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------<オープニング>--------------------------------------
「ちょっと、さんした君!」
と碇麗香の声に呼ばれて、デスクへと向う。彼女がこの口調で自分を呼ぶ時には、無理難題を吹っかけられる時と決まっている。
「これ、読んで頂戴」
と言って渡された手紙の文面だけを見て、三下は絶句した。
「Hello my name is jakoburefu」
何だ、これは?
「へ、ヘロウ……。いや、ハロウ。まいねーむいずじゃこぶれす?」
目を白黒させて汗を流しながら、流暢とは程遠い発音で三下は最初の一文を読み上げる。 「ヤコブレフでしょ? 何、読めないの?」
鋭い視線が突き刺さる。三下忠雄は汗を拭きながら、恐る恐る頷いた。
「む、無理です。英語なんて読めませんよ。勘弁してください」
「まったく、何やらせても役に立たない奴ね」
碇麗香本人は呟いたつもりであろうが、どうひいき目に見ても聞こえないように言っている風には思えない。
すがる様な目つきで上目遣いに自分を見る部下に、碇麗香は溜息をついた。
「いいわ。誰か英語の出来る人間を連れて行きなさい」
「へ?」
と三下忠雄は鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔をした。
「だから、チャンスを上げるからこの依頼をきちんとこなして見せろと言ってるの。誰でもいいわ、さんした君、あなたがアシストするの。分かっているわね?」
「……はい」
という事は、やはりこき使われるのだろうか?
「もう、アポイントメントは取ってあるから、時間通りにその場所に行きなさい
分かったわね?」
情けない表情のままの三下忠雄は、恐る恐る、聞く。
「あの……怖い事は起きませんよね?」
碇編集長はにっこりと笑った。
「ええ。この依頼を失敗させたりしたら、保証の限りじゃないけれどね」
彼女の笑顔は、間違いなく女神の贈り物だった。ただし機嫌を損ねたら最後、悪魔とは比較にならない罰を受ける羽目になるだろう。
三下忠雄は冷汗を拭いながら、同行者を探す為に碇編集長の前を後にした。
手紙の内容です。
「こんにちわ。私の名前はヤコブレフといいます。ロシア人ですが、今はアメリカに住んでいます。突然ですいませんが、どうか私の願いを聞き届けては頂けないでしょうか?
私は以前、日本にいた事があります。捕虜として。ずっと昔の話です。もう誰も覚えていない昔、戦争があった頃の話です。
最近、夢を見ます。当時の夢です。恨みやつらみの夢ではありません。ただ、たった一つの場所が繰り返し繰り返し夢の中に現れてくるのです。大きな樹のある場所です。見事な花を咲かせる、あれは桜の花でしょうか……。どうかその場所を探して頂きたいのです。私も老い先短い身。最後になってこんな夢を見させるのは何なのか、何故こんな夢を見たのか。それを知りたいのです。よろしくお願いします」
<まどろむ世界>
「ここです」と三下忠雄に言われて、その老紳士ヤコブレフ氏は大きな洋館を首を上げて眺めた。今回の依頼を引き受けてくれる人物にあって欲しいと連れて来られた場所だった。大きな館だ。
少々の不安を抱きながら門をくぐる。三下忠雄はここで待っているらしい。人と会うのが得意ではないからだと理由を告げられたが、本当の所は分からない。
屋敷に入り、奥の部屋へと通される。
重い木製のドアを押し開けると、天を突くほどの巨大な数多の書棚と、そして本が並んでいた。ヤコブレフは思わず溜息をついた。ものすごい蔵書量の様に思えたからだった。それも直ぐに中断されられる。地面が揺れたように感じられたからだった。
地響き?
