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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


Selection ≫ June bride

■序章 〜胎動〜

 雨が降っていた。
 昼過ぎから降り出した細かい雨は、新緑に萌える櫻並木を静かに包み込む。
 時間の判断がしにくい光の加減。人工的な輝き放つ携帯ディスプレイで時間を確認すれば、夕方6時を少し回ったところ。
 逢魔ヶ時とも言われる不可思議な時間。厚い雲の向こうに追いやられた遠い空は、おそらく茜色に染まっていることだろう。
 そんな見えない空を見たくなり、傘の下からひょいっと顔を出す。
 不意に目の眩むような感覚。一瞬暗転した視界が回復した直後、己の目にした光景に思わず足を止めた。
 ひらり、ひらひら。
 世界に舞うのは薄い紅。
 降り続ける雨はそのままに、冷たい雨ゆえか重力に逆らえなくなった櫻の花弁が、道を覆い尽くさんばかりに敷き詰められている。
「な……?」
 咲き誇る満開の櫻。突然の変化に呆然と立ち竦むしか術がない。
 状況を把握しようと、未だ跳ね続ける心臓の音を聞かないふりをして、周囲の様子に気を配る。そして気づく――視界の端、道の傍に傘も差さず蹲る一人の女性の姿。
「どうしよう……あれがないときっと嫌われる」
 綺麗にセットしてあったのだろうこげ茶の髪は、先端から透明な雫を滴らせ頬に張り付いていた。
「大事なものなのに。どうしよう、どうしたらいいんだろう。なんで見つからないの?」
 時間をかけて塗ったのであろう櫻と同じ薄紅色のマニキュアは、爪の先端からぼろぼろと剥がれ落ちている。しかし、その女性はそれを気にする様子はまったくなく、飾るもののない白い手で地面をぺたぺたとなで続ける。
 その様子があまりに必死に見えて、何をしているのですか、と自分の身に起きた事を棚に上げ、彼女にそう問い掛けようとした時、再び変化が起こった。
 薄紅が消え、濃緑がその存在を主張する。
 先ほどまでと同じ世界。
「おや、面白いものを見たようだね」
 突然背後からかかった声。蹲っていた女性から取って代わったように、忽然と姿を現したのは紫の女。季節的にまだまだ早いスリップドレスに身を包み、鳥肌一つ立てずに嫣然と微笑んでいた。
「どうした、別段不思議に思うことはないだろう? お前は今、ここにあった誰かの残留思念に触れただけなのだから」
 そう言うと、女はさらに笑みを深くする。
「お前は誰だ、という顔だね。名乗るくらいはしようか――私の名は紫胤、運命の選択を促す者。小難しいことは感覚で分かっておくれ、私は時間を取られるのが嫌いだからね」
 と、その刹那。世界が三度目の変化に揺れた。
 先ほどまで歩いていた櫻並木が続く道は消え、遠くに聞こえていた喧騒も気配一つしない。
「ようこそ、私の領域へ。せっかくだから一つ話をしよう……そう、先ほどの女性の話だ」
 何もない筈の場所に腰を下ろし、優雅に足を組み、紫胤はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「あの女性の名前は菅谷・香苗(すがや・かなえ)。ちょうど27歳になったばかりで、この6月に昨年の10月に婚約した男と結婚するはずだった」
 はずだった――過去形が意味することは、つまりは現在はそうでない、ということ。
「香苗は3月の末、自ら命を絶ってしまったのだよ。家から程近い廃ビルから身を投げてね」
 遺書さえ残されていなかった彼女の突然の死に、周囲は彼女の死の原因に何一つ思い当たることがなく、ただ深い悲しみにくれるしかなかった。
「彼女は何かに嘆いていた。その悲しみという心の闇に巣食い彼女を死へと誘った者がいたんだよ……常識と言う枠を越えた『人』ではない者が」
 そこまで話し終えると、紫胤はゆっくりと立ち上がり「なぜ、私がそんなことを知っているかとは訪ねるのではないよ」と小さく笑う。
「香苗の両親、そして婚約者だった男は今尚深い絶望の底に沈んだままだ。どうだ、香苗が死んだ当日という並相世界へ転移して彼女を救ってみる気はないか? 幸せになるはずだった未来を現実にしてやろうとは思わないか?」
 語り終えた紫胤は、薄いガラスケースに収められた一枚のメモを差し出した。そこに書かれていたのは先ほど歩いていた場所からそう遠くない住所と、ゲームセンターらしい店舗の名前。
「助けたい、そう思った者はそこへ行けばいい。そこで門番が待っている」
 ゆらり、と気配が揺らぐ。目の前の紫色の女が姿を消そうとしているのだ、ということを悟り、意識したわけではなくなぜか瞼が落ちた。
「あぁ、そうだ。言い忘れたが、『魔』は誰の目にも見えない――彼女の心の闇に巣食っているのだからな。だが本体は別にある。そちらは目鼻の効く者なら見つけることも倒すことも出来るだろう。
 だが、それだけで全てが解決するわけでは――」
 最後の言葉は、傘を叩く雨音に邪魔をされ聞きとることは出来なかった。
 開けた視界の向こうに続くのは、緑の並木道。しかし手にしたままのメモが、今起こったこと全てが現実であることを伝えていた。


