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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


死は海の波に寄せて

「船旅がしたい」
 いきなり、草間武彦がそんな戯言を言い始めて、良くも悪くも興信所の台所事情を知り尽くしているシュライン・エマは、寝言なら寝てからほざきなさいよ、と、かなり冷たく、そう思った。
 自慢じゃないが、完璧に貧乏神に取り憑かれているこの事務所のどこに、そんな金があるというのか。
 月々の光熱費を支払った後の、通帳の残金のゼロの数の少ないことと言ったら、容易には筆舌に尽くしがたい。いや、決してオーバーに言っているわけではなく、本当に日々節約との戦いなのだ。
 1パック88円の卵を求めて奔走し、紅鮭3切れで198円の特売セールで他の奥様方を押しのける。無駄に高い身長と、やはり無駄に入る胃袋を抱えた所長が飢えていないのは、一重に彼女の努力の賜なのである。それなのに、この唐変木な所長は、努力を労うわけでもなく、よりにもよって、「船旅がしたい」だと??
 思わず、手に持っていたフライパンの柄を握る手に……彼女はちょうどお昼ご飯を作っている最中だった……力が入る。
 鍛えた卓球の腕前の要領で、すぱんと作りかけの目玉焼きをヒットさせてやろうかしら……。
 最近、特に草間に扱き使われて、少々お疲れモードのようである。シュライン・エマ。大人な彼女にしては珍しく、そんなタチの悪い子供の悪戯のような考えが頭に浮かんだ瞬間、もう一度、所長が、船旅に行きたいと叫んだ。
「あのね……武彦さん」
 かたん、と、玄関で音がした。
「何かしら?」
「来た来た来た!!」
 いそいそと、草間が戸口へと走る。安普請のドアの郵便受けの中に、一枚の封書が落ちていた。草間が、ろくに送り主も見ないまま、封を切る。誇らしげに、所長は、事務員前で紙面をヒラヒラさせた。
「特賞! 七日間豪華船の旅二名様ご招待!!」
 草間が応募していたとある懸賞が、見事に当たったわけである。
 どうだどうだと、ふんぞり返る草間の隣で、嫌に冷静に、シュラインは思った。このあたり、彼女の方が草間なんぞより余程冷静である。
「この運も、貧乏神の罠でないことを、心の底から祈るわ……」
 豪華船旅の説明をよくよく読むと、無料ご招待、ではなく、低価格でご優待、に、なっていた。
 つまりお金がかかるわけである。
 いや、世の中こんなものだろう…………たちまちのうちにいじける所長を慰めつつ、身銭を切ろうと決意している、事務員の鏡のような彼女の姿が、そこには、あったとか無かったとか……。





 ともかくも、安値で船の旅は、かなり魅力的である。
 義妹が、友人宅でお泊まり会をするから行けないと言ってくれたので、悩む必要もなく、草間とシュラインの二人で参加することになった。
 あの妹に、お泊まりをするだけの親しい友人が出来たのかと思うと、それはそれで感無量である。親ばか二人は、良かったね、と笑い合い、なぜか揃って駅までお見送りまでしてしまい、妹をして「恥ずかしいから来ないで良いです〜!」などと叫ばせてしまった事実は、この際、秘密にしておこう。

「七日間も船旅なんて、初めてかも……」

 船は、湾を昼近くに出港し、太平洋側の様々な諸島を七日間もの時間をかけて、ゆったりと周遊する。日本に返還されてさほど長い時間も経っていないこれら島々は、自然のパラダイスであり、ここにしか生息しない珍しい動植物が、それこそ唸るほどにもある。
 母島父島の探検だけでも十分すぎるほどに見応えがあるが、更に凄いのは、何と言っても、この船だ。
 暁の女神の名を戴く豪華客船は、元々、世界旅行を想定して造船されたものであった。冗談のように広い個室があるのはもちろん、整えられた施設が、これまた半端ではない。プールに、レストランに、バーに……なんとカジノまである。
 周遊は、世界デビューを果たす前の、いわば腕ならしだった。次回から、船が相手にするのは、世界だ。七つの海でも他を圧倒する一番の大海を、いずれは、自由に泳ぎ回ってくれることになるのだろう。

「高くはないわね……。世界ランクの豪華客船に乗って、島巡りなんて」
「ここらは絶好の釣り場だからな」

 レストランの窓から見える夜景の美しさを堪能しつつ、シュラインが、濃厚な芳香の漂う赤ワインが注がれたグラスを、微かに揺らす。この上もなく良い雰囲気なのに、草間の方は、夜景よりも、ワインよりも、目の前の美女よりも、どうやら釣りに興味があるらしい。
 凄い怪魚がいるんだ!と、女にとっては、夢も希望もないことを、憚ることなく口にした。東京から三十時間もかけて訪れた諸島で、釣りもないだろうに……心の中で、虚しく突っ込みを入れるシュラインだが……既に草間は巨魚との格闘に釘付けである。
 早く釣り具の手入れをしたくて仕方ないらしく、飯を食べるのも早々に、席を立った。
「全くもう……」
 まぁ、草間らしいと言えば、草間らしいか。
 船の雰囲気に酔ってキザったらしい台詞を並べ立てられるより、遙かにマシである。いや、少しばかりは、並べ立てて欲しい気がしないでもないが……無理なものを求めてはいけない。
「明日の釣りに備えて、日焼け止めを買っておかないと……」
 結局、草間に合わせて、釣りのあれこれについて考えてしまうシュラインであった。





