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【 little decision 】
明らかに殺意の牙は自分に向けられたものだった。
もうだめかもしれない。
そういう感覚が全身に走って、目を閉じたところまでは覚えている。けれどその後、一体自分がどうなったのか、どうやって助かったのかは、まったくわからなかった。
大きく突き飛ばされ、コンクリートに全身を強く打ちつけた衝撃。それは、思っていた――死に至るような痛み――よりも遙かに軽く、拍子抜けしてしまうほど。これならば瞳を開けることも困難でないはずだ。
きつく閉ざされた瞳の力を緩めたとき、見えた光景に思わず自身の目を疑った。
「……しくじりましたですぅ」
◇ ◇ ◇
その日は天気もよく、気分がよかったのだろう。
心の中でもやもやとしていたものが、天気に溶け込んですっきりするように、数日前のあの夜のことを思い出しても、もう胸が苦しくなることもなくなった。
だからといって忘れたわけではない。悔しい思いが心の中から消え去ったわけでもない。自己嫌悪は今も、確かにこの胸の中にある。次にもし、目の前で同じようなことが起きたら――もう無いかもしれないけれど――何かをしよう。何か、自分にできることがあるはずだ。
そんな、矢先だった。
「え……」
のんびりと道を歩いていた鋼は、すぐそこの街角を曲がった一人の少女に目を奪われた。
「今の――」
間違いない。
今のは確かに、あの夜、知り合いに殺された……いや、殺されたのではない。あの場合殺さなければいけなかったのだ。闇を滅するために。だから、彼女に助けられたといったほうが正しいのかもしれない。
鋼の目に映ったのはそんな少女。だからもう、この世には存在しないはずだ。だったら今、自分が見たものが一体なんだ。
鋼は一つ深い呼吸をすると、いざ、見えた少女を追うために一歩を踏み出した。
何か話が聞けるかもしれない。あの夜のことは――二度と繰り返さない。
◇ ◇ ◇
その日は天気もよく、気分がよかったのだろう。
変わりない日々をすごした桜華は、真っ青な空を何度も見上げながら帰路に着いていた。
歩いているときに考え事をするのは得意じゃない。ただ何も考えずにまっすぐに歩くのが好きだ。だから、こんなお天気の日は余計に、「考え事」を青一色の空に投げて何も考えることなく歩いていたい。
誰にも邪魔されない一瞬の中に垣間見える、着飾ることを忘れた自分の姿。雲ひとつ無い青空は、そんな自分を映し出す鏡のようだ。
そんな矢先だった。
「あれは……?」
どこか間の抜けたような、あまり緊張感の無いような――いつもの桜華の声がつぶやいた、視線の先。
もうそろそろ忘れようかと思っていた、いや半分以上忘れていたかもしれない、数日前の夜のことが記憶の片隅から蘇ってくる。視界に入ってきた、完全に滅したと思っていた少女のせいで。
「おかしいですねぇ」
うーん。と悩みながらも、このまま黙って指を咥え、放っておくわけにもいかない。桜華は軽く首をかしげながら、街角を曲がり、工場地帯へと足を進める少女を追った。
どんどん街から離れて行き、立ち並ぶ工場の合間を抜け、その先にある廃棄となり放置されている工場の中に入っていく少女の姿をしっかりその目で捉えていた桜華は、同じようにその工場の中へと足を進める。
するとそこに。
「あ――飛鳥っ」
声をかけてきたのは後ろから。
自分とは、違うルートを通ってここまで来たようだ。振り返らずとも、その声で誰がいるのかはわかったが、とりあえず振り返って相手に顔を見せておく。
「何してるんだよ、お前」
「それはこっちのセリフですぅ」
そう言えば、数日前の夜もそうだった。
自分一人で少女を滅し、それで全てが終わるはずだったが、そこに彼――不城鋼の姿があったのだ。
「俺はあの子を追ってここに――」
と、指さした先に見えるはずだった「あの子」。
しかしその姿は先ほどとは一変し、
「なっ!」
見ているだけで吐き気を覚えそうな、もうこの世の生物とはいえない姿形で立っていた。
少女、猿、犬、鳥、猫……実際に見て「形」として確認できるのはそれぐらいだろうか。後は固形として認識できる形では残っていない。
少女として街を歩いていたときとは三倍とも、四倍とも思える巨大な身体が、辺りにちりばめられている工場の廃品を吸収し、さらに見るも無残な姿になっていく。
「早く殺らないと、こっちがあぶなくなっちゃいますぅ」
口調こそ変わらないものの、真剣な面持ちで桜華は辺りを見渡した。
必ずそばに幻獣たちが控えているはずだ。だからここで手を掲げ、大刀を求めればすぐに銀狼の榊が姿を変えてやってくる。
だが――
「ちょっと待て、飛鳥!」
「なんですかぁ?」
振り向いて頬を膨らませる桜華。
「頼むからあの子と話をさせてくれ。すぐに殺さなくても、何かわかるかもしれないだろ!」
「話なんてもう、できないと思いますぅ」
確かに彼女の言うとおりだ。
話を聞いてわかってもらえるような耳は、一体どの頭についているのだろうか。
「お前はっきり言うな……」
それは鋼もどこかで思っていたことだが、もしかしたら、なんていう一パーセントも無いような可能性にかけたいのだ。
