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<東京怪談ノベル(シングル)>


緑の目撃者


 コンクリートの塀で囲まれた向こう側から、終わりかけの桜が風に撫でられて薄紅の花びらを散らす午後。
 背の低い垣根の隙間からは、春の花が桜と一緒に揺らいでいる。
「桜さん、こんにちは〜なの。スイセンさんもこんにちは〜なの」
 ふんわりとして心地よい香りを思い切り吸い込みながら、藤井蘭は植物達へ手を振ったり、時には道端にしゃがみ込んで声を掛けて歩きなれた緑の道を進む。
「あ、つくしさんもこんにちは」
 おじぎをすると、お供のクマリュックがそれに合わせて背中で跳ねた。
 コンニチハ。今日モ元気ガイイネ。風ガ気持チイイヨネ。今日モ会エテ嬉シイワ……
 植物たちはくすくすと笑いながら、元気に挨拶をしてくれる少年に優しくそっと愛情を込めた言葉を返す。
「うんなの。僕も会えてうれしいなの。今日はお日様もあったかくてきもちいいなの」
 柔らかな春の陽射しを受けながら会話は続いていく。
 だが、そんな蘭の足がある公園の一角で不意に止まった。
 目の覚めるような色彩を誇りながらいつも真っ先に声を掛けてくれるはずのチューリップ花壇の一角がしんと静まり返っている。
 なんだか花達が重い空気に押し潰されてしまいそうだと感じるのは気のせいだろうか。
 首を傾げつつも、蘭は沈んでしまったチューリップへ近付きしゃがみこむ。
「なにかあったなの?」
 ちょんっと指先で花を揺らし、出来るだけ小さな声で問いかける。
 触れていると、薄い桃色に染まるチューリップから痛いような苦しいような想いが伝わってくる。
 それは、何かにひどく怯えていた。
 他の花たちに声を掛けてから完全に地面へ腰を下ろして、両手でそっと安心させるように怯えるチューリップのひとつひとつを包み込み、しっとりとした花びらや葉を撫でてみる。
「……お話、聞かせてもらっちゃダメなの?他の植物さん達も心配してるよ?」
 そうして後はじっと相手の言葉を待った。
 さらさらと風が頬を撫でていく。
 小鳥が遠くで歌っている声が聞こえる。
 本当に麗らかな、春と呼ぶにふさわしいひと時を蘭は静かに感じていた。
 どれくらいそうしていたのか。
 ふと、それまで口を閉ざしていたチューリップたちが、さわさわと囁くように言葉を紡ぎだした。
 ……コワイ……スゴクコワイ……ココニ悪イ人間ガ来ルノ………
「悪い人間?」
 傷ツケテイクノ。血ヲ流スノ。コワイコワイコワイコワイ―――スゴクコワイ――――
 人間から流れ込んできた黒い感情を思い出したのか、花たちは怯えて身を震わせる。
 真夜中に訪れた人間は白刃で振りかざして他人に血を流させた。
 眠っていたはずの花を揺り起こしたのは、その赤い血液と、人間のどす黒い感情だった。
 幾度となく獲物を狙い、男は逃げ惑う彼女を笑いながら執拗に追い詰めていく。
 悲鳴と愉悦の哄笑が滴る血液とともに地面にまで浸透していった。
 どうしようもなく暗い闇が、この公園に存在している。
 ……コワイ……スゴクコワイ……マタ来ルカモシレナイ……コワイコワイコワイ……
 彼女ハドウナッテシマッタンダロウ……コワイコワイ……ドウシヨウ……
 身を寄せながら、自分たちが見てしまったものを必死に伝えようとする花たちの言葉を、蘭は懸命に受け止める。
「もう一回コワイコトがあったらね、その時は僕を呼んでなの。もうみんながコワイ思いをしないように僕が頑張るなの」
 だからもう怖くない。大丈夫。
 何度も言い聞かせるように、癒しのチカラをその指先に乗せながら静かに優しく撫でさする。
 そして、花たちに刷り込まれてしまった恐怖を少しでもやわらげるように、この間TVで覚えたばかりの歌を披露してみた。
 ちょっと歌詞があやしかったけれど、元気いっぱいに何曲も歌って、次第にチューリップやスイセン、桜も加わって盛大な合唱になる。
 日が暮れるまでの時間を、そうしてずっと一緒に過ごした。