 黄昏時まではあれほど良い天気だったのに、深夜を過ぎる頃から、急に、天候が崩れ始めた。
 船のあまりのひどい揺れに、シュラインはすぐに目を覚ました。蹌踉めきながら廊下に出ると、ちょうど、管内のアナウンスが流れ込んできたところだった。
「……天候不順につき、深夜の外出を控えて頂きたく……」
 不順、どころの騒ぎではなく、間違いなく、嵐だった。壁にしがみついていないと立っていられないほど、激しく揺れているのだ。
 この期に及んでまだ眠っているらしい草間を叩き起こそうと、シュラインが振り返る。向こうの廊下に、ちらりと、子供の姿が見えた。
「子供!?」
 やたらと広い船内の構造を、シュラインは、既に完璧に覚えていた。
 子供が走っていった方向には、階段がある。そのまま、甲板へと続いているはずだ。シュラインは慌てた。なまじ子供だからこそ、始末に負えない。危険をまるで感じていない可能性がある……!
 甲板へと続く出口には、何とも間の悪いことに、ロックがかかっていなかった。
 子供は、するりと外に出る。シュラインが予想したとおり、嵐だった。横殴りの風に押されて、体が期せずして傾いてしまう。
「危ないわよ! こっちに来て!」
 黒々と生き物のように蠢く海を見ても、子供は、何も感じないらしい。
 よたよたしながら、縁の方へと歩いて行った。
「駄目よ!」
 子供が、振り返る。子供は……笑っていた。

「くまちゃんが、海に落ちてしまったの。僕、迎えに行かないと」

 ぞっとした。一瞬で、シュラインは、理解した。
 子供は、知恵遅れなのだ。事態がさっぱりわかっていない。脳が未発達なのか、脳そのものに重度の障害を抱えているのか…………ともかく、感覚が普通ではない。周りにある事柄全てが、子供には、遠い世界の出来事と全く同質のものなのだ。
「無理矢理引っ張って行くしかないわね……」
 シュラインが、子供の腕を掴む。
 早く甲板から出なければと考えた時、一際大きな高波が、二人を襲った。

 体が、浮き上がる。柵など難なく乗り越えた。
 落ちて行く感覚。全身が激しく固いものに叩きつけられて、一気に視界が暗転した。

 口に、肺に、海水が押し寄せる。
 駄目だ、と、そう思った。藻掻くように動かした手が、虚しく重い水を掻いた。必死に開けた視界の片隅に、同じく沈んで行く子供の姿が、一瞬、見えた。
 シュラインが、精一杯に、腕を伸ばす。指先が、子供の肌に触れた。それほどに、近くにいたのだ。
 助けなければ。
 頭の中では考えるのに、体は、もう、ほとんど動かなかった。
 暗い。暗い。暗い…………。

「武彦さん……」

 こんな死に方をしたら、さすがに、あの草間でも、泣いてくれるだろうか……。
 事務所の方も心配だ。貧乏なくせに節約という文字を知らない所長のこと。妙なサラ金になど手を出して、路頭に迷うことにでもなったら……。
 いや、大丈夫か。
 シュラインは、墜ちて行く意識の片隅で、苦笑する。草間は、ああ見えて、ともかく人脈が凄い。良い仲間がたくさんいることが、男のステイタスなら、間違いなく、トップクラスの人間だろう。どんな状況に追い込まれても、生き延びているはずだ。

 私が、いなくても……。

 ぐい、と、腕を掴まれた。
 痛みのあまり、霞がかっていた意識が、急速に浮上する。
 引きずり込もうとする海の力に逆らって、誰かが、シュラインを、強引に引っ張り上げる。暗くて何も見えないはずなのに、何故か、わかった。
 草間だ。助けに来てくれたのだ。
 もう大丈夫だ。安堵感に、泣きそうになった。目頭が熱くなったのは、涙のせいだったのか。それとも、このまとわりつく海水のせいだったのか。
 考える暇もなく、また、五感の全てが、薄らいで……。

「もう大丈夫だ」

 間近に聞こえた囁き声に、シュラインは、今度こそ、完全に気を失った。





 次に目を覚ました時、真っ先に視界に飛び込んできたのは、草間の不安そうな顔だった。
 叱られる、と、反射的に、シュラインは首を竦める。自分が悪いことをしたとは思わないが、心配をかけたのは事実なのだ。子供を追いかけてやむを得なかったとはいえ、無謀にも嵐の甲板に踏み込んだ。
 馬鹿野郎と大声で怒鳴りつけられても、これは致し方ない。しばらくはタダで扱き使われてやろうと覚悟を決めたシュラインだったが、草間の反応は、いささか、違った。

