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月楼
【オープニング】
「謝りたかったのです。私は。あの日、謝ろうと、していたのです」
けれど、それは、間に合わなかった。
「私の母が、追いつめたのです。私の弟を。私の友を」
私が……この世でただ一人、心から尊敬できる……正当なる皇子を。
満ちた月の光に惹かれるように、彷徨い歩く、半人半魔の青年の前に、突如、景色が、広がる。
今ではない時。ここではない場所。
冷たい人工の照明が、揺らぎ、精巧に整えられた鉄骨造りの家々が、薄れる。二重硝子の向こうに見える、遠い遠い蜃気楼のように、全てが定まらぬ茫洋たる光景。
影さえもが……何らかの意志を持って、蠢く。風さえもが……哀れを感じて、流れる。
「謝りたいのは、誰?」
青年が、呼びかける。
人影が、答える。
「草壁皇子」
「追いつめられたのは、誰?」
青年が、また問いかける。
人影が……泣いた。
「大津皇子」
今と昔の景色が、その比重を、入れ替える。
コンクリートの地面の代わりに、玉砂利を敷き詰めた自然の大地に。
錆びた鉄が消えて無くなり、崩れた石造りの城壁が、現れる。天に向かって突き出す太い真木柱。散らばる瓦に、朽ちた楼閣。華やかな御殿の跡の、その中程に、人影が、ひっそりと佇む。
雲さえも凍らせる怜悧な月明かりが、全てを、青白く照らし出していた。
「ここで、最期の宴が開かれました。その宴を終えたら、私は、正式に、母に告げるはずだったのです」
皇位は、大津皇子に譲ると。
「大津は、私がそう思っていたことを、知っていました。だから謀反など起こすはずがないのです」
けれど、翌朝、大津皇子は、謀反の咎で囚われの身となった。数日後には、草壁の母である持統天皇の手によって、処刑された。
「私は、母を、止めることが出来なかった……」
恨んでいるでしょう。大津は。
憎んでいるでしょう。私を。
「帰りたいのです。私は。あの日に。あの、華やかな宴の夜に」
唄と、音と、舞と。
あの調べが、どうしても、思い出せない。
夜の朽ちた楼閣に佇んで、ただ、祈る。
還りたい……。
「嘆きは……深いのですね」
青年が、懐から、笛を取り出す。唇に、あてる。けれど、音を奏でる前に、青年は、笛を下ろした。
一人では、足りない。一人では、駄目なのだ。
どれほどの名曲を顕そうと、たった一人では、それは、宴にはならない……。
「誰か……力を、お貸し下さい」
古き幻の夜に佇む、白き影の声が届いたなら……。
今一度の、まほろばの夢を、今宵限りに……。
【鎮魂】
「同情はしないわ」
当然でしょう?
朽ちた楼閣に佇む白い人影に、真迫奏子が、語りかける。
何かに強く呼ばれた気がして、ここに来た。
最後の座敷も終え、後はゆっくりと体を休めるだけのはずだったのに、気が付けば、こんな辺鄙な場所にまで、のこのこと引き寄せられてしまっていた。
住宅街に、ぽつりと取り残されたような、ただ広いだけの空き地。
向こうに、味気ないビルの群が見える。遠くで、無粋な列車の走る音が、響いた。花柳界の大輪の華と謳われる奏子には、あまりに相応しくない舞台だった。陰気な幽霊が、弱気な顔つきで、うじうじと訴えてくるのも、ひどく気に食わない。
「自分で何とかしなさいよ」
泣いても、誰も助けてはくれない。
生きること自体が、常に戦いなのだ。
奏子も、そうだ。広いようで狭いような、浅草の花街。自分の居場所を得るために、常に、厳しく凛とそこに居続けた。なるほど、持って生まれた才能はあるだろう。だが、それだけで生き抜いていけるほど、甘い界では決してない。
努力を、惜しんだことはない。
一番艶やかな華でいるために、自らに、磨きをかけた。全てが、才能に加え努力に裏打ちされたものだからこそ、誰にも負けない自信がある。
泣くだけなら、簡単だ。泣く前に、あなたは何をしたのかと、それこそが、真迫奏子の尋ねてみたいことだった。
「何がしたいの。何が望みなの。還りたいと訴えるなら、そのために、あなたは、一体、何をしてきたの」
人影は、答えない。
答えられるはずがなかった。