■第一章 〜始まりの門〜

「さて、っと……」
 手渡されたガラスケース入りのメモを眺めながら、香坂・蓮はヴァイオリニストらしい形の良い指を顎に宛がい、ふっと思考の海にダイヴしていた。
 脇と首で絶妙なバランスを取っている傘を叩く雨の音は、ソ・ソ・ファ・ミ・ファ。
 無意識に譜面の上に並ぶおたまじゃくしを、取り敢えずは頭の隅に追いやり、蓮は蒼い瞳でマジマジと無機質のそれを眺める。
 雨で濡れた路面に、街灯の光が反射する。その僅かに力ない輝きが、左薬指にある銀の輪をひっそりと浮かび上がらせる。さらにその輪が弾いた光が、黒の中に混ざった一筋の金メッシュの髪を照らす。
「視たものは、確かに視たわけだし」
 結婚を間近に控えていたらしい、香苗と言うらしい女性の姿が蓮の脳裏に蘇る。そのあまりにも必死で、どこか悲壮感すら漂わせていた姿は、つい先日双子の兄が結婚したばかりの女性とは正反対の色に染まっているように見えた。
 同じ『花嫁』というものも、気持ちが違えばあそこまで違うものなのか。
 そう思いかけ、はたっと自分が何故こんな場所で立ち止まっていたかを思い出す。
 言いたいことだけ言って、さっさと消えてしまった『紫胤』と名乗った女。高圧的、とも挑戦的、とも取れるその態度は、何やらこのまま彼女の言うままに行動するのを、真剣に蓮に躊躇わせていた。
 かと言って、視てしまったものをそのままそ知らぬふりで見捨てて行くのは、気持ち悪いし、寝覚めも悪そうだし――何より、今の蓮の気持ちに正直なことではない。
「指輪、してなかったな」
 少々勘に触る女のことは暫し棚に上げ、蓮は今一度先ほど視た残留思念を脳内で再生する。
 雨の中、傘も差さずに。
 まるで雨の中に捨て置かれた仔猫のように。
 ぼろぼろに剥がれ落ちたマニュキアが、酷く悲しく見えた。
 そっと、左手に力を込めて握り締める。手の中で細い指輪が、失くせない温もりを蓮に伝えた。
「で、どうするか――というわけだが」
 今もこの場に凝っている哀れな女性を、悲しみから救い出し浄化するだけなら、蓮であればヴァイオリンがありさえすればいい。しかし、あの悲しみに彩られた顔が、幸せの涙に濡れた義姉の姿と被ると、なんとも形容しがたい気持ちになるのもまた事実で。
 握ったままの左手を、唇の辺りまで持って行き、もう一度考えようとした瞬間。その思考は背後からかかった奇怪な呼び名を連呼する声に遮断された。
「レーンちゃーーーん。レンレン。蓮ちゃーん。振り向かないとハスって呼ぶぞ〜♪」
「蓮と呼べって言ってるだろうが」
「却下――って、蓮ちゃんもあの女に逢ったの? なら話は早いや。そゆわけで、はいオレの傘持っててな。ついでにこっちでこのサイト見てくれると助かる」
 騒音と共に現れたのは、顔見知りの少年――季流・美咲。美咲は有無を言わさず、蓮に傘を押し付け、ついでに自分の携帯電話も放って寄越す。
 明るい液晶画面に映し出されたのは、事件などを扱ったニュース主体のサイトらしい。
 中学生の割には高い、しかし蓮からはまだ僅かに見下ろす高さにある美咲の目は、自分の小型モバイルの画面に吸い寄せられている。
「仕方ない。これも祝儀の一環だ」
 画面に羅列された文字の中に『菅谷・香苗』の名を発見した蓮は、既に自分が事件の渦中に放り込まれていることを悟った。


「ようこそ、俺の空間へ」
 それは紫胤がして見せたのと、ほとんど同じような出来事だった。
 彼女に導かれた者が全員揃った瞬間、それまではにこやかにゲームに興じていた一人の少年の表情が一変し、手にしていたガラス製の大鎌を振るう。
 ただそれだけのアクションの直後、それまではありきたりのゲームセンターだった店内が姿を消し、現れたのは蛍光色の光が明滅を繰り返す巨大な門がある不可思議な空間。
 しかも、他にいたはずの店員や客の姿も忽然と消え失せていた。
「改めて名乗ろうか。俺はゲートキーパーと呼ばれてる。その名の通り、この門の番人なわけだけど」
「別に、あんたの自己紹介なんてどうでもイイよ。それよりさっさと案内してよ。こんなとこでブラブラしてるほど、オレらも暇じゃないんだよね」
 軽く自己紹介、と微笑んだゲートキーパーに季流・美咲が、見た目は快活そうな笑みそのもので、そう言い切る。どうやら彼にとってうんちくはどうでもいいことらしい。
「おや、そんな急くなって。これから大事なこと説明するんだからさ」
「大事なこと?」
「そーそ。これからあんた達にはこの並相転移門ってのを潜ってもらうわけなんだけど、事前説明ってのと、注意事項があってね」
 何かしら、と首を傾げたシュライン・エマにゲートキーパーがにっこりと歩み寄る。そして背後から、そっと彼女の腕を取り、目の前にある巨大な門を指差させた。
「理屈は分からなくていい。イメージだけは紫胤に吹き込まれてきてるだろうから、俺は説明しない。ただ、あの門を潜るためには一つの宣誓をしなくちゃいけないんだ」
 言いながら、少年は取ったままのシュラインの手を、今度は彼女自身の胸元へと運ぶ。
「今からあんた達は、データという存在に分解され、望む世界へと移動する。その時、一部のデータが取っ払われる――新しい世界に適用しやすいように、ね」
「何かを失う、ですか。ならば宣誓するのはどの能力を失い……そして、そうですね。新しい世界ではどんな能力を得るか、というところでしょうか」
 独り言のように、斎・悠也は自分の中にあった『答え』を口にした。何故、自分がそんなことを思いついたかは分からないが、それがこれから起こることだと彼は確信していたのだ――否、この場にいる人間全てが。
「はい、良く出来ました」
「って、いつまで人を人形代わりにしてる気かしら?」
 悠也から返った言葉に、にんまりと笑いながらシュラインの手で拍手しようとしたゲートキーパーだったが、それは振り払われて不発に終わった。
「あっはは、悪い悪い。俺も年頃のオトコノコだから綺麗なお姉さんには触りたくなるんだよな。可愛い女の子とはプリクラ撮ったしさ」
 軽く一度肩を叩いてからシュラインの元を離れ、ゲートキーパーは空間を泳ぐように移動しながら、八雲・純華にウィンクつきの笑顔を投げる。
 あまりに気障ったらしい行動に、香坂・蓮はうんざりと天を振り仰いだ。しかし、そこに広がるのは際のない永遠に続くように思われる漆黒の宙。それはここが『現実』から切り離された空間であるという事を、言葉で説明するより雄弁に物語っている。
「ともかく、だ。俺らはお前に向ってそれを言えばいいわけ、だよな」
 何もないはずの場所に背中を預けた花房・翠が『面倒なことはさっさと片付けてしまおう』とばかりに話を切り上げにかかった。正直、何が起こっているのかは理解しがたい。しかし、先ほど見た紫胤が何もない場所に座ってみせたように、ある、と思ってやったら出来たのだ――背中を何かにもたれかけさせる事が。
 つまり、ここはそういう世界。
 常識で物事を推量ることの出来ない場所。
「そゆこと、だな。んじゃ、早速行って来て貰おうか。時は2004年3月27日。菅谷・香苗が命を絶ったその日、だ」
 少年がゆっくりと門へと手を伸ばす。
 すると、その門は自ずと外側へと開き始めた。
 その向こうに広がるのは、TVノイズのような磁気嵐にも似た光景。
「迷うなよ。迷子になっても俺は助けになんか行かねぇからな――ゲートキーパーの名において並相転移門を潜る者達に問う。シュライン、汝のPUTする力は何か? GETする力は何か」
「PUT、温感。GET、直感力」
「斎、あんたは」
「PUT、先見の力。GET、時を10秒止める力」
「花房だっけ、あんたは」
「PUT、味覚。GET、優れた嗅覚」
「了解。そこのヴァイオリニスト、次はあんただ」
「……PUT、左目の視力。GETは高い聴力」
「おっしゃ、んじゃ純華」
「え? あ、はい。PUTは声。GETは心に話しかける声です」
「じゃ、最後だ。そこのでかいガキ。お前は?」
「ガキっていうヤツがガキだって知ってるか? PUT、痛覚。GET、超常の存在に触れる力」
「よし、それじゃ行って来い。そこで成せ、自分の選択を」
 宣誓の直後、有無を言わせぬ力場が発生し、己の意志とは無関係に巨大な門に体が吸い寄せられていく。
 そして門を潜った瞬間、視界は完全にホワイトアウトし、聴覚はその役目を一切放棄してしまう。
 ただ残されたのは、奇妙な浮遊感だけだった。


