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<東京怪談ノベル(シングル)>


赤い金魚

 やわらな、ちりめんの感触。
 ふわりふわりと漂う空気のような、手触りの中に赤い色が映えていた。
 そんな風にして、長く長く見つめていたかったのは、金魚の形のがま口だった。
「……かわいい」
 もう一度、ついさっきしたのと全く同じに、指先でつついてみる。
 ひっくり返して、もう一度……。
 今度は金魚の反対側の姿が現れた。
 ぱくりと開けてみると、金魚が口を開いた姿に見えた。
 それを目にして、7歳の中藤・美猫(なかふじ・みねこ)は、改めて独りでににっと笑ってみた。
 ごろんとうつ伏せに転がった姿で、蛍光灯の下、さっきから長い事そうしている。
 指先で遊ばせる金魚が、本当に……本当に可愛くてたまらないから、だ。
「かわいい……! 」
 美猫がこの自分の手の中にある、金魚のがま口を、ふとしたきっかけで貰い受けたのは、今日の昼間だった。
 元々、祖母と数多くの猫達と暮らす、美猫の自宅は地元でも有名な『猫屋敷』になっていた。
 この界隈に住まう、近所の人間の誰かに声を掛けても、大抵が通じてしまう程に知名度は高い。
 しかも、つい最近、その猫達が更に増えた。生まれたばかりの子猫が、縁の下や軒先から、次々と顔を覗かせた様子に、美猫は飛び上がる程驚かされたものだった。
 そんな訳で常に路上にも届いている、子猫の愛くるしい鳴き声に引き寄せられるようにして、ふらりとこの家に立ち寄ってしまう人間も、決して少なくない。
 そうして、近所の雑貨屋の店主が訪れ、子猫を譲ってほしいと頼まれ、子猫を三匹里子に出す事になった。
 その可愛い猫達のお礼にと、美猫が貰い受けたの品物がこの金魚をかたどった、がま口だったのだ。
「子猫さん達、元気に走っていて、うれしそうでよかった」
 昼間、貰われて行った先の雑貨屋の店内で目にした、子猫達のはしゃぐような姿が蘇り、美猫は自分の気持ちまで温かくなってゆくのを感じていた。
 好奇心いっぱいに、無邪気に駈け回る姿は、見る者誰の眼差しをも、優しく変えてしまう力を宿している。
 そうして、雑貨屋での光景を思い出している内に、美猫の側へは、猫達がたくさん集まってきた。
「ね? かわいいでしょう? これね、お魚さんの形……金魚……って、分かる? ふふ」
 まるで猫達に自慢するように、美猫はがま口を指先でつまんで、見せながらそう言った。
 それから、まるで猫がそうするように、しなやかに背筋を伸ばすと、大きな欠伸をひとつした。
 美猫は正真正銘、猫妖怪のクォーターなのだ。その猫特有の感覚を色濃く受け継いだせいか、雰囲気や仕草が猫そのものに見える時が度々あるのだ。
「眠くなっちゃった……もう、一緒に寝ようね、みんな」
 瞼が下がりかけた美猫の声に応えるように、猫達がいっせいに、にゃあおと鳴いた。
 それを見つめて、美猫はまた、はにかんだような微笑みを見せた。
 大切で大切で、大好きな猫達と過ごす時間……。
 嬉しくて温かくて、言葉にならない気持ちが溢れてくる。
 美猫はそんな思いを託すように、そのまま自身の腕を差し出すと、何匹もの猫達と共に、金魚のがま口をそっと抱き締めた。