彼は、何も、してなどいなかったのだから。
「私は、むしろ、大津皇子の方が、気になるわね」
謀反の疑いありと殺された、もう一人の皇子。
悔いなら、彼の方が残るだろう。恨み言なら、それこそ山脈一つ分もあるに違いない。だが、大津は、ここにはいない。
彼は、嘆いて心を残すような人物ではなかったのかも知れない。死んだら、それは自らが甘かっただけと、きっぱりと割り切れる。
豪放な気性の皇子だったと、草壁が、言った。
いつも堂々として、生き生きとして、だからこそ、憧れてやまなかった、と。
「私の母が、最も皇位に相応しかった皇子の命を、奪ってしまったのです……」
「あなたのためじゃ、ないわ」
真迫奏子が、呟く。
薄く揺らめく崩れた楼閣の間を、縫うように、歩く。
足下の爪先に、ひやりとした感触が触れた。驚いて下を向くと、雑草が生い茂っていたはずの空き地が、いつの間にか、池に取って変わられている。
いつもより大きく見える青い月が、黒い水面に、浮かび上がる。天と、地と、二つの月の狭間に、奏子はぽつりと佇んでいた。御殿から続く渡し板は、ずっと、篝火の燃える舞台の上まで続いている。
笑い声が、ふと、聞こえた。
「最後の夜は、星祭りでした」
楼閣が、蘇る。時間を飛び越え、空間を飛び越え、遙か彼方の飛鳥の景色が、再現される。真新しい、黒々とした、見事な建築様式の城が、現実を押しのけて、目の前に君臨する。
奏子自身は、金彩の衣を天女さながらに身に纏い、ほとんど無意識のうちに、舞台の上へと進んでいた。
艶やかな古代の衣装を身に纏っても、奏子は、やはり、浅草の芸者だった。
見も知らぬ飛鳥の舞など、踊る気はない。
彼女は、心の底から、プロだった。誇りがある。自負がある。慣れぬ舞を、見苦しく他者に示す気は、毛頭無い。
飛鳥の衣を翻し、奏子が舞うは、浅妻船。
現代に生きる奏子だからこそ、現代に伝わる舞を、選んだ。
「私はね、西暦二千年を越える現代に生きる芸者なのよ。他の時代を舞う術なんて、知らないわ」
私は、私よ。
奏子が、笑う。
艶やかに、鮮やかに、その場にある全てを、惹き付けてやまない。
御殿の中央に座し、じっと舞手を見ていた女が、満足そうに、手を叩いた。
我の強そうな、女だ。けれど、信念を持った双眸だ。ああ……間違いない。舞いながら、奏子は、確信する。
あの女こそが、持統天皇。
草壁の母。甥殺しの皇后。
「怯えているのかしら?」
草壁は、自分の母親に。
おどおどとした眼差しで、皇后を見つめる。言いたいことの半分も、口にしたことがないに違いない。時間を巻き戻してでも、大津皇子に謝りたいはずなのに、躊躇いが先に出て、石のようにその場に重苦しく留まっている。
やがて、御殿に並ぶ、高貴な故人たちの間から、すっと、一人の青年が席を離れた。
誰に聞いたわけでもないのに、わかった。大津皇子だ。天武天皇が既に亡く、皇后の権威が強すぎる今この場は、彼にとっては、居心地が悪すぎるのかも知れない。草壁をちらりと一瞥し、彼は、足早に立ち去った。
草壁は、まだ、俯いたままだった。
「一生、そこでウジウジしていなさいよ。この馬鹿!」
イライラしながら、奏子は駆ける。立ち去る皇子を、呼び止める。草壁のためではない。あんな陰気で意気地なしのために、脱いでやる一肌など、あるはずがない。お節介など、全く、ガラではないはずなのに……。
「相変わらずだな。草壁は」
振り返り、大津が言った。
奏子が、はっと息を呑む。
「あなた……?」
幻の楼閣の、幻の住人ではなかった。目の前の青年は。
「見事な舞だった。思わず、遙けき野から、戻ってきてしまうほどに」
歴史に埋もれる影ではない。彼には、意思がある。感情がある。
「大津皇子……幻ではなく、本物の……?」
「相変わらず、泣いているのか。草壁は。俺が死んだのは、誰のせいでもないのだが。そういう時代だった。それだけだ」
「悔しくは……ないの?」
殺されたのよ。あなたは。
「野心はあった。皇族に生まれたからには。そして、敗れた。向こうが上だった。それだけの話だ。悔いはあるが、恨みはない」
あんたになら、わかるだろう?
