ってあるから、辛うじて「絵」だと判別できるような代物だった。
 例えて言うなら……そう……「ゴッホにピカソを足してマティスで割りセザンヌとゴーギャンテイストを加えた上、ピサロライクな」「滑稽奇天烈奇々怪々な」一品だったのだ。
 ちなみに、これでも、控えめに評した結果である。
 
「あ。名乗るのが遅れたけど。僕は櫻疾風。消防士。全然怪しい者じゃないから」

 いや。現時点で、かなり怪しい。怪しいのだが……彼女は、にっこりと微笑んだ。春日向のように柔らかい笑顔だが、櫻疾風、決して騙されてはいけない。
 彼女は、友人をして「笑っている時が一番やばい子」とまで言われている微妙に危険人物なのである。知らぬが仏でフレンドリーに話していたら、どんな小悪魔な一杯を食わされるか、知れたものではない。
「この絵の蒼色……」
 女性は、初瀬蒼華(はつせしょうこ)と名乗った。
 「しょうこ」は、「蒼い華」と書くのよ、と、教えてくれた。
 こんなに良い雰囲気なのに……やっぱり、バックに浮かぶ花模様は、せいぜいタンポポが限度である。さすが、あだ名に「ラスカル」と「ポン太」を持つ男だ。櫻疾風。
「この絵の蒼、どう見えますか?」
 蒼華が、尋ねる。
 ここで気の利いたことが言える疾風ではない。彼は、あくまでも自分の心に忠実に、素直に、感想を述べた。
「……ぶちまけた青色」
 素直さは美徳の一つだが、そりゃないだろう……。
「本当はね、赤にしたかった色なの」
 蒼華が、また、うるると涙ぐむ。突っ込みを入れる気配はない。疾風もマイペースだが、彼女もなかなかのものである。ある意味、良いコンビではある。
「でも……でもね。欲しい赤絵の具が、とても高価で。買えなかったの。仕方なく、それで、青色を塗ったら、入選しちゃったの……」
 どんなに気合いを込めて赤を塗っても、これまで、鼻であしらわれていたのに……。
 まぁ、人生そんなものだろう。
 赤を塗るはずだった絵の題名を、後からこそりと「黄昏」から「黎明」に変えたことなど、サイコメトリーの持ち主でもなければ、わからない。終わりよければ、万事、めでたしめでたしなのである。
「あたしにはわかるの。あたしには、その力があるから。なんかね、わかっちゃったら、妙に悲しい気分になっちゃって……」
 そう言って、蒼華は、まずいことを言ってしまったと、辺りを見回す。黙り込んで、俯いてしまったので、櫻は……彼が一生涯で数えるほどしか口に出来ないであろう「気の利いた台詞」で、彼女を慰めてみることにした。
「貧乏が運に味方することがあるなら。僕もいつか失敗が味方して、ヒーローになれる日が来るかも知れない……」
「そうなの?」
「うん。貧乏でなければ、きっと、この絵は、絶対に入選なんかしなかったんだ。だって、このものすごい構図で、情熱の赤なんて塗ったら、どんなことになると思う? バックスファイアも吃驚だよ」
 絵のことは、わからないけど。
 疾風は続ける。舌の滑りが、徐々に良くなってきていた。
 火事場の危険を語る以外で、彼がこんなに饒舌になるのは珍しい。
「わるいけど、こんな、ゴッホにピカソを足してマティスで割りセザンヌとゴーギャンテイストを加えた上ピサロライクにして滑稽奇天烈奇々怪々な絵、普通に考えたら、入選なんかしないと思うな」
 と、そこまで言った時、うおぉぉぉん、と、世にも不気味な泣き声が、二人の背後から響き渡った。
「え?」
 驚いて、振り返る。
 浮浪者……いや失敬……限りなく浮浪者に見た目近い男が、猛然と、その場を逃げ出した。