書棚に振動が伝わり、本が微かに揺れる、擦れて乾いた音を立てる。何か大きな物体が近付いてくる気配。本棚の作り出す陰とは違う影が通路に差して、ヤコブレフは息を飲んだ。何か大きな影だった。少なくとも人間のものとは思えない。項の辺りを寒い物が這い登るような感覚。一瞬頬が引き攣った。
「あら、いらっしゃいましたのですね」
声と共に、愛らしい緑の眼差しをした少女の顔が本棚の影、ヤコブレフの見上げる位置に、覗いた。続けて現れた姿に、思わず目を見張る。
少女の顔のある位置はヤコブレフの頭のある位置よりずっと高い。日焼けしたしなやかな肢体、そして彼女の上半身に続く姿は獣の物だった。獅子の如き隆々たる体躯に愛らしい少女の上半身が融和している。
明らかに人間ではなかった、本来ならば次に取るべき行動を選択する余地はないはずだ。しかし、不思議とヤコブレフには目の前に現れた少女が極当たり前の存在であるような気がしてしまって、一瞬前まであった緊張感ですら何処かへと掻き消えてしまっていた。
無論それが彼女、ラクス・コスミオンの能力である事など知ろうはずもない。
人間の世界では存在し得ない彼女が知識の探求の為に社会に溶け込む為の能力だった。よほどの事がない限りは彼女の存在を誰しもが何事もないかのように受け入れる。ほとんど人前には姿を現さない彼女ではあったが、必要な時にはこの能力を使う事を躊躇う事はない。
知識の守護者として知られる彼女の一族がこうやって人間界にいる事ですら、珍しい。人前に姿を現す事は禁じられてこそいないが、望んでそれをする物もいない。彼女、ラクス・コスミオンは特例というよりも異例に近い存在だった。
知識を護っていくだけならば、何も人間の世界に出てくる必要はない。それでも彼女が出てきたのは、つまるところこの老人と会っている事が理由そのものといえた。
今の世界を支配する人間。やがては知識と存在の痕跡だけを残して消えていく儚い存在であろうが、生きている時を同じくするこの種族に彼女は知識以上の興味を持った。彼らは言わば生きた本のような物だと思う。
個人個人の考え方そのものが、本を記すように、まるで一冊の本であるかのように感じられる。
「お話は大体分かりました」
微笑みながら、ラクスはしばしの間、美しい緑玉石の色彩を持つ瞳を閉じた。
ヤコブレフという名の人間の老人の話を聞き、彼女はこの老紳士の人生の物語のいくつかを知った。
捕虜としてこの国にいた時の事。国へと帰り、今に至るまでの様々な出来事の一端。だがその物語の中には老紳士の夢に現れたという桜の大樹の手がかりはないように思えた。
それはそうだろう。もし直ぐにでも思い出せるのであれば、わざわざ誰かに頼む必要もない。忘れいてるのか、あるいは忘れようとしてしまっているのか。それすらもよく分からないのだ。
「何故なんでしょう……」
ラクスが疑問に感じるのはそれだけではない。気のせいだろうか? この老紳士、ヤコブレフ氏は自分でも無意識の内に、あるいは故意に、何かを思い出さないようにしているように感じるのだった。理由はわからない。
「やっぱり、方法はこれしかないのでしょうね」
ラクスは表面が磨き上げられた、美しい光沢を放つ黒い球体を取り出した。彼女が黒曜石より作り出した特別な物だ。
漆黒の闇の中に青白い光が炎の様に揺らめいて見える。
当初より、ラクスはこの老紳士と行動を共にする気はない。普段から外界へと出ないこともないわけではないが、今回は同行者が一人いると聞いている。この老紳士一人ならまだしも、男性の苦手な彼女にとってもう一人の同行者の存在は耐え難い。出来ればここを動かずして解決策を見出したかった。
話を聞く中で何かヒントが得られればよかったのだが、どうにも表層的なことだけでは埒があきそうもない。幸い、互いに言葉を交し合った事で多少なりとも通じ合う事が出来た。例え自分の姿を偽る為の術をかけているとはいえ、この老紳士がラクスに感じている信頼感は偽りとは思えない。
「それでは、これから少しだけヤコブレフ様の記憶の一部を見させていただきますが、よろしいでしょうか?」
ラクスの言葉に、ヤコブレフは表情を和ませた。話の途中でラクスはこれから行う事についても言及していた。