「生きてた……」

 呻くように呟き、シュラインを、抱き締める。息が止まるかと思った。何をそんなに喜んでいるのだろうと、彼女の方が、戸惑ってしまう。少し溺れただけではないか。後ろから覗き込んでいた船員や乗客が、口々に、良かった良かったと頷き合っていた。

「呼吸がね、止まっていたのですよ。貴女は……。水から引き上げられたとき」

 ああ…………それで。
 納得して、事務員が、おずおずと所長の背に腕を回す。お互いにずぶ濡れで、塩まみれで、体は芯から冷え切っているのに、何故か、温かかった。
 こういう時は、何て言えば良いのだろう? ますは、ありがとう、だろうか。それとも、御免なさい、だろうか。言いたいことは山のようにあるはずなのに、語学のプロのシュラインをしても、上手い台詞など、まるで頭に浮かばなかった。
「あの子……は?」
 一緒に落ちた子供のことが、脳裏を過ぎる。
 自分が助けられたなら、あの子も、助かっているはずだ。
 シュラインが、皆に尋ねる。居合わせた船員や乗客たちが、一様に、首をひねった。
「あの子?」
 顔を見合わせる。そんなものは、知らないと言わんばかりに。
「あの子供は……」
 草間だけが、返事をする。いきなり、所長は、すまないと、謝った。

「助けられなかった…………」

 落ちて行く二つの人影を見たとき、そして、荒れる海の中から一人しか助け出せないと判断したとき、草間は、迷うことなく、シュラインを選んだ。
 当然だろう。見知らぬ赤の他人より、彼女の方が、何倍も大切なのだ。比較の対象にもならない。悩むことすら……なかった。
 シュラインが子供の方に伸ばした手を、強引に掴んで、海面へと引き上げる。無我夢中だった。彼女が口にするまで、子供のことなど、頭の片隅にも無かったのだ。

「二人は、無理だった。どちらかしか……」

 選択に、後悔はない。
 今、彼の目の前に、生きて、彼女がいてくれる。
 それは誇らしいことだったし、それこそが望んだことだった。
 だが……あの黒い水底に、小さな子供が藻掻きながら墜ちていったことを考えると、草間の心は、重く沈んだ。
 他に、手段が、あったのではないか。
 二人ともに、助けられる方法が、あったのではないか……。
 
「謝らないでよ。武彦さんは、悪くないのに……」
「…………謝りたい気分なんだ」
「もっと、堂々としていてよ。私の、命の恩人なんだから」
「だが、俺は、結局……」
「結局って、言わないで。武彦さんは、人の命を、助けたのよ」

 もう一人、海に落ちた子供がいたことが判明して、船内は騒然となった。
 広がるざわめきを、まるで他人事のように、二人は、遠巻きに、聞いていた。
 少し知恵遅れの子供を、それでも、宝物のように慈しんでいた両親の、その嘆く姿を……為す術もなく、ただ、見つめながら……。
 




 旅行は、結局、中止となった。
 シュラインと草間は、あれからすぐに東京に戻り、また、いつものように、怪しげな依頼に従事している。
 シュラインは、数日間の入院を余儀なくされたものの、外傷も後遺症もなく、変わらぬ生活を送っていた。
 相変わらず、幽霊やら妖怪やらと、仲の良いお友達である。姉さんと慕ってくれる事務所の後輩たちに、調査のノウハウなどをさり気なく教え、その義侠心ゆえに金に縁のない草間の食生活を、陰からしっかりと支えている。

 平凡な日常風景が、あの嵐の一夜に起きた出来事を、徐々に、忘れさせてくれていた。

 招待状が届いたときと同じような唐突さで、ある日の草間興信所に、手紙が届く。
 かたん、と、いつもながらの音がした。
 草間が、払い忘れた何かの請求書か!?と、心臓に悪いことを口走る。
 思い当たることあるの?
 シュラインが、冷静に、問いかける。口調は静かだが、目は笑っていない。

「差出人は……聞いたこと、無いわね」

 宛先は、草間武彦さま、シュライン・エマ様になっていた。
 どう見ても子供の字だ。しかも、もの凄く、下手だった。ここに配達されたのは、ほとんど奇跡である。
 封を開けて、中から出てきたのは、一枚の便せん。
 やはりたどたどしく、覚えたてのような文字が、並んでいた。

「僕のこと、覚えている? お姉ちゃん。
 船の上から、一緒に、海に落ちてしまったよね。
 でも、あれから、僕は、他のお船に助けてもらったの。
 お母さんが、お姉ちゃんが僕のこと心配してくれていて、手紙を書いたほうがいいって言うから、手紙、送るね」

 それは、暗い水底に沈んで短い生涯を終えてしまったとばかり思っていた、あの子供からの、手紙。

「心配をかけて、ごめんなさい。
 心配してくれて、ありがとう。
 僕は、生きています」
 
 死は、海の波に寄せて、現れた。
 けれど。
 生は、地上の風に乗って、訪れた。

 子供が、短い拙い手紙の向こうから、語りかけてくる。一生懸命、自分の言葉で、素直に、思いのままに、伝えてくる。



「僕は、生きています……」