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<東京怪談ノベル(シングル)>


言海

 神代より言ひ伝来らく そらみつ大和の国は 皇神(すめかみ)のいつくしき国
 言霊の幸ふ国と語り継ぎ 言ひ継がひけり
 今の世の人もことごと 目の前に見たり知りたり(万葉集 巻五―八九四―)


□■
 どうしても思い出せない事がある。
 ――それは記憶の底に眠らせた傷痕。
 心の樹海に置き去りにした遠い思い出はモノクロームの斑点になり飽和を超えて、尚、残る。
 黒い黒い、湖となって決して消える事なく、けれど黙したまま。
 通り過ぎてゆく時間と想い。
 立ち籠めた霞が静かに渦巻いて、視界を薄ぼんやりと染めている。
 夢か現か。
 夜は群青、星が降って、霧を透かしそれを照らす。
 鈍色の痣。
 そこにあるのは分かっていても、形も大きさもつかめない。
 俺が俺である事を知った、はじまりの時。
 天はずっと遠く、小さな手では背伸びをしても届かなかった頃。
 忘れたい事は、忘れられない事――。
 お袋の消しゴムでも消せないものがあるんだ。


□■
 楡崎・晴日(にれざき・はるひ)、17歳。この春に高校に進学したピカピカの一年生ってヤツだ。
 年齢と学年があってねぇって? 細けぇこた気にすんじゃねぇよ。
 まぁ、何だ……事故に遭っちまって一年休学……って、もうこの話はいいじゃん。
 それぞれ事情ってもんがあんだ。
 学校は楽しいし、ダチも面白れぇ。それなりに充実した日々を送ってる。
 それなりに――な。
 俺には、どうしても思い出せねぇ事がある。ガキの頃の事だ。
 言霊遣いとして覚醒した5歳の頃、そこんとこの記憶が綺麗にスッパリない。
 んな事、覚えてなくても当たり前だって言われりゃ、そりゃそうなんだが。
 ……何かさ、忘れちゃいけねぇ事だったような気がすんだ。
 いや、マジで思い出せねぇから一体どんな事かも分かんねぇんだけどさ。
 でも、分かるだろ? 思い出せねぇとすげぇモヤモヤした気持ちになるじゃん?
 芸能人の名前とかさ。話題変わっても思い出すまで考えちまったり。
 テストは別な? あれは、どっちかっつーと、分かんねぇ事はさっさと諦める事にしてっから。
 つか、そもそも思い出せねぇってレベルじゃねぇっつか……分かんねぇモンは分かんねぇし。
 確かに頭だか心だかに残ってるはずなのに、ゆらゆら揺れて掴めねぇもの。
 それを掴みたくて俺は自分自身に苛立っていた。

 そこに足を踏み入れたのはほんの気紛れだった。
「ハルー。どこ行くんだよ? バスケやるだろ?」
「おー、あれ探検してから行くー」
 弁当の時間、いつものように10分で食い終えた俺らは、これまたいつものようにグラウンドへ飛び出していく。
 けど、この日、俺はクラスメートと別れて、今は使われてねぇ旧校舎へと向かった。
 単純な好奇心だったかもしれねぇし、一人になりたかったのかもしれねぇ。
「物好きだな」
 咥えたストローで古びた校舎をさした俺に、指の先でボールをまわしているダチが呆れたように笑う。
「それじゃ、先に行ってるぞー」
「あぁ」
 旧校舎は1925(大正14)年に地元の宮大工によって建てられたらしい。大正の薫りが漂う懐かしの木造校舎ってヤツだ。
 今はまったく使われてねぇが、数年前に取り壊しの案が出たときに多くの住民の反対があって、今もこうして残ってる。
 確かに、戦火を潜り抜け現在に残ってるのは貴重だろうな。何しろ東京は一面の焼き野原になたってぇ話だ。
 耐久度調査ってモンが実施されて、校舎として使うには問題があるとかで、移築して郷土資料館や何かに使えねぇかって検討されてるみてぇだけど、あの分だと少なくても俺が卒業するまでに話し合いが終わる気配はない。
 お偉いさんってのはのんびりしてやがる。
 
 桜も散り、幾分暑くなってきた気候に学ランのボタンを全開にした俺の身体をひんやりとした風が撫でていく。
 窓は開けられていないのに、細く風が吹き、新校舎より2、3度は涼しく感じる。
 カタカタと風に鳴る窓、歩くたびに軋む床。
 グラウンドから響く歓声が途方もなく遠くで聞こえ、まるで別世界のようだ。
 さすがに木造校舎に通った事はねぇけど、どこか懐かしい気がしちまうのは日本人の血かな。面白れぇもんだ。
「これか……」
 階段の前で足を止めた。

