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<イノセンス>
彼の携帯がコール音を告げたのは、上空高くに日も昇った正午過ぎの事だった。いつもならばサイレントに切り替えているはずの設定を、彼はその日に限って忘れてしまっていたのだ。
電子音特有の耳障りな高音に叩き起こされ、佐和トオルは予定の時刻よりも早くに目を覚ました。
鉛のように重い頭を起こして携帯を手にすると、液晶画面にはメール受信の文字が点滅している。携帯を開き、メール内容を確かめる。その不可解な内容に訝しげな表情を浮かべると、彼は間の抜けた声をあげた。
「……はぁ?」
<イノセンス>
僕たちの世界は必ずどこかで、誰かの世界と交差する。
それは、僕たちが思っているよりもきっと複雑で、悪戯好きな誰かの所為なのかもしれない。
1
『十時前まで仕事場に来るな』
メールは、共同経営者であるオーナーの男から送られて来たものだった。
主語の欠落した簡素過ぎるメールに、トオルは当然首を捻った。急な客の指名から時間よりも早く店に入ったり、同伴を強く希望され店に入る時間をずらしたりする事は今までに何度もあった。だが、故意に時間を遅くしろという内容のものは、これが始めてだったからだ。
不自然なのは、いつも電話を介して行われていた連絡が、今回に限ってメールで行われた事だった。
トオルはすぐさま相手の携帯へ確認の電話を掛けたが、電源が切られているのか一向に掛かる気配を見せない。開店前の準備で忙しいのかと、ブランクを置き何度もコールするが、電源が入っていないという内容のものが、留守番電話に変わっただけだった。
同僚の携帯にも電話を掛けるが、それもことごとく繋がる気配を見せない。偶然なのか、それとも意図的な何かがあるのか。
考えても仕方ないと思ったトオルは、留守番電話にメッセージを残し念押しの意味を込めてメールを送信した。
だが、予定の時刻間際になっても、彼の携帯が着信を告げる事はなかった。
結果的に連絡をとる事が出来なかったトオルは、仕方なく身支度を整え店へと向かった。
店のドアを開けると、室内は薄暗い照明に満たされていた。奥からは談笑する人の声が聞こえ、既に店は開店をしているのだという事が解る。
まずは、オーナーに説明を問う事が先だと、トオルは細く開けたドアの隙間から室内へと入った。
「あ」
細いフロアに足を踏み入れた途端、少し高い間の抜けた声にトオルの足が止まった。案内役のボーイが、トオルの姿を見つけばつの悪そうな表情をする。僅かに目を細めると、相手のカラーが動揺を意味しているのが解る。
すぐさま理由を問おうと口を開くが、客も出入りするフロアの真ん中で口論を始めるわけにもいかない。トオルは問いたい衝動を殺し、ボーイへと眉を寄せた。
「おはよう。何があったのかは知らないが、人の顔を見るなり奇声を上げるな。お客様が見ていたらどうするんだ?」
感情を殺した言葉が告げられ、ボーイの肩が脅えたように反応する。咎めるというよりも戒めるというもトオルの言葉は、彼の神経を震え上がらせるには充分過ぎる力を持っていた。
「あっ! おっ、おはようございます! すみませんトオルさんっ!! あっ、あの。その……。さっきのは、その」
先ほどの反応には理由があるのだと言いたげな素振りで、ボーイは言葉を濁らせた。だが、理由はどうあれ、トオルから見れば言い訳を探そうとしている素振りにしか見る事は出来ない。
だが、これ以上相手を咎めても仕方がないと判断したトオルは、小さく溜息を吐くと強制的に会話を終了させた。
「言い訳はいいから、これから気をつけるように。……あぁ、オーナーはカウンターに?」
会話の矛先が変わった事に安堵したのか、ボーイは表情を緩めると短く答えた。
「あっ。はい、そうですが。……何かご用ですか?」
「少し話しが。もしもお客様が来られたら、すぐに呼んでくれ」
「あっ。わっ、解りました!」
トオルはボーイを一瞥すると、フロアを抜けカウンターの前へと向かい、その前で足を止めた。薄いライトで照らされたカウンターの中に、渋い表情をした髪の長い男が座っている。トオルは、柱の隙間から体を中に滑り込ませると、光沢のあるカウンターの表面を指で二回ノックした。
