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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


 震える指先


------<オープニング>--------------------------------------


 スリガラスの向こうに人影がある。
 雫は湯のみを載せたお盆を手に持ったまま、じっとその人影を見つめていた。
 シルエットだけの彼、あるいは彼女は、動くことなくじっとスリガラスの向こうに留まっている。

「おい。お茶。何やってんだ」
 頭の後ろで武彦の声がした。この草間興信所の所長であり、雫の兄だ。雫は振り返り、全てが絶妙なバランスで成り立っているデスクを見やった。
「お茶」
 主の顔は見えない。
「少しくらい片付けたら? お兄様。これじゃ見た目も悪いわ」
「掃除は嫌いだ。だいたい、見た目なんぞを気にする奴の依頼なんか聞かないからな」
 憮然とした声が言う。デスクの上に積み上げられた本の上に、ポンと手が乗った。
「ほい。お茶。くれ」
 本の上の手がユラユラと動く。雫は溜め息と一緒に少し笑った。
「何を笑ってる」
「なんだかオカシイなって思って」
「どうでもイイから早くお茶」
「どうせいれ直しだわ」
「いれ直し?」
 雫は応接とは名ばかりのソファセットのテーブルにお盆を置くと、デスクとは反対の方に足を踏み出した。
「きっとお客様だわ」
 小さく頷く。
 こんなボロいビルの、しかもこんな黒ずんだ扉の前に立つ人影なんて、きっとお客様に違いないのだ。ここまで来て、引き返そうかどうか迷っているのかも知れない。噂には聞いて来てみたけれど。入るには少し、勇気が居る。なんて。
 雫はゆっくりと扉の前に立った。
 至近距離に来た影に、向こうも驚いたのだろう。ハッとしたように身を翻す。
 雫は慌てて扉を開けた。
「あッ」
 驚いたように目を見開いた少年がそこに立っていた。
「あ。あッ。あ、どう、も」
 腹の辺りで手を組み、世話しなく擦り合わせている。
「なんだぁ?」
 書類と本が乱雑に積み重なった壁から、武彦の顔がヒョロリと現れる。雫はゆっくりと武彦の方を見やり微笑んだ。
「お兄さん。お客様」
「んあ?」
「お茶、いれ直しですね」
「なんだ。そういうことか」
 武彦は肩を竦めて見せて、またストンと席につく。
「あ! あの。僕……」
「大丈夫ですよ。どうぞ。ご依頼があってきたんでしょう?」
 雫はニッコリと微笑んで少年の手を引いた。咄嗟に少年は雫の手を弾いた。
「あ。あ。ゴメンなさい」
「あ、いえ」
 戸惑いながらも、笑みを浮かべる。
「こ……ここは。その、興信所、ですよね?」
「えぇ。そうですけど」
「ス。ストーカーとか追い払って貰える……ん、でしょうか」
「ストーカー?」
 雫は小さく小首を傾げた。その背後で勢い良く武彦が立ち上がる。
「ストーカー!」
 少年はびっくりしたように体を揺らした。
「そういう依頼は駄目、でしょうか」
「いやいや。まぁ、君。入りたまえ。で、そこ。まぁ座って」
 珍しくきびきびとした動作でデスクの影から姿を現した武彦は、手を翳しソファを示した。
 やっと普通の探偵っぽいことが出来る。そう言わんばかりに武彦の体には自信のオーラが漲っていた。
 言葉に威厳がある。
「珍しく」
 雫は小さく呟いた。
 武彦がどっかりとくすんだ紅色のソファに腰掛けると、少年はオズオズと室内に入り込み、キョロキョロと視線を彷徨わせながら、チョコンと武彦の向かいに腰を下ろした。世話しなく手を擦り合わせている。見ている方が苛々としてくるくらい落ち着きがない。
 緊張しているのかしら。そう思ってその手を良く見てみると、彼の指先は細かく震えていた。
 雫は思わずそこから目を逸らす。
「それで。具体的なお話を聞こうか」
「い。いろいろ。考えたのですが。ここは料金が……良心的だと聞いて」
 武彦は眉を上げて頷いた。
「ふむ。で。警察には?」
「僕は……男だし。その……相手にして貰えないというか……」
「あぁ。なるほどね。まぁなぁ。警察も中々なぁ、動いてくれないもんだしな」
「はい。それに……大事にするのは僕自身気恥ずかしい気もあるんです。だから」
「なるほど? で? 相手の女性に心当たりは?」
「男です」
 武彦の言葉を遮って、少年はポツリと言った。
「え?」
「男なんです。僕を追ってる……ストーカー、は……」
「そ……」
 武彦は目を瞬かせてこめかみに指をあてる。
「そう、かぁ……」
 溜め息と一緒に吐き出した。


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第一章

<触接>


 扉を開閉すると、今時珍しくカランという心地良いカウベルの音がした。
 保は思わず顔を上げて扉の上部を確認する。ブリキで作られたような、小金色のカウベルが取り付けられていた。
 店内はその時代遅れの音に見合う、アンティークな造りになっていた。ステンドグラスのはめ込まれた仕切りの向こうに、木造のカウンターと木造のテーブルが並べられている。どれも土のような深いこげ茶色で、椅子はこれまたレトロな形のサテン敷きだった。喫茶店内には、歴史を表すかのようなコーヒーの苦い香りがこびりつき充満している。
 保はその、都会の一角とは思えない雰囲気にあてられ、所在なさげに視線を彷徨わせた。
 そしてまず、カウンター内で新聞を開いている白髪の禿げた男に視線を向けた。保に気付いていらっしゃいませとでも言ってくれれば、声の一つもかけられるのだが、その店員あるいはマスターは入り口でマゴマゴとする保に気付くどころか顔を上げることすらしない。
 何の為のカウベルなのかと問いたくなった。
 次に保はテーブル席に視線をやる。
 四つほどあるテーブルは、一つを除き空席だった。余り繁盛している店とは言えないのかも知れない。それとも、偏屈なマスターは一見客に不親切なのかも知れない。
 どっちにしろ、あの草間探偵事務所で見かけた人はまだ、来ていないようだ。
 保は心細くなる。
 ファーストフード店でも友人と一緒でなければ入るのを臆するような男なのだから、こんな場所で一人取り残されては困るのだ。
 電話で呼び出しておいて、依頼者を待たせるとはどういうことだろう。保は困惑の中で少し苛つく。それは非常識なのではないのだろうか。
 ポケットから携帯電話を取り出し、時間を見た。
 草間探偵事務所から電話がかかって来たのは、あの薄暗いビルを訪れてから三日後のことだった。
 携帯電話に、依頼を持ち込んだ時に居た女性から「依頼についての具体的なお話をしたいので、〇月×日の土曜日。午後一時。事務所の近くにあるエレンという喫茶店に行って下さい。その際、ストーカーより届けられたと思われる手紙も持って来て頂けると在り難いです」との伝言が残されていたのだ。
 表示された携帯時計の表示は一時五分。この時計は少し早いので、実際は一時を何秒か回ったところだろう。
 出直そうか。
 それとも、ここで取り残された気になりながら彼等が来るのを待つか。
 そんなの、嫌に決まってる。こんな所で一人きり、コーヒーを楽しむ余裕なんて保にはないのだ。
 保はオズオズと身を翻す。
 その際新聞を覗き込むマスターと、たった一人しか居ないお客の少年に何気無く視線をやった。
 ステンドグラスのはめ込まれた仕切りの向こうで、お客である少年は窓から差し込む光をその金色に輝く髪で照らし返しながら座っている。
 フランス人形の置物です、と断言されてしまえば頷くしかないような、それはそれは美しい少年だ。
 窓の外は快晴で、そのせいでか入り込んでくる光を一挙に彼は跳ね返している。金色の髪も純白の衣装も全部、キラキラと輝いていた。
 映画のワンシーンとも思えなくないその光景に、保の視線は立ち止まる。
 無意識に、うっとりとした視線を投げていた。すると突然、今まで窓の外に視線を馳せていた彼がコチラを向いた。
 目が合って、身が竦む。
「何をしている」
 断定的な口調が言った。
「あッ」喉に声が詰まった。コホンと小さく咳払いして、やっと言う。「あの。お電話頂いて……ここで待ち合わせを。いえ。相手はまだ来てないので引き返そうかと思ってたところで」
「引き返す必要がどこにある。早くここに座れ」
 彼が向かいの席を手で示した。
「え?」
「草間興信所の者だ」
 また、断定的な口調で彼は言った。