もう、後悔をしないように。
「間違いない事実ですぅ。だから、さくらちゃんが害の少ないうちに消滅させるんですぅ」
「でも、少しぐらい時間をっ!」
「闇を知らない人がそんなこと言わないでほしいですぅ! ただ甘いだけじゃ、現実の心理は理解できませんよぉ」
――さくら、ボク、目に映る全てのモノを救いたいんだ――
もし今、鋼の言うとおりに少女に話しかけたら。
――さくら! あの子の事はボクが担当のはずだっ!――
もし今、この場にいるのが自分ではなく、妹だったのなら。
自分が傷つきながらも、少女の心までを救うことができるのだろうか。
自分が今、ここでいつもの通りに手をくだしてしまったら、きっと――少女の心を救うことは――
「現実の心理ってなんだよ! 誰かを救いたいとか、自分が後悔したくないからとかで、行動することは自分自身の心理じゃねぇのかよっ!」
鋼の言葉が耳に届いたか、否か。
そんなタイミングだった。
桜華からみれば、鋼を見ていたのだから背中にいたはずの少女。しかしなぜか自分の視界に入っている。
それは――少女、いや、あの獣が鋼を狙って背後に回ったから。
鋼に気がいっている今が、絶好のチャンスだ。そのまた背中に回って、鋼を攻撃している間に自分がこの獣を消滅させればいい。その時間があれば、銀狼が大刀に姿を変えることもできる。
けれど……実際、桜華が取った行動は――
どうしてだろう。
どうして……このチャンスを利用すれば、自分が傷つくこともなく、簡単に敵を滅することができたのに。
どうして――
どうして、かばったりしたのだろう。
「飛鳥っ!」
力いっぱい鋼の襟を掴んで後ろに放り投げると、牙を向けてきた犬の頭を左腕で受け止めていた。完全に噛み付かれている。肉に牙が突き刺さり、強烈な痛みが利き腕でもある左上に上部から身体中に走り回る。
けれどここで引き下がるわけにはいかない。
鋼をかばい、自分が傷ついたことへのとまどいなど、後ででも考えればいい。
とにかく今は、この獣をどうにかしなければいけない。
桜華はすぐに左腕に噛み付いている犬の首を持ち、血が噴出していることなど気にせず、懇親の力を込めて建物のはじまで投げ飛ばす。
そして
「もう二度と、蘇らないようにしてあげますぅ」
放たれた光。
鋼はその光に包まれた廃屋の工場の中で、ただ寝転がったまま獣の姿が消えていく様を見つめていた。
その光が一体なんだったのか。
鋼にはわからない。術とか技とか呼ばれるものなのかもしれないけれど、完全に獣が消滅されたことだけは理解できた。
そしてその光が薄れてきたころ。
真っ白な虎の背に身体を投げ出し、ゆっくりとここを去っていく桜華の後姿が目に映ったのだった。
◇ ◇ ◇
キーンコーンカーンコーン
授業終了のチャイムが鳴り響き、昼休みとなり、いっきに辺りがにぎやかな空間に変わる。
鋼がどこで昼食をとろうとかと迷いながら歩いているとき、ふとある教室が目に止まった。
「……ここは……」
昨日のあの事件。自分のせいで怪我を負わせてしまった桜華がこの教室にはいるはずだ。
結局何かをしようと思い、彼女の足手まといになってしまった昨日の自分。
白い虎に連れて行かれる桜華に声をかけることもできず、見送ることしかできなかった昨日の自分。
でも――今日の自分は……
「飛鳥」
利き腕である左腕を三角巾でつり、右手に箸を持ってはいるものの、うまく食べられずにこぼしながら弁当で悪戦苦闘している桜華。
呼ばれてそちらを見たときは、ちょうど黄色い玉子焼きを箸にさしたところだった。
いつものように「なんですかぁ」と間の抜けた声が返ってくるのかと思ったが、こちらを一瞬見ただけで返事はない。
完全に嫌われたな。
いや、当たり前だろう。自分のせいで怪我をしたも当然なんだから。
だからといって引き下がるのは今日の自分じゃない。
ずかずかと教室に入っていき、桜華の正面になるように椅子を持っていって腰をおろすと、「おい、飛鳥」ともう一度声をかけた。
「苗字で呼ばれても、学校には二人いるから、どっちを呼んでるのかわかりませんよぉ」
膨れながら、桜華は玉子焼きを口に運ぼうとした。
しかし
「じゃあ……」
その箸は簡単に鋼に奪われてしまい、空いた口には鋼がその箸で玉子焼きを運んでくれる。
「桜華、でいいのかよ?」
目を丸くして、まじまじと鋼を見る桜華。
「次は? 何食うんだ?」
ぶっきらぼうで投げやりな鋼の言葉にも驚いている。けれどしっかり「ご飯、食べたいですぅ」と答えを返した。
彼女の言葉どおり、鋼はのりが乗っかったご飯を箸で取り、口に運ぼうとするが
「のりもちゃんと乗せてください〜」
文句が返ってきて、胸中で悪態が漏れる。
……いいじゃねぇか、のりぐらい……
その後もそんなことの繰り返しで、ぶつぶつ文句を言いながらも、しっかり鋼は桜華に弁当を食べさせてあげた。
そんな鋼に対して、桜華の中に今まで感じたことのない「何か」があふれていることも知らず。
鋼は鋼で、決して言葉を使ってなんて表わすことはないけれど、小さな決意を胸にしまっていた。
それは、きっと――
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