「蘭、遅かったじゃないか」
 何の連絡もしないまま、すっかり暗くなってから自宅に戻った自分を、持ち主が心配そうに顔を顰めて出迎えた。
「ご、ごめんなさいなの」
 ちょっとした散歩のはずがこんな時間になってしまったのだから仕方がない。
 シュンとうなだれて謝る蘭に、彼女は苦笑しつつ頭を撫でて許してくれた。
「ま、いいけどさ。でも気をつけなよ、最近この辺やたらと物騒なんだから」
「ふに?」
「通り魔事件が横行してんだよ。今朝だって新聞に載ってたんだから。あんた一人でウロウロして怪我でもしたらどうすんだよ」
 持ち主の言葉を聞きながら、蘭の中にあの黒い感情と、それを抱え込んでしまった植物たちの思いがよみがえる。
 襲われた人はどうなったんだろう。
「事件も立て続けだし、ここいらのパトロールも強化されるだろうけどさ。気をつけるに越したことないからね、蘭?」
「はいなの……」
「よし。じゃあとにかく晩ご飯食べよう」
 背を押されるようにして部屋の中へ入りながら、蘭は思い切って彼女を見上げて問いかける。
「あ、あのね、持ち主さん。おそわれた人、大丈夫だった?」
「ん?ああ……今日報道された人は一命を取り留めたとか、そんなふうに言ってたかな?」
 思わずほっと胸を撫で下ろす。
 あのチューリップたちへ『あの人は大丈夫だった。安心していいよ』――そんなふうに報告出来るのがうれしかった。
 持ち主に用意してもらった夕食を美味しく頂き、お気に入りのミネラルウォーターを飲んで、2人でTVを見ながらゆったりとした時間を過ごす。
 だが、食器の後片付けも終わり、浴室から彼女のシャワーを浴びる音が響きだすと、蘭はそろりと立ち上がった。
 あの公園で怯える花の声が、地下に張り巡らされた根を伝い、窓から覗く樹から蘭に呼びかける。
 ――――コワイ…アイツガ来タ―――コワイコワイコワイコワイ――――
「………呼んでる……」
 自分を心配してくれる彼女のことはすごく大事だし、心配は掛けたくない。
 でも、あんなに怯えている声を聞いてしまったら、どうしても大人しく犯人が捕まるのをここで待つことは出来なかった。
 約束したのだ。自分はあのチューリップたちと。
「ごめんなさいなの、持ち主さん……」
 相棒のクマリュックをお気に入りのビーズクッションに寝かせると、その上から毛布を被せ、蘭はこっそり部屋を抜け出した。
 春とはいえ、やはり陽が落ちると気温も急激に下がってしまう。思いがけない寒さに粟立つ肌をさすりながら、蘭は夜の公園へと向かった。
 自分を呼ぶ声がする。
 植物たちが教えてくれる。
 どす黒く濁った感情がどんどん膨れ上がって、獣のように唸り声を上げている。
 あのチューリップ達のいる場所へ足を踏み込めば、どうしようもなく押し寄せてくる殺意に足が竦んだ。
 だが、絶対に阻止しなくてはいけない。
 外灯の明かりがぼんやりと光を落とす暗がりの中、誰かがかすれた悲鳴を上げている。
 揉みあうように人影が重なると、ひとつがゆっくりと地面に崩れ落ちていった。そして、もうひとつの影が狙いを定めるように腕をゆっくりと頭上高く掲げ―――――
「こんなことしちゃダメなのっ!」
 勇気を振り絞り、蘭は精一杯の声で叫んで犯人目掛けて体当たりをする。
「―――っ!?」
 もろともにバランスを崩しながらも、辛うじて耐性を持ち直した男が、低く唸って睨みつける。
 ギラリと狂気の色を孕んだ瞳は、今度は蘭を標的として捕らえていた。
「植物さんたち、お姉さんを守ってなの!」
 既にショックで意識を手放したらしい女性の身体を何とか草原の方へ押しのけた蘭の背後に、男が迫る。