■第二章 〜飛び去る蝶〜

 雨が降っていた。
 幾重にも重なりアスファルトの大地を冷たく濡らしたそれは、柔らかなオレンジ色の街灯の光を無感情に反射している。
 ちらりちらり、と雨に混ざり降ってくるのは薄紅の花弁。
「寒いですね。大丈夫ですか?」
 周囲の様子を注意深く窺いながら、悠也が近くに立っていたシュラインに傘を差し伸べた。そうされて、シュラインは初めて自分の手にも傘があったことに気付く。
「なんというか……本当に唐突ね」
 ありがとう、と微笑んだシュラインは自分の傘を天に向けた。パタパタと雨粒を弾くその音は、とても聞きなれたもの。けれど彼女は自分の身を覆う不慣れな感覚に、しきりに首を傾げる。
 寒いのか、暑いのか。全く分からないのだ。頬に触れてくる大気の流れが、皮膚をするりと撫でていくだけに感じるのが、なんとも気持ち悪い。
「確かに、日付は変わってるな。それに服もさっきまでと違う」
 携帯電話を取り出した蓮が、ちらりとそのディスプレイに視線を落し溜息をつく。着衣に乱れなどはないが、先ほどまで着ていた梅雨時期前のものではないそれは、間違いなく冬の終わりに着ていた自分のものだった。
 そして見上げる先には満開の桜。
 つい先ほどまでいた『現実』では、とうに散ってしまったはずのそれ。
「にしても、厄介だな」
 悠也に倣い周囲を見渡した蓮が、その違和に口の端を歪める。左の視力がない分、遠近感がつかめないのだ。微妙にふらつく足元がなんとも心もとない。
 こんな世界にいつも彼の人は身を置いているのだ――そう考えると、胸の深いところが疼き出すような感覚に囚われる。
「って、蓮ちゃーん。なんか遠くに行ってる場合じゃないと思うケド」
 不意に落ちてきた思考の幕に視野の全てを奪われかけた蓮を、美咲のあっけらかんとした声が強引に現実へと引き戻す。
「にしても面白ぇのな。ほれ、ここってあの女の残留思念とかゆーのを見た場所だろ? なんかオレ自分の意志でここまで来てるみたいなんだよな。ほれほれ、コレ見て」
 言いながら美咲が着慣れた学ランのポケットの中から発見した、鉄道会社のプリペイドカードを、蓮の目の前にちらつかせる。それを横から覗き込んだ翠が感心したように、へぇーっと溜息を零す。
「確かに、自分の足で移動してきたっぽいな。俺なんてそこにバイクまであるぜ」
 プリペイドカードには、確かに美咲の今日の移動経路が分かる印字がされていた。そして翠のバイクも六人の近くで雨に晒されている。
「これが『並相転移』ということですね。ところで、八雲さん――どうかしましたか?」
 先ほどから全く会話に加わってこない少女に、悠也はそっと歩み寄ると、その肩に静かに手を置く。
「―――」
 触れられ、純華は赤い瞳を不安に揺らし、悠也の金の瞳を見上げて見返す。そして何度か口をパクパクと動かすのだが、そこから彼女の声が零れる事はなかった。
「あぁ……そう言えば貴女は声を代償に力を得たんでしたね。大丈夫、リラックスして。声を出そうと思わないで。心で願えばいいんです」
 窮屈な水槽の中の金魚のように、短い周期で喘ぎを繰り返す純華の背を、悠也は二、三度軽く叩いてやる。誰かが不安に陥っている時は、適度なスキンシップが安定を取り戻すために大事なことか悠也は弁えていた。
 無論、その気遣いこそが彼の仕事での人気を支えているのは間違いない。
(「……あの………」)
「うん、大丈夫。ちゃんと聞こえる」
 か細いながらも心に直接響いた少女の声に、悠也が笑む。その様子に純華も、心での会話が上手く行ったことを知り、緊張で凝り固まった肩から力を抜いた。
 しかし、そんな穏やかな雰囲気も束の間の事。
「なぁ、あれ」
「えぇ、そうみたいね」
 最初に気付いたのは蓮だった。それに僅かに遅れてシュラインがすっと視線を流して頷きを返す。
 左目の視力の代わりに得た常人の域を遥かに超えた蓮の耳には、離れた所で誰かが地べたに触れる音が聞こえていた。歩く音とは明らかに異なるその音は、彼女――香苗の到来を意味している。
 一同の視線が、彼らからは50mほど距離のあいた場所に、傘も差さずに蹲る女性に注がれた。それは間違いなく、紫胤に出会うきっかけとなった残留思念そのままの姿。
「可愛い女性を哀しませ続けるわけにはいきませんからね」
 さっと行動に移ったのは悠也だった。
 職業柄身に付いたのであろう優雅な身のこなしで、香苗にそれとなく駆け寄り傘を差し出す。
「どうかされたんですか?」
「え……?」
 屈みこんだ彼女に視線の高さを合わせるように、悠也も静かに膝を折る。
 突然かかった声に振り返った香苗の頬は、雨粒以外の水滴に濡れていた。
「以前もお見かけしたことがあるんです。何か探し物ですか? よろしかったらお手伝いさせて頂けないでしょうか?」
 多くの女性を虜にしてきた笑顔に、香苗は一瞬焦ったように、手の甲で自分の濡れた頬を拭う。それから慌てたように立ち上がり、悠也から一歩距離をとった。
「いえ、あの……」
「一人じゃ効率も悪いだろ。良かったら俺も手伝うけど。何を探してるんだ?」
 急な出来事に戸惑いを隠せないらしく、優しい笑顔の悠也にさえ警戒を示した香苗に、蓮が改めて傘を差し出しながら声をかける。
 しかし、新たに加わった声に香苗はびくりと肩を竦ませた。