「おはようございます、オーナー。お話があるんですが、今よろしいですか?」
「よろしくない」
オーナーと呼ばれた男は、顔を上げる素振りを見せる事なく彼の言葉を一瞬にして切り捨てた。その憮然とした態度に、トオルの表情が僅かに強張る。
周囲の空気から、男が何かを隠している事は確かだった。その事に、どんなの意味があるのか。何故、自分が隠し事をされなければならないのか。何よりも、どんな隠し事をされているのか。
はやる感情を押さえ込みなが、トオルは男に向けて再度口を開いた。
「今朝のメールの件についてです。出勤時刻の変更でしたら、事前に口頭で確認するという……」
「メールの内容は、あれ以上でもあれ以下でもない。解ったら、さっさとホールに入れ」
「……っ!!」
明らかに会話を拒絶している男の口調に、トオルの感情が乱れる。
苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべると、トオルは男の腕を掴み、カウンターの裏にあるスタッフルームの中へと引きずり込んだ。どこまでも表情を変えない男に向けて、僅かに声を荒げて反論する。
「どういうつもりですか?」
「……」
男は答えない。トオルはさらに表情を歪めると、まくし立てるように男へ言葉をぶつけた。
「朝のメールといい、スタッフの不自然な様子といい、貴方の態度といい、俺から見ると不自然過ぎる行動ばかりです。俺に……何か隠しているんじゃないんですか? プライベートでの冗談ならまだしも、仕事を巻き込んでまで俺を驚かせたいなんて、性質が悪すぎますよ? 貴方達はそこまでして、一体俺に何を隠したいんですか?」
そこで言葉を切ると、トオルは溜息を吐いた。視線を上げ、相手の反応を伺う。ここまで問いかけても答えてくれなければ、気づかなかった振りをするしかない。トオルは、半ば諦めの表情を浮かべていた。
「まぁ、そりゃ気付くだろうな。あれだけあからさまじゃ」
男は僅かに肩をすくめると、トオルを見下ろした。その口から出た言葉は、予想に反して素直な内容だった。
「推測通り、お前にだけ隠し事をしてる。だが、そのうちバレる。今はバラさないだけ。安心しろよ。お前を笑いものにしようとして、こんな事をしてるわけじゃねぇから」
男の言葉からは、悪意や虚偽といったニュアンスは感じられなかった。その言葉の意味通り、男の意図はもっと他の場所にあるのだろう。だが、意図がどこにあるにせよ笑えない冗談である事には違いはない。
「ですが!」
トオルは一瞬、反論をしようと声をあげたが、すぐに思い直したように口を閉じた。いつかは解る事なら、今すぐに聞きだす必要もないと思ったからだ。男の性格は長年の付き合いから熟知している。だからこそ、相手の意図が推測出来ないという部分もあったのだ。
トオルは表情を緩めると、男に向けて苦笑いを浮かべた。
「解りました。納得は出来ませんが、理解はしました。とりあえず……俺はいつも通りにしていればいいんですね?」
その言葉が面白かったのか、男は口の端を僅かに上げると満足そうな笑みを浮かべた。
「そういう事。まぁ、ここは素直に騙されるが吉だぜ?」
男の言葉に肩を落とすと、トオルは溜息を吐いた。今日で何度目か解らない溜息に、全身の力が抜けていくような感覚をおぼえる。
不適な笑みを浮かべたままの男は、トオルに向けてひらひらと手を振るとカウンターの中へと戻って行ってしまった。
トオルの口から、重い溜息が零れ落ちていた。
2
ホールに入ってすぐ、トオルは客からの指名でテーブルへとついた。七割ほど埋まったホールの中は談笑する声でざわついていたが、トオルにはそれが心なしか、いつもよりも静かな雰囲気に感じられた。
だが、そんなイメージはすぐに切り捨て、目の前に座る客に向けて笑顔を作る。嬉しそうな表情を作る相手に、トオルは定型の挨拶をした。
「こんばんは。今夜はご指名頂きありがとうございます」