 ギシ、ギシ――。

 古い階段は啼くように音を立てた。
 その音はどこか懐かしくて……寂しい。

 学校の七不思議じゃねぇけど、この階段は昔から“魔の階段”って言われてるらしい。
 逢いたい人に逢えるとか、真実が見えるとか、ありがちな噂が流れてる。
「6、7、8……13。なるほど、な」
 5段上がったところで残りを数えてみて噂の原因が分かった気がした。
 13階段――。
 死刑台への階段数とされているが本当のところは階段の数は13段じゃなく、死刑執行までの手続きが13段階あるって事らしい。

 13段昇った先にあるのは何か――。
 そこは終わり? それともはじまり?

「ん?」
 階段の上、通り過ぎた風に乗って白い影が動く。
 ……誰だ?
 俺は目を細めた。
 小さな子供が俺を見下ろしてる。
 俺の家系は古くから封印師として名を馳せた一族――とは言っても分家筋の末裔で俺に封印師としての能力はない。
 逆に言霊遣いとして覚醒しちまった。俺はこの能力(ちから)を持て余している。
 望んで手に入れたものじゃない。
 言の葉は時として、防具にも武器にもなる。
 言霊の力を使わなくても、鋭利な先は、肉体こそ貫かないまでも、いとも容易く心に深手を負わす。
 想いが強いほど、それは凶器となり得る。
 
 ……何か大きなものが迫ってきている。
 呼ばれている。
 それとも呼んでいるのは俺か?

 はるひ――

 遠く遠く反響する呼び声は、いつか聞いた音色。
 ――分からない。
 何が分からないのかすら分からない。
 ――知りたい。
 何を知りたいのか知らない。
 迷っているのは、俺?
 ざわめきは潮騒のように、寄せては返し砂地の足跡を消す。

 其れを封じろ。
 其れを消してしまえ。

 あぁ、でも眸は逸らさずに。
 恐れることはない。
 知りたいことは知らなけりゃいけない。

 忘れたい事は、忘れられない事――。
 お袋の消しゴムでも消せないものがあるんだ。
 
 見上げた視界の先、静かに見下ろす少年の眸は窓から斜めに射す日の光を受けて藍錆色に輝いている。
 何も言わず、ただ蒼の眼差しで少年は俺を見ている。
 その顔に見覚えがある。
 いや、実際見たわけじゃねぇが、アルバムを捲りゃ何枚も並んで貼り付けられた見慣れた面差し。
 見間違えるわけがねぇ。

 ――これは、いつかの俺だ。

 捕まえようとした過去に捕まったのは俺の方か?
 

□■
「次はボクが鬼だよ。いーい? 数えるからね」
「はるちゃん、こっちこっち! 一緒に隠れよう?」
「うん」
 気がつくとそこは太陽が眩しい屋外。
 ブランコに滑り台、シーソーにジャングルジム。家から歩いてすぐのもう遊ばなくなった小さな公園。
 滑り台はこんなに鮮やかな赤色だったっけ。今ではすっかりくすんだ色になっちまったが――。
 甲高い子供らの笑い声が平穏な日中をより温かく明るく染めてるみたいだ。
 糸を弾かれたように記憶が響いて甦る。
 どこか頼りなげな夢。
 遠い異国から吹いてくる風のように、そこにあるのに遠い。
 色も香りも、もうここには無いもの。
 消えてしまった星の光が夜空で瞬くように。

 名前も忘れちまった幼馴染の女の子と手を繋いで走ってるのは俺。
 確か2軒隣の家の……小学校に上がる前に越して行っちまった子だ。……そういや、この子はどこに行ったんだっけ?
 ……別れの挨拶はしたっけ? あんなに仲が良かったのに思い出せない。
 記憶がぼやける。
 手を繋いで走る女の子と俺は大きなどんぐりの木の陰に息を潜め隠れる。
 何の柵も苦労もなくて一番楽しかった頃だ。
 当時は『どんぐりの木』って呼んでたけど、ブナ科コナラ属で『クヌギ』って言うって知ったのは最近。偶々テレビでやってたのを見たんだ。
 秋には落ちたどんぐりを拾って独楽にしたりして遊んだのをよく覚えてる。
 それなのに、あの女の子を思い出せないのは何故だろう。