<任命>


 隣で回転椅子をユラユラと左右に揺らしていた武彦は、デスクの上にある書類を面倒臭そうに手に取ると抑揚のない声でそれを読み上げた。
「依頼者氏名、大野保。港区南麻布にある海星学園中学校の二年生に在籍している。現在、十四歳。家族構成は父親はなく、母親と妹の三人暮らし。男性である依頼者が、同性ストーカーに追われ始めたのは二年に進級したばかりの春頃から。それから現在に至るまでの約三ヶ月間、無言電話と気味の悪い手紙に悩まされ続けている。それ以外の被害は今のところない。実際に、身体的に被害を受けたということも、ない」
 書類をバサリとデスクに投げて、武彦はフンと短い息を吐く。
「まぁ。これだけを聞けば軽度のストーキングといったところだな。しかしやっかいなのは、ストーキングは『持続』と『エスカレート』という二文字の元に成り立っているということだ。実際、無言電話は手紙という媒介に姿を変えてエスカレートしている。実際に襲われる日もそう遠くないかも知れない。依頼者がそう想像し、苦しむことは安易に予想できる」
 武彦はそう言い視線を上げる。四角く仕切られた事務所の大部分を占める、寂れたソファセットへと顔を向けた。
 雫も同じように視線を移す。
「なるほど」
 向かいで紅色のソファに腕を組みながら寄りかかっていた翼が、小刻みに頷いた。
 その金色の柔らかそうな髪が、首を上下させる度フワリフワリと揺れるのを見ながら、雫は『異色』という言葉をボンヤリと脳裏に思い浮かべていた。
 くすんだ紅色のソファの背もたれに寄りかかる翼の姿は、間違いなくこの場所で浮いている。場末の、雑居ビルに押し込まれた興信所の中に天使が舞い降りただとか何だとか、そんな陳腐な表現を使ってしまいたいくらい。
 そんな何処か作り物めいてさえいる美貌の翼と武彦とのやり取りは、深夜にテレビで見かける洋画のようでもあり、見ていて飽きない。
「依頼内容は分かった」
 翼は滑舌の良い、凛と透き通った声で言った。
「そうか」
「あぁ。けれど。聞きたいことがある」
「どうぞ」
 武彦は肩を竦めて、腹の辺りで組んでいた手を翼に向かって示した。
「至極簡単なことだ」
「ほう」
「どうして僕なんだ」
 翼が憮然と言うのを見て、武彦はふっと吹き出した。
「適任だと、思ったからだ。他になにがある」
「どのあたりが適任なのか、言え」
「お前は金に煩く、ない」
「だからなんだ」
「俺の話を聞いてなかったのか。依頼者の少年はまだ中学二年生だ。親は今回の依頼に噛んでない。仕切りに料金のことを気にしていたしな。お金に煩い奴を使ったら後々困るんだ」
「僕以外にも居る」
「この依頼が嫌なのか」
「嫌だ。そんな狂った男どもの情状に首を突っ込む趣味はない」
「そういう頑なで幼い頭を少しばかり柔らかくするいい機会だと思えばいい」
「武彦」
 翼は寄りかかっていたソファからゆったりとした仕草でその身を剥がした。
「僕を怒らせたいなら率直に言ってくれないか?」
「怒らせる?」
「お望みとあらばすぐにでも相手になってやるぜ」
「そういうつもりは毛頭、ない」
 武彦はやれやれと笑って、そっぽを向いた。
「笑い事ではない」
「笑いごとだ。ムキになるな」
「キミはそれが人に物を頼む態度だと思っているのか」
 眉間に深い皺を寄せた翼は、ダンっとソファの背もたれに掌を打ちつけ声を張り上げた。
「まぁ。落ち着いて」
 雫は慌てて翼を窘める。笑顔でその怖いくらいに整った顔を伺った。
 武彦は我関せずといった表情で、散らかったデスクの上に投げ出された煙草の箱をその手に取っている。ぬけぬけと一本抜き出し火をつけた。
「とにかく、だ」
 吐き出した煙を見上げながら、ポツリと呟いた。
「この依頼はお前で行く。嫌ならお前が、直接依頼者に断りを入れるんだな」
 武彦はあくまで偉そうに言ってから、ポンと灰皿に灰を落とす。
「なんで僕が」
 雫に向けていた視線を武彦に向け、翼はまたキバをむく。
「もう。お前に渡した任務だからだ。後は好きにしてくれ。嫌なら俺に文句を言わないで、とっとと断ってきたらいい」
 翼の瞼が細められる。キリきりと歯噛みする音が今にも聞こえてきそうだ、と雫は思った。
「分かった」
 息と一緒に翼がきっぱりと頷く。
「だったら断ってやる」
 踵を返した。
 雫は慌てて翼の腕を取る。
「待って」
 思わず掴んだ翼の腕は、酷く華奢で雫ははっと力を緩めた。その手を翼がそっと掴む。そしてゆっくりと雫の手を剥がした。
「キミには悪いけど。今回は下りさせて貰う」
 凛とした声で断言される。
「翼さんしか居ないの」
 雫が縋りつくと翼は器用に眉を上げた。
「そうとは見えない。嫌だったら辞めてもいいと今言われたばかりだ」
「お兄さんのことは放っておいて。無礼なのは私が代わりに謝ります」
 雫はペコリと頭を下げた。
「悪いのは雫ではなく武彦だ」
「そう。そうなの」
 雫は声を大にして頷いた。
「ぜーーーんぶ。この馬鹿な兄が悪いの」
 武彦がふざけて唇を歪める。雫はそれを無視した。
「でも、依頼者は悪くない。そう思わない?」
 翼が瞳を細めて雫の顔を見る。視線を逸らすと大きく息を吸い込んだ。
「それもそうだが」
「彼。誰にも相談できなくてここまで来たのよ。母親にも相談できず、担任の先生にはそれとなく何度か訴えたけれど無視をされ、やっとここまでやって来たのよ。見捨てられた、って思ったと思うの。保くん。ずっと震えてたわ。ここで話してる間中ずっと。指先が細かく震えるのよ。凄く怖かったんだと思う。彼は男の子だけど。私達女性とそう変わらないような気がしたの」
「変わらない?」
「標準より体も小さいし、勝手な予想だけど、力も弱いんじゃないかしら。特別、能力のある男の子でもないから、同じ男と向かい合った時、力では適わない。そういうものだと思うの。性別じゃないわ」
 翼はフンと鼻を鳴らす。
「けれど男は男だ。自分で解決するくらいの気持ちがないと駄目だ」
「そうなんだけど。でも、もしも彼が女性だったなら、翼さんきっと理解してあげられるでしょう。優しくて頭の良い翼さんだもの。きっと分かってあげられるわ。彼はただ、性別的に男性だったというだけで。けれど翼さんの言うように「男」として振舞えなかったからここに来たと思うの……女性と同じなのよ、彼は」
「女性……な」
 翼は呟いて顎を撫でた。
「そういうウジウジした男が、僕は大嫌いなんだがな」
 腕を組んで雫を毅然と見やった。
「運命は自分で切り開くべきだ。違うか」
 翼が低く呟く。
 その言葉には酷く重みがあった。重く、深い。入り組んだ背景が、彼女にそんな厳しい顔をさせるのかも知れないと雫は思った。
 そんな彼女にどう伝えればいいだろう。
 けれど、言えることなど何もないのだ。
「翼さん……」
 小さな雫の呟きは、翼が吐き出した大きな息に片付けられる。
「駄目ってこと?」
 雫の問いに答えず、翼は嵐の後のような静かで冷たい表情をさっと被ると、トンとソファに身を寄りかからせた。
「けどまぁ。出来ないことをやれと言ってもどうしようもない」
「翼さん!」
「雫の言い分も分かる、と言いたいだけだぞ」
「やってくれるのね!」
 翼は肩を竦めて掌を翳した。
 雫は安堵の息と共に、笑顔で頷いた。