大津が、問う。奏子が、笑った。
「そうね。わかるわ。望むままに生きて、そして、しくじって死んだのなら、諦めもつくわ。選んだのは、自分なのだから」
誰が悪いわけでもない。
誰のせいにする気もない。
運命も、宿命も、信じない。
自分の道を切り開くことが出来るのは、自分だけだ。
だから、失敗すらも、愛おしく思える。
「似た者同士かも知れないわね。大津皇子」
「光栄だな。美しくも手強い舞手に、そう言ってもらえるのは」
伝えてくれ。
大津が、身を翻す。
草壁に。
似た者同士のあんたになら、頼める。
「俺に、野心はあった。皇后は、それを見抜いていた。知恵比べに、俺が負けた。それだけだ。誰が悪いわけでもない……」
楼閣の影で、涙すること。
それ自体が、全ては、無駄だったのだ。
大津の死は、起こるべくして、起こった。
本人が、誰よりも、何よりも、一番、よく知っている……。
「鎮魂なんて、ガラじゃないのよ。大津」
でもね……。
婉然と、奏子が微笑む。
草壁のために、舞いたくはない。
けれど、剛毅なもう一人の皇子のためになら、たまには、似合わない役回りも、良いだろう。
「私は、ただ、私の舞を舞うだけよ」
望みが、叶ったのだろうか。
二人の皇子の、擦れ違ってきた想いが、ようやく、通じ合ったのだろうか。
幻の楼閣が、徐々に薄れ行く。そこに居合わす故人たちの影さえも飲み込んで、古代が、現代へと、還る瞬間。最後まで、奏子は、ただ、舞う。
まほろばの舞ではなく、今の時代の、彼女の舞を。
誰のためにか。皇子のためにか。
いや……。
恐らくは、「客」のために。
彼女は、宴に呼ばれた語り部だから、客のためだけに、最高の芸を披露する。
客は、月?
「いいえ……それよりも」
「月」すらも飲み込んで、更に広がる、「天」のために。
今は、天のために、ただ舞おう。
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも
大津……。
あなたこそが、相応しかった。
あなたこそが、「天」だった。
この真迫奏子が、たった一人の死人のために舞うなどと、有り得ない。
けれど、天の上に立つ、今は亡き王のためになら、らしくもなく、敬意を払おう。
月さえも、星さえも、従えて。
天に祈ろう。
鎮魂を…………。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1650 / 真迫・奏子 / 女性 / 20 / 芸者】
【NPC / 大津皇子】
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■ ライター通信 ■
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ソラノです。真迫・奏子さん。
この度のコラボノベル「月楼」への参加、ありがとうございます。
残間さまとの記念作品、ということで、完全個別で仕上げてみました。
私の中の奏子さんのイメージは、一言に言えば、「艶」です。
鮮やかなこと。艶やかなこと。でしょうか(笑)。
それから、力強いこと。
従って、相手NPCには、大津皇子を選ばせて頂きました。他に、草壁と持統天皇がNPCとして他の方のノベルに登場しております(笑)。
ちなみに、大津は、私のイメージする大津皇子、です。
実際に彼がどんな人物だったかは、わかりません。一夜の幻、ということで、さらりと読み流していただけると幸いです。
それでは、この辺で。
古代の中の現代の舞は、奏子さんの雰囲気、設定から思い付いたものです。
少しでも楽しんで頂ければ、嬉しく思います。
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