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雨傷−降る雨は夜想曲−
空から降りてくるのは秋驟雨。
それはまるで言の葉のように囁きながら、絶え間なくこの身を撃つルフラン。
灰色(かいしょく)のフィルターの奥に街の色彩を閉じ込めて、しっとりと湿った空気が低く足下を流れる。
水溜りに浮かぶビルディング、滲んだヘッドライト、群雲に隠された青い天は遠い。
アスファルトを叩いては砕け散る雨の雫。
メランコリーな仕草で鍵盤を叩いて甚(いた)くナーバスな音を奏でている。
雨の中に刻まれた雨の記憶。
都会に降る雨は、感情もなく風景へと溶け込む。
無機質なコンクリートに交錯する幾多のイマージュ。
透明で濁っていて、多彩で無色。
無限ルフランの音速で繰り返される矛盾律。
メタリックな回転木馬のスピードは熱に比例して加速する。
壊されていくオゾン層を突き抜けて大地を灼く紫外線、決して眠らぬネオン、寄せ集まった他人の群れ。
上昇し続ける気温に乗って、疾々と。都会はいつも急いでいる。
だから、それは決して捉えられず、その傷は誰にも見えない――。
□■
「ちょっと少年」
深みのあるハスキーボイスが雨音との混晶のように凛と路地に響いたが、足早に急ぐ規則的な靴音が止まる事はない。
「ちょーっと、待ってって言ってるでしょ、少年!」
意志の強い眉は綺麗な弧を描き、形の好い唇に乗せられたシグナルレッドのルージュが煙る街の中でまるで太陽のように輝いてみえた。
濡れた細い指先は光沢のあるチェリーレッドのマニキュア。
爪先に並べられたクリスタルとパールホワイトのストーン、その下で黒い音符のネイルシートが踊っている。
もうずっと陽の光を浴びていないような白い指が、通過しようとした背中を――正確には学生服であるが、摘みツンと引く。
軽い抵抗を受け、足を止めて振り返った少年の瞳を8cmヒールで上げ底にした女の黒い瞳がまっすぐに見詰めた。
「ずぶ濡れの女を放って通り過ぎるなんてジェントルマンじゃないわよ。異国気触(かぶ)れするなら、まずは紳士になったらどうだって言うのよ、日本男児!」
いきなり理不尽な言い掛かりである。
しかも日本男児すべての責任を偶々通りかかった学生に押し付けられても甚だ迷惑としか言いようがない。
驚き僅かに瞳を見開いた少年が思案するように傘の内側から空を仰ぎ、数秒後、握った右の手を前へ出して女に差しかけた。
ポツポツポツ――。
傘を打つ雨音。
女はにっこりと微笑み、柔らかく雨を弾く濃紺の傘を受け取ると、それを閉じて路上に捨てる。
バシャ
飛沫を散らして路に落下した紺は、静寂に沈んであたかも初めからそこに在った様に同化した。
一瞬にして必要のないものへと変貌して。
視線を落として、その様子を見置いた少年の髪を伝った雨粒が鼻筋に流れる。
「こんなモノ差してちゃ、唯でさえ見えにくいのに余計見えなくなるわよ」
道理が通っているような、いないような女の言い分に、薄く口を開きかけた少年は腕を掴まれそのまま強引に連行される。
「此処であったが百年目、付き合いなさいよ♪」
それは仇討ちの台詞だ……と心の中で指摘するも、しっかと掴んだチェリーレッドが仄暗い雨の夕刻に血の様に鮮やかに浮かんで、何故か痛々しく思えて言葉を呑み込む。
「アタシ、雨って好きなの。薄汚れたものを全部洗い流してくれる気がするじゃない?」
投げかけられた言葉は、然し、誰の答えをも求めてはいない。
横を過ぎる車のライトに反射した頬に光るのは雨だろうか、涙だろうか。
彼女は泣いてなどいないのに、そんな事を思ったのは変だろうか。
花弁のようなルージュだけが、印契のようにくっきりと確かに存在しているのだと思わせる。
少年――氷川・笑也(ひかわ・しょうや)は引き摺られるように足を運びながら、女の赤い花弁が雨に濡れるのをただ見ていた。
赤は花――そして血の色。
鮮やかで儚い、強くて切ない色。
この色は笑也にとっては決して忘れられない特別な色だ。
「少年、あなた無口ね……まぁ、日本男児たるもの、それくらいが丁度いいのかもしれないけどね」
ジェントルマンとやらは一体何処へいったんだ、と言う余裕もなく笑也はすれ違う人々の奇異なものを見る視線をかろうじて受け流していた。
まだ早い時間とは言え、濡れて一層艶やかなロングの黒髪に、オーキッド色のスーツ。目鼻立ちのはっきりした面差しに完全武装のメイク。
一瞥して夜の住人と判断できる美女に腕を掴まれ連れ立っている学生服の少年が人目を引くのは無理からぬ事だ。
ましてや雨の中、傘も差さず。
