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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


「桜の咲く頃」
------<オープニング>--------------------------------------

 「ちょっと、さんした君!」
 と碇麗香の声に呼ばれて、デスクへと向う。彼女がこの口調で自分を呼ぶ時には、無理難題を吹っかけられる時と決まっている。
 「これ、読んで頂戴」
 と言って渡された手紙の文面だけを見て、三下は絶句した。
 「Hello my name is jakoburefu」
 何だ、これは?
 「へ、ヘロウ……。いや、ハロウ。まいねーむいずじゃこぶれす?」
 目を白黒させて汗を流しながら、流暢とは程遠い発音で三下は最初の一文を読み上げる。 「ヤコブレフでしょ? 何、読めないの?」
 鋭い視線が突き刺さる。三下忠雄は汗を拭きながら、恐る恐る頷いた。
 「む、無理です。英語なんて読めませんよ。勘弁してください」
 「まったく、何やらせても役に立たない奴ね」
 碇麗香本人は呟いたつもりであろうが、どうひいき目に見ても聞こえないように言っている風には思えない。
 すがる様な目つきで上目遣いに自分を見る部下に、碇麗香は溜息をついた。
 「いいわ。誰か英語の出来る人間を連れて行きなさい」
 「へ?」
 と三下忠雄は鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔をした。
 「だから、チャンスを上げるからこの依頼をきちんとこなして見せろと言ってるの。誰でもいいわ、さんした君、あなたがアシストするの。分かっているわね?」
 「……はい」
 という事は、やはりこき使われるのだろうか?
 「もう、アポイントメントは取ってあるから、時間通りにその場所に行きなさい
分かったわね?」  
 情けない表情のままの三下忠雄は、恐る恐る、聞く。
 「あの……怖い事は起きませんよね?」
 碇編集長はにっこりと笑った。
 「ええ。この依頼を失敗させたりしたら、保証の限りじゃないけれどね」
 彼女の笑顔は、間違いなく女神の贈り物だった。ただし機嫌を損ねたら最後、悪魔とは比較にならない罰を受ける羽目になるだろう。
 三下忠雄は冷汗を拭いながら、同行者を探す為に碇編集長の前を後にした。

 手紙の内容です。

 「こんにちわ。私の名前はヤコブレフといいます。ロシア人ですが、今はアメリカに住んでいます。突然ですいませんが、どうか私の願いを聞き届けては頂けないでしょうか?
 私は以前、日本にいた事があります。捕虜として。ずっと昔の話です。もう誰も覚えていない昔、戦争があった頃の話です。
 最近、夢を見ます。当時の夢です。恨みやつらみの夢ではありません。ただ、たった一つの場所が繰り返し繰り返し夢の中に現れてくるのです。大きな樹のある場所です。見事な花を咲かせる、あれは桜の花でしょうか……。どうかその場所を探して頂きたいのです。私も老い先短い身。最後になってこんな夢を見させるのは何なのか、何故こんな夢を見たのか。それを知りたいのです。よろしくお願いします」

<風と共に……>
 普段の行いが悪いのか、あるいは碇編集長の呪いなのか、結局誰一人として協力してくれる人間のないまま、三下忠雄はほとんど言葉の通じない老紳士を連れて、空港にまでやってきていた。
 「誰にでもできる簡単英会話」を片手に、何度も「What?」と言われながら、どうにかヤコブレフ氏の行きたい先だけを聞き出す事が出来た。しかしそこでふと碇麗香から渡されていた物を思い出し取り出して見る。
 飛行機のチケットだった。行き先は石川県。小松空港。
 そう、彼の努力はまったくもって無駄だったのだ。
 三下忠雄は取材を始める前から憂鬱な気持ちになって頭を抱えた。言葉も通じないでは何をどうしていいものやら……。
 ちらりとヤコブレフ氏を見る。彼も心なしか不安そうだ。
 