 自らの狩りを邪魔されたことへの怒りか、男は言葉にならない言葉を吠え立てて白刃を振り回してきた。
 獰猛で容赦のない、だがどこか愉しげに歪んだ肉食獣の『爪』が蘭の細い腕を切り裂いた。
 鮮血が宙に舞う。
 だが、深く抉られた細い腕はその次の瞬間には傷口を跡形もなく消し去った。蘭の持つ治癒能力は、この程度の攻撃ではけして負けない。
「ば、化け物か……バケモノなんだな!?」
 ありえないはずの光景を前に、錯乱した犯人は更にナイフを振り回す。
「こんな悪いことしちゃ、『めっ』なの!!」
 昂った感情が蘭の能力を一気に解放する。
 意思を共有した花や樹が、暴れる犯人目掛けて一斉にその枝や葉を伸ばした。
「な、な、なんだ!?」
「ぜったいぜったい、もうこんなことしちゃダメなの!」
 幼い緑の少年の声に呼応して、木々が揺れる。
 しなやかな鞭となって襲い掛かる植物に、男は悲鳴すら満足に上げられないまま転げまわり、逃げ惑った。
 だが四肢を捕らわれ、その手から凶器を剥がされて引き摺られるようにして根元に拘束されると、混乱も極限へ達したのか目を見開いたまま硬直した。
 男にとっては悪夢のような時間。
 蘭はライトアップ用の外灯に照らされながらゆっくりと歩み寄る。
「ひどいことしちゃダメなの。お姉さんもチューリップさんたちもすっごく怖がってたなの!」
 銀の大きな瞳で覗きこみ、一生懸命に真剣な顔で訴えかける。
「ちゃんと見てるんだよ?痛いことするのは絶対だめなの!」
「あ、あぁ……あ……」
 獲物でしかなかったはずの相手によって追い詰められ、不可解な状況への疑問と混乱に男の思考回路は既にショート寸前だった。
 おそらく蘭の言葉も正確には伝わっていないのだろう。
 それでも何とかやめて欲しくて、ぐったりとした彼の肩に手を伸ばしかけたその時、
「え?なあに?」
 スイセンたちの呼び声に振り返り、それから彼らの囁きに従って夜の気配に耳を澄ませる。
 遠くから高音域で鳴り響くサイレンが聞こえてきた。
 ただの巡回なのか、それとも事件の通報を受けたのか。
 早くここを立ち去らなければ少々面倒なことになるよ――そんなふうに植物たちが諭してくれる。
「……うん。そうするね。えと…この人は桜さんに任せてもいい?お姉さんは風邪を引かないようにしてあげて……と」
 持ち主さんはもうシャワーから上がってしまっただろうか。自分がいないことに気付いて心配しているだろうか。
 そんなことを考えながら、蘭はぱたぱたと夜の公園内を家に向かって走り出した。
 背後から、怯えていたはずのチューリップの声が追いかけてくる。
 アリガトウ―――その言葉が蘭の心をふわりと暖めてくれた。


 翌日。
 ワイドショーでは一連の通り魔殺傷事件の犯人が逮捕されたという話題で盛り上がっていた。
 しかし、騒がれていたのは逮捕そのものではなく、むしろ犯人が発見された際に何故か植物の根や枝に絡め取られていたという状況だった。
 男は警察にバケモノに遭ったと供述しているらしい。
「……ふうん……植物のバケモノ、ね……」
 怪談めいた不可思議な出来事を聞きながら、持ち主は昨日遅くに抜け出した挙句服の一部を破って帰ってきた少年に視線を向けてみる。
 身代わりのクマリュックに騙されたふりをしておいたけれど、これは一度話を聞いておいた方がいいかもしれない。
 そんなことを思いながら、彼女はそっと緑の少年の髪を撫でる。
「ま、今はゆっくり寝させてあげるけどさ」
 幼いヒーローはビーズクッションを抱きしめて、小さく身じろぎしては幸せそうな笑みを浮かべていた。
 きっとどこまでも透き通った優しい緑色の夢に包まれているのだろう。

「……お疲れさま、蘭」




END