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<東京怪談ノベル(シングル)>


ヒカリ

放課後の美術室は黄金色の光で満ちている。
校庭に向いた窓からは、街の端に落ちる夕陽が見えた。開け放された窓から低く這うような風が流れてくる。それは立てかけられたキャンバスを少しも揺らすことなく、ゆっくりと波のように室内を侵食していった。
橘都昏(たちばな つぐれ)の足元から数センチの場所に射し込んでいるヒカリは、油絵の具のような重い朱色をしていた。愚鈍な輝きは柔かく、眠気を誘うように床材に染み込んでいる。
これはきっと記憶に残るだろう。都昏は確信のような予感が心に降るのを感じていた。
生乾きの血のような粘度を持った油臭さが、風に乗って足元から昇ってくる。その根源は窓を背にしたキャンバスで、そこに描かれているのは、どこにでもあるような幸せに微笑む少女の肖像だった。
髪は長くつややかに流れ、頬は暖かな血液を巡らせてほんのりと色づいている。口元ははにかむように微笑みを浮かべ、その瞳は夢見るように輝いていた。
絵の中の少女が背にした窓からは、美術室から見える風景が同じように描かれていたが、淡い輪郭で霞んだビル群は清潔で、世界のどんな種類の争いも介在していない場所のようだった。

肩に重みがかかって都昏は傍らに目を移した。
離れた所から確認し、全体の微調整をするのだと言って都昏の隣りに座った少女は、疲労に耐えかね、いつのまにか頭を預けて眠り込んでしまっていた。
細い三つ編みの片方を頬にかけて、薄く寝息をたてているモデルで製作者の少女は、キャンバスに写され始めた頃の面影を残してはいるものの、頬からはやわらかな赤みが抜け、目の下には酷い疲労の色が浮かんでいた。
現実はいつだって嘘が苦手で、絵の中に封じられた過去も、残り少ない魂の蝋燭を燃やして必死で生きている今も、同等で一つの法則の上に並べている。
都昏は手に持っていた本に視線を落とすと、毛羽立った感触のタイトルを指でなぞった。印刷された金色は所々かすれ、残った部分も手垢にまみれくすんだ鈍い色になっている。古臭い著書名が本の経てきた時間を感じさせた。
学校の図書館に所蔵され、宿題がなければ決して手に取らなかった書物。繋がることのない二人の時間を少しの間だけ結びつけた本は、都昏の手の中で深く沈黙していた。



放課後、読書感想文の為の本を静かに集中して読む場所。都昏が求めていたのはたったそれだけのことだった。
図書館は同じように宿題を出された生徒が大勢居て落つかないだろうし、教室では鬱陶しい影のようにまとわりついてくるクラスメイトがいる。自宅はおよそ”静か”という単語が相応しくない場所で、邪魔が入ることは必須でだろうと初めから選択肢に加えてはいない。
公共の施設に足を運べばいいのだが、道を聞かれること以外の用件で進行方向を遮られる事が多々ある身の上としては、わざわざ面倒を背負いこむ要因にもなりかねないことは避けたい。
自分の外見がこんなにやっかいなものだとは、今日まで真摯に考えたこともなかった。都昏は腰に手をあてて小さくため息をつくと、借りてきた本を手に特別教室のある方へと足を進めた。

音楽室からはブラスバンドの練習が響いている。理科室は実験用のガラス器具がぶつかる硬質な音が聞こえる。今日に限ってどの教室も使用中らしい。
工作室・調理室……部活動の最中なのだろう、都昏が訪ねた教室はどこも先客がいた。
「……面倒だな」
都昏は一巡した廊下の端に立つと、顎に手を当てて呟いた。
まだ行っていない場所はないだろうか?
オレンジ色に光量を落とした太陽が、廊下の隅に黒い影を落とす。薄朱くなった窓の外を見ると、遠くの空を厚く塗られたような雲が漂っているのが見えた。
「あ」
都昏はきびすを返すと、迷うことなく目当ての教室に向かった。
設立当時からある教室だが、美術用具が増えて手狭になったため、今はもう授業で使われることもなく物置同然になっている場所。
第二美術室。
先ほど都昏が見た教室の中には第一美術室もあり、美術部がそこで活動しているのは確認済みだ。ということは、誰かが第二美術室を使っている可能性は限りなく低い。
もし使われる事があったとしても、部活動で無いならそんなに頻繁でもないだろう。読書感想文の締め切りまでの間、一週間ほど使わせてもらえればいいのだ。