<顔の見えない男>


―1―


 ぎこちない仕草で椅子を引き、保はそこにゆっくりと腰を下ろした。
 そうして間近で見る彼の美しさに、保は思わずハッと小さく喘いだ。
「すごい……」
 その肌は透き通るように白く滑らかだった。青白いというのではない。光を反射させているのか、それとも吸収してしまっているのか。キラキラと輝き、まるで作り物めいていた。保の脳裏にパッと蝋燭の画像が差し込まれた。蝋燭……そうだ。蝋だ。彼の顔は蝋で作られている。そんな気さえした。そしてその白い肌の上に、真っ青な瞳が乗っかっている。
 それが実際、瞳としての機能を備えているのかすら疑わしかった。ガラス玉だ。そう言われたら、やっぱりな、と納得していたかも知れない。それくらい済んだ青い瞳だった。
 それはまるで中世的で、人間離れした美しさだった。その余りの美貌が、彼を男なのか女なのか分からなくさせる。
「蒼王翼だ。キミの任務は直接僕が調査する」
 ぼんやりとその顔を見つめていた保の耳に、突然凛とした声が入り込んできた。
「え?」
 間の抜けた声を出してしまってから、今まで自分がまるで映画を見るようにその顔を凝視していたことを知って、保は思わず顔を伏せた。
「スミマセン」
「何を謝る」
「あ。いえ。スミマセン」
 翼の口から大きく息が吐き出された。
「まぁ、いい。それで、今回の依頼のことだけど」
「あ。あの! この間の……探偵事務所の人は……」
「僕に不服があるのか」
 余りに美しい顔を突き出されて、保は慌てて首をブルブルと振る。
「いえ、そういうわけじゃなくて。あ〜、料金のことであったりとか……が、心配で」
「心配ない」
「そ、そうですか」
「何事も心配ない。調査内容にしても僕一人で十分だ。ここへ足を運んで貰ったのは、事務所が今、人を入れられないくらいごった返していると雫が言っていたからだ。どうだ、問題はないな」
「あ……はい」
 保は戸惑いながらもコクンと頷く。
 問題はないな、と言われれば問題はないような気さえしてきてしまう。
 彼のそういう強引さが保は少し、羨ましいと憧れた。
 そうやっていつも、男として未成熟であろう自分と相反するものに、保の気持ちは強く反応してしまう。
 それは今のように凛とした声であったり、毅然とした態度であったり。時に長身のスラリとした体であったり、穏やかな低いバリトンの声であったり、骨ばった指であったり、全てを知り尽くした大人だけが持ちえる余裕やストイックさ、そして優しさであったりした。
 同級生の中にも声変わりを終え落ち着いた雰囲気を持つ者も居たが、やはり何処か幼さが残っている。保の目は自然と大人の男へと向いた。もしかしたら、そこに父親の姿を求めていたのかも知れないし、違うのかも知れない。そういうことは良く分からない。けれど憧れる。少女に目を向けるよりも、そういう男らしさに酷く惹かれる。
『あの人』にしろ、今目の前に座る彼にしろ、保には手の届かない高貴な存在と思えば思うほど、強く惹かれる。
 憧れ。
 いつだってそう、憧れた人には毅然と美しくあって欲しかった。
「女だ」
 突然目前に座る彼が呟いたので、保は目を瞬かせた。
「な。なにか言いました?」
「女だ、と言ったんだ」
「え……」
「さっきから人のことを遠慮なく男だと決めてくれているが、僕は女だ」
「どうして……」
 女であることに驚くよりも、どうして自分の気持ちが分かってしまうのだろうと、保はまずそのことに驚いた。
 翼はゆったりと微笑んで、驚愕に目を見開く保にふざけた仕草で肩を竦めて手を翳して見せた。
「僕には……そうだな。キミらが言うところの超能力とでも言うかな。そういうものがある」
「超、能力?」
「そうだ」
「貴方は人間ではない?」
 保が恐る恐る問いかけると、翼はハッと短く笑った。
「人間じゃないものに依頼を任せるのは心配か」
「あ……」
 保は声を発してから、自分が何を言うべきだったのか分からなくなって視線を泳がせた。「いえ」やっとそう言う。
「いえ。か。関係ありません」
「チェンジしたいなら、武彦に言うがいい。実際のところ僕も、狂った男同士の情状には辟易してたからな。キミ。依頼を取り消すなら今だよ」
 確認なのか嫌味なのか、翼の言葉の真意が分からず保は俯く。
「と。取り消しません」
 けれどそう呟いた。
「そうか」
 翼は深く頷いた。
「では。早速依頼の話に移ろう」
「は、はい」
 保はゆっくりと頷いた。