 「Mr.ヤコブレフ!?」
 突然聞こえた鈴の響きと聞き間違うような涼やかな声に、ヤコブレフだけでなく三下忠雄も振り向いた。
 声の主が駆け寄ってくる。スラリとした長身の男性のようだった。白を基調とした品のある衣服と鮮やかな黄金色の短い髪が光を反射して輝いているようにも見える。
 「やはり、Mr.ヤコブレフ。お久しぶりです、蒼王翼です」
 衣服とはまた違う白磁の肌を微かに上気させて、彼は愛らしいブルーの瞳を躍らせて笑う。
 「はて? どこかでお会いしましたかな?」
 いきなり声をかけてきた品格漂う若者に、ヤコブレフは首を傾げた。それを見て、彼は「ああ」と頷く。
 「ミハイルさんにはお世話になっています。スポンサーとしていつも僕達を力強くバックアップして頂いて」
 優雅な動作で腕を振りながら、彼は一人の人物の名前を挙げた。そして両手でそれぞれ顔の上半分と下半分とを隠してみせる。その瞬間、ヤコブレフ氏の顔が驚きと笑顔とを同時に表現した。
 「オゥ。ミス・ツバサ!」
 「right!」
 互いに手を差し出し握手と抱擁とを交わす二人を見ながら、三下忠雄はひとつの事だけを耳に止めていた。確かに今「ミス・ツバサ」と言ったような。
 「あ、あのぅ?」
 「……君は?」
 声をかけようと手を伸ばした三下忠雄を避けるようにして身を引きながら、彼女、蒼王翼はヤコブレフ氏の時とは打って変わって、厳しい表情で冷たい視線を投げかけた。
 その変わり様に、三下忠雄が情けない表情をして後じさる。
 言葉もない彼の代わりに、ヤコブレフ氏が事の次第を説明した。しているように三下忠雄には見えた。何しろ言葉が全然分らない。
 少しの後、ヤコブレフ氏に促されて翼は自分のことを口にした。
 「僕の名前は蒼王翼。知っているとは思うけど、F1レーサーだ。君だってテレビくらいは見るだろう? ミスターの御子息がうちのチームのメイン・オーナーなのさ。それで氏とも面識があるんだ。突然お邪魔してすまなかった」
 「はぁ」
 世間の事にもとんと疎い三下忠雄であった。蒼王翼の名前についても実は知らない。
 「大体の話は聞かせてもらった。見たところ、君はMr.ヤコブレフとの会話にも困っているようだから、代わりに僕が案内する事にするよ」
 ちょうどレースが終わって時間が空いているという理由で、彼女は今回の件を引き受けてくれるという。それはありがたいが……。
 「あ、できれば僕も一緒に……」
 「来て、なんの役に立つというんだい? 君が」
 嫌味でも何でもなく、唯の事実を述べただけだったが、あまりにも堂々とした態度と口振りに、三下忠雄は思わずかしこまってしまう。言葉も通じないでは言われたように唯の足手まといでしかないだろう、しかし……。
 「心配しなくても、記事は後で僕が届けよう」
 「へ?」
 意表を突かれた表情で、三下忠雄が目を丸くする。その辺りの事情は当然ヤコブレフ氏には話していない。
 一瞬、視線をそらした蒼王翼が「しまった」という顔をしたように見えたが、ほんの一瞬の事だった。
 「心配しないでいい。ヤコブレフ氏は僕が責任を持ってエスコートする」
 表情少なくそれだけを言い残して、蒼王翼は老紳士を伴い風の様に歩み去ってしまった。
 完全に状況を把握できないまま一人取り残された三下忠雄は、しばらくしてから唖然と誰もいない空間に向って「あの……」と呟いた。それも一陣の風が吹き消してしまう。
 