「いーち、にーい、さーん……」
 大きな声で数を数える鬼から隠れる当時の俺。そして、その俺から隠れているのは今の俺。
 穏やかな、穏やかな時間。
 身を小さく丸めて顔を見合わせる女の子と俺の背後に忍び寄る影に俺は息を呑んだ。

 キケン、キケン。

 サイレンが鳴り響く。
 押し寄せる焦燥に胸が熱くなる。行っちゃダメだ。見ちゃダメだ。
 拒絶と焦思、走る痛みは、そこに何かがあるのを俺に強く警告している。
 細身の気の弱そうな男が少女と俺に声を掛けている。
 35前後ってところか、ぼさぼさの髪や風貌のせいでそう見えるが、もう少し若いのかもしれない。
「おじさん小学校に行きたいんだけど道が分からなくて困ってるんだ。教えてくれる?」
 ぼそぼそと口をあまり開けずに話す声は陰湿で耳障りが悪い。
「僕、小学校しってるよ。まっすぐ行って、お箸をもつ手のほうに曲がって、くるくる回ってる床屋さんを白いわんわんがいるほうに行くと見えるよ」
 得意げに説明する俺。小学校の対面(といめん)の駄菓子屋に時々連れて行って貰えるのが楽しみで、すっかり道を覚えていた。
「おじさんね、頭が悪いから教えて貰っても覚えられないんだ。車に乗って教えてくれる?」
「でも、おかあさんが知らない人についてっちゃダメだって」
「知らない人じゃないよ。おじさん、幼稚園の田中先生も知ってるよ」
「たなかせんせえ、しってるの?」
「あぁ、田中先生とも仲良しだよ。だから知らない人じゃないだろう?」
「ね。はるちゃん、おじさん、たなかせんせえ知ってるんだって。おじさんに学校おしえてあげよ?」
「……うん」
 胡散臭い。教師や幼稚園教諭の名前くらい調べるのは簡単だ。
 その前に、ありがちな苗字を言えばビンゴする可能性は高い。外してもガキなんざ、いくらでも言いくるめられちまうだろう。
 胸クソ悪ぃ。
「ちっ」
 男の車に乗り込む少女と自分を見て俺は舌を鳴らした。
 
 案の定、車はスピードをあげて小学校とは反対方向へ走りだした。
 俺も追いかける。
 どうなっているのか分からなかったが、意思のまま、高い位置から車を見下ろしそれを追跡できた。
「おじさん、学校こっちじゃないよ」
「どうして? 遠くにきちゃったよ? おじさん、どこいくの? お家に帰りたいよ」
 窓の外を見て振り返る俺と、泣き出した少女に男は無言のまま車を走らせる。
 クソ。すげぇ嫌な予感だ。

 暫く走行して、人気の無い町外れのオンボロ小屋の前に着いた。
 周囲に民家や建物はなく、この小屋も使われていないようだった。
 男は急に険しい表情になり、泣きじゃくる少女と俺の手を引っ掴み車から降ろすと、強引に小屋へと引き込む。
 そして俺をぐるぐると毛布に包んで転がした。
「おじさん、何するの? 嫌だよ。離してよ」
 もがいて逃れようとするが幼児の力じゃそれは無理みてぇだ。
 目の前で少女が捕まり服を脱がされそうになってる。
(「変質者めっ」)
 殴り飛ばしてやりてぇが、今の俺に身体はない。ふわふわと漂う実体なき者だ。
 或いは、ここに存在自体しないのかもしれない。不思議な空間だった。

 泣き叫び暴れる少女の首に手を伸ばした男が力を込めて締める。
(「ガキに、んな事したら死んじまうだろーが!」)
 男も動転している様子だった。泣き止まず暴れる少女を黙らせる事しか頭にねぇんだろう。
 当然だが、こいつは俺達を連れ去った時点で既に犯罪者だ。魔がさしたのかどうか……どっちにしろ尋常の精神状態じゃない。
 正常な判断力などとうに無ぇんだ。
「はるちゃん、はるちゃんっ! んん〜っ!!」
「おじさん、やめてよっ」
 少女の助けを求める声に俺も叫ぶ。
 首を絞められた少女は、もう声も出せず、ふるふると小刻みに痙攣して、最後に一度大きく揺れた胸は二度と動かなくなって静寂に沈んだ。
 少女が二度と動かなくなった事、それが何を意味するのかも当時の俺にもわかったみたいだ。
 幼稚園で飼ってたウサギが死んだのは、この少し前――あぁ、そうだ。俺はその時初めて『死』を知ったんだ。
 少女の赤味を帯びていた頬がみるみる血色を失って、見開かれた目は輝きを無くして白く濁って天井を凝視している。
 俺は生まれて初めて殺意ってもんを覚えた。
「……なんか……じゃえ……おじさんなんか、死んじゃえ!」
 それは、強い、強い、魂の叫び。
 人生の最初の怒りは、憎悪とか嫌悪とかを超越した殺意だった。
 男は急に胸を押さえ、苦しみ出してその場に倒れた。
 口元から流れた一筋の血液だけがミルク色に薄れていく俺の視界に紅く、いつまでも残った。
 これが俺の言霊遣いとしての覚醒。
 