「大丈夫よ、コンパ帰りの一団みたいなものだから。ちょっと先から貴方が見えてね。気になったんだけど……どうかしたの?」
(「大丈夫、ですか? 何かお手伝いできませんか?」)
 自分を囲んだ集団の中に女性の姿を認め、香苗の表情に微かな安堵が滲んだのは一瞬。不意に響いた謎の声に、香苗の表情が一気に怯えの色に染まる。
 聞こえたのは軽やかな少女の声。そろりと見渡せば、高校生くらいの少女が、自分に向ってなにやらジェスチャーのようなものをしている。
「なに……あなた……?」
(「私、香苗さんのお手伝いがしたいんです」)
 香苗の視線が、純華だけを凝視していた。
「なんで? なんであなた私の名前知ってるの? 貴方達、何なのっ?」
 言葉の最後は、ほとんど悲鳴に近かった。
 しまった、と悠也の表情に苦い色が浮かぶ。
「待ってください。僕達は――」
「来ないで下さい。なんでもありませんからっ!」
「おい、ちょっと待てよ」
「いやっ! 離してっ」
 逃げるように走り出した香苗の細い手首を、翠が捉えかけたが、それは敢え無く振り払わる。
 そのまま香苗は駅があると思われる方向へ、一目散に駆け出してしまった。
 ひらり、ひらりと無情に桜が舞い落ちる。それに誘われるように、一羽の蝶が香苗の後を追いかけ飛んだ。
「そりゃー、まー、ねぇ。いきなり見たことない連中に囲まれたら逃げたくもなるわなぁ。それにアレだぜ、あの人。探し物がみつかんなかったくらいで、自殺しちゃうような人だろ?」
 一人、距離を置いたままだった美咲が、殊更ゆっくりと歩み寄りながら、片肩を竦め年長者たちに言い放つ。
「確かにな。誰かに一緒に探してくださいって言える人なら、魔につけ入られるようなこともないのかもしれない」
「そうね……確かにそうかもしれないわ。でも、これじゃ香苗さんが何を探してたかはっきりと分からなくなったわね」
 蓮とシュラインが顔を見合わせ頷く。
「やはり指輪をしていませんでしたからね。恐らくそれだとは思うのですが。しかし万一違った場合を考えると……」
 嫌な沈黙が帳を下ろす。
 それを破ったのは、翠と純華の声だった。
「探し物、指輪でいいと思うぜ」
(「はい、私もそれで間違いないと思います」)
 何を根拠にか明らかな確信を滲ませた声に、考えに詰まっていた三人が怪訝な顔で振り返る。
「どういうことですか?」
「どういうことも、こういうこともねぇ、って感じかな。さっきの女が婚約指輪をしてなかったってのは、あんたらも気にかかってることだろ。それに――」
(「それに、教えてくれた人がいたんです。皆さんは……ご覧になられなかった……んですよね? えーっと……なんか紫胤さんみたいな感じで突然……」)
 翠と純華の話によると、どうやら二人は一時的に、また誰かに遭遇したらしかった。その出会った相手は、自分を『導き手』と名乗り、行く先に迷っていた二人に『指輪』というキーワードを与えたと言う。
(「あのですね、なんか信じられないと思うんですけど。でも、私は彼女の導きっていうのを信じていいと思うんです」)
 身振り手振りを加えて説明する純華の姿は、どこか必死なものがあった。自分が不用意に特殊な能力を使ってしまった事を酷く後悔しているらしいその様子は、その分だけ誰よりも真摯さと熱意に溢れている。
「なんだかこう……自分できっちり理由見つけられたって訳じゃないのが、気にかかるけれど。それを言い出したらキリもないことだし。そうね、とりあえずその『導き手』とか言う人を信じてみましょうか。それに、純華ちゃんの勘はハズレ知らずみたいだしね」
 先日、とある依頼で一緒になったとき、ことごとく勘で当てた純華を思い出し、シュラインがそう結論付ける。最後に純華に優しい微笑を添えるのを忘れずに。
「となるとこれから先の行動だが」
「どうでもいいけど――ってよくないけど。ねぇ、蓮ちゃん気付いてる? 時間。ほら、なんだかんだで結構過ぎちゃってるぽいっていうか、あのゲートキーパーのバカ野郎って感じかもしれないんだけど。ニュースに出てた香苗って人の死亡推定時刻までもうそんなに間がないんだけど、どうする?」
 指輪を探せばいい、という結論に到達した安堵も束の間。今後を促そうとした蓮の言葉を遮り、ふたたび美咲が鋭い指摘を飛ばす。
 彼がゲームセンターに向う道すがら調べた情報では、香苗の死亡時間は22時過ぎとされていた。なんでもその時刻近くに婚約者の男性の携帯電話に着信があったらしい。運悪く出ることの出来なかった彼が、折り返し連絡をしたのだが、その時は既に彼女の応答はなかった、というのだ。
「現在時刻は21時。どー考えてもあの野郎がギリギリの時間にオレらを飛ばしたとしか思えないわけなんだけど。どうする? 今から指輪探すのか? それとも『魔』とやらを倒しに行くのか?」
 まだどこかにあどけなさを残した声が、ただ残酷に真実だけを告げる。
「……残り、一時間。いえ、それ以下、と見た方が妥当でしょう」
「分かれて行動した方がよさそうね」
 残り時間と、やらなくてはいけないこと。
 それらを考えると、気が遠くなる。しかしシュラインが呻くように出した答えに、誰も異存はあるはずもなく、六人はそれぞれ新たな選択をして走り出した。
 雨はまだ止まず。
 舞い落ちる桜の花弁の数も増え続けていた。