記憶の一部を探り、夢を見た理由、そして桜の樹のある場所を特定する。それが目的だった。聞いた話では、ヤコブレフのいた収容所は東京にあるのではないという事だった。一瞬、その場所をまでも探さなくてはならないのかという気にもなったが、地名だけは彼が覚えていた。
石川県。当時軍の要所である軍港のあった場所だった。
おおまかな場所だけでも有難い情報ではあったが、他の事は一切分からないという。既に何十年も前の記憶だ。しかも、心身共に疲弊した状態での記憶なのだ。むしろ地名だけでも覚えてくれていただけましと言えた。
だがたとえ記憶の表層で忘れていたとしても、鮮烈な記憶ならばずっと残っているはずだ。何かの理由で心の奥底にしまい込まれた記憶であっても、呼び出す事は可能だろう。
テーブルの上に置いた黒曜石の珠を見るように言って、ラクスは黒い珠の表面に意識を集中した。青白い炎が一瞬、微かに揺れる。ヤコブレフ氏との意識の同調は良いようだ。これなら大丈夫だろう。
同じようにして、ヤコブレフもそれを見つめる。ラクスと違ってあまり集中しては見ていない。ぼんやりと眺めているといった程度だ。それでいい。
「桜の樹を見たという事だけを思い出してみて下さい」
とラクスは言った。必要なのは一番鮮明に覚えている事を調べ出す事だった。
他の記憶はそれに付随して甦ってくるはずだ。
自然にヤコブレフ氏の瞼が下り、それに呼応するようにして黒曜石球の中の炎がひと際大きく揺れて乱れたかと思うと、一つの像を結んだ。
「……?」
それは見事な桜の大樹だった。風に吹かれて散る花弁があたかも渦を巻くようにして大樹そのものを取り囲む。薄紅色の花弁を纏った女王のような華々しさだ。
しかし……。
「おかしいですね」
それは、絵、だった。本物の桜の樹ではない。これはヤコブレフ氏が米国で足を運んだ個展で見た絵の想い出だ。その証拠にいくつもの別の絵がかかっているのが見える。彼の側にいるのは、当時の恋人だろうか?
彼女の肩に手を回す若かりし頃の氏の姿。彼は一体何を考えているのだろう? 表情が険しい。決して彼女からは見えないようにしているが、素晴らしい絵なのにもかかわらず見ている方はどこか辛そうだ。
奇妙なまでに、あまりに美しいその絵画の印象だけが華やかで他は曖昧だった。
ラクスはもう少し桜の、絵を含めた、姿について記憶の中を探った。
今度は、家の中。広い部屋だ。家族の姿。席に着く者、立って談笑している姿。ダイニングルームだろうか? そこの壁に掛けられた絵。桜の樹。
また「絵」だ。
おかしい。
いくつかの記憶を探ってみるが、どうしてもその絵にたどり着いてしまう。いつになっても本物の桜の樹が見えない。理由はわからないが、ヤコブレフ氏は多分意図的に桜の樹の事を忘れようとしているように、ラクスには思えた。
奇妙な話だ。
碇麗香の話では、氏から手紙が届いて桜の樹の事を探して欲しいと依頼があったという。それなのに本人には、まるでその事を隠したがっている感じさえある。少なくとも記憶の中では。
そう言えばと思う。聞いた手紙の内容では桜の樹は収容所の中で見たというようなことが書いてあった。となると、先にそちらを探した方が早いかもしれない。
もう一度、黒曜石の珠に意識を集中させる。
しかし数秒後、ラクスは不快な表情を浮かべて、目を開ける事になった。
あまり外に出る事もなく知識の収集に歳月を費やしてきた彼女であったが、戦争の悲惨さは耳にしている。実際に見た事はないが。
実際に知るのは戦争そのものの経緯だけである事がほとんどで、今の様に一人の人間の感じた戦争という物は、初めて目にした。
戦場での恐怖を超えた狂気の時間。いつ殺されるかもしれない、いつ死ぬかもしれない。泥水をすすって狂気から逃れようともがく人間の限界の姿を、彼女は想像したこともなかった。
彼女の一族の命は長い。人間にしてみれば永遠とも思える時間だろう。あまつさえ擬似生命体をすら創り出す事のできる自分から見れば、人間の存在はさほど大きくも思えない。だが、生きる為にもがくという観点だけを見れば、人間は彼女達の種族より強い意思を持っているのかもしれない。短い命だからこそ、鮮烈なまで、燃え盛る炎の様に、激しく生きることを望むのかもしれない。
収容所での生活も酷いものだった。同じ人間同士でありながら、酷い扱い方を他方に強いる。これも人間ならではといえるだろう。彼女にしてみても初めて見る光景だった。決して気分のいいものではない。人間の知り合いもたくさんいるが、彼らにも全てこういう一面があるのだろうかと思ってしまう。
