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<東京怪談ノベル(シングル)>


舞姫

 踊るように、との人の動作を現わす表現があるが、彼女の場合は、歩くように、息をするように、実に自然にステップを踏む。それはきっと、彼女のDNAにまで、ダンスと言うものが染み付いているからだろう。人々は口々にそう語ったと言う。

 ―――そう、伝説の始まりである。

 新緑の季節は、何の季節だろう。生命が芽吹く季節であり、希望に萌え立つ季節であり、五月病の季節であり。そして、彼女にとっては、タンゴの季節でもあった。
 タンゴ、それは四分の二拍子、または八分の四拍子のダンス曲に合わせて踊る社交ダンス。民俗音楽から生まれたアルゼンチン・タンゴは、二十世紀初頭、ヨーロッパに紹介され、洗練され、コンチネンタル・タンゴとして世界中に広まった。アルゼンチンタンゴには厳密には、四分の二拍子のタンゴと三拍子のタンゴワルツ、二拍子のミロンガと三種類に分かれるのだが、果たして彼女はその中のどれを選ぶのか。
 「そんなのは分かり切った事であろ。わしがそのような既存のもので満足するとでも思うておるのか?」
 「いや、思うも思わないもそんな事、考えた事自体、ついぞ無かったのぢゃが」
 あやかし荘の一角を、いつの間にか練習用スタジオに改築した源が、練習着らしい、裾を捲くって帯の後ろに挟み込んだ紬姿で仁王立ちになる。
 「まぁ尤も、タンゴなる踊りは、厳密にこのようなステップ、と決められておる訳ではないらしい。同じ曲でも、百人いれば百通りのダンスがあると言う訳じゃ。踊りたいように踊る、それがタンゴの醍醐味らしい」
 「しかしそれでは、その踊りがタンゴであるかどうかも分からぬのではないか?」
 素朴な疑問をぶつける嬉璃に、源が口端を持ち上げる不敵な笑みで、正座をする嬉璃の顔を見降ろした。
 「嬉璃殿にしては四角四面な物言いじゃのぅ…タンゴに慣れ親しんだ者ならば、それがタンゴであるかそうでないかは雰囲気で分かるそうなのじゃ。ほれ、あれじゃ。オタクな人間と言うものは、例えイベントなどで会わずとも、何となく雰囲気で同類である事を見分けられるじゃろ?あれと一緒じゃ」
 分かり易いような分かり難いような、実に微妙な例えであったが、嬉璃には通じたようだった。
 「なるほどな…匂いと言うか、同じ何かを持つ者同士、心の奥底で通じ合うものがあるのぢゃろう。そう考えると、ますますタンゴと言うダンスは奥が深いのぅ」
 「そのうえ、わしはオリジナリティを追求するが故、アイリッシュ・ダンスの要素も取り入れたのじゃ。あの激しく機敏な足元のみのステップ、あれはあれで惹かれるものがあるからのぅ…アイリッシュ・ダンスも厳密には、ステップダンス、セットダンスおよびケーリーダンスの三種類に分類され、その中でもまた幾つか種類分けされるのであるがの、そこまで踏み込んでしまうと、発表が夏以降になるからのぅ…」
 「それだけ歴史あるものだと言う事ぢゃの。おんしもやり甲斐があるぢゃろて」
 そう言って深く頷く嬉璃の様子に、満足げに笑みを浮べながら、源がカツンとヒールの音を響かせた。それに気付いた嬉璃は、暫く訝しげな目でそれを見詰めていたが、
 「…それはともかく、その恰好にその靴は……如何なものかと」
 「何を言う。美しいダンスは、まずは正しい足元からじゃ。ダンス用のシューズはその為に作られたもの、デザインもさることながら、機能性も勿論ある。草履で官能的なダンスが踊れると思ったら大間違いじゃぞ、嬉璃殿」
 「いや、それは分かるのぢゃが、だったら何故、恰好もそれらしいものを選ばぬのかと」
 「そんなの決まっておる。踊り難いからじゃ」
 「…………」
 矛盾しておる。そんな事は最早分かり切った事なので、敢えて口には出さない嬉璃であった。