「雨の音って夜想曲(ノクターン)みたい……ほら、ショパンの。アタシ、ピアノ習ってたの。うんと昔だけどね。でも、もう弾けないわ。忘れちゃったし。こんな爪だし。……音のしない一人の部屋は嫌い。だから外にいなくても雨は好き。それに雨が降らなかったら虹もでないじゃない。一粒で二度オイシイでしょ」
一言一言、確認して心に刻むように。
女の言葉はポツポツと脈絡のない独り言のように呟かれ、半分は雨音に消される。
「ねぇ、少年は雨嫌い?」
初めて答えを求めた女の問いに、ふるふると首を振った笑也の一房だけ伸びて濡れた漆黒の髪から雫が飛んだ。
「まんざらでもないでしょ? こんな出会いもあるわけだし」
その出会いは天が偶然与えたものではなく、必然に彼女が手繰り寄せたもののような気はするが。
己の意志など関せず遭遇するなら、魑魅魍魎の方が良かった。などと思ってしまう笑也の思考は年頃の青少年としては逆に不健康なのかもしれない。
とは言え、今日という日は彼にとっては特別な日で、こんな所で見ず知らずの女の相手をしている場合ではない。
再婚した父の――笑也にとっては新しい母とその娘が今日から一緒に暮らす事になっていた。
取り立てて反対するような事でもなかったし、事実、笑也に反対の意志があるわけでもなく、甘んじてその状況を受け入れた。
新しい家族によって彼の生活に何ら変化が訪れるとは思ってもいない。
昨日も今日も同じ時間が流れる。それはきっと、この先もずっと変わらない。
彼が望むのは自身の強さ。
周囲とどう関わるか、ではなく、どう在り続けるか、なのである。
それでも女の手を振り解けずに、困惑の色を表情に浮かばせている笑也の顔を覗きこんだ女が濡れた髪を掻き上げた。
「ふうん? あなた不思議ね。大人びて見えるのに“手垢”がついてないわ」
見透かすような女の視線に無意識で半歩下がった笑也の腕に、今度は腕を絡めてきた。
「あんまり自慢できたもんじゃないけど、仕事柄男は嫌ってほど見てきたからね、これでも男を見る心眼には長けてるのよ」
赤い口の端を軽く上げて笑う。
「このままお店に行けば同伴で助かっちゃうんだけど、さすがに学ランは無理ね。今日は元々サボるつもりだったし、違う店に付き合ってね♪」
クスクスと笑う様子は、全体に纏っている大人の雰囲気とは違い、どこかあどけない。
「男を見る目があっても、選ぶのがダメだったら意味ないわよね……」
その言葉は水煙を上げて滑るタイヤの音と、50m程後方の交差点で響いた長い湿性のクラクションに打ち消されて笑也の耳には届かなかった。
眠らない都会の夜はこれから――。
□■
「ほら、少年! 今日はお姉さんが奢っちゃうからジャンジャン飲みなさいよ」
笑也と女の姿は仕事帰りのサラリーマンで賑わう居酒屋のテーブル席にあった。
学生服で堂々と来店していい場所じゃないはずなのだが、先程会ったばかりの文字通り真っ赤な他人とはいえ一応、保護者はいるわけで。
一体誰がそんなに食べるのだという程、矢継ぎ早にメニューを注文している女に何度も促されて、笑也はメニュー表の梅昆布茶を指差した。
「……あなた、ジジムサイわね。もっと景気よくいきなさいよ。10代ならドカーンとビールでしょ?」
梅昆布茶が景気が悪いって誰が決めたんだ。そもそも未成年は飲酒できなのでは? と反論できる隙など勿論ない。
世の中には暗黙の了解という時と場合によっては都合のよい、実に曖昧なシステムがあるのだが、残念ながらお天道様が許しても日本の法律が許さない。
何しろ昔から日本人は制服の前では素直に従うべきだ、という考えが刷り込まれている。
制服詐欺なんてものがある国である。
笑也は二度頭を振って、もう一度梅昆布茶を指差す。
「やーね、意外に強情だわ、この子ったら。男の子はちょっぴり悪い方が魅力的なのよ。盗んだバイクで走り出したり、校舎の窓ガラス割るのが青春なの! ……ま、いいわ。雨で体温も奪われたしね」
どこかで聞き覚えのある訳の分からない青春論を聞かされつつも、笑也は梅昆布茶を何とか勝ち取った。
「身体が濡れると体力消耗するのよね」
席に備え付けられた割り箸を抜き取って、2つに割ると笑也の顔の前に差し出して微笑む。
悪びれずサラリと言ってくれるが、笑也がずぶ濡れなのも、こうして居酒屋などに居るのも全部目の前の女のせいである。
しかし、何故か放っておけないと思わせるのは、強く輝きながらもどこか哀しげに揺れる瞳のせいかもしれない。
強く存在をアピールして塗られたルージュやネイルは、追い詰められた動物が必死に威嚇している姿にも見える。
それとも戦いを前に武装した戦士とでも言うべきか。
笑也は学生ではあるが、同時に能楽師でもある。
自身の感情を表に出すことはないが、音もない自然の機微を感じてしまう部分があった。
そして数時間後――。
『あなめずらしや、なんとやらで盲亀の浮木