―2―


「だいたいのことは聞いたんだ。君はつまりストーカーに追われている。それを辞めさせたい。そういうことだろう?」
「はい」
 保は瞳を細めて力強く頷いた。
「出来れば。捕まえたら警察に。突き出して……欲しい」
 震える声で、しかしキッパリとそう言い放つ。
 翼はふんと溜め息のような返事をした。
「質問したいんだが」
「はい」
「どうして自分でやらないんだ」
 翼は椅子に深く腰掛け足を組む。
「警察を頼るくらいなら最初から、自分でやればいい。違うかな」
「出来ないから」
「なぜ出来ない?」
 端的に言い返されて、保は思わず口ごもる。
「それはキミが弱いからか? それとも何か他に事情があるのか」
 何かを言おうとし、けれど何を言っていいか分からず保は口をモゴモゴさせる。
「とにかく。出来ないんです」
 オズオズとそう答えた。
「フン」
 翼がやれやれといったふうに掌を返して首を振る。
 保は自分でも良く分からない、後ろめたさのようなものを感じてキュウと心臓が縮まるような気がした。
「まぁいい。じゃあ、そのストーカーの男に心当たりは?」
「え」
 弾かれたように顔を上げる。ねめつけるような視線にぶつかった。
「心当たりだ」
 保はオズオズと顔を落とす。微かに首を振る。
「あ、ありません」
 か細く、呟いた。


<疑問>


 ソファに踏ん反り返った翼は、憮然とした顔で言った。
「依頼調査に入る前に、ニ、三質問したいことがある」
「ほう。なんだ?」
 軽く頷いて、武彦が言う。雫は翼の前に紅茶を置き、自分も向かいのソファに腰掛けた。
「まず。思ったのだが」
「あぁ」
「依頼者がストーキングで悩んでいるというのなら、専門的に取り扱っているところは沢山ある。どうしてそこに回さなかった。いや。今からでも遅くはない、そういう場所に回すべきだ。違うか」
「まぁ。そうなんだが」
 武彦は酷く面倒臭そうな声で頷いた。
「俺もそう思って依頼者に提案してみたんだけどな。本人は余り大事にしたくないらしいんだ。それに、余りに機敏に取り扱われて根堀葉堀というのも嫌なんだろう。男同士なんてイレギュラーには違いないからな。しかも今回はコトがコトだ。親がしゃしゃり出て来ていないことからも、こういうアンダーグランドの探偵事務所が彼には都合が良かったのだろう。しかしまぁ、見上げた勇気だとは思うがな。こんな場末の雑居ビルに入るにも勇気がいっただろう。中学二年生が」
「だから多分彼、引き返そうとしてたのね」
 雫は思わず口を挟んだ。
 翼の視線と武彦の視線が自分に向く。
「私が扉を開けてなかったら、彼はきっと引き返していたわ。それで今も一人で悩んでいたはずだと思うの。彼、さっきも言ったけど、母親に相談出来ず、先生には少し、漏らしたらしいんだけど。学内で発生してるイジメでもないみたいだし、そもそも男が男に追われるなんてイレギュラーでしょ? だからだと思うのだけど、先生の方もだんだん相手にしてくれなくなったらしくて」
 雫は溜め息と一緒に小さく首を振った。
「まぁ。そういうことだ。親にもなんらかの理由で……まぁ、この場合は恥かしいという気持ちからだろうが、とにかく相談出来なかった依頼者は、追い詰められて最終的にここしか縋る所がない、といった風だった」
「なるほどな」
 翼は頷いた。続けて質問を投げかける。
「じゃあ。次は手紙のことが聞きたい」
「手紙?」
「ストーカーから届いた手紙だ」
「あぁ。なるほど。それがどうかしたか」
「その手紙というのは、どうやって依頼者の手元まで届いたんだ。普通、母親というフィルターが通るはずだろう。しかも例え一度目はたまたま通過したにせよ、何通も届けば親は気付く。本当に母親は、全くそのストーキングに気付いていないのか」
「中々鋭い」
 武彦は指先で翼を刺した。
「俺もそれは思ったんだ。一人暮らしをしているでもなく家族と同居していて、果たしてそんな手紙がちゃんと依頼者の手に届くだろうか。普通はそう思う。母親が果たして、塾の案内を開封しないだろうか。とな。しかし現に依頼者の話では母親は全く気付いてない。首を傾げたくもなる。しかし、しかしだ。片親ということを考えれば、そういうこともありえるかも知れないとは予想できる。この場合、母親は働くことに懸命で、口に出し相談するまで気付かないということだろう。その手紙は塾の案内を装い依頼者の手元に届いたんだ。妹も兄の名前の印字された郵便物を勝手に開封する習慣はなかった、ということだな」
「塾の案内?」
「学園の近所にある進学塾の案内だ。案内が届く数日前に、依頼者は実際にその進学塾の体験入学に出かけている。担任の先生に進められたそうだ」
「なるほどな」
 翼は深く頷いた。
「何よりも、そのストーカーは、手紙が保の手に届くことを確信しているようだな」
「そういうことだ。家族と同居しながらも、保の手に届くことを分かっている人物。彼の家族構成を知っている人物。それが今回のストーカーだ」
 翼はフンと鼻を鳴らす。
「なるほど」
 唇を吊り上げて、頷いた。
「それにもう一つ妙なことがある」
 武彦が椅子に踏ん反り返りながら顎を摘んだ。
「依頼者はストーカーを男だと言ったんだ」
「あぁ」
「けれど。電話は無言なのに、どうして男だと分かったのだろうか」
「手紙に僕だとか、俺だとか書いてあったんだろう」
 武彦はゆっくりと首を振る。
「今この場にないので、見せられないが。あぁ、実際依頼者に会った時に見ればいい。そこに書かれてある文面の一人称は全て『私』となっている。つまり、女ともとれるし男ともとれる。わけだ」
「じゃあ、電話で男の声を聞いたんだろう。それをたまたま言い忘れてた」
 うーん、と武彦は渋い声を上げる。
「お前の能力を使って探りを入れてみてくれないか」
 ポツリと呟いた。
「僕の能力?」
「彼は……、酷く断定的な口調で『男』だと言っていたんだ。まるで相手を知っているみたいに。『私』という一人称を使う男性を知っているようでさえあったんだ。けれど彼はストーカーを見つけて、捕まえてくれ、と依頼してきた。男だと知って、もしかして相手を知ってさえいるのかも知れないのに。おかしいだろう」
「要するに。嘘をついているんだな」
「嘘なのか。嘘じゃないのか。それもお前に調べて欲しい」
 武彦は言った。翼は「フム」と考え深げに頷いて、顎を摘んだ。