 <風が語るもの>
 「さあ、参りましょう」
 少年のような凛々しさを持つ翼の顔は、しかし笑うと本来の物である少女の愛らしさが表面に現れる。十六歳という年齢に相応しい、彼女の類い稀な美貌を加味するならば相応しい以上の輝きを持って。
 「いいのですかな? しかし……」
 後に残してきた今までの同行者を肩越しにわずかに振り返って翼に聞いた。
 「ああ、平気ですよ。ちゃんと説明はしましたから」
 日本語がさほど達者ではないヤコブレフにはわかりようもないが、彼女がそういうのであれば、信用するしかない。確かに言葉も通じないのでは少々困っていたのも確かだ。
 移動の際に使用する自家用機があるという事で、そちらへと移動する。離着陸の順番の都合から少しの間待たされるという事だったので、翼は機内にヤコブレフ氏を残して外へ出た。タラップにたたずみ、手摺に軽く身を預ける。
 「それで、ヤコブレフ氏は何を探しているんだろうね?」
 流れるような仕草で前触れもなく吹いてきた風を弄ぶ様に手と指とを伸ばす。
 「……そう。桜の樹。でも、どうして?」
 風が運んできたのは言葉でも答えでもなかった。それは感覚、あるいは感情の名残、ヤコブレフ氏が感じていた物、ずっと昔に思っていた事、そんな物が流れとなって翼の身体をかすめていく。
 柳眉を微かに歪ませて、翼は不快感を溜息と共に吐き出した。人間の負の感情はいつ感じても気持ちのいいものではない。ましてやこれは怒りや恨みだ。もっとも原始的な感情。それだけに強い感情。人間の感情の中でも、他の命ある存在に負けない数少ない強い物だった。
 「戦争、か……」
 戦争で負った心の傷、否がおうにも死を突きつけられる日々。仲間の死。そして収容所。ヤコブレフ氏の見てきたものの全てを、過去から未来へと流れ続ける悠久の風が語ってくれた。翼が支配する物の一つだ。風に聞き、全てを知る。
 何事をも余す事無く……。
 氏が見た桜というのはやはり収容所のものであるらしい。確かに存在していた。見事な桜だ。その姿が翼にも見える。
 戦時中で物資も人も不足する中で、人間以外のものは変わりなく息づいていた。時を待ち、季節を待ち、生命を続けていく存在。
 動物、植物。そして人間も。
 だが、正当なる理由なしに同族を害する行為は人間だけだった。欲望の為、それに付随する正義や主張の為。
 そこまで考えて、翼はふと自分の手を眺めた。そして端正な口の端を微かに歪ませる。
 たとえ降りかかる火の粉を払う為とはいえ、同族を狩る自分も、さほどそれと代わらないな、と。
 軽く頭を振って、自嘲の想いを振り払う。今はヤコブレフ氏の事を考えなくては。
 夢に出てきたという桜の樹。その詳しい場所は彼の地、石川県へと出向いていかなくては詳しくは分らない。だが、直ぐに見つける事はできるだろう。問題は何故夢の中に現れたのかという事だ。
 繰り返し見る夢は、二つの意味合いを持っている。
 一つは自らの意識が、無意識に欲する物を夢の中に現出させる。つまりその光景なり、風景なり、あるいは存在に大きな未練があることを無意識が語りかけてくるという意味。
 もう一つは、何らかの意思による呼びかけだ。
 風が伝える内容にはその判断の材料はない。多分、実際にあってみれば分るだろう。
 ヤコブレフ氏自身の中にも確かにこの樹に会いに行く為の動機はある。
 強い後悔と惑いと、そして救い。
 収容所で見た桜の樹の姿は、いつ死ぬとも、いつ殺されるとも知れない収容所での生活の中で、彼らを唯一勇気付けたのは誇らしげに咲くこの桜の花だった。荒れ果てたこの国で、荒れ果てた人々の心の中で、けれども誇らしげに咲き誇る花。
 「So butifull(なんて美しい)」
 思わず呟いた彼の言葉に、いつもは厳しい看守が「Seem me two(私も、そう思う)」と思わず答えた。
 彼はその時、初めて日本人を許せる気がした。こんな事が、戦争がなければ同じ感情を持ち合わせる事のできる人間なのだと。同じ花を見、同じ感じ方ができるはずだと。
 だが、戦争という現状は過酷だった。捕えられた仲間の内、故郷の地を踏めたのは三分の一ほどでしかなく、彼と共に生き抜くことを誓った仲間も大半が収容所での死を迎えた。
 それでもなお、彼は強い意思を持ってその後を生き抜いていく。妻を得、家族を得、そしてさらに新しい時代の子供達を得た。そのたくさんの孫達の内の一人が日本人の若者と結婚する事になった。皮肉にも、彼が足繁く通っている絵の展覧会の出品者の一人の若者だった。
 素晴らしい桜の樹を描くこの若者をヤコブレフ氏は好いていたが、一族に加わるとなるとなかなかに受け入れ難い物があったらしい。
 自分自身でもその理由を肯定する事は難しかった。ただいろいろと理由をつけては、交際にも婚姻にも反対した事だけは確かな事実だった。
 愛する孫娘の結婚式は若者の祖国で行われていた。だがそれにも理由をつけて出席しなかった。
 いや、正確に言うならば違う。
 ヤコブレフ氏は、怖れていたのだ。この日本の地を踏む事に。
 戦争が終わり、この国を去ってから、一度たりとも訪れる事はなかった。
 自信がなかったからだった。
 もう一度この国を訪れれば、忘れていた過去を思い出す。そして思い出したなら、過去にあった苦しみと悲しみとを、簡単に恨みに変えてしまうかもしれなかった。
 歳を経ても、歳月を経ても、忘れる事など出来はしない。死んでいく友の姿、仲間の姿。皮肉にも、一年に一度だけ咲くという桜の花を見る度にそれを思い出してしまうのだ。
 孫娘の恋人が描いた桜の樹の絵画。それを家族が集まるダイニングルームに飾りはしたものの、後悔しなかった事は一度だってなかった。
 そしてそれを悔いてもいた。
 彼は桜の樹に誓った。
 「誇りを持って生きる」と。
 生きる事に誇りを、憎しみに負けない誇りを、恨みに飲まれない誇りを。
 けれど実際はどうだ。
 翼は一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。ちょうど機内から直ぐに離陸するという報せが入る。後は向こうについてからでいいだろう。
 ヤコブレフ氏の思っている事については大体分った。重要なのは氏と桜の樹を会わせる事だ。それで全てが解決するわけではないだろうが、まずはそこからだ。