「どうせ……どうせ、俺には才能なんか無いんだあぁぁぁ!!」
 
 どうして、こうもお約束の事態が起きてしまうのか…………逃げた男こそが、散々な批評を下された、貧乏画家だった。
 あの嘆きようでは、自殺でもしかねない。疾風は焦った。自殺なんかされたら、永遠にヒーローへの道は閉ざされる。保護はお巡りさんの仕事で消防士の役目ではないが、ともかくも、男を確保しなければ!
 と、言うわけで、疾風は走る。彼はかなり身体能力が高いはずなのに、逃げる男のスピードは異様だった。疾風と互角に走っている。
 画家ではなく、なぜランナーを目指さないんだ…………と、疾風が遠目で考えたのも、無理はない。
「追いかけっこ、頑張ってねー」
 そして、蒼華の方には、手伝う意思は毛頭ないらしい。
「だって、消防士さんが追いつけない人、あたしが捕まえられるはずないもの」
 いや、全く正しい意見なのだが…………その微笑が悪魔に見えて仕方ないのは、気のせいか?
 そして、一時間と三十分後、逃げた男は、捕らえられる。
 櫻疾風の手ではなく、迷惑なことこの上ない不毛な追いかけっこを始めた二人に眦を釣り上げて、すぐさま110番をした、短気ながらも賢明な美術館職員が呼んだ、お巡りさんらの手によって。
「何をしているんだね。君は」
 お巡りさんの質問の矛先は、当然、櫻疾風に。
「え?」
 僕ですか?
「君以外に誰がいる!」
 本日はお暇だったのでしょうか…………お巡りさんたち。
 なぜか、次から次へと、集まる集まる。三台のパトカーと七人の警察官に取り囲まれて、我が道を突き進む疾風の顔にも、ほんの少し、青色の縦線が落ちた。
「大騒ぎですねー」
 遠巻きに、まるで第三者のような、初瀬蒼華。
 わかっていてボケるのと、そもそもわからないフリをするのは、彼女の十八番。本当にやばくなったら助け船でも出してやるが、櫻疾風は、幸いにして、警官に囲まれて簡単にへこむような男ではない。
 うん。大丈夫……とりあえず見守ることにした、彼女。小悪魔の本領大いに発揮である。
 三十分ほど、きゅうきゅうとお巡りさんに絞られて、やがて、櫻疾風は開放された。
 微妙に疲れた顔の、この新しい友人に、絞られていた間に買ってあげた缶ジュースをはいと渡して、蒼華は、やはり、にこりと微笑みかける。
「大変でしたねー」
「大変だった……」
「でも、画家さん、自殺しないで良かったですね」
「僕の情熱が……」
「いえ。それは通じてないと思います。ええ」
「初瀬さん…………キミって……」
「あ。蒼ちゃんでいいですよ? みんなそう呼んでいますし」
「蒼ちゃん…………ひたすら見守っていないで、手伝って欲しかったな…………とか、思うんだけど」
「消防士さんが、そんな弱気じゃ駄目ですよ! ファイト!!」
 櫻疾風は、ファイトとか、ファイアとか、とにかくそれ系の言葉に弱いらしい。ぐっ、と拳を突き上げた蒼華につられるように、瞬く間に元気になった。
 そう。日々火事との戦いのファイアーマンに、最も必要とされるものは、紛れもなく、この打たれ強さである。
 いや、懲りるという単語を決して知らないわけではなく……一見して鋼鉄の心臓の持ち主に見える疾風にも、ちゃんと黄昏れたい時はあるのだ……例えば、期せずして火事場を拡大させてしまった時とか……まぁ、それは、置いておいて。
 今は、立ち直りの早さが、幸いした。



 なぜなら。
 




【翌日】

 消防署にて。
「櫻ぁ。お前、昨日、警察呼ばれたんだってな」
 どうして知っているのですか。上司様。
「報告書、よっぽど書きたいみたいだなぁ?」
 いえ、結構です。
「このバカタレがぁぁぁ!!」
 
 先輩たち曰く。

「また何かやったのか? 櫻……」
「不審者と間違われて、警察呼ばれたんだと」
「火事場以外でも、何かやらかすようになってきたな……あいつ……」
「事件を呼ぶ体質が、吉と出るか凶と出るか……」
「凶だろ」
「……断言かい」



 頑張れ。櫻疾風!
 ヒーローまでの道のりは、限りなく、果てしなく、遠いけど……。