<偵察>


 テーブルの上に広げられた手紙を読むフリをしながら、翼は目前に座る少年の顔を伺った。
 ざっと目を通しただけでも、確かに手紙の一人称には『私』が使われている。
 一番簡単な解決法があるとしたら、何かを隠しているように見える彼自身の口から、全て言わせるのが一番良い。
 彼が一体何を隠しているのか。翼はその『隠し事』があるという事実だけは突き止めていた。
 そう彼は、隠しているのだストーカー男の正体を。
 けれどそれが誰なのか。そこがまだ、分からない。
 自分の持つ能力を使い彼の口を割らせることは簡単だった。
 けれど問題は、何故この少年がそんなにも頑なにストーカーの男を知らないと言い、そうしてその一方で警察にまで突き出して欲しいなどというのか。その心情の方なのだ。
 火山のように噴き付けてくる人間の感情の昂ぶりや、敵意。そういうものを読み取る能力が翼には備わっている。五感とでも言うべきか。その動きを如実に感じ取ることが出来る。
 けれど今回のような鬱蒼とした、まるで人知れず流され削られていく川原の小石のたった一つのような人間の、微妙な気持ちは中々読み取り難い。相手が心を開けばまた違うのだろうが、彼の場合は特に固く心を閉ざしている。その心情をより読み取り易くする為に、人の居ない喫茶店を待ち合わせ場所に選んだのだが、彼の声は酷く小さくぼやぼやとしていて纏まらず、やはり理解し難い。

「男だとは何故分かった?」
 手紙の文字を目で追うフリをしたまま、翼はポツリと呟いた。
「何故?」
 保は小首を傾げて問い返す。
「ど。どういう、意味ですか」
 翼は神経を集中させる。彼の周りを巻いていた風が流れて、その感情が微かに動いた気配がする。ここまでは、さっきも同じだ。微かに感じる。彼が何かを思う時、風が流れて翼に知らせる。
 けれどその先が見えない。先に進めば進むほど、ぼやぼやとして掴めなくなる。
「電話は無言。手紙の一人称は私。普通なら女と思うんじゃないか。キミは男なわけなのだから」
「そ。それは……」
「本当に心当たりはないのだろうか。キミは。ストーキングをしている男に」
「あ。ありません」
 保はブルブルと首を振る。
 風が動く。知っている。それは確信できる。けれどやはり先は見えない。
 翼は眉を上げて深く頷いた。
「そうか。分かった」
 テーブルに肘を突き、顔を突き出す。
「ところでキミは相手を捕まえたいのか。捕まえたくないのか。どっちなんだ」
 単刀直入に追い詰めてみる。
「つ。捕まえたいです、よ。何を言うんですか」
 保は世話しなく指先を絡めながらしどろもどろに答えた。それは明らかな狼狽だった。
 けれどどうしたことだろう、この固く閉じられた心の中は。
 こんなにも分かり易そうに見えて、こんなにも見えない人間もそう居ない。
 鋭い視線を投げていた翼は、瞳を細め保をねめつけた。
「いいだろう。けれど、キミがどういう態度で臨んでも、僕は受けた依頼は必ず終わらせる。相手の男を警察に突き出すぞ」
 そしてキッパリとそう言い放った。
「も。もう検討がついているような言い方をするんですね」
 引き攣った笑みを浮かべ、保が言う。翼はゆったりと微笑んだ。
「ついてるさ。最もキミも良く知っている男だと思うけどね」
 かまをかけてみる。
「知りません。検討なんてつきません」
 保はブルブルと首を振る。
 狼狽に、その心が微かに揺り動く。薄っすらとした明かりが見えてくる。
 自分で依頼したくせに。どうしてこうも、心を閉ざすのだ。
「それならそれでいい。さっきも言ったが、僕は受けた依頼は必ず終わらせる。それだけだ。キミらの情状には全く興味がないからな」
 椅子に踏ん反り返り保をねめつけると、擦り合わせているその指先が、微かに震えていた。


<顔の見えない男>


―2―


 夜明け前の午前四時。
 傍若無人な非通知電話は、そんな時間にまで保の電話を光らせた。音は消してあったが、ディスプレイの光までもを落とすことは出来ない。友人との連絡もあるから、電源を切るわけにもいかない。
 そんな設定の隙間を縫って、今日も携帯は非通知の着信を知らせる。
 保は苛々として、ベットに投げ出された携帯を手に取った。
 そして通話ボタンを押すと、保はとうとう、無視を決め込んでいた無言電話に向かい声を荒げた。
「誰だよ。いい加減にしろよ!」
 声を荒げて反論した保の耳に、ざらざらとした無言が返ってくる。
「卑怯なことをしないでちゃんと名乗れ!」
 けれど聞こえるのは、いつものように無言と微かな吐息ばかりだ。
 いつもなら、そもそも電話を受けることはしないし、無視が一番良いとも分かっていたが、それではいつまでたっても埒があかないのではないかと保は思った。そうだ。時に立ち向かうことも必要なのではないだろうか、と。
 今日は相手が切るまで絶対切らない。
 保は毅然とした態度で臨めと自分に言い聞かす。

「何とか言え!」
 たっぷりとした沈黙を破って保がそう叫んだ時、見えない向こう側の空気の、微かな動向を耳が嗅ぎ取る。
 そして。
「保」
 微かな声が聞こえた。
「やっと受けてくれたね」
 声は男のものだった。
 それも……保がとても良く知る。
「え?」

 その声から一人の男性が思い浮かぶ。

 そんな。
 まさか。

「せ。んせ、い」

 保は目を見開いた。
 息が、詰まった。

 聞き違いに違いない。
 そうであって欲しい。
 保は思わず、耳から携帯を剥がし見つめる。
「保。もっと君の声を、聞かせてくれないか」
 興奮したようなバリトンの声が、携帯から漏れている。
 まるで携帯電話が喋っているようにさえ、見える。
 そうだ。
 それならばどんなにいいか。
 電話の向こうは存在しなくて、この携帯が勝手に喋っていたのならどんなにいいか。