「ふぅ」とラクスは珍しく溜息を漏らした。記憶の探査はあまりしたことがないが、今回はどうにも今までの経験とは違う。全ての記憶がどうしてこうも否定的なのだろう。まるでこの老紳士は自分の人生を否定しているようではないか。
何よりも肝心な情報が一つも出てこない。見えるのは感情や感覚、痛みや苦しみという物が形になって、映像となって刻印された物ばかりだ。
時折見える景色の断片もほとんどが収容所の中の物ばかり。そして空。疲れ果てて倒れて見上げたもの。それが空だったのだろう。後は何もない。
ラクスはもう一度溜息を付いた。そして熟れた棗を思わせる艶やかな赤紫色の髪を静かに揺らして首を振った。これでは埒があかない。
その様子を見るヤコブレフが不安げな顔をする。
おそらくこれ以上記憶を探っても結果は同じだろう。となればやはり出向いていくしかないのだが……。
少しの間考えて、ラクスは老紳士にちょっとだけの間待つように伝えると奥の部屋へと足を向けた。
<彼の地へ>
「どうですか?」
と言う声に、ヤコブレフは言葉なく首を振った。
東京より空路を経て北陸へ。一度は踏んだ事のある地だった。しかしそれはもうずっと昔の事だ。
「申し訳ありませんが、あの頃とはあまりに違う。建物も、人も、何もかもがあの頃とは違う……」
老紳士は深い溜息をついた。
戦後、急速な復旧を遂げたこの国では、街そのものが大きく変貌してしまう事は珍しいことではない。東京のような大都会でなくとも同じだ。
ましてや曖昧な記憶だけが便りでは、何をどう探しようもない。
街並みを見れば少しは何かが思い出されるのではないかとラクスは思ったのだが、どうやらあてが外れたらしい。
「どうしますか?」
老紳士の肩口に乗っかっている小さなキルト人形を覗き込むようにして、三下忠雄が問い掛ける。その声に、キルト人形、ミニラクスが文字通り跳ね飛んだ。美しい響きを持つ短い悲鳴の後、今度は美しくない悲鳴が辺りに轟いた。
ラクスの形をディフォルメしたキルト人形から閃光が迸り、近くに寄った三下忠雄を正面から直撃して跳ね飛ばす。三下忠雄は燻った煙を上げながら、道路にのびた。これで三度目である。
最初は驚いていたヤコブレフ氏も、今回は道路に無様な姿をさらす三下忠雄を呆れて眺めている。
「しかし……困りましたね」
犀川にかかる橋の欄干に寄りかかるようにして、ヤコブレフ氏は川沿いに咲き誇る桜の木々を眺めていた。その視線の意味を図りかねて、ラクスは一人呟く。
県内でも有数の河の流れは緩やかで、うららかな春の陽気とも重なって、道行く人々に静かなせせらぎの音を聞くような安らぎを振りまいていた。河岸の両脇には桜の木々が立ち並び、県内の名所ともなっている。折りしも花見のシーズンだ。平安の昔より、それよりずっと以前から、この国で親しまれてきた行事だった。
大人も子供もない。誰も皆、一年に一度咲くこの花を眺める。日本独特の習慣だった。
「美しい光景だ」とヤコブレフ氏はポツリと呟いた。
「私の孫娘がこの国の若者と結婚してね」
ラクスの脳裏に、ふっと桜の絵画が甦った。ダイニングルームに飾ってあったあの絵だった。
「彼と分かり合うまで、随分と時間がかかったよ」
と言いながら口元に浮かべた微笑には、どこか自嘲めいた影があった。ふとラクスの脳裏に浮かぶ光景がある。
日本人の若者と激しく言い争うヤコブレフ氏の姿だった。愛する孫娘の結婚相手として、彼はこの若者を認めたくはなかった。いや、彼個人をではない。日本人を認めたくはなかったのだ。ラクスにはそれが分かる。
「日本人だったから、ですね」
ラスクの声に、ヤコブレフ氏は何も答えなかった。黙ってじっと桜の並木を見つめている。ようやく意識を取り戻した三下忠雄が起き上がるのに気がついて、「下へ降りましょう」と声をかける。
川沿いへ降りていく途中、その肩に揺られながら、ラクスは垣間見たヤコブレフ氏の心の中を再度思い返した。
彼の胸中を占めているのは強い後悔の想いだった。それが彼の記憶を変容させているものの正体なのだ。それは分かった。
桜の木々を見た時、大きな心の揺らぎがあった。いや木々だけではない。桜の木々を見上げる無数の人達、多くの日本人の姿を見た時、氏の心の中にはっきりと後悔の強い想いが甦っていた。
でも何故?