■第三章 〜銀の輪〜

「状況からして、鳥が持って行ったっていう可能性も考えたのよね」
「確かにカラスとかは光物を集める習性があるって言うしな」
「でしょう。でも私の勘はこの辺りに指輪があるって言ってるの。不思議よね、ただの勘でしかないはずなのに、それが確信だって信じられる」
「それがこの世界の法則ってことだろうな。不可解な事には変わりないが」
 ぱたぱたと傘を叩く雨音は、先ほどより強さを増している気がする。肩と首で押さえている傘は、時折大きく傾く。その度に雨粒がシュラインと蓮を直に打つ。
 しかし、そんなことをいちいち気にしている場合ではない。
「せっかく温度を感じないんだから、いっそのことこの邪魔な傘を放り出しちゃうってのはどうかしら?」
 吐き出した息は白く篭もる。寒い時分によく見かける光景に、シュラインは今この世界が『寒い』状態であると解していた。逆を言えば、それしか温度を判別する材料がない、と言うことなのだけれど。
「やめておいた方がいい。感じないだけで体温は確実に奪われるんだ。シュラインが風邪をひいたらあの興信所を誰が取り仕切るって言うんだ?」
「あら、でも最近は零ちゃんがいるから綺麗なものよ。でも、まぁ梅雨時期を前に春先の風邪をひくってのも何か癪に障るしね」
 交わされる軽口とは裏腹に、二組の青い瞳が宿す光は、どんな小さなものも見逃さない鋭さを帯びていた。
 しゃがんだ姿勢に足が痺れを訴えている。綺麗に整えられ爪先に、泥水が遠慮なく忍び込むことにも構っている余裕はない。
 すれ違うサラリーマン風の男性たちが、雨の櫻並木に不釣合いな状況の二人に奇異の目を向けるが、それさえも全く神経には触れてはこなかった。
「音、聞こえてる? 貴金属に触れる水滴が弾ける音って自然界の音とはけっこう違うから目立つはずよ。場所はここで間違いないんだから」
「分かってる、大丈夫だ……大丈夫だ、絶対に」