彼を最初に指名したのは、外資系企業に勤める夫を持つ四十代後半の女性だった。ゴシップ紙などでは『セレブ』と称されるタイプで、二ヶ月ほど前から彼の常連になっていた。服装は異なるブランドのアイテムで固められ、その手には幾つものリングがはめられ、薄暗い照明の中で鈍い光を反射させていた。
「ねぇ、トオルくん。今日は少し、お店の雰囲気が変わって見えるんだけど……私の気の所為かしら? 何かが違う気がするのよね」
少し甘いけだるげな声で言葉をかけると、女性はトオルの姿を見上げた。どこか媚びるような仕草にだが、トオルはそれを笑顔で受け止める。
「そうですか? 俺は気付きませんでしたが……。何でしょうね?」
水割りを作っていた手を止めると、少し大げさな素振りで周囲を見渡した。いつもの仕事場と変わらないはずの場所が、今日に限っては何かが違う。落ち着いて周囲を観察すると、ホールに入った直後に感じた違和感が確かなイメージとなって感じられた。
いつもならば、ボリュームを絞ったクラシックジャズがBGMとして流されているが、今日はその音が聞こえなかった。談笑する声が大きく感じられたのは、その所為なのだろう。
ホールの中も、心なしか窮屈さを感じさせる。テーブル同士の間隔が、狭められているのか、案内役のボーイがソファにぶつからないようにと忙しそうに視線を動かしている。
「……あっ。ねぇ、トオルくん。あれかしら? お店がいつもと違う理由」
女性がトオルの肩を叩き、ホールの隅を指差した。彼女の言葉を受け、トオルもそちらへと視線を向ける。そこには、小さな空間が作られていた。
空間の床は一段高くされているのか、入り口に近いトオルのテーブルからも、空間の様子をうかがう事が出来る。床の上には木製の椅子が置かれ、淡いオレンジ色のライトが足元を照らしていた。
「ねぇ、何か始めるの? 教えて欲しいなぁ?」
女性が、どこが嬉しそうな表情でトオルの顔を覗き込む。その言葉には、種明かしをして欲しいという意味が込められているが、トオル自身にもその状況が把握出来ていなかったのだ。知らない事を答える事は出来ない。
(……もしかして、これが『俺に隠していた事』なのかな? けど、一体何を?)
忘れさせていた疑問が、一瞬にして浮上する。他のスタッフは自分に隠し事をして、一体何をしようとしているのか。その疑問が思考の中に広がる。
だが、トオルはその思考をすぐさま切り捨てた。
「それは……秘密ですよ? 始まれば解りますから」
一瞬思案し、相手に向けて意味をはぐらかすような言葉を選ぶ。同じ店のスタッフでありながら、自分だけが知らないのだという事を話す訳にはいかない。『何かが』始まるまでは、そうして受け流すしかないのだ。
短い会話を交わした後、話の内容は店の雰囲気から女性の身に付けているブランド品へと変わる。新しいバッグと服を買って貰ったのだと嬉しそうに話す女性に向け、トオルは相槌を打ちながら笑顔を向けていた。
一瞬、店の中に不自然な沈黙が生まれた。
楽しそうにブランド品の話をしていた女性も、ホールの中の空気に気付き思わず口を閉ざす。ホールの中にいるほぼ全員の視線が、一斉にして小さな空間へと向けられた。
「……あっ」
誰のものなのか解らない小さな声が、静かなホールの中に聞こえた。空間の端、バーカウンターの裏側から、何かが動くのが見える。その『何か』が薄いライトの光に照らされると、次第に人の形の影を作り出していく。その影の姿は直ぐに鮮明な形になり、空間の中へと現れた。
瞬間、トオルの耳の奥に、息を呑む音が聞こえた。
『今宵はクラブ『Virgin-Angel』にお越し頂きありがとうございます。突然ではありますが、今夜はバンドネオンによるライブをお楽しみ頂きたいと思っております。どうぞ、素敵なひと時をお過ごし下さい』
抑揚のないゆっくりとした声のアナウンスが、ホールの中に響き渡る。期待に満ちた声がテーブルの端々から聞こえ、笑い声に入り混じる。トオルの隣に座る女性も、興味ありげな表情を浮かべる。
だがその時、トオルの五感からは周囲の音や世界というものが、全て消えてしまっていた。
「……トっ」
(これが……。もしかして、俺に秘密にしていた、事?)