 保の意思に反して、脳は謎の断片のジクソーパズルを埋め込み始める。

 どうしてあの手紙が塾の案内を装い自分の手元に届いたのか。
 塾の内部の人間が送ったからだ。
 しかしそれは違う。そうではなかったのだ。
 そうして保は思いつく。
 三社面談だ。
 机を向き合わせた人の居ない教室の映像が保の脳裏に差し込まれる。
 成績が特に悪いでもない保は、けれど特に良いわけでもなかった。自分自身ではそれはそれでいいと思っていたが、海星学園自体が有数の進学校であることから「塾へ通う気はないか」と担任の先生に言われたのだ。
 学校の先生が「塾」という単語を口にすることに、保は酷く違和感を覚えた。
 それ以上に、自分が敬愛する先生に否定されたような気さえして酷く落胆すらした。自分が教えてやる、と。保の学力を上げてやる、と先生は言ってはくれなかった。そのことが、先生は自分を見捨てたのだ、と保に思わせた。
 母親は先生の提案にたった一言「それはこの子が決めることですから。全て、任せます」と言った。

 先生……。
 保は全てを理解する。

 遮光が完璧ではないカーテンから、光が忍び込んできた。
 夜明けが来ていた。



第二章

<捕囚の足跡>


―1―


 空には白というよりは灰色の雲が伸びていた。風は強く翼の金色の髪はさらさらと流される。
 皮肉にも、協力的なシュチュエーションだった。
 この依頼をどうしても成功させたい、と熱心に思ってもいないのに、風は翼の体を大きくうねりながら取り巻いている。ふと、人生なんてそんな物なのかもしれない、と翼は思った。
 一生懸命やったことが報われなくて、気紛れにやったことが実ったりする。そんな物だと。
 病院の屋上からは、灰色のビルばかりの東京の街が一望できた。昼間ということもあり、その景色は美しいよりも非人間的だった。その非人間的な景色の中に、海星学園の四角い建物が見える。
 ふと、思う。こんな、灰色の中に囲まれ環境の中で人間は「学ぶ」のか。と。
 灰色の世界の中で育った人間が、歪まない方がおかしいことのような気さえした。
 学ぶ方に生じるのが先か。それとも、それを教えるという立場の人間の方に生じるのが先かの違いだけで。
 健全なものなど、きっとこの世界に存在しない。

 事務所で依頼の話を聞いた時に、翼には既に一つの仮説が浮かび上がっていた。
 そしてそれは、依頼者を見た時真実味を帯びた。
 今は。たぶんそれが真実なのだろうと思っている。

 海星学園から数キロ先に立つ総合病院の屋上の中心に立ち、翼は大きく息を吸い込み手を天に向かい掲げた。
 ゆっくりとした動作でそれを胸の前まで下ろしていき、重ね合わせると同時に首をうな垂れる。
 もう一度大きく息を吸い込んだ。

 風の声を聞く。
 全てを取り巻く風。彼等は全てを知っている。

 依頼者の携帯電話の番号はどこから露出したのか。
 差し出された手紙が塾の案内だったのは何故か。
 どうしてそれが、母親というフェルターを通さず直接保の手に届いたのか。
 いや、もっと言えば母親というフィルターを通さないということをまるで手紙の主が知っていたかのように。
 そして依頼者の担任が。
 依頼者が切実に相談してくるその訴えを、無視したのは。
 何故か。

 依頼者は嘘をついていた。
 たった一つ。けれどそれは重大な嘘だ。
 彼は間違いなく、知っている。そして認識している。
 自分をストーキングしている男が誰なのか。

 翼はゆったりとした呼吸を繰り返し、風の声を聞く。
 さわさわと、囁くように体内に入り込んでくる風の声は心地良い。
 歪んだ人間立ちを嘲笑うかのように風の声は透き通り澄み渡り、翼に真実を教えてくれる。

 髪が風に包まれ、フワリフワリと浮いて行く。
 風の声を聞く。風がその情報を運んでくる。
 依頼者の担任である男のことを。


―2―


 脳に衝撃が走り、翼はビクリと体を揺らした。
 その脳に一つの映像が差し込まれる。

 男の顔を青白い光が照らし出していた。
 青白い光はテレビから漏れる明かりだった。暗闇に包まれた男の顔を、そのテレビから漏れる青白い明かりだけが照らし出している。
 男の眼鏡がテレビから漏れる光に反射してキラリと光った。
 テレビに映し出されているのは、保の映像だった。短パン姿、白いTシャツ。体操着だ。名前がTシャツの前面と背面に貼り付けられている。まだ、一年の頃の映像のようだ。1−Bという文字が名前の上部に見える。
 保の頭には赤色のハチマキが巻いてあった。
 運動会だろうか。
 保は同級生と笑い合っている。
 編集されたその映像は、次に保が走る映像を映し出した。走るのは余り得意ではないらしく、保は一番最後にゴールへ辿り着く。
 文化祭。水泳大会。次々に映像は変わっていくが、どれにしても保を中心に進んでいる。
 そうして「触れ合い旅行」というらしい行事の中で、ジャージ姿の保の姿が映し出された頃には、彼は二年に進級している。
 翼の脳に差し込まれた映像のアングルがゆっくりとまた、男に移る。
 笑っている。
 背筋が冷たくなるような、醜い笑い。
 男は瞳を細め、その唇をゆったりと吊り上げている。

 翼は瞳を閉じたままゆったりと空を煽る。風がその頬を巻いていく。
 また脳に衝撃が走り、次の映像が差し込まれる。

 薄暗い路地だ。裏口のような鉄の扉に男は立っている。足元に、膝丈くらいの看板が出ている。ラウンジ、テペド。黄色いランプの灯った下世話な看板だ。
 店の中は薄暗く、カウンター席に一人の男性が座っている。
 男はその男性に近づき、何事かを囁く。男性は自分の足元に置かれてあった黒い鞄から、ビデオテープを取り出し差し出す。ニヤニヤとした卑しい笑みが二人の顔に浮かぶ。
 男はそのビデオテープを受け取り、男性に二枚の万札を差し出す。
「二人目の獲物ともなると手馴れたものだな」
 男は卑しい笑みのまま、言った。
「今回は手持ちがなくて目をガムテープで塞いだんだ」
 男性はクククと身を揺らす。
「剥がす時、眉毛が抜けて大層痛がっていたな。綺麗に整えられた眉毛が台無しになった」
「そいつはいい」
 男はゆったりと微笑む。
「ビデオがあると脅せば訴えることもない。簡単なもんだ」
「少年は少女よりも、幼気なんだ。俗に汚されてない」
 男性が、気を違えたかのような笑い声を上げた。
「そいつはいい。それを汚した俺達は悪魔だな」
「世間知らずの天使に世の中を教えてやるのは、教育の一環なんだ」
「悪い先生も居たもんだ」
「気を抜くと駄目だという世の厳しさを教えてやらんとな」
 男性はまた笑い声を上げてから、言った。
「また、獲物を見つけたら教えてくれ。誠二さん」
 男はゆったりと微笑んで、頷く。