 香苗が去って行った後、取り残された六人は、残り時間から分断作業を余儀なくされていた。
「魔を倒す人、指輪を探す人――そして時間稼ぎの為にも香苗さんに接触して説得をする人間が必要ね」
 急転直下で事態が悪化することに、悲しいかな踏んできた場数の分だけ慣れてしまっているシュラインが、判断するのにはものの数分もかからない。
(「私が香苗さんの所に行きます。行かせて下さい」)
 真っ先に反応を返したのは純華だった。ぐっと固く握りこんだ拳が、まだどこかにあどけなさを残した少女の中に芽生えている強い決意を物語っている。
「悪いが俺は戦闘には不向きだから出来れば指輪探しに回らせてもらいたい。それを見越して得た能力だしな」
「良いんじゃないでしょうか。俺は魔の方に行かせてもらいます」
「あ、オレも魔探しね〜。せっかく触れる力もらったんだから、ホントかどうか試してみたいしな」
「んな理由で人の命を左右する状況の選択やんじゃねぇよ、ったく。あ、俺も魔の方に回らせてもらっていいか? さっき香苗に接触したときに、どす黒いもんが視たからな。俺が思うにアレが魔だと思うんだ……今の俺ならあいつを匂いで辿れる」
 バランス的には上々。ならば自分も蓮と一緒に指輪探しに向かう選択をしたシュラインは、改めて周囲の様子を伺った。
 それぞれが、それぞれの目的に向かって走り去っていく音が、ピリピリと蓮の鼓膜を刺激する。意識のチャンネルを上手くコントロールしなくては、些細な音まで過剰に拾ってしまい、言いようのない不快感に襲われてしまう。
 これで耳が使い物にならなくなったら、ようやく世間的にも受け入れられ始めた音楽家としての生命も終わってしまうかもしれない――そんな事を思い付いてしまうと、顔が苦い笑いを刻んでしまった。
「何ぼーっとしてるの。置いて行くわよ」
 状況を把握し終えたシュラインが、くっと蓮の袖を引く。
「何か分かったのか?」
「この道、下り坂になってるでしょ? で、香苗さんが探し物をしてたのがここ。ならもっと下の方に転がって行った可能性が高いかしらって」
 傘を差しながらだと並んで歩くには少し窮屈な坂道を、二人は縦にやや距離を取りながら歩いた。ちらりと街頭の光に煌く雨粒の輝きが、いちいち紛らわしくて憎らしく思える。
「ここじゃない可能性もなくないか? 彼女は確かにここを探していたが、ひょっとするともっと違う場所で失くしたのかもしれないし」
 シュラインの背中を視界の端に収めながら、蓮が当然の疑問を口にした。
 香苗がここを疑っていたから、それだけで指輪がこの場所にあるとは限らないのではないか。もしも違っていた場合、目的を達することは永遠に不可能になる。
 だがシュラインの回答は、そんな蓮の懸念をすっぱりと吹き飛ばす自信に満ちていた。
「それはないわね。指輪は間違いなく『ここ』にある。勿論、根拠はないのよ。でも絶対そうだって思えるの。私は今の私の勘を信じるわ」
 寒さを感じないことが、明言の裏打ち。
「さぁ、探しましょ。きっとこの辺りよ――間違いないわ」
 そう言うと、シュラインは香苗が蹲っていた場所から二分ほど坂を下った場所に、狙いを定めた。


「探し物、なっかなか見付かんないみたいだな」
 ほんの少し前に聞いた声が頭上から降ってきたのは、本当に突然のこと。
 近寄る足音も気配も感じさせず、黒のゴシックスタイルに身を包んだ少年はそこに立っていた。
「なんだ? 手伝いにでも来てくれたのか――そんなわけ、ないと思うが」
「はい、そこのヴァイオリニスト大正解。付き合い短いのによく分かったな」
 『短い』というレベルではない。突き詰めれば『付き合い』というレベルにも到達していないゲートキーパーの言動に、蓮は僅かに眉を寄せる。なんとなく、似ているのだ。ここにはいない指摘だけは厳しい少年に。
「誉められても嬉しくないな。何もする気がないなら少し離れててくれないか、邪魔になる」
 混入する雑音が、意識を研ぎ澄ます蓮の集中を乱す。
 あきらかに、招かれざる客という状況。にも関わらず、当のゲートキーパーは薄い笑いを浮かべたまま、今は鎌を持たない自由な手をくるりと翻した。
「いや、もしかしたらもう一回くらい転移が必要かなって思って。結構な親切心だろ? さてどうする?」
 ゲートキーパーの提案に、可能なら香苗が指輪を失くす以前に転移しようと考えていた蓮が身を乗り出す。
 けれど蓮よりも先に、じっと地面を見つめていたシュラインが口火を切った。
「余計なお世話よ。私たちは絶対にここで指輪を見つけてみせるわ。これ以上、過去に余計な干渉をするのは望ましくないもの」
 言いながらも、シュラインは腰を低く落とした姿勢を保ち、香苗の指輪を探し続ける。その様子に、ゲートキーパーは呆れたように肩を竦めた。
「便利なものがあるのに、なんで使わないわけ? それがあんたの正義だとでも?」
「違うわ。これは私の『選択』よ」
 ますます分からない、という風体でゲートキーパーが星のない夜空を振り仰ぐ。と、二人のやり取りを眺めていた蓮は、ゲートキーパーの視線を追いかけ、体を硬直させる。
「音……、が。違う音が」
 それは本当に微細な響きでしかなかった。
 今の蓮であっても、下にばかり気を取られていては、決して気付くことはなかったであろう程に。
 雨が櫻の花弁を打つ音に紛れ、凛と高く澄んだ自然物以外の硬質なそれ。
 右目だけの、距離感の掴めない視界で蓮は目を伏せ、ようやく拾えた音にだけ集中する。何が起こったのかを悟ったシュラインも、息を殺して状況を見守った。
 長いようで、短い時間が張り詰めた静寂の中を流れる。
「見つけた……」
 蓮が爪先立ちをして、ようやく手が届く櫻の枝と枝の間。
「本当に鳥が運んだのかしら? それとも何かのはずみに跳ね上げられたとか」
 一度ハンカチで綺麗に手を拭ってから、蓮はゆっくりと腕を伸ばした。転がり落ちて、再び探す羽目にならないように慎重に。
 花弁の合間をぬって落ちてくる水滴が、蓮の頬をぬらして伝い落ちる。シュラインには何故だかそれが、香苗が流した涙のように見えた。
「掴まえた」
 確かに握りこんで、胸元に引き寄せる。再び広げた手のひらの中には、蓮の指には細すぎるが、シュラインの指にならちょうど良さそうなサイズのシンプルなデザインの指輪が鎮座していた。
「早く純華ちゃんに連絡してあげないと」
 確認の為、素早く携帯電話のカメラを起動させる。
 その時、目にした時刻は、美咲が事前に調べてきていた香苗の死亡時刻を少しだけ過ぎていたが、シュラインは彼女がまだこの世に生きて存在していることを確信していた。
「ちえー、見つかったか。なんか俺ってば出てきただけ損」
 手にした指輪の重みは、自分の指にあるものと同じ。
 誰かの想いが詰まっているものの重みを実感し、そしてようやく安堵の溜息をつくことを許された蓮は、ゲートキーパーの不穏な発言を聴音可能域から笑顔で弾き出した。