その視線は、空間の中に立つ人物へと向けられていた。視線は一点を見つめたまま、微動だにする気配すら見せない。おそらく、呼吸をする事も忘れてしまっているのだろう。
冷たくも熱くも感じられる感情の波が、一瞬にしてトオルの全身を支配していく。
そこには、数ヶ月前の夜に再会の約束した『大切な人』が存在していた。
(……どう、して。……どうして『彼』がここに?)
空間に立った人物は、かなりの長身の男だった。デザイン性の強い黒のスーツを着て、細い黒のフレームをかけている。一見すると、威圧感すら感じられる風体だ。
男は手にしていたアルミのケースをフロアの上に置くと、もう片方の手に持っていたシルバーの譜面台を手早く組み立てて空間の中に置いた。その上に、束になったスコアを置く。
椅子に腰を下ろし、アルミケースの中から黒い箱状のもの、バンドネオンを取り出す。パフォーマンスの一環なのだろう、男はバンドネオンを手にすると調律を確かめるかのように、大きく蛇腹を広げた。
アコーディンよりも僅かに低く、厚みのある音がフロアの中に響き渡った。
(だから、誰も。俺に教えてくれなかったんだ……。けど、どうして? どうしてここに……?)
トオルは、その男の姿に酷く懐かしい気持ちと、締め付けられるような喪失感をおぼえていた。
「……くん。トオルくん? どうしたの?」
「……っ! あっ、はい? 申し訳ありません。どうしました?」
女性の声に呼ばれ、トオルは漸く思考を現実へと引き戻した。客の前で失態をした、と内心で舌打ちをする。だが、当の本人はそんなトオルの表情を気にする事なく、むしろ初めて見るトオルの姿を面白いと感じていた。
「ねぇ、どうしたの? ぼーっとしちゃって。あの人知り合いなの?」
顔を近づけ、まるで尋問をするかのような口調で問いかける。だが、トオルはすぐに表情を取り繕うと小さく笑みを浮かべた。
「いえ、違いますよ。初めてバンドネオンを目にするんで、少し見惚れてしまって。日本では、中々本物を目にする機会はありませんからね」
トオルの言葉に、女性は納得したように頷いた。そうして、椅子に座る男へと視線を向ける。
「私も、バンドネオンという楽器は初めて見たわ。音を聞いた事はあるのだけど……どんな時に使われるものなのかしら?」
「初めは、持ち運びが出来るようにと作られた携帯用のオルガンだったんですが、今ではほとんどタンゴの演奏の時以外は使われる事はないらしいです。最近では現代音楽とのコラボレーションで、使われる事が多くなったと聞きます」
トオルの言葉に、女性は小さく感心の声をもらした。
一定の長さの音を発する事と、音階を奏でる事を何度か繰り返すと、男はバンドネオンの側面を軽く指でノックし、不規則な三拍子を刻んだ。そのリズムに合わせ、男が演奏を始める。それは、ワルツに似た音をしていた。
ポップスやクラシックとは違う、ヒーリングに近い優しさを含んだ音色がホールの中に広がっていく。
その音に、小さく心臓が跳ね上がる。
初めて耳にする『男の作り出す音』に、トオルの両腕は強く抱き締められるような痺れた感覚をおぼえていた。唇が震え、感情が溢れそうになる。
客に気付かれないように両手を握り締めると、トオルは感情を殺した。
「ねぇ、トオルくん。……折角だから、彼に何かリクエスト出来ないかしら?」
女性の言葉に、トオルは酷く驚いた表情を向けた。トオルにとっては予想もしていなかった言葉が、彼女の口から発せられた。
リクエストをして欲しい。それは、男と話すチャンスが出来るという事だ。
「リクエスト……ですか?」
気付かれないように、驚いた素振りを取り繕うようにして見せる。だが、女性にはそれが渋っているように見えたのか、さらにねだるような声をトオルへ向けた。
「えぇ。こんなチャンス滅多にないでしょうから。ねぇ、トオルくん。お願いしてもいいかしら? 曲はどんなものでもかまわないから」