<大地の子>
 小松空港までの短いフライトを終え、そこからは車に乗り換える。これも翼の所有物だが直接運転する事はない。初老の運転手に行き先を伝えながら、翼は「お疲れではありませんか?」と老紳士に尋ねる。
 穏やかに笑みを浮かべて「疲れるどころか快適だよ」と答えるヤコブレフ氏に、翼は行く先を告げる。一瞬、訝しげな顔をした老紳士に翼は笑って「知人に調べてもらったんです」と言った。
 車に乗り換える間に再び風に尋ねて、桜の樹があった場所、かつて収容所があった場所を知る事が出来た。
 もちろん収容所はもうない。しかし、桜の樹はまだ存在していた。
 「奇妙だな……」
 思わず呟いた翼の言葉を聞きつけて、ヤコブレフ氏が聞く。それに何でもないというような答え方をして、翼は思わず小さく肩をすくめてしまった。
 施設がなくなってしまうほどなのに、どうして桜の樹だけが存在しているのか。そこの部分だけが風に尋ねても分らない。収容所があった場所は、現在は自衛隊の駐屯地になっているらしい。確かに情報を隠すにはもってこいの施設だろう。自衛隊といえども国の軍隊だ。いくらでも隠しようがあるというものだ。
 この事実を告げた時、ヤコブレフ氏はそんな場所に突然行っても大丈夫なものかと心配したが、既に手は打ってある。こういう時は名が知れているというのは役に立つ。それを利用しない手はない。
 