 源と嬉璃の二人が、そんな会話を交わしていたのは今を去る事二ヶ月前。つまりは、源の誕生日の直後の事であった。
 タンゴと端午、ついでに言うなら端午の節句と桃の節句を取り違えていた源が、嬉璃に鋭く適切なツッコミを受けたあの夜、あれから虎視眈々と源はその機会を狙っていたのだ。ツッコまれたあの事柄は確かに素ボケであった。だが、それを素ボケのままで終わらせないのが、源の源たる由縁である。おでん屋さえも休業し、あやかし荘の一角をこっそり改造してまで、修練に修練を積んで来たのである。
 「と言うか、暖かくなって来ておでん屋に来る客も減ったからであろ」
 「…嬉璃殿、そう言う身も蓋もないツッコミをするでない」
 だが、源は本気だった。どの程度本気だったかと言うと、嬉璃にさえ、練習風景は一切見せなかったのである。嬉璃はただ、激しく踏み鳴らされる練習スタジオの床面の響きを、外から聞いていただけであった。朝早くから夜遅くまで、絶える事なく響き続ける靴音に嬉璃は、ほんの僅かな疎外感と共に、源が、本気の本気である事を思い知ったのであった。


 やがて来たる五月五日。そう、伝説がその魂を、神の領域で芽吹かせる時がとうとう訪れたのである。
 その日は朝からあやかし荘はざわめき、落ち着きがなかった。当の源は昨夜の内からその姿を見せないし、相棒?の嬉璃は全くの別行動で、今回はあくまで観客に甘んじるようである。ステージは改造された練習スタジオの中に設え、スポットライト等の装備も、いつの間にか完璧にされている。観客席こそ、床面に緋毛氈と座布団を引いただけのものであったが、その緋毛氈が、激しい鍛錬の結果として、丈夫な床面一面に残された、ヒールで抉られた痕を隠す為のものであると、気付く者は誰一人としていなかった。
 やがて時は来たり。住人は手に手に番号札を持ち(一応座席は指定席だったらしい…座布団の縁に、壱のイとか弐のハとか書かれた札が縫い付けてあるのだ)会場へとやってくる。おのおのの席には、源からの心尽くしの細やかな宴が設けられている。と言っても、時節柄か、朱塗りの足付き盆の上に、柏餅と玉露の茶器が乗っているだけだ。
 だが、それでも住人達にとっては充分なもてなしだった。何故ならば、彼らにとって今回の目的は、源の躍りそのものであり、舞姫の羽化と言う歴史的な事実を、この目で確かめる事だったのであるから。