笑みを浮かべてトオルは頷く。不謹慎ではあるが、トオルはこの瞬間に女性がねだってくれた事に感謝をしていた。
「……えぇ。解りました。可能かどうかは解りませんが、彼に聞いてみます。お待ち下さい」
ソファから立ち上がり小さく呼吸をすると、狭くなったテーブルの隙間を縫うようにしてホールの端の空間へと歩いて行く。トオルの掌には、僅かに汗が滲んでいた。
トオルが男に近づいていくにつれて、彼の行動に気付いた客達の間から不自然なざわめきが起こる。そのざわめきを耳にした女性は、大げさな仕草で足を組みかえ、優越感のある笑みを浮かべていた。
男に近づくと、トオルは段差の少し手前で足を止めた。男は一度だけトオルへと視線を向けると、曲の最後をゆっくりとフェードアウトさせて終わらせる。アドリブには慣れているのか、音は自然な流れで途切れた。
「こんばんは。俺に何かご用ですか?」
顔を上げ、男がトオルへと言葉をかけた。男に視線を向けられ、トオルは一瞬瞳を見開いた。真っ直ぐに見つめてくる男の姿に、トオルは浅く呼吸をして態度を取り繕う。ここは仕事場なのだと自分に言い聞かせながらも、男と言葉を交わす事が出来る事を純粋に嬉しく思っていた。
「えぇ、貴方にお願いがあるんです」
「俺に? 俺に出来る事なら何でも」
そんな言葉のやりとりに、思わず笑みが零れそうになる。こんなにも繕うような会話をしたのは、初めての事だったからだ。
「では、一曲お願い出来ますか?」
「曲ですか? どんな曲が良いですか? 俺に弾ける曲でしたら、どんな曲でも構いませんよ?」
どんな曲と問われ、トオルは一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑みを浮かべて言葉を返す。トオルはその時、懐かしい会話を思い出していた。
『好きなもの?』
『そう、好きなもの。何かあるだろ?』
『うーん。何かっつってもなぁ……。あぁ。映画なんかはちょくちょく見るけど、そうそう面白いって思うモンはねぇなぁ。やっぱ好き嫌いでいくと、五十年代頃のモノクロ映画なんかが好きだなぁ。あ、その中で一番好きなのがあるんだけど、どうしょうもないぐらいにマイナーだからさ? 映画の中身も好きなんだけど、やっぱ曲が良かったなぁタイトル? タイトルは……』
「『イノセンス』をお願します」
男の表情が、一瞬強張った。数秒の沈黙の後、まるで言葉を自体を思い出したかのように、男は慌てて返事をする。そこには、先ほどまでの余裕そうな雰囲気は微塵もない。
トオルは、そんな男の仕草に思わず笑みを浮かべた。
「……それって、あの」
「映画のイノセンスですよ。メジャーな方ではなく、マイナーな方の」
トオルに笑みを向けられた男は、何度かぎこちない笑いを浮かべて返事をした。薄暗い室内であったから良かったものの、その時の男の表情は酷く情けない顔をしていた。
「……解りました。けど、一つだけ聞かせて下さい」
男が眉を寄せる。それは、今にも泣き出してしまいそうな表情にも見えた。
「どうして、その曲を?」
トオルは、真っ直ぐな視線を向けると、男だけにしか聞こえないほどの小さな声で答えた。
「俺の……。俺の恋人が好きなんですよ。その映画を」
3
店のドアを開け外へと出ると、空は少し明るさを取り戻していた。東の空は白み始め、目覚めたばかりのカラスの鳴き声が、遠くの空から煩く聞こえる。眠っていた世界は目覚めを向かえ、目を覚ましていた世界が、漸く眠りにつく。トオルにとっての世界とは、後者を意味していた。
呼吸をすると、鼻腔の奥が冷たさをおぼえる。澄んだ空気と表現をするには少し語弊があるのかもしれないが、明け方の空気が肺の中に溜まった空気を吐き出してくれるような気持ちをおぼえる。どれだけこの街で朝を迎えても、このイメージだけは変わらないものだった。
「……」