 翼は差し込まれた映像の、余りの不快感に眉を寄せる。
 切りきりと奥歯を噛み締めた。
 それだけでこの男を捕捉するに十分値するのだが、映像はもう一つ、あった。

 また暗い部屋。
 男がテレビを見ている。テレビには保が映し出されている。
 満面の笑み。
 その笑顔に、男は長い長い溜め息を吐き出す。それから頭を抱え丸くなり、首をブルブルと振った。
 後悔の念。

 男は全てから逃げ出す為に、自殺しようと考えている。


―3―


「そんなことで解決できるものか」
 翼は吐き捨てるように呟いた。
 大きく息を吐き出してから、キッと瞳を開ける。
「逃げられると思ったら大間違いだ」
 青いガラス玉のような瞳がユラリと揺らめく。
 ゆったりと顔を上げて、歩き出した。屋上を取り囲むように張り巡らされたフェンスの前に立ち、その驚異的な跳躍力で軽々と飛び越える。
 コンクリートの地面から颯爽とその身を投げ出した。
 風がフワリと翼の体を包み込む。
 快晴の青空の中を、翼は文字通りその見えない翼で飛翔する。



第三章

<捕捉。そして退屈な告白>


―1―


 翼と別れてから数時間ほどして、保の携帯が鳴った。
 翼からの連絡だった。
「男を捕まえた」
 完結に述べられた事実に保は言葉を詰まらせた。
 心の準備が出来ていなかった。

 他力本願にして目を逸らし、そうして自分に受け入れる準備が出来たころ真実が分かればいい。
 そう、思っていた。
 けれど、他力本願は自分の思い通りに進まない。そんな当たり前の事実を目の前に突きつけられて、保は焦った。
「このままキミが来なくても、この男を警察に突き出すが。どうする? 来たければ来ればいい。来なかったらこのままこの男を警察に突き出す。時間の猶予は三十分だ。場所は、〇×病院の屋上だ」
「ま、待って下さい」
「何を待つ」
「あ、あの、今日は」
「とにかく来ないなら来ないでいい」
 そのまま、電話は切れた。
 保は愕然と携帯を持った腕を垂れた。


―2―


 倒れそうになるくらいよろよろと憔悴しきった顔で、それでも病院の屋上に姿を現した保は、その顔を見た途端、力が抜けたようにペタリとその場に座り込んだ。焦点の合わないボンヤリとした目で男の顔をじっと見ている。
「これがキミをストーキングしていた男だ。海星学園中学校、二年C組担任浅井誠二。キミの担任だな」
 翼は凛とした声で言い放つ。
「この事実を、キミは知っていた」
 翼はそのつむじを見下ろしながら心持ち声を落として言った。
「そもそも。僕らが憶測を重ね浅井に辿り着くより以前に、多分キミは電話でかこの男の声を聞いたんだ。そうだろう?」
 保はクゥと首を垂れる。
 ゆっくりとした仕草で両腕を上げて、頭を抱えた。その口から吐き出される息が次第に荒くなっていく。
「ハッキリ言って、僕はキミの気持ちがまるで分からなかったんだ。ストーカー男はキミの担任だ。どうしてわざわざ人に捕まえさせる理由がある。何故キミは、そんな回りくどいことをする」
 そしてとうとう保の口から嗚咽が漏れる。
「そう。思っていたんだ」
 翼は息を吐き出した。

 目の前に突き出された現実に、保の心の扉はその制御力をなくしてしまったのかも知れない。
 溢れ出てくる感情は、大よそ翼が想像していた事実と同じだった。

 そう。彼も。
 浅井のことを、慕っていたのだ。

 裏切られたという想いは、憎悪を生む。保はきっと、この男を罰したいと強く思った。けれど、それは中学二年生の彼にとって余りに酷な判断だった。
 憧れていた男が、思い描いていた男が。
 思春期の想像の中で膨らんだ憧れが、裏切られるその衝撃とはいかばかりだろうか。
 鼻糞をほじっていたって壊れる思春期の憧れが、しかも自分のストーカーであり、変質的な趣味を持った男だったと知ったら。
 聖人と信じていた先生の、醜さに気付いた時の少年の傷はいかばかりだっただろう。
 無条件に信じていた彼の想いが裏切られたその悔しさは、言葉に出来ないほどだっただろう。
 しかし。
 それでも彼は守ろうとした。
 それでも彼は憎みきれなかった。
 少ない可能性に賭け、この男が自分を追うストーカーなどではなく。
 憧れたままの先生であって欲しいと。切に願ったはずだ。
 自分と二歳しか違わないそのか細い肩を見ると、その苦しみは更に臨場感を持って翼の隣に立つ。

 武彦は知っていたのかも知れない。
 だから自分を行かせたのかも知れない。
 翼はふとそんなことを考えた。
 もしも本当にそうならば、武彦の選択は間違っていなかった。
 誰よりも今、この蹲る少年の気持ちを理解してやれるのは自分だろうと、思う。
 誰よりも今、その苦しみをリアルに想像してやれることが出来るのは自分だろうと。

 けれど。
 たった一つ。
 自分は保ではない。
 この男が憎い。
 幼気な少年の心をこんなにも弄び、こんなにも苦しめたこの、男が!

 翼は唇を震わせて、息を吐き出した。
 平静を装い、心を懸命に静める。
 けれどその心に冷たい風が吹きぬけて、背筋が総毛立つ。

 ゴウッと凄まじい音を立てて、男の体を風が取り巻いた。
 保がハッと顔を上げる。

「保」
 濡れた瞳を見下ろした。
「申し訳ないけれど。僕は……キミじゃない。この、男が憎い。憎くて仕方がない!」
 翼が声を荒げたと当時に、男の体がキュウっと回転する。
 現れた竜巻に身を巻かれ、男の頬がピッと切れた。
 ツッと一筋の血が伝い、その血は皮肉にも、座り込み空を煽る保の頬にポタリと落ちた。
「警察に突き出すよりも、ここでこの男を殺してしまいたい。この男の不浄を。腐った全てを浄化させる為には消滅させるしかない。本当はそう、思う」
 翼は冷たい声で言った。
 しかし風はすっと勢いを止めた。男の体がコンクリートの上にフワリと落ちる。
「けれどそれでは。この男が考えていた結末の通りになる。僕は、それだけは嫌なんだ」
 翼はふっと息を吐き出した。
「死ぬことで解決するなんて、そんな甘い罰を与えるつもりはない。この男は……生きて苦しみ抜くべきだ」
「先生が……考えていた……結末?」
「もしもこの男が、警察で罪を償い終えてもずっとずっと苦しみ続けることを僕は願うよ。警察での償いはただの過程に過ぎない」
 翼はゆっくりと保の瞳を覗き込んだ。
「彼は今、催眠状態に陥っている。いいか。このまま、警察に向かわせる」
 ゆったりと保の黒い瞳が蠢いた。
「けれど最後に。男の声を、聞くか? 真実を、聞くか?」