 小松空港から車で約一時間。その間車窓から眺める光景にヤコブレフ氏は何度となく溜息をつき、首を振った。かつて自分が見知った光景とはあまりに違う。当たり前ではあるのだが、なんとも奇妙な感じがするのだ。覚えているのはずっと昔のこの国の姿だった。しかし、変わってしまっている。全てが。この国だけではない。世界も何もかもが、すべて過去の戦争を忘れて行こうとしている。それなのに自分は未だにそれを引きずって……。
 野田山にある自衛隊の駐屯地の前に立っても、果たしてここが自分の来るべき場所であるのかがわからなくて、ヤコブレフは足を進めるのを躊躇った。もし偶然に出会った蒼王翼の言葉がなければ、きっとここに立ち尽くしてしまったことだろう。
 「さあ、行きましょう。Mr.ヤコブレフ」
 手を引かれるようにして、門をくぐる。正面には大きな桜の樹が聳えていた。だが、これではない。
 翼にもそれが分った。この樹ではない。
 施設を案内するという女性自衛官の申し出を断って、翼は代わりに駐屯地にある桜の樹の場所を尋ねた。不思議な事に、風に尋ねても桜の樹の正確な場所がわからないのだ。この駐屯地の中では。
 しかし、その樹の前に立った時、翼には明確に枯れかけた古木が求めている桜の樹だと感じる事が出来た。それはヤコブレフ氏も同じようだった。
 「枯れかけている……」
 弱々しい声で呟いて、一歩その枯れかけた古木に立ち寄ろうとするヤコブレフ氏を翼が引き止めた。
 戸惑ったようにして彼を見る老紳士の視線には答えず、翼は険しい眼差しを古木へと向ける。
 その桜の樹は枯れかけていた。しかし、死にかかっているわけではなかった。原因はこれだったのだ。場所が把握できなかったのも、ヤコブレフ氏がここへと呼び寄せられた原因も。
 枯死しかかっているはずの古木から、肌を刺す様な強い妖気を感じる。決して気のせいではない。空間をも捻じ曲げるほどの強い妖気が古木を覆っている。いや、正確には……。
 「離れていてください」
 強い口調で告げて、言葉とは裏腹にヤコブレフ氏を自ら遠ざける。
 「何をする?」
 「説明は出来ません」
 「だが、しかし……」
 乾いた音がした。翼が指を鳴らした音だった。ヤコブレフ氏の横で付き添っていた女性自衛官が音を立てて地面に倒れ付す。気を失ったようだった。
 「一体、何を?!」
 翼は答えなかった。ただ、一歩だけ古木へと足を踏み出し、同時にすっと右手を伸ばす。空間が一瞬歪み、そこに一本の剣が顕現した。しなやかな指がそれを掴むと一気に鞘走る。澄んだ響を伴って、神秘的な輝きを持つ刀身が姿を表した。
 さらに一歩、踏み出す。目には見えないが、強い瘴気が壁の様になって翼の正面から押し寄せてくる。
 翼は下から切り上げる様にして腕を一閃した。鈴のような響きが発せられて、瘴気の壁を打ち砕く。
 「ああ……」と後ろでヤコブレフが呻き声を上げる。
 翼たちの眼前にあるもの、それは確かにかつてヤコブレフが見た桜の樹だった。怒りと憎しみと、そして生きる希望と。そんな物を全て飲み込んでいく内に、この樹は禍々しい意思をも取り込んでしまった。大地と風が育む樹。だがその二つが悪意だけに満ちた事があった。その名残をこの樹は取り込んでしまった。
 浄化しようとしたのだ。
 花を咲かせ、散らす。
 取り込んだ想いの全てを花として。
 木々が大地に満ちた悲しみを浄化する法。大気に満ちた悲しみを浄化する法。
 しかし、この若木ができる事はまだそこまで大きくなく、強くもなかった。
 ヤコブレフ達の苦しみはあまりに強く、悲しみはあまりに深かった。そして希望はとてつもなく強かった。彼一人が浄化するにはあまりにも。
 この数十年の間に、彼は少しずつ蝕まれていった。
 そして、ついに負けてしまった。悪意に捕らわれてしまった。
 大地から負の気を吸い取り、大気から悲しみと怒りを吸い取り、凝縮させる。
 彼は呼び寄せた。かつて彼に想いを吹き込んだ人間を。
 ヤコブレフ氏を。
 もう一歩を踏み出そうとして、翼は思わず躊躇った。信じられない事だが、ほんのわずかに自分の心の中に迷いが生じていた。
 迷い? いや違う。気圧されたのだ。
 それを知って、青色の瞳がブルー・サファイヤの如き輝きを放つ。細められた眼差しが、数歩先にある枯れかけた古木を射すえた。
 数え切れない無数の意思。それはたとえどんなに力が強くとも一人の力で打ち破る事はできるはずもない。ならば……。
 左の手を水平に、そして優雅に頭上へと差し伸べる。風が渦を巻いた。青白い光を纏い、周囲から光の粒子のような物を吸い寄せる。
 「悪しき想いは去れ」
 翼は高らかに告げる。
 古木に集められたのが悪しき想いの集合であるなら、対抗するには反対の力を集めてやればいい。
 大地や風が抱くのは決して負の想いだけではない。
 裂帛の気勢と共に、腕を振り下ろす。
 瞬間、空間が裂けた。
 翼の扱う力に抗しきれなくなった空間が奇妙に歪み、終には割れる。古木までの道が真っ直ぐ白い輝きを伴って現れた。
 間髪入れず、彼女は駆ける。疾風の様に。白い閃光となって。
 そして勢いそのままに、木の幹に深々と剣を突き刺した。
 刹那。風が吹き荒れる。まるで断末魔の悲鳴の様に轟音を轟かせて、翼の金色の髪を激しくなびかせた。
 