トオルは無意識のうちに首筋に手を触れると、落ち着かない視線で周囲を見渡した。店の外、道沿いには人の気配は見当たらない。ふいに、強烈な孤独感に襲われ、トオルの心臓が小さく痛みをあげた。
「トオル」
「……っ!!」
ふいに近くから名前を呼ばれ、トオルは一瞬体を強張らせた。慌てたように視線を向けると、ビル傍の電信柱に凭れかかるようにして人が立っていた。それは煙草を手にした黒いスーツの男、名城トワの姿だった。
足元にアルミケースと黒のスーツケースを置き、どこか眠たげな表情で笑う男は、トオルの記憶の中にある姿と同じ姿をしていた。
「おはようトオル。……あーっと、やっぱお疲れ様?」
そんな間の抜けた言葉も、最後に言葉を交わした時と変わらない姿をしていた。
「こっちに帰って来る時にさ、偶然お前ん所のオーナーに捕まっちまって。……で、トオルを驚かそうかって話になったんだよ。ごめんな? ビックリしただろ?」
トオルの耳には、トワの言葉は聞こえてはいなかった。無意識に足を向けると、トワの目の前まで歩いて行き、足を止める。今のトオルには、トワの存在を確かめる
「……トワ、だよね? ちゃんと……トワ、だよね?」
見上げたトワの表情は、酷く困った顔をしていた。いや、酷い顔をしていたのはトオルだったのかもしれない。数ヶ月ぶりに再会した相手に対し、笑顔も満足に向ける事が出来ない事に、酷いはがゆさを感じていたからだ。
伝えたかった言葉、吐き出したかった感情が胸の中までせり上がって来るが、喉で押さえつけられてしまうのか言葉にする事が出来ない。トワもトオルも互いに言葉を見失い、ただ相手の視線を目で追う事しか出来なかった。
「……ごめん」
少し長い沈黙が続いた後、先に口を開いたのはトワだった。短く弱い言葉が告げられる。
「ごめん。急に……。急に、トオルの前からいなくなったりして」
トオルの肩が小さく震えた。反射的に下を向くと、腕で顔を隠し崩れ落ちそうになる気持ちを押さえつける。腕が震え、肩が震え、喉が震え、そして心が震える。
いけないと思った次の瞬間、トオルの両目からは涙が溢れて零れ落ちていた。
「……あ、あっ」
言葉にならない声が、唇から零れる。何度も頭の中で繰り返していたはずの言葉が、言葉という形として生まれてくれない。罵声も謝罪も慰めも、全ての感情がかき乱され涙となって落ちていく。
「……ごめんトオル。……俺は、トオルをこんな思いにさせたかった訳じゃないのに」
自分の本心を伝えているはずなのに、まるで言い訳をしているかのように聞こえる自身の言葉に、トワは吐き出しそうな感情をおぼえていた。何を伝えても、与えてしまった痛みは変わることはない。だが、伝えなければもっと痛みを与える結果になってしまう。
まるで強迫観念に襲われるかのように、トワは伝えられるだけの感情を言葉にして吐き出した。
「あの時、もっときちんと話が出来ていれば良かったと今は後悔してる。あの時は、それが一番いい結果だとずっと思い込んでいたから」
「ちが……っ」
「何を言っても言い訳にしかならない事は解ってる。……今だって、この言葉だって謝罪になんてならないかもしれないけど」
「もういいから!!」
声を上げると、トオルはトワの手に指先で触れた。掌を両手で包み込むようにして、その手を握り締める。
「……そんな言葉が、聞きたかった訳じゃないから」
トワはその言葉に、思わず息を呑んだ。何よりも、どんな言葉よりも初めに告げたかった言葉を、漸く思い出す。
ゆっくりと深呼吸をすると、トワはトオルに向けて優しい笑みを浮かべた。
「ただいま、トオル。遅くなってごめん」
「おかえりなさい、トワ。……本当に遅かったよ。ずっと、ずっと待ってたんだからね?」
その時、漸くトオルはトワに向けて笑顔を見せる事が出来た。
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