どうして桜の樹を見て?
犀川の河岸には芝生が敷き詰められていて、そこにはビニルシートや敷物などが所狭しと広げられている。これから行われるであろう花見の場所取りだ。ミニラクスを肩口に乗せたヤコブレフ氏はそれらを避けて歩きながら、立ち並ぶ桜の木々の中でもひと際立派な一本の下に立った。無言でそれを見上げる。
「あの子の結婚式に、私はこの国へは来なかった。来られなかったんだよ」
「どうしてですか?」
氏の呟きに、ラクスは静かに聞き返した。
「忘れたつもりだった。戦争の事は。あれは辛い過去だ。多くの仲間が死に、友が死んだ。戦争でも、収容所でも……」
またラクスの脳裏に桜の樹の絵画が浮かぶ。
「桜は収容所で?」
「……そうだ。私達はいつも死の間際だった。だが、窓から見えた桜の樹だけが私達に生きる力を与えてくれた。一年に一度だけ咲く花。一瞬だけの命を誇らしく咲かせる花。私達は、あの樹に誓った。誇りを持って生き続けて見せると」
しかし……。
と、ヤコブレフ氏は言葉を詰まらせた。
実際はどうだ。長い人生を終えようとしている今となっても、まだあの頃の事が忘れられない。戦争と死。この国で受けた仕打ち。死んでいった仲間の顔が今でも目に浮かぶ。今の今までこの地を踏めなかったのは、逃げていたからではないのか? 自分が過去を未だに受け入れていないからではないのか?
まだ、この国に対する恨みと怒りを抱き続けているからではないのか?
そんな想いを抱いて、老紳士は目を細めた。
ラクスはそんな彼の心の動きが感じられた。彼女の意思を宿したこの人形は、老紳士の心の動きを知る為にある程度の同調をさせている。それ故にわかってしまうのだ。
だが、分からない事もある。
人間に比べれば遥に長い寿命をもっている彼女には、まだヤコブレフの感じるような命に対しての感覚がない。同族の死にいうものに直面した事もなければ、大切な物を死によって失うという経験もした事がない。だらこそなのだろう。人間というのはこうまで生きるという事に対して真摯な生き物なのだろうかと思ってしまう。寿命が短いからこそ、互いに生に対しての強いつながりを感じるのだろうかと。
であれば、何故人間は互いに争うような事を、戦争を行うのだろう?
資料を読み、知識としていくつもの歴史を見てきたが、答えはわからない。
しかし一つだけ、彼女にも分かる事はある。それはこの老紳士が求めている物だ。
ラクスは静かに目を閉じた。
ヤコブレフが求めている物。そしてこの国に来られなかった理由。それを今一度見せる為に。
「オオ……」というヤコブレフ氏の感嘆の溜息に引き続いて、「ひぇ〜」と言う三下忠雄の情けない声が聞こえる。
満開だった桜の樹に更なる花が咲く、咲き乱れる。かなりの老木のはずであったがまるで時を遡るかのように雄々しく枝を張り、力強い姿となって行く。
「Oh My God……(信じられない) It’s real (あの時のままだ)」
震える声に後押しされて、彼の頬を涙が伝う。ヤコブレフは数歩よろよろと前へと進むと、静かに膝を折った。頭を垂れ、祈るようにして手を組み合わせる。
「私は許されるでしょうか。あの時の誓いを全ては守れなかった。それでも許されるでしょうか?」
戦争、そして収容所。死というものと向かい合わされた日々の中で、もっとも大切な物を失いかけた時、彼らは命の尊さをこの国で桜の樹に教えられた。生きるという事、耐え忍ぶという事。一年に一度だけ、花を咲かせる大樹に見立てて、彼らは苦しみを乗り越えた。そして全てを許したつもりだった。
だが、恨みや怒りは簡単には消えない。
彼は後悔していた。孫娘の結婚式に出てやれなかった事に。自分の中にずっと隠れていた怒りと恨みの心が、過ちを起こさせた事を。それ以外にも、人生に於いて全てが正しいと思えた事だけではない。それを恥じてもいた。だからこそ、この地を踏めなかった。
彼らを救ったこの樹に合わせる顔がなかった。過ちを知られる事が恐ろしかった。
「……主よ」
その呟きに応えるように、風が吹いた。ラクスも驚く。これはヤコブレフ氏の心の中の風景を幻出したものであるはずだった。風が吹くなどありえない事だ。
花弁が舞う。風にもてあそばれ、渦を巻き……。
そう、あの絵画の様に。
息を飲んで、ラクスはその光景を見守った。これが神の奇跡だとでもいうのか?
