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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


壊れた酒


 宇奈月慎一郎という患者の話題も、いつからかさほど看護師たちの間にはのぼらなくなった。始めのうちはその壊れっぷりが他の患者よりも輪をかけていること、彼の病室で夜な夜な何かが起きているような様子であることが、精神を病んでしまった人間たちに慣れてしまった看護師たちにとっても奇異なものであった。しかしそれも、彼女らは慣れてしまった。
 慣れていないわけではないが、地前静香は相変わらず宇奈月慎一郎を気にかけていた。すべての患者に平等に――というよりは、適宜に――接しなければならないことはわかっている。妙な呪文をそらんじたり、勝手に離院(世間ではこれを脱走という)したり、退院してもまた何かオカルティックな体験をしたせいで病院に舞い戻ってくる長髪の好事家は、わけもなく静香の気を引いた。
 ――恋?
 そんな考えに行きつくと、静香はきまってふるふるとそれを振り払い、仕事に戻るのだった。患者に恋など、フィクションの世界だけでたくさんだ。現実の病院というものはまさしく、フィクションなどよりも劇的で、どんよりと濁っている。
 それに、我に返る静香にさらなる現実を突きつけるのは、宇奈月慎一郎に代わって看護師たちの話題をさらっている事件だった。

 静香が勤め、宇奈月慎一郎が入院している療養所では、あまりにも立て続けに死者が出ているのだ。

 内科や脳神経外科ならばともかく、ここは精神病棟である。だというのに、死者が多い。ここのところ、の限定つきではあるにせよ。
 2名ずつ、夜のうちに患者が旅立っていく――そんな毎日が、もう7日も続いていた。ベッド待ちの患者が多いこの病棟も、おかげで効率がよくなってしまっている。
 死者はまるで、眠っているようだった。苦悶も悲哀も悔恨もなく、永遠の眠りについてしまったかのよう。看護師たちも知らぬうちに、彼らは死んでしまっていた。
 この世で最も不自然な、自然死であった。
 いずれの患者も、1分後に死んでもおかしくないような疾患を持っていたわけでもないし、老衰で死ぬような年齢でもなかった。
 だが、間違いなく、ただ単に心臓が止まってしまったことで死んでいたのである。

 何かの呪いだろうか、と静香は思った。
 呪いといえば、オカルト。
 オカルトと言えば、宇奈月慎一郎。
 ――あーあー。ちがいますったら。へんな私。
 またしても、静香はふるふると首を振って、現実に立ち戻った。
「あら、宇奈月さんがまた」
 不意に上がったひとりのナースの声に、詰め所にいた看護師全員がぴくりと顔を上げた。誰よりも先に、静香が動いていた。


 508号室からどう抜け出したのか、慎一郎も覚えていない。
 ただ曖昧な夢の中で、この病院の住人たちが死んでいくのを見た。真っ白いオバケが、色々教えてくれたような気もするのだが、あまりよく覚えていない。
「べなてぃる、からるかう、でどす、よぐそとおす。あらわれよ、あらわれいでよ、よぐそとおす。よぐそとおすはもんなりせば。てってってってってっぷらとーん!」
 奇妙な節の歌を唄いながら、奇妙な振りつけで踊りつつ、慎一郎は裸足で廊下を移動していた。笛の音の伴奏は、慎一郎の脳の中で響き渡っていた。
「宇奈月さぁん、どうなさいましたぁ?」
 のんびり、ふわりと声がかけられた。
 その声には確かに聞き覚えがあり、慎一郎は歌と踊りをやめると、ぴたりと大人しくそこに留まった。
「あああ、地前さん。おはようございます」
 いまは午後6時だ。
「こんばんはぁ、宇奈月さん」
 慎一郎を呼びとめたのは、柔らかな笑顔のナースだ。
 慎一郎は、何故かはっきりと彼女の名前を覚えていた。地前静香、だ。
「私の名前、覚えて下さったんですねえ。何だか、嬉しいなぁ……」
「で、何人亡くなりましたか」
「えっ?!」
 慎一郎の質問は突拍子もなかったうえに、的をついているようなものだった。静香が言葉に詰まったのを見て、慎一郎はきょとんとした。
「何人亡くなりましたか、と」
「……宇奈月さん、ご存知なんですか……? ど、どうして……」
 患者に話す必要もないことだ。いたずらに不安を誘うような噂を流せば、傷ついたり病んだりしてしまった精神に悪影響が出る。精神病棟での死者が相次いでいることを、患者が知るはずはないのだ。
「僕は、全部夢で見ましたから。連れていかれてしまったんですよ。今まで、全部で14人。ははは。いあは。はすたあ、くふあやく、ぶるぐとむ。もごむぐ」
「連れて行かれた、って……?! 宇奈月さん、ほんとに、ほんとのことを知ってるんですね!」
「宇宙の真理なのです。皆さん、今頃はユゴス辺りに行かれているかもしれません。地前さん、皆さんを呼び戻されたいのですか?」
「勿論ですよ。死んでしまったわけでは、ないのでしたら――」
「戻ってこれますかねー。もう、完全に向こうのひとになってるかもしれませんねー」
「……どこまでご存知なんですか?」
「だから、全部ですよ」
 慎一郎は微笑むと、また奇妙に身体をくねらせながら歩き始めた。
 あてもなく歩いているようだったが、間違いなく真理に向かっているようにも見える。
 地前静香は、黙って慎一郎のあとに続いた。