 気付くと大勢の大人に囲まれて、お袋に抱かれていた。
 小さく何かを呟いた封印師のお袋が頬を撫でると、俺は何もかもを忘れていた。

 
□■
『もういいよ』
 耳元で声がして俺は目を覚ました。深く深く、もうずっと永い間眠っていたような気がする。
 ぼんやりと白い天井を眺めて、ここはどこだ? と考える。
 
 キーンコーンカンコーン

 風に揺れたチャイムの音に慌てて飛びおきると保健室だった。
「あれ?」
 飯食ったあと旧校舎に行って……それから……記憶がぶっ飛んだ。
「イテテ」
 やけに硬い綿のシーツにエタノールの匂い。
 ベッドから降りてかかとを踏み潰した上靴に足を突っ込む。
「あら、気がついたの? 急に起きちゃ駄目よ。階段から落ちたんだから」
 保険医が俺に気付いて慌てたように言う。
「階段から?」
「そうよ、旧校舎のね。どこも痛くない?」
「そんなヤワじゃねぇって。ほら、ピンピンしてるって」
 屈伸して見せてそそくさと退室しようとしたが、当然引き止められた。
「お母さんに連絡したわよ。こっちに向かってるからここで待ってなさい」
「ちぇっ」
 俺は今まで夢を見てた。けどあれはただの夢じゃない。
 還ってきた記憶――まさかお袋が封印してたとは、な。
 でも、あれは当時の……5歳の俺には抱えきれねぇ事実だった。
 正直、今でもキツイけど……俺はやっぱり、これを取り戻さねぇと歩いていけなかった気がする。
 小さい時、お袋は「おかあさんは消しゴムなのよ」って封印の力の事を分かり易く教えてくれた。
 何かを消す時、消しゴムはその身を削られてくんだ。
「はるひっ」
 ガラッと扉を全開にして駆け込んできたお袋。あー、こりゃ先生の説明不足だわ。
 完全に動転してます、取るもの取らず来ちゃいました候って感じ。
「お袋、なんつー格好だそりゃ」
「え?」
「靴、左右違うし」
「あ〜っ! って、あんた元気じゃないのよ!!」
「だから大丈夫だってば。もう帰ろーぜ」
「ちゃんと先生にお礼して、ご挨拶して……」
「面倒くせぇな。ったく」
 ぶつぶつ漏らし、保険医に何度も頭を下げてるお袋を残し保健室を出た。
 俺に続いて、出てきたお袋の顔をじっと見る。そういや、こんなまじまじ見んのなんか久しぶりだ。
「……老けたな」
「……あんた、夕食抜きにされたいみたいね」
「冗談じゃねぇよ、育ち盛りだぞ?! …………お袋、さんきゅ、な」
「? 何よ、晴日? 気持ち悪いわね」
 
 小さく呟いた俺に、驚いたように目を丸くして笑ったお袋の顔は、昔と同じで温かかった。
 ――それともお袋は最初から完全には封印しなかったのか? 
 久しぶりに並んで歩いたお袋は、夢の中とは違い、随分小さく感じた。





=了=
 




■■□□
 ライターより

 楡崎・晴日さま、初めまして。幸護です。
 
 この度は、ご指名頂きまして有難う御座います。
 納品が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
 晴日さんの過去への夢の旅、いかがでしたでしょうか?
 実は一番悩んだのが母親の呼び方「母さん」か「お袋」かでした(笑)
 イメージ的にお袋を採用させて頂きましたが宜しかったでしょうか。
 そして母親とは友達のようなフランクな関係にさせて頂きました。
 
 言霊遣いということで、その辺のご活躍もとても楽しみにしております。
 今回はシリアスでしたが、元気いっぱいな晴日さんも是非、拝見してみたいなぁなどと期待しています。

 至らない点が多いかもしれませんが、少しでもお気に召して頂ければ嬉しく思います。
 今後も晴日さんのご活躍を楽しみにそっと見守らせて頂きたいと思います。
 今回は本当に有難うございました。

 幸護。