「ふぇ……」
突然背後でなんとも表現し難い奇妙な吐息らしき物が聞こえた。嫌な予感がして、ミニラクスは振り向いた。
「ふぇッ、クショイッッ!!」
という音と共に、大量の唾と鼻水が全身を濡らす。
「あっ! 申し訳ありませんッ!!」
くしゃみの主である三下忠雄が慌ててクシャクシャのハンカチを取り出してミニラクスに覆い被せる。拭き取ろうと手を触れたその時、
瞬間、悲鳴が空を切り裂き轟いた。
甲高い悲鳴がこだまする中、三下忠雄が遥か空の高みへと、重力の楔をものともせずに猛スピードで飛んで行く。
「あ〜〜〜れぇ〜〜〜〜ッッ!!」
という情けない声が虚空に消えて行き。一瞬、キラリと光ったようにも見えた。
「……あっ!」
突然正気を取り戻して、ラクスは息を止めた。そしてゆっくりと、老紳士を振り返る。
最初に目に入ったのは彼の姿ではなく、花弁が全て吹き飛んだ挙句、ほとんどの枝が折れ曲がってしまい、少しだけ傾いているように見える、現実世界の桜の樹だった。
それが彼女の目の前で、ヤコブレフ氏の目の前で、嫌な音を立てながら根元から折れて派手な音を立てて、地面に転がる。
ラクスは見たくはなかったが、義務感もあって老紳士を見る。
見開かれた目が焦点を失いつつあった。下瞼がぴくぴくと痙攣している。
「あ、……あの」
と声をかけようとしたラクスの視線の先で、彼の黒目が後退した。白目を剥いて、祈った姿勢のまま口角から泡を吹きながら、仰向けにゆっくりと倒れてしまう。
ラクス・コスミオンの悲鳴が響いた。
<そこは地獄の何丁目?>
「随分と遅い帰りね、さんした君?」
ほぼ一ヶ月ぶりに姿を現した三下忠雄に、碇麗香は冷たい視線を向けた。
げっそりとやつれて生気の欠片もない彼の姿は、見慣れた者であっても容易に誰かがわからないほどだった。
「どこへ行ってたのかしら?」
「よ……よく、わかりません……。く、暗くて……寒い、所、でした」
呂律が回り切らない口調で喋る部下に同情の欠片もない視線を投げかけながら、碇麗香は「それで、記事は?」と聞いた。
無論聞くまでもない。事の次第は全て聞いていた。
ヤコブレフ氏は家族の下へと運ばれていった。ほとんど自失してしまっている状態だそうだ。可哀想に。
ラクス・コスミオンは責任を感じてしばらく氏に付いていると言ったが、それは遠慮してもらった。彼女はどちらかというとその手の事には向いていない気がする。別の人間をあてた方が良いだろうという事で、手配をしてある。
そして問題は、この事態を招いた目の前のどうしようもない部下の事だった。
「……へ?」
「……へ? じゃないだろ! この役立たずッッ!!」
三下忠雄。彼がどこへ飛ばされてどのように戻ってきたのかは定かではない。
だが、碇麗香に踏みつけられている彼にとっては、どこであろうと安息の地でない事は確かである。
〜了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1963 / ラクス・コスミオン / 女 / 240歳 / スフィンクス】
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■ ライター通信 ■
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ライターのとらむです。依頼をお受けいただいてありがとうございます。
長らくお待たせしまして、申し訳ありませんでした。
お待たせした分を愉しんで頂けたなら幸いなんですが……(汗
ラクス・コスミオンさんの魅力を十分に引き出す事が出来たでしょうか?
また機会がありましたなら、是非よろしくお願いいたします。
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