 やがて幕が開く。観客達の間を右へ左へと忙しく立ち回り、接待をしていた茶虎猫と黒猫も、そっとその場を離れる。幕が開いて尚、真っ暗な舞台に、ごくりと息を飲む証言者達。カチ、と微かな音と共に一筋にスポットライトの帯が伸び、ステージ中央でポーズを付けたまま微動だにしない源の姿を、煌々と浮かび上がらせた。
 タンゴは柔軟性のあるダンス故、これと言ったユニフォームがある訳ではない。情熱のダンス、官能的なダンスと言われる為、タイトでスリットが際どいまでに入ったドレスが一般的であるかも知れぬが、それはあくまでもイメージ的なもの。極端な話、ジーンズとTシャツででも、タンゴの息吹を感じさせる事ができるのなら、それでいいのである。
 それを踏まえ、今日の源のいでたちはと言えば、その日を意識したのか、若草色のグラデーションに鯉のぼりと兜をデザインしたろうけつ染めの着物姿である。但し、タンゴと言う激しい動きを要求される踊りの為か、裾丈は普通だが、その両サイドに深いスリットが入れてある。勿論、足元は、着物の色と合わせた若草色の、ヒールの高いダンスシューズである。そんなアンバランスないでたちも、このステージの上でスポットライトを浴びた状態であれば様になる事を、身を持って証明してみせた源であった。
 暫くはポーズを付けたまま、動かない源であったが、やがて始まるタンゴの曲に合わせ、最初のステップが踏み出された。本来、男女の愛のダンスと言われるタンゴを、一人で踊るのだから、幾ら何でも無理があるだろうと観客の誰もがそう思っていた。だがそれは、常識と言う、浅はかな池の中の蛙であった事をすぐに彼らは知る事となる。源は、一人で二役をこなしているのかと思う程、感情豊かに、そして表現力豊かに踊り舞う。指の先、爪先までもがタンゴそのものと化したかのよう、源は一心不乱に踊る。それは、天照大神を岩戸から招き出そうと舞を舞った、天鈿女神とその姿が重なった。勿論、そこにいる者の誰一人として、実際に天鈿女神の舞いを見た事がある訳ではない(如何な嬉璃であっても、だ)だが、それでも人々は確信を持って、それに負けずとも劣らないと、源のダンスを評したのである。
 そのステップは感動を呼び、たおやかな指先は感慨を呼ぶ。カツリ、と最後のステップを踏み終え、最初の時と同じように、ポーズを取ったままその動きを止める源の吐息を感じた瞬間、その場にいた誰しもが、ただ一つの感情を共有する驚きを感じた。それは、普段シニカルな嬉璃でさえも例外でなく。

 その感情とは、喜び、悦び、慶び。素晴らしいダンスを堪能した感動、億の言葉よりも雄弁な表現力、その瞬間に立ちあえたと言う選ばれた者としての誇り。誰もが噎び泣き、そして心からの拍手を惜しむ事もなかった。そんな拍手の洪水の真っ只中、源は心地好い汗に濡れた頬を、心底満足げな笑みで飾り、深々と感謝の礼を贈るのであった。

 こうして世界は、本郷・源と言う、貴重な財産を手に入れたのであった……。


 「そう、わしは美の伝道師、わしはタンゴの申し子!皆のもの、わしの足元に平伏すが良い!」
 「…何を戯けた事を申しておるのぢゃ、おんしは」
 醒めた嬉璃の、溜め息混じりの声で源はうっすらと寝ぼけ眼を開いた。
 「………んあ?」
 数回目を瞬けば、そこに映るのは見慣れた天井。ふ、と横を見れば、嬉璃が座布団の上に座って朝のほうじ茶を啜っている。そんな自分は、いつもの高級羽毛布団に包まっているではないか。そう、ここはあやかし荘の薔薇の間。源の自室である。
 「……嬉璃殿、いつからそこで?」
 「一時ほど前かの。この部屋の前を通り掛かったら、何やら訳のわからぬ寝言を言うおんしの声が聞こえたのでな。中に入ってみれば、布団の中でじたばたと手足をばたつかせるおんしの姿ぢゃ。最初は、悪い夢でも見ておるのかと思ったが、良く見れば妙に幸せそうな寝顔をしていたのでな、暫く様子を見ておったのぢゃ」
 「…と言うか、わしの寝ぼけようを見て楽しんでおっただけなのじゃろ、真実は…」
 布団の上で起き上がり、半目で睨む源にも、嬉璃は素知らぬ顔で茶を啜った。
 「まぁ良いではないか。どんな夢を見ていたかは知らぬが、随分心地よさげであったぞ?それはそれでいいではないか」
 「良いと言えば、良いのじゃが……」
 どこからどこまでが夢で現実なのか、それが今ひとつ分からなくて、それが源にはどうもむずむずするのである。しかも、夢で練習スタジオのあったあやかし荘の一角が、いつからか何かの建物を撤去した跡地になっているのが、妙に気になるのであった。


おわり。