 全てが終わった時、木の側に立つ翼の元へヤコブレフ氏がよろよろと歩み寄ってきた。
そのまま、完全に枯れてしまった桜の樹の幹へとひざまずき、無言で涙を流す。
 「この樹は私を呼んでいた……そうですね?」
 「……そうです」
 沈鬱な面持ちで、翼は答える。
 「きっと私に助けを求めていたんだ。私達を助けた代わりに、自分を助けてくれと」
 ヤコブレフ氏の言葉に、翼ははっと息を飲んだ。
 在り得ない話ではない。てっきり摂り込む為だけかと思っていたのだが、あるいはそうであるかもしれない。いや。そう、信じたい。
 木々も、人間も、共に大地に生きるもの同士。ならばそうあってもいいではないか。
 自分がヤコブレフ氏と出会ったのも、偶然ではないかもしれない。もちろん善い意味で。風に育まれた樹ではないか。そして風を支配する自分。無意識に、僕を呼び寄せていたのかも知れない。
 翼は思わず視線を落して、唇を噛んだ。もしこうなる前にそれが分っていたなら、別の解決方法があったのかもしれない。なのに自分は力に任せてこの樹を枯らしてしまった。ヤコブレフ氏に、再びこの桜の樹が花咲くところを見せる事ができなかった。
 そう思うと悔しさが胸中に広がる。
 「オオ……」
 ヤコブレフ氏の簡単の吐息を聞いて、翼は思わず顔を上げた。そして目の前に広がる光景に思わず息を飲み、目を見開いた。
 「こ、これは……?!」
 見上げた先に、蒼穹の空に無数の枝を張り、誇らしげに薄紅色の花弁を無数に纏い、風に散らす桜の大樹が出現していたのだ。
 芳しい香りが鼻腔をくすぐり、どこからともなく吹く風が頬を撫でていく。
 過去の風だ……。
 翼はそれを感じた。という事は、これは桜の樹の記憶。それとも、大地の記憶?
 跪き、手を合わせて祈る老紳士の表情には、救いを得た者のみが浮かべる事のできる穏やかな笑顔がある。
 救い……、これがそうなのか。
 「So Butifull……」
 口を付いて出た言葉に気がつかないほどに、蒼王翼は咲き誇る花々と、桜の樹に見惚れていた。
 
<意外な結末>
 「ちょっと三下君。こっちへ来なさい」
 碇麗香に呼ばれて、三下忠雄は恐る恐る編集長の席へと歩み寄った。
 先日のヤコブレフ氏の件については、散々に怒鳴りつけられた経緯がある。またその事だろうかと思うと背筋が寒くなる様に感じた。
 「蒼王翼ってこの間の子でしょう?」
 「え? ……あ、はい」
 碇麗香が手に持っている封筒。その差出人は彼女の名前だった。
 「世界トップのレーサーにこんな才能まであるなんて驚きね」
 「……?」
 事態を飲み込めずに、三下忠雄は視線を忙しく動かした。
 「ちゃんと記事を書いて送ってきたのよ。いい出来だわ。非の打ち所がないわね」
 「あなたも目を通しておきなさい」といわれ、原稿を手渡される。
 「用件は、これだけですか?」
 卑屈に尋ねる三下忠雄を碇麗香がじろりと睨む。
 「そうよ。今回はまあ、お手柄という事で許してあげるわ」
 それだけを言い残してデスクを離れる上司を、三下忠雄は唖然と見送った。
〜了〜

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2863 / 蒼王 翼 / 女 / 16歳 / F1レーサー兼闇の狩人】
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■         ライター通信          ■
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 とらむです。仕上がりが遅くなってしまって申し訳ございませんでした。
 「桜の咲く頃」いかがでしたでしょうか?
 とても書きがいのある、魅力的なお方ですね。書いていてとても楽しかったです。
 果たして、お気に召していただけるものやら(汗
 是非また、ご指名下さいますよう伏してお願い申し上げます。