優曇華の花に出逢うたような心地じゃ
此処であったが百年目、いざ尋常に勝負、勝負』
笑也は完全に討ち果たされていた。
「もー、聞いてるのー? 自分だって店で知り合っておきながら「もうそんな仕事はやめて欲しい」ですって。笑っちゃうわよね。ふざけんなー! ん? お酒なくなったわよー。ビール追加ー! お金ならあるんだからジャンジャン持ってきて頂戴。仕事で稼いだお金なんだから……アタシだって必死に生きてんのよ。そこらの男より稼いでるわよ。ふん、何も努力してないとでも思ってんのかしら。冗談じゃないわ。ねぇ、ちょっと少年、聞いてる?」
はっきり言って店内の視線が痛い。
テーブルに伏して泣き喚く女に言葉の掛けようもなく途方に暮れる。
すっかり冷めてしまった梅昆布茶を喉へと流し込んで、居心地悪く手をテーブルの上で遊ばせていると顔を上げた女と目が合った。
「欲しいもの欲しいって言って何が悪いのよ。ねえ?」
強い瞳。
やはり彼女も戦っていたのだ、自分と同じように。
掴もうと求めて足掻く姿は痛みを知らない者から見れば滑稽なのだろうか。
「なに平和にお茶なんかすすってるのよ」
拗ねたように唇を尖らせた女が運ばれてきた生ビールを口に含む。
「ね、ね、少年。見て、見て! お揃い!」
笑也の瞳の横にチェリーレッドのネイルを並べて可笑しそうに笑う。
きょとんと見開いた笑也の赤い瞳の横で、音符のネイルシールがメロディを奏でるように空に揺れる。
「この街は無条件で誰でも受け入れてくれるけど、決して優しくはないわ。アタシの田舎ではね、雨が降ると草の匂いがするのよ」
喉をあけて残りのビールをグイと飲み干す。
「若いっていいわね……少年、負けちゃダメよ」
再びテーブルに沈んだ女の乾いた髪が空気を含みはらりと広がった。
笑也は溜息をそっと吐き出すとジョッキを握った女の手を離してやった。
戦い疲れた戦士は眠っている。目を覚ませばまた戦場へと立ち向かってゆくのだろう。
敵は他でもない自分自身。
(「困った……」)
テーブルに伏してすやすやと寝息を立てている女を前に頭を抱えた。
こうして笑也は、この後一時間半、テーブルの上の料理をつまみながら女が起きるまで待つ羽目になった。
「送ってくわよ?」
タクシーの窓を開け、まだ酔いの醒めていない女がシートに身を預けながら言ったが笑也はゆっくり首を振った。
「そう? ね、少年。今日の事は忘れていいわ。でも、青春謳歌しなさいよね。みっともないとこ見せたけど人生そうそう捨てたもんじゃないわよ」
静かに滑り出したタクシーが見えなくなるまで見送って、雨の中を歩き出した。
彼女の言うように、傘がない方が流れる風景がよく見えた。
途中のCDショップで手にしたのはショパンのノクターン。鞄に押し込んで家路を急ぐ。
一歩裏通りに入れば月の出ていない夜道は暗い。
静かな夜の旋律。
家に着いた笑也は当然ながら父親の説教をくどくどと聞く羽目になったが、止めに入った母のお陰で予想していたよりは早く解放され、風呂に入り冷えた身体を温めた。
浴室の小さな窓から響く雨のノクターン。
色々と疲れた一日だったと湯船に浸かり回想する。
どうしてあんな事になったのか……それでも、笑也は耳に残る雨音が嫌ではなかった。
=了=
■■□□
ライターより
氷川・笑也さま、こんにちは。幸護です。
先日のツインに続き、再びご指名頂きまして有難う御座います。
キーポイントが『ずぶ濡れ』でしたので雨のお話になりました。
この話を書いていて、音のスピードは温度が上がると速さが増すんだったな、と思い出し
年々地球上の気温が上昇していますので、昔より今、そして人口の多い都会は
僅かでも伝わる音の速度が速いのかしら? などと考えながら書きました。
音ですら急ぐようになってしまったら、のんびりと安らげなくなってしまうようで
ちょっぴり切なく感じました。
そして心に熱い情熱を持った方にも音は早く響くのでしょうか、などと考えてみたり。
さて、前触れもなく厄介な状況に巻き込まれてしまった笑也さんですが、
この一時の出会いが何か少しでも笑也さんにとって意味のあるものになっていれば
嬉しく思います。
これを書いている現在、幸護の地域ではまさに雨が降っております。
雨降りはどんよりと暗く、だるさを感じてしまうのであまり好きではなかったのですが、
書き終えたら外へ出掛けてみようかな、と思っています。
笑也さんも雨が好きになって下さっていれば嬉しいな。
……突然言い掛かりをつけられ、傘を捨てられ、散々振り回されたので
トラウマになってなければ良いのですが(汗)
幸護。
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