■第四章 〜Selection ≫ Prayer of congratulation〜

 始まりは不意に訪れた――そして、終わりも突然に。
「お疲れさん、取り敢えず今回の件はこれで出番はお終いってことで」
 世界は、再び黒一色の無限の空間が広がっていた。あるのは、六人の仲間とゲートキーパー、あとはネオン光の細い光点が走っては消える、不可思議な巨大な門だけ。
「つまり、香苗さんを救うことが出来た。そういうことですか?」
 脇腹を押さえる美咲を横で支えた恰好の悠也が、いち早く状況を飲み込み周囲を見渡す。
 すぐ近くに立つ翠。
 ゲートキーパーの近くで、何かを握り締めるように立ち尽くす蓮と、それを見守るように傍らに在るシュライン。
 残るは、一人少し離れた所で腕の中にあった何かが不意に質感を失ったことに、戸惑いを隠せず座り込む純華。
「ま、詳しいことはあっちに戻ってから自分の目なり何なりで確認してくれって感じで。とりあえず、あんたらは自分らの選択で自分らの出来ることをやったってワケ」
 結果には興味ない、とばかりにゲートキーパーが何かを追いやるように手を閃かせる。すると、その手の中に巨大なガラス製の鎌が現れた。
 漆黒の衣装、そして大きな鎌。
 出会った時はゲームセンターだったから、格闘ゲームに出てくるキャラのようだ、という感想しか抱かなかったが、ふっと頭の隅に『死神』という言葉が浮かぶ。
「斎・悠也、花房・翠、季流・美咲。あんたら三人は香苗を死へと誘惑していた『魔』を消し去った。シュライン・エマ、香坂・蓮。あんた達は香苗が魔に付け入られる隙を作ってしまったきっかけを取り除いた。で、八雲・純華。あんたは香苗の弱い心に強さを教えた――これが元の世界にどんな影響を及ぼすのか、今ここにいる俺は知らない」
 一人一人の名を呼び、鎌の先端部分をそれぞれにつきつける。ぴたり、と焦点をあわせられるたびに、その鎌は不思議な色を帯びた。
 悠也に向けられた時は金。
 翠に向けられた時は緑。
 美咲には真紅。
 シュラインには白。
 蓮には蒼。
 純華には、淡い桜色。
「あぁ、そうだ。言うの忘れてたから付け加えとくけど。あっちの世界で負った怪我や病気は、あっちのあんたらにもその後残るし、帰ったあんた達の体にもしーっかり残るから。魂の情報って案外バカにできねーんで、そこのとこよろしく」
「てめ、ぜってーそれワザと黙ってたろ」
 悠也に支えられ、ようやく立っている美咲が、ゲートキーパーのイマサラな物言いに、遠慮ない不満を顔と言葉に表した。傷自体はすっかり癒えているのだが、大量の血液を一気に失った体にはやはり相当な負担がかかっているらしい。
「ま、旅の恥はかき捨てよろしく別次元の自分に全部押し付けちゃうのは不本意だから、それが妥当なところよね」
 危うく風邪をひくところだったシュラインは、それも道理と頷く。しかし彼女を横目に盗み見た蓮は、やはり止めておいてよかった、と安堵に胸を撫で下ろす。
「おい、いつまでぼーっとしてるんだ? 終わりだとよ」
 床――正確には本当に『床』と呼んでいいのか分からないが――にへたりこんだままの純華の腕を、翠が引き上げる。
「え? あ……はい。って……香苗さん、大丈夫だったんでしょうか?」
 抱き締めた温もりはまだ残っていた、頬に伝った涙の跡も。けれど全てが夢のようで、純華は顔を合わせた一同をぐるりと見渡し、再び視線を落す。
 その時、その場に軽やかなウェディングベルが響き渡った。
 はっと顔を上げる純華。視線の先には、優しく微笑むシュラインの姿。
「大丈夫よ。やることは全部やったんだから。きっと大丈夫」
 ベルの正体は、シュラインの声帯模写。けれど、それは誰の耳にも本物の鐘の音として響いた。
「それじゃ、そゆことで。いつまでもこんなとこに屯ってないで、とっとと門を潜っちまいな」

