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邂逅 〜追憶の天使〜
●章前
鏡に映ったその人の面影は、
ひっそりと識域下に沈んだ遠い記憶の眠りを揺らす――。
誰ダッタカナ?
――思イ出セナイ‥
でも、きっと知っている人。
だって、心がこんなにざわめく‥‥
会イタイ人?
――ソレトモ、待ッテイタ人‥?
ああ、誰だっけ‥
もどかしくて、切なくて
覗き込んだ鏡面に映っているのは、
少し気難しげに眉を顰めた自分の眸。
●取引
「‥‥生きたいかい?」
自らを悪魔と名乗った少年は、苫地・武史(とまち・たけし)にそう言った。
熾った石炭のような赫い眼が、じっと苫地を見つめる。心の深層を見透かすような視線に囚われ、目を逸らせることはおろか瞬きさえ許されぬ束縛に息が詰まった。――この息苦しさは、<生>の証ではないのだろうか。
ぼんやりとそんなことを想う。
心臓の鼓動さえ聞こえそうな重い静寂と、無遠慮な視線を向けてくる少年の他は何も見えない闇の深淵。
ここがいったい何処なのか、
どうして、自分がここにいるのか――
見当もつかずただ戸惑い気味に視線を揺らす苫地に、少年は唇の橋を僅かに歪め音の無い嗤みを吐き出した。
「おやおや、まだ自分の置かれた状況を理解してないみたいだね」
芝居がかった大仰な仕草で肩をすくめた子供の言葉を量りかね、苫地は困った風に曖昧な笑みを浮かべる。――お世辞にも気の強いとは言えない苫地の内面をよく顕した対応に、少年は器用に片方の眉をあげた。
「キミは死んじゃったんだ」
「‥‥死んだ?」
言葉の意味を量りかね。――もちろん、音の意味を理解できないわけではなく、それが自分の身に起きたと言う相手の言葉が不可解で‥‥。
思わず聞き返した苫地に子供はその幼い顔に酷薄な表情を浮かべ、ふわりと闇の中に浮き上がる。異界のモノである自らの存在を誇示するかのように脚を組み、それは少し高い位置から冷ややかに苫地を見下ろした。
「そう。通り魔に刺されてね」
まるで他愛ないニュースを告げるかのような気軽な口調で、少年はそれを口にする。禍々しい光を放つ赫い眼が愉快気に苫地を見据え、くすくすと耳障りな笑声が闇の底を振るわせた。
胸の裡を食い散らかす葉虫のようにじわりと広がった焦燥に、苫地は懸命に記憶を探る。
今日は午後から講義があって、それに合わせて家を出た。
最寄り駅から繁華な商店街を大学に向かってのんびり歩きながら、妹にねだられている腕時計の値段を確認したりして。――歳の離れた妹・舞奈(ぶな)は、友達が持っているのと同じ時計が欲しいのだという。中学生になったばかりの少女には高価すぎると母親に言われたものの諦めきれず、兄に泣きついたのだ。
ビーズ細工のブレスレットを買ってやったばっかりで。我ながら甘いと思わないでもなかったが、バイト料が入ったらプレゼントしてやるつもりでいる。
「貴方がそうやって甘やかすから‥‥」
そう言って顔を顰める母の姿が目に浮かぶのだけども。それでも、舞奈の喜ぶ顔は苫地にとって何物にも変えがたい宝物だった。
ぼんやりとそんなことを考えていたせいで――
通りの賑やかな喧騒を引き裂いた悲鳴に気付くのが少し遅れた。不意に視界に飛び込んできた男の手の中で、きらりと閃いた白い光が何だったのか理解する暇もなく。
気が付けば、この深淵の闇の底で悪魔と名乗る少年と対峙していた。
「――生きたいかい?」
どこか愉しんでいる風にさえ見える表情で、悪魔は問う。全てを覆う暗闇の中で赫々と燃える双眸は、顔を上げた苫地の思考を読んだかのように。
「‥‥生きたい‥」
崇高な理想とか、
幼い頃、胸に誓った叶えたい夢‥‥。
そんな確固たるモノを持っているわけではない。
可もなく不可もなく毎日を過ごし、学校やクラブ活動にも真面目に取り組み、対人関係にもそれなりの評価は得ていたが‥‥自分が生きている意味について、深く考えたことはなかったと思う。――そんな機会も、必要もなかったから。
それでも、気が付けば「生きたい」と答えていた。
自分の存在が、この世から消えるという不安。死に対する漠然とした恐怖。あるいは、命あるモノの本能だろうか。
「まだ、死にたくない」
苫地の答えに、少年の姿をした悪魔は嗤う。――幼い顔に浮かぶのは、無邪気にも天真爛漫にも見える表情。
‥‥だが、
悪魔が申し出る善意は、決して無償ではない。――病院のベッドの上で目が覚めた時、苫地は名前以外の全てを失っていた。
●追憶の天使
最近、ひとつ気が付いた。
周辺で起こる怪現象は、どうやら自分に原因があるらしい。――講義中、周囲の生徒が妙にだらけて居眠りしたり、同じゼミの学生が苫地と顔をあわせた途端、昏倒したり‥‥。
大勢の通勤通学客が行き交う地下鉄の構内。
人を避けて選んだプラットホームの片隅で文庫本を片手に下り電車を待っていた苫地は、対向ホームの見覚えのある人影にほんのわずか顎を引く。
中学生だろうか。襟に白い筋の入った濃紺のセーラー服に白いカーデガンを羽織った、容貌<かおかたち>の可愛らしい少女だ。
心肺停止の後遺症として、病院で目覚める以前の記憶が全て抜け落ちている苫地には覚えのない顔。――だが、とても懐かしく、愛しさが胸に湧く。
眩暈にも似た激しい動揺。
ひとめ惚れなんて甘い言葉とはあまりにもかけ離れた衝撃に、呼吸<いき>をすることさえ忘れ――
掴む力を失った手の間から、単行本が滑り落ちた。
ばさり、と。履き古したスニーカーの爪先に当たり、灰色のコンクリートに乾いた音を響かせた本を慌てて拾い上げ、ちらりとまた視線を向ける。
やはり、似ていると思う。
――でも、誰に‥?