 ふらふらと慎一郎は歩き続けた。
 静香はどぎまぎしつつも、依然として黙ったまま慎一郎についていく。
 この病院はいたずらに大きな総合病院で、静香が一度も使ったことがないエレベーターや階段、開けようと思ったこともないドアが実に多くあった。
 慎一郎が開けたドア、上り下りする階段はそういった未知のものだった。めくらめっぽう、気まぐれに歩いているようでありながら、確かな意図がそこにある。
「あっ――」
 ようやく、静香は声を上げる。
 すでにそこは、病院にあるべき様相を失っていた。おそらく、地下だろう。階段は、上ることもあったが、下りることが多かった。空気は澱み、不愉快な臭いが立ち込めていた。
 低いハム音が地響きのようだ。剥き出しの配管や、得体の知れない機械が蠢いているのである。
 ここは、一体?
 静香の脳裏を、そんな陳腐な台詞が支配する。
「おお、これは凄い。蜂蜜酒がこんなにたくさん。見て下さい」
「蜂蜜、酒?」
 大仰な機械の片隅で、慎一郎が静香を手招きする。
 機械に接続されたガラス球には、黄金色の液体が溜まっていた。ガラス球と機械を繋ぐガラス管を、ふたりが見つめている間にも黄金色の液体が伝い、ぽとりぽとりとガラス球の中に落ちていく。
「お酒、ですかあ……珍しいお酒なんでしょうねえ」
「ええ、とても。飲んで呪文を唱えたら、ヒヤデスにだって行けます」
「ひやです? ああ、お酒ですものねえ。でも煮立ってますから、お冷は無理ですよねえ」
「あいあい、はすとーる。いあいあ、はすとーる」
 相槌を打つ慎一郎のうわ言(のように、静香には聞こえた)に、ごぼりとガラス球の中の液体が答えた。

 石笛の音がする――。

 おっ、と慎一郎の目が輝いた。
「素敵なゴーンタ族を呼ぶことは出来ませんが、梅阿片族ならやっぱり可能です。このお酒は本物ですよ」

 慎一郎が見た夢の中で、死んだとされる患者たちは、死よりも恐ろしい目に遭っていた。病院の地下で合成された蜂蜜酒を飲まされ、石笛と呪文を聞かされた。
 夢の中の夢を、慎一郎は見た。
 ちがう次元をかすめて飛来した蜂じみた使いのものが、ごっそりと実験台にされた患者の魂を抜き出していった。そして、恒星が生み出す風の中をたらい回しにされているのである。彼らは本当に痴れ狂い、最早この地球のこの次元に戻ることはない。永遠に狂ったままであることと、この世で冷たくなるということに、何の違いがあるだろうか――。
 実験は未だに続けられている。
「成功だ――成功だ! 成功だ! 成功だ!」
 その言葉はもう14度も、朝焼けの中で上がっている。
 石笛を振りかざして踊る白衣の男がそこにいる。
 魂を失ったものは、冷たいモルグで眠りにつくのだ。
『おにいさん、こういうひとたちもいるんだよ。おらいさんはずっとずっとしあわせなんだ。ぼくはおにいさんにおしえてあげる。こういう、あわれな、しらないうちにひきずりこまれたひとたちがいるってことをね。みたいなら、もっとみせてあげるよ。こわれてるおにいさんなら、もうこわれることもないんだし……あんしんして、ぼくらはおにいさんにゆめをみさせてあげられるんだ』
「ああ、もう飲めませんよ」
『くひひひ……んじゃ、まったねー。てっぷらとーん!』
 そしてその憐れを誘う人間が、自分自身であることも、宇奈月慎一郎は知らなかった。


 漆黒の髪と漆黒の目、純白の白衣が美しいナースが、ロッカールームに消えた。
 すぐに、ロッカールームから出てきた。白衣は、黒衣に変わっていた。
 彼女は黙って朝焼けの病院を歩き、いま、黒い瞳に鋭い光を湛えてそこに立っている。
 めったに行かない、外科の医師詰め所だった。
「……止めなくちゃ。……もう、実験は成功してるのに……やめることが出来ないなら、私が止めますよ……」
 蜂蜜酒が何であろうと、ある外科医が何を信仰し、何を呼びつけて、何を為そうとしているかなどということも、地前静香は特に興味がない。ひょっとすると、狂人の戯言かと思っているのかもしれない。彼女自身にもよくわからない。詳しい説明を聞いたところで、きっと自分には理解できないだろうとは考えた。それでいいのだ。きっと間違ってはいない。看護師として働いている以上、きっと自分は正気なのだ。宇奈月慎一郎や、蜂蜜酒を合成した医師とは何かがちがうに決まっている。
 こんな正気の沙汰ではない人体実験は、すぐにやめさせなくては――。
 ただ、それだけだ。
 そして、彼女はドアを開けた。


 慎一郎は満ち足りた夢を見ている。
 彼は今や、自分が何を喋って何を夢見ているのかもわからない。思うままに口にした実験室の場所と、その利用者の名前。すべてではないが、多くを地前静香が知ってしまった。
 白い病院の中で、またひとつ、痛みに打たれて命が消えていく。
 それは、哀しいことに、当たり前のことなのだ。




<了>