 そして――――………


 人生に偶然というものは付き物である。
 それはいつ、どこで起こるか分からない――いや、分からないからこそ『偶然』というのだが。
 そんな理論的だか理屈っぽいか判断しにくいことを考えながら、蓮は今しがた目にしたばかりの光景に、ほんの少しだけ頬を弛める。
 双子の兄が結婚したのはつい先日のことだ。
 まさに白百合の花と例えるに相応しかった義姉の姿は、今も蓮の脳裏にしっかりと焼きついている。
 だから、というわけでもないのだろうが。
 街を歩くとき、今まで目が向わなかった場所へと自然に視線が吸い寄せられることがある――ブライダルフェアだとか、花屋の店先に飾られた結婚式用のブーケとか。
 おりしもカレンダーが示すのは六月。
 一年のうちで、最もその手の話題に遭遇しやすい季節。
 最初はよく似た人物だと思った。しかし、一緒に来ていた男性が彼女の名を呼んだ瞬間、蓮は偶然の再会を果たすことになったのだ。
「ちゃんと生きてたんだな」
 こそりと零したのは独り言。
 梅雨入り間近に訪れた、奇跡のような大晴天。どこまでも広がる青に、力強い緑がよく映える。
 連日の雨に洗い清められた澄んだ空気の中を、誰もが軽やかに泳ぐようにすれ違う。
 そんな中に彼女はいたのだ。
 菅谷・香苗――数日前、紫胤と名乗った女性に誘われ渡った『過去』という世界で彼らが救った女性。蓮が今いる世界では死んでしまっていたはずだった人。
「笑っていたってことは、幸せだってことだろう」
 垣間見えた彼女の左薬指には、銀のリングが輝いていた。あの日、あの時間。蓮が櫻の枝の間で見つけて、そっと握り締めたそれが。
 おそらく近々彼女の伴侶となるはずだろう男の隣で微笑む彼女は、義姉が挙式の時に見せたのと同じ輝きに満ちていた。
「そこゆくヴァイオリニストなおにーさん、なんかいいことでもあった〜?」
 不意にかかった声は背後から。しかも悪趣味全開なことに真後ろ1メートル以内。
「わざわざ気配を殺して近付くな」
 一瞬だけ弾んだ心臓は、振り返り相手の顔を視界に納める頃にはすっかり落ち着き払っていた。こんな子供だましで驚くほど、蓮はこれまでの24年の歳月を簡単には生きていない。
「趣味だし。でもあんたの反応は面白くなかったから次は別の手段を考えよう」
「そんなこと考える必要はないと思うが」
 予告なく現れたのはゲートキーパーと名乗った少年。今日も相変わらずの黒一色のゴシックスタイルだが、手に大鎌はない。流石にあんな目立つものを持って常にフラフラしているわけではないらしい。
「ところで、本当だったんだな」
「は?」
 いつの間にか二人並ぶ恰好で歩き出していた。
 時折、流れ過ぎるだけだったはずの若い女性達が、二人のことをちらりちらりと盗み見ては黄色い声を上げている。
「いや、過去に干渉し現在を変化させる、ということが」
「何、あんた信じてなかったわけ? 信じてないのにあっち行ってあんだけ頑張ったわけ?」
「普通そう簡単に信じられるもんじゃないだろう。人の運命が変わる、だなんて」
 やや見下ろす角度にある紫色の瞳を眺めながら、蒼い瞳はここではない遠い過去へと旅立つ。
 もし、自分の運命に――過ぎ去った時間に干渉することが出来るなら。
「何か変えたいことでもあるのか? 何ならゲート、開いてやろうか?」
「いや、俺にはそんな必要は無い」
 胸を掠めた思いは一瞬で再び深い水底へと沈んでいった。
 空と同じ色の瞳が今、まっすぐに見つめるものは過去ではなく未来。大切に想える人がいて、大切に想ってくれる人がいて。その人と共に歩いていこうと決めた、この先の先。
「ちっ、またまたつまんねぇの」
「なんだお前、そんなつもりでわざわざ俺のところまで来たのか」
 暇人だな、と笑えば、それほどでも、と不敵に笑い返される。
「取り敢えず、今のあんたには俺は用無しみたいだからとっとと消えるわ。万一ご入用のことがありましたら、遠慮なく」
 言った側から走り出したゲートキーパーの背中を見送り、蓮は足を止め天を仰いだ。
 果てなく続く青は、どんな未来へ繋がっているのだろうか。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名】
  ≫≫性別 / 年齢 / 職業
   ≫≫≫【関係者相関度 / 構成レベル】

【0086 / シュライン・エマ】
  ≫≫女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
   ≫≫≫【GK+1 紫胤+2 / NON】

【0164 / 斎・悠也 (いつき・ゆうや)】
  ≫≫男 / 21 / 大学生・バイトでホスト
   ≫≫≫【紫胤+1 鉄太+1 / NON】

【0523 / 花房・翠 (はなぶさ・すい)】
  ≫≫男 / 20 / フリージャーナリスト
   ≫≫≫【紫胤+2 鉄太+1 / F】

【1532 / 香坂・蓮 (こうさか・れん)】
  ≫≫男 / 24 / ヴァイオリニスト
   ≫≫≫【GK+2 紫胤+1 / NON】

【1660 / 八雲・純華 (やくも・すみか)】
  ≫≫女 / 17 / 高校生
   ≫≫≫【GK+2 / F】

【2765 / 季流・美咲 (きりゅう・みさき)】
  ≫≫男 / 14 / 中学生
   ≫≫≫【GK+1 紫胤+1 鉄太+1 / NON】

 ※GK……ゲートキーパー略


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの観空ハツキです。
 この度は観空初の異界依頼をお受け頂きありがとうございました。そしてこちらは既に恒例と化しているような気がするのですが……毎度毎度ギリギリの納品になってしまい申し訳ありません(謝)

 香坂・蓮さま
 こんにちは。依頼系での商品では『初めまして』。この度はご参加頂きありがとうございました(礼)
 今回はシチュノベと異なり全体の流れの中で〜ということで、蓮さんにヴァイオリンに触れて頂く機会を設けることが出来ずに申し訳ありませんでした。
 あと、関係者のノベルを拝見し、その辺りのネタも今回のテーマ(?)にぴったりでしたので、色々と使わせて頂いてしまいました(謝)
 こんな所で何ですが。蓮さんの『ご家族』の皆様の幸せを、こっそりですがお祈り致しております。

 今回は『初の異界だし』ということで、世界観説明的に気楽(?)に〜と思っていたのですが……予定は未定。なんというか、一寸先は闇、という言葉をつくづく実感させられました。
 異界にて記載済みの部分に関しては、本文中では簡略化してありますので、「なんだこれは!?」と思われることがありましたら、異界の方で確認して頂けると幸いです(不親切ですいません……)。
 あと登場人物欄になにやら妙なものがくっついております。相関関係のポイントは互いの理解度、ないし友好度だと思って下さい。構成レベルの方は……今はまだ秘密、ということで。

 今回は一章前半・四章後半が完全個別。三章がグループ単位という構成になっております。PCさんによっては自分の物以外にも登場されている方もいらっしゃったりしますので、お暇なときにチェックして頂けると幸いです。
 なお一部の方には二章に断章が存在しております。

 ご意見、ご要望などございましたらクリエーターズルームやテラコンからお気軽にお送り頂けますと幸いです。
 それでは今回は本当にありがとうございました。