いくら記憶を探っても、瞼に浮かぶのはどこまでも続く深淵の闇。――暗闇の中で苫地を見据える熾った石炭を思わせる赫い双眸の意味さえも思い出せない。
ちらちらと遠慮がちに窺う苫地の視線に気付いたのか、少女はふと顔をあげた。線路を挟んで視線がぶつかる。
刹那――
閃いた衝撃が強い電流となって背筋から脳天を貫き、立ちすくんだ苫地の身体を縛った。
間違いなく、苫地は彼女を知っている。そして、驚愕に大きな眸を見開いた少女も苫地を知っていた。
「―――っ?!」
口を開いた少女の声は、薄暗い地下道に轟音を響かせ相次いで滑り込んできた2台の列車に遮られ‥‥
開いた扉から人が溢れる。いつもなら、周囲に気兼ねして最後尾に並ぶ苫地が、降りてくる乗客を押しのけて車内に飛び込んだ。無作法を咎める迷惑そうな視線も気にならない。
ただ、少しでも彼女を確かめたくて。
閉じた対向扉の強化硝子に張り付いた苫地の視界に、同じようにして向かいの電車に乗り込んできた少女の姿を見つけ出す。黒目がちの大きな眸はひどく真摯な色を浮かべて苫地を見つめ。――信じられないと言いたげに。
2枚の扉を隔てて、向かい合う。
確かに見知ったその顔は、
誰よりも大切な人だと直感した。声に出して叫びたい。ただ、懐かしく、愛しくて。泣き出したいほど胸が痛み、心が乱れる。
なのに、苫地の記憶は頑なに彼女の存在を拒むのだ――
圧縮された空気音を吐き出して、扉が閉まる。
ガタン、と。
無情に車体を揺らし、地下鉄はゆっくりと動き始めた。
「‥‥‥っ!!」
薄桃色の唇が何かを叫ぶ。
懸命に扉にはめ込まれた硝子を叩く右手。制服の袖口から少し覗いた健康的な色味を帯びた細い手首を飾るブレスレットに、鼓動が跳ねた。
スワロフスキーと呼ばれる繊細な硝子のビーズをひとつひとつ丁寧に織り上げた、世界にたったひとつしかないそれは――
いくつも並べられた女の子向けの雑貨店。
女子高生や女子中学生に混じって品定めをするのはとても気恥ずかしくて。
‥‥の喜ぶ顔を見たい一心で。
散々、迷い。何度も躊躇い、店員に可笑しくないかを確認し――
伸ばした指は、分厚い硝子に阻まれ。
次第に速度を速める地下鉄は、苫地の視界から少女を奪う。暗く先の見えない地下の闇。
ぼんやりと見つめる硝子に映った自分の顔に、赫い眼の悪魔が重なる。
音さえ届かぬ深淵の暗闇の底で、交わした言葉。
――生きたいかい?
あの時、
何と答えればよかったのだろう。
=おわり=
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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☆3139/苫地・武史/男性/21歳/大学生
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■ ライター通信
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‥‥無差別攻撃とは、危険な能力をお持ちでいらっしゃる‥(爆)。
顔を合わせてお話できるように構成を組みたかったのですが、お話中にパッタリ逝かれるのも怖いので、このような演出をさせていただきました。シチュエーションとしては、なかなか絵になる情景ではないかと思います。――うまく表現できれいればいいのですけど(捜しているということは、妹さんはPCさんがお亡くなりになったコトはご存知ないのでしょうか?)。
記憶喪失について。設定では悪魔との取引(?)ということですが――世間の常識に照らすと、さすがにちょっとびっくりされるかと思いましたので、表向きは「心肺停止の後遺症による記憶の欠落」と理解されているという形で少し補強させていただいています。お気に召されなければ、スルーしてくださいませ。
03/May/04 津田 茜
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