都昏が手をかけたドアは、なんのためらいもなく開いた。物置として使われている場所なのに、鍵もかけられていない事への違和感を感じるより早く、開かれたドアから冴えざえとした金色が溢れ出す。
射し込む夕陽の中に居た薄い影は、訪問者に驚くこともなくゆっくり立ち上がると、都昏に「誰?」とだけ訊ねた。



タイトルを辿っていた指の動きが伝わったのか、傍らの少女は身じろぎをし、小さく何かを呟いた。その眠りを妨げないように都昏は指を止めると、呼吸も彼女に合わせるように同調させた。
春とはいえ、風はまだ仄かに冷気を含んでいて肌寒い。このままでは彼女の身体に良くないだろう。しかし都昏は起こすのをためらった。
少女の肌が触れている部分は、制服の上からでも確かに生き物の温度を伝えていた。
『このごろ疲れやすいんだ……でも早く完成させたくて』
誰に教えられずとも、動物は死期を本能で悟る。普段は野生を忘れて生きている人間に、超感覚が残っているとすれば、それは生存という生物の欲求に直結したものだ。周囲がどんなに口を閉ざしても、細胞の一つ一つが時を数えるように震え、自分に残された時間は燭台に溶け残った蝋のように、あとわずかでしかないことを知らせる。
きっと彼女は早くからその事に気がついていた? そうでなければ……都昏は昨日の出来事を思い出していた。

その日、いつもはキャンバスに向けられている視線を真っ直ぐ都昏に注いで、彼女は唐突に謎かけのような会話を始めた。
『その本、私も読んだわ……ねぇ、死は怖いものかしら?』
都昏の読んでいた本は、宗教家による生死観を題材にした詩集だった。
死から遠く離れている時にはわずかな関心も寄せないくせに、いざ自分がその立場に置かれると関心を持つ。典型的な人間が持つ感情の推移だと、都昏は心の底で冷笑した。
『……さぁ、考えたこともないから』
都昏は横目で彼女を一瞥し、抜書きの手を休めることもなく簡潔に答えた。宿題で強制的に読んでいる詩集の内容なんて真面目に考えたこともない。
そうでなくとも人間の生死観など、魔の血統である都昏には爪の先ほどの関心もなかった。
『そうだよね。でも私は怖いものじゃないと思う』
彼女は視線を落とすと、パレットの色を混ぜ合わせはじめた。三色ほどかけあわせて深みのある青が生まれたが、それは描かれた絵のどこにも似合わない色だった。
望まれないのに生み出された色は、着地点のない彼女の言動そのもののようだった。
『……なんて言ったらいいのか判らないんだけど、哀しいのかな?』
都昏の沈黙に否定の意思を感じ取った少女は必死で反論材料を探したが、上手く伝えられる言葉を見つけられなかったようだった。
『それが怖いってことだよ』
畳み掛けるように結論を投げると、彼女は柔かく微笑みのような表情を都昏に向けた。
『そう? でもね、違うよ?』
諦めのような静かな感情が伝わってきて、都昏は今度こそしっかりと彼女を見た。
しかしすべてを見通すはずの瞳は完全な沈黙を守って、都昏に何も示してはくれなかった。

それが何だったのか、今になってやっと判ったような気が都昏にはした。
『見えているかい?』
都昏は眠っている少女に声もなく語りかけた。
『……骸骨みたいになって死ぬまでに、出来ることをするしかないけど』
あの時、視線を向けたまま黙ってしまった都昏にそう言うと、彼女は口元に微笑みを浮かべて、始めたときと同じように会話を打ち切った。
『君にはこれが見えていたんだね』
死に近づき肉体から剥離しはじめた不完全な幽体は、限りなく魔に近いもので、それは水溶液のように濃度の差によって混和することがある。
魔物である都昏の眼と、意識だけになった彼女の眼はさきほどから完全に同化していた。
埃よけの布に灰色の影を与えている塵。夕陽の色を受けて、朱く色づいたガラスに薄く残る水拭きの白い線。赤々と燃えるような夕陽の彩度を落とす光化学スモッグ。
すべては計算されつくした絵のように調和し、その存在は平等だった。
都昏は完成間近の絵と、自分の網膜に映った光景を見比べてみたが、それはまったく変わりのないように思えた。世界は感傷的に綺麗だった。過剰なほど非現実的な色彩は、不変の静寂に包まれて蜃気楼のように揺らいでいる。
扉の奥にしまわれ、二度と開かれることのない記憶も、未来の都昏を構成するのものの一つだとしたら、こんな思い出があってもいいのかもしれない。一晩眠れば消えてしまう、人間のような曖昧な感覚。
惜別の色をした夕陽は、いつもより冴えたヒカリを内包しているようだった。