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<東京怪談ノベル(シングル)>


乞いし人

 ただ人のかたちをしているというだけの単なる物体だったこの身の裡に、こころというものがいつ生まれたのかわたくしは知らない。深く昏い淵のような虚無の中に、いかなる不思議で意識というものが存在するようになったのかわたくしにはわからない。
 生き物とは違う死んだ木でできたこのからだのどこに魂の入り込む余地があったのか。
 なにもわからないけれど、でもそれなのに、胸をしめつけられるようなこの気持ちの名前だけは、なぜだか最初から知っていた。
(灯火。いい子ね)
 かわいて熱い、もみじのように小さく精巧なてのひらのやわらかな感触。
 おぼろげで今にも溶けて消えてしまいそうに儚い、それがわたくしの、たぶん最初の記憶。



 月の光が、白すぎる肌の表面を浅くはじいてこまかく散っていく。
 わずかに開いた窓の隙間から、するりと音もなく灯火は抜け出した。風のない月夜、青白い光の中で、身にまとった緋色の牡丹の振袖があざやかだ。錦の表面に絢爛にあしらわれた、金糸の刺繍がきらきらとひかる。
 植え込みの陰でうずくまっていた黒いシェパードが、ふと灯火に気づいて首を上げた。
 騒がれるかと思ってひやりとしたが、振袖姿の日本人形が空を飛んでいる非常識な光景を、番犬はしばらく黙ってぼんやり眺めていた。
 小さく緊張した両者のことをしばらく月だけが眺めていたのだが、やがて黒い犬は興味を失ったように丸くなると目を閉じた。どうやらこの場は見逃してくれるらしい。


 ‥‥灯火が前にいた家は、犬なんていなかった。
 灯火の前の持ち主が体の弱い少女だったからだ。犬や猫を飼うのはもちろん、よほど調子がよくなければひとりで外に出ることさえなかなか許されなかった。自分の部屋だけが彼女の世界だった。
 どういう経緯で自分がその家にやってきたのか実のところ灯火は覚えていない。ときどき耳にした大人たちの断片的な話をつなぎあわせると、少女の親が、身体が弱くなかなか表に出られない娘にねだられ、職人のもとから灯火を買いとってきたということらしかった。
 灯火という名前も、知らない間につけられていた。
 望んでいた綺麗なお人形を手に入れたのが余程うれしかったのか、自室という名のせまいちいさな箱庭で彼女はとても幸せそうに見えた。
 よくままごと遊びにつきあわされた。彼女は母親、灯火はその子供。おもちゃの食事を出されたり、着物を軽く直されたりと、本当にたわいもない遊びだ。もっとも一度など、灯火が着ていた振袖をすっかり脱がしてしまって、元通りに着せられないと泣いて大人に怒られていた。
 そのころの灯火には答えることも動くことも実際にはできなかったけれど、少女の想像の中では灯火は生き生きと動いているのか、ままごとの最後にはいつも嬉しそうに頭を撫でられた。
(いい子ね、灯火。よくできたね)
 そのころから少しずつ、少女やほかの人間たちの言うことがわかるようになった。


 庭先にいた犬は例外中の例外だったのは、すぐに思い知らされた。
 道の上を滑るように歩くたびに、どこかの庭にいる犬たちがヒステリックに吠える。あまりにも騒がしいので周囲の窓に明かりが点く。人形でありながら自立して動くことができる己が異端なのは、まだ幼い灯火にもわかっていた。
 犬の吠える声に追い立てられるようにしてその場を離れる以外、なにができるだろう。
 月が無慈悲に、赤い振袖を照らして輝く中で、常夜灯のつめたく硬質な光がひときわ映えている。


 食事のときも寝るときも一緒だった。
 少女が熱を出したときは机の上に座らされたままただ見守った。熱が下がると汗ぐっしょりのまま、机の上の灯火と目を合わせ、すこしやつれた頬で少女は、笑った。
 そのうち熱を出す間隔が次第に短くなっていった。荒い呼吸をなだめることもできない、動かない体がもどかしかった。辛そうなのは見ていればわかるのに、その『苦しい』という間隔が具体的にどういうことなのか、人形である自分にはそれすらわからないのだ。
 やがて少女は枯れ木のように痩せた姿で、両親に連れられて部屋からいなくなった。
 病院というところに入ったのだと、だれかが言っていた。
 帰ってくるのを何日も待ち続けたけれど、やがて部屋の中はきれいに片付けられて、灯火自身もあの家を出ることになり、そしてあの部屋に戻ることは二度となかった。


 夜がしらじらと明け始めている。
 結局あの家を、今夜も見つけることができなかった。太陽を知らない青白い肌をした少女が灯火を抱き上げて笑う、いつもあまい匂いがした、あの家を。
 ――今、灯火がいる家は、前にいたところとはまったく違う。
 犬がいるだけではない。今度灯火の所有者となった少女は病弱ではなかったし、ままごとをするほど子供でもなかった。もっとも、今ごろはあの少女も、このぐらいの年頃なのかもしれない。
 帰ったとしてももう、ままごと遊びなどしてもらえないのだろうか。
 だとしても帰りたい。あの部屋へ。与えられることをただ享受できる幸福と安寧だけが存在して、誰にもおびやかかされることのない、なによりも、あの少女が笑ってくれる、あの箱庭へ。
(戻らなければ)
 けれどももう朝は、すぐそこまで近づいてきている。現在の所有者が目を覚ませば、人形がないことに気づいて騒ぎ出すだろう。そのときあの犬は飼い主のために、きっと何よりも早く灯火の居場所をその鼻でつきとめる。灯火にはそれがわかっていた。あの番犬もまた、ある意味で自分と同じなのだ。
 あの犬が主人のためにあそこに在るように、自分はきっと、あの人に会うために生まれてきたのだ。
 戻らなくてはならない。
 あの広い家は自分の望んでいる場所ではないのに、自分にはほかに行き場所がない。
 なぜなら灯火は人形だから。
 人の手によって創られ、人の手によって好きなようにされるただの物体だから。
 こんな思いをするくらいならばいっそからっぽのままでいられればよかったのに。
 けれどどれだけ願っても自分という存在は消えず、記憶の中のおぼろな面影を追わずにはいられない。
(一体あなたは、今どこにおられるのですか?)
 どうすればまた、あなたは前と同じように、わたくしの頭をなでて笑ってくださるのですか。



 絵の具で色をのせられただけのわたくしの瞳が涙を流せたらいいのにと思う。
 胸をしめつけられるようなこの感情の名前をわたくしはなぜだか最初から知っていた。

(いい子ね、灯火)

 ――恋しい、というのだ。