―3―


 病院の屋上には勢いの荒い風が轟々と巻いていた。
 太陽はゆっくりと沈み始め、代わりに屋上にはオレンジ色の夕日の光が顔を出す。

 睡眠状態で瞳を閉じたままの浅井は、まるで糸の切れた操り人形のようにそこにクタリと座り込み、とうとうと語り出した。
「私は、自分のやっていることが間違っていると思ったことはない。今までも、そうして今でも。
 後悔など一度もしたことがないし、この先もすることはないだろう。
 けれど彼の笑顔を見ると。なんということだろう。背筋がすっと冷たくなり、急に全てが空恐ろしくなってくる。
 担任になった新しい教室で、あの笑顔を見つけた時、私はその顔に釘付けになった。そうして彼と一分でも一秒でも長く繋がっていたいと強く思った。
 学校の資料室に保管されていたビデオを盗み出し、彼の姿をいつでも見れるように編集した。
 そうして写真をプリントアウトして部屋中に飾った。
 ただいま、保。おはよう、保。日課になった挨拶を彼と交わすのだ」
 浅井はうっとりとした笑みをその口元に浮かべていたが、突然眉を寄せて吐き捨てるように声を荒げた。
「けれどそれはただのビデオであり写真なのだ! 生身の彼ともっと繋がらなければならない。脅迫概念が私を襲った。学友と会話する彼の笑顔が憎らしくて仕方ない。たった一秒でも彼から目を離すことが恐ろしい。彼は私を忘れてはいけないから。だから私は、学友と話をする彼達の仲間に入り、携帯電話の番号を暗記した。知らない顔をして、彼の番号を暗記していた。彼の言動、行動、全て見張っていた。盗聴器を仕掛けるのだって簡単だ。だって私は、彼が日常を過ごす学校という場所に居る、教師なのだから。そうして私は彼に電話をかける。彼の日常の全てを見張っているよ、と教えてあげる。これが私の想いの重さだと知らしめてあげる。なのに……彼はその電話を次第に受けなくなった。それでは想いは伝わらない! だから今度は、彼に私の思いを綴った手紙を送ろうと思った」
 浅井はまた、うっとりと微笑んだ。
「それは功を奏した。彼は私に相談を持ちかけた。無言電話、宛名のない手紙。彼の口から出た言葉に私は心中でひっそりと歓喜の悲鳴を上げた。私の存在が彼の中に入り込んでいる証拠だと思った。間違いなくあの手紙やあの電話は彼を縛り付けている。けれどまた、私の背筋は冷たくなった。彼があんな顔をするからだ。あの無垢な笑顔。吐き気がする」
 すると突然、今までバリトンだった浅井の声が、ぞっとするほど妙に甲高い声に変わった。
「キヒヒ。いつものように幼気な少年に現実を見せてやればいいのだ。お前のその手でふっくらとしたあの頬を張り倒し、怒鳴りつけてやればいい。今までのように、同じように。この無垢な顔に泥を塗ってやればいい。それはゾクゾクするような快感だ。そうだろう。もう彼はお前の物だ。汚してやればいい。壊してやれ。全部を壊してやれ。なんならテペドに居るあの男に頼めばいい。お前が自分の手を汚さずに、あの獣の手で彼を汚せばいい」
 浅井はブルブルと首を振り、バリトンの声を荒げた。
「違う! 彼を誰の手にも触れさせはしない! 彼は私だけの物だ。私だけの物なのだ。誰の手にも触れさせたくはない。あぁ……そうだ」
 そこで浅井はふっと顔を上げて、また微笑んだ。
「彼を部屋の中に閉じ込めて、あの笑顔だけをずっと……見つめる。そうだ名案だ。彼の笑顔は私だけに向けられる。彼は私だけを見る。彼は私だけを愛する。彼の髪の一本、爪の先まで全部、私だけの物だ。私はそれを好きな時に取り出して、彼を愛でる」
 浅井の顔が歪み、またぞっとするような甲高い声が言った。
「キヒヒ。そうだな。それは名案だ。それがもっともエゴイストなお前らしい。彼の手足を鎖で繋ぐか。なんなら切り落としてしまうか? キヒヒ。そうだ。それがいい。もう逃げられない。アレはお前だけの物になる。名案だ、名案だ」
 浅井の表情がまた変わる。今度は眉を寄せ、酷く苦しげに首を振る。
「違う。私はそんなことがしたいんじゃない。眩しい。眩しい。あの微笑が眩しい。それに比べ、私はなんて暗い所に居るんだろう。暗い。知らなかった。どうして私はこんな暗い場所に居る? 苦しい……苦しい。苦しい!」
 頭を掻き毟りながら、浅井が叫ぶ。
 けれど突然、糸が切れたようにその場に突っ伏した。


「死ねば。楽になれるのだろうか」
 顔を上げた浅井は、細い声でそんなことを言った。


<解決>


「これがこの男の全て、だ」
 翼は声を潜めて言った。
「この言葉は救いにするかはキミが決めればいい」
 重い溜め息を吐く。酷く疲れていた。額に手をやって、うな垂れてくる頭を支える。
 翼はその言葉を言うべきかどうか、迷っていた。
 けれど額を押さえたまま、ポツリと呟いた。

「愛、だったんじゃないか」

 うな垂れる保の背中に、続けて言う。

「歪んではいたけれど。今までこの男が重ねてきた罪を考えたら、彼はキミのことを純粋に愛していた。僕はそう、思う。それでこの男の罪が全て消えるとは思わないけれど……ただ。愛、だったんじゃないか」

 ゆったりとした沈黙が流れ、風がその場をクルクルと巻いて離れて行った。

「僕はそんな愛を求めたんじゃない」
 風に紛れて震える声が翼の耳を突いた。
 保に視線をやるとその指先が。
 微かに震えていた。



―END―



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 2863/ 蒼王・翼 (そうおう・つばさ) / 女性 / 16歳 / F1レーサー兼闇の狩人】


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■         ライター通信          ■
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 初めまして、翼さま。
 今回、執筆をさせて頂きました、下田マサルという者で御座います。
 依頼をお受けするのが始めてでしたので、ちゃんとイメージ通りに出来ているかとてもドキドキとしております……!!
 沢山素敵な能力をお持ちだったのに、使い切れなかったり上手く使いこなせなかったりしたのではないか。と心配です。
 ご意見ご感想などありましたら、メールフォームよりお声頂けるととても有り難く……!!

 それではまた、何処かでお逢いできることを祈りつつ。
                          感謝△合掌 下田マサル