 ―その日の深夜。
 美猫は、目を擦りつつ、独りでにむくりと起き上がった。
「……う……うん」
 眠りの淵から引き抜かれ、這い出てきた感覚にも似て、まだ意識がはっきりしない。
 半身を起こしかけたものの、全身への重い感覚を覚えて、それすらおぼつかない状態だ。
「何かなぁ……変な……かんじ」
 と、その時、不意に何かが感じられた。
 深夜のぴんと張ったような空気の中に、確かに『何か』が漂っている。
 正体不明の……これを何と言葉に置き換えればよいか、美猫には分からなかった。
 ただ、それを感じ取った事で、結果的に眠りの淵から目覚めさせられた事だけは分かった。
 そう、五感を越えた何かが教えているのだ。
 ―目を覚ませ、と。
 その時、背後から猫の鳴く声がした……。
 美猫は本当に聴いたかどうかが、曖昧なその音に、ぼんやりとした視界のままで、そちらへと視線をしてゆく。
 もう一度猫達が鳴いた。
「ふぇ……な……何ぃ? 」
 寝ぼけ眼で、声までぼんやりしていたけれど、美猫はただそう声を上げた。
「う……うそ……何で、なんで? 金魚っ! 」
 美猫がもう一度発した声は、さっきより、ずっと霞みが晴れたように感じられるものだった。
 何故なら、美猫は自分の目の前の光景に、明らかに仰天していたのだから。
 むくむく……止まらない。
 ふっくらした……ちりめんの赤いカタマリ。
 巨大化してゆく金魚が、今、闇の中を泳ぐようにして、美猫の目の前で、ゆっくりと身体をくゆらせていた。
 猫達の声は、更に大きくなった。
 膝をついたままの姿勢の、美猫の足元には、猫達が互いの身体をすり寄せるかのようにして、集まっていた。
 しかも……。
 闇の中で、美猫の両眼と、猫達のそれが輝きを増す。
 その場所にだけ光を落としたような、きらめき……。
 そんな美猫達の前で、金魚の口がぱっくりと開いていった。
「やっぱり、がま口のままだ……」
 金魚の口元には、美猫の目からも金属の鈍い輝きが見えた。
 猫達がまた何度か鳴いた。
 金魚が泳ぎながら、こちらへ向かってくる。
 猫達の声が、それにつられるようにして、更に大きくなっていった。
 言葉を失ったような美猫の前で、更に驚くような事態が起こった。
「うわぁぁ、だめっ……だめだよ……やっ」
 がま口の金属の口が、猫達を丸ごと飲み込むかのようにして、腹の中へ収めてゆく。
 しかも次から次へと……。
 その時には既に、猫達の声は闇を天上から覆うかのように大きくなっていた。
 自分の目の前で猫達が金魚に食べられてゆく様に、美猫は無我夢中で立ち上がった。
「だめ―――! 」
 駆け寄りざまに、巨大化した金魚の尾びれに、必死でしがみつく。
「帰して! 帰してよ! 猫さん達全部、帰して! 」
 涙がぽろぽろ溢れてきた。
「お願い……みんな大事なの! かえしてよ! 」
 懇願するように、美猫は喉から搾り出すようにして、同じ言葉を繰り返していた。
「あっ……! 」
 はっと我に返った時には、もう遅かった。
 美猫の方へと、今や巨大化しすぎたような姿の金魚のがま口が、大きく大きく口を開けていた。
 その先にあるのは、今よりも更なる闇だけ。
「きゃぁぁ―――! 」
 瞬間的に、美猫の身体もろとも、金魚の中へ吸い込まれるようにして消えて行った。
 美猫も猫達も全て消え去った空間には、ゆらめく赤いひれの鮮やかな一匹の金魚と、ただ果ての無い程の静寂だけが残されていた。


 ―猫さん達が呼んでいるから……起きなくちゃ……。
 美猫はうっすらと目を開いた。
 身体に痛みは感じられなかった。
 ―あの金魚さんに飲み込まれて……それから?
 そう思い、目を微かにゆっくりと開いてゆくと、耳慣れた猫達の声が耳に届いてきた。
 ぺろりと何かが、自分の頬を舐める感覚に美猫は目を開いた。
 目の前に数匹の猫が、美猫を覗き込むような格好で座っている。
「ね……猫さん達……大丈夫なの?! 」
 気が付くと、何時もの猫達が、美猫の周囲を取り巻くように集まっていた。
「ここは……? 」
 そこで周囲をぐるりと見回すと、見覚えのある模様の壁が視界に映った。
 そこにあるのは間違い無く、あのちりめんの柄と寸分変わらぬ……赤。
「皆飲みこまれちゃったんだ……やっぱり、ここ、あの金魚さんのお腹の中……なのかな? 」
 そう呟いて、猫達の方をもう一度見やった。
 不思議ともう畏怖にも似た感情は欠片も感じられなかった。
 けれど頬に触れると、涙が流れた跡が、まだ確かにそこには残されていた。
 ―何だろう……何かさっきまで心の中の悲しかったものが、全部すっと消えてくみたい……。
 美猫は穏やかな温かさが、心に染み入ってくるのを感じていた。
 猫達の擦り寄ってくる、温もり。
 それを美猫はそっと受け入れると、腕を開いて抱き締めた。
「あったかいね……」
 猫達が、美猫のその声に応えるように鼻先を摺り寄せてきた。
 美猫はそれがくすぐったくて、思わず片目を閉じかけた。
 口元には、穏やかな微笑が自然に広がってゆく。
 ―どうしてだろう……食べられちゃったけど、全然怖くないよ。
 美猫は独りでにそう感じ、改めて瞼を開いた。
「ひょっとして、金魚さん、これを食べてくれた……の? 猫さん達じゃなくて……心の中にあったのを」
 悲しみ、淋しさ、恨み……そして悪夢。
 人の中に常に生き続ける、感情の群れ。
 その中で美猫が生まれながらに授かる事が出来た、研ぎ澄まされた特別なものが教えていた。
 確証も理屈も……理由さえも無いが、それでも美猫にははっきりと分かった気がしていた。
 それに改めて気が付いた時、美猫の指先には、ちりめんのあのふわふわとした感触が、直に蘇ってくるようだった。
 あの触れた力を吸い込むような、柔らかな手触り。
 それが全てを吸い込むものに変化していったという事だったのか。
 けれど、美猫はそれ以上深く考えようとはしなかった。
 目の前にいる猫達が可愛くて、それ以上の言葉は無意味にすら思えたからなのかもしれない。
 ただ美猫は、心から嬉しそうに、はにかんで笑って見せただけだった。
「……だいすき」
 抱き締めると、猫達の体温が伝わってくる。
 言葉にならない思いが、心にいっぱいに満たされてくる。
 ちょこちょこと、悪戯心いっぱいに、美猫の手を一匹の猫が爪先で軽く引っかいた。
 それを見て、美猫がまた、くすくす笑った。
 くすぐったくて、猫達を放つと、美猫の周りで飛び回るように、猫達が走り始めた。
 転がりながら、丸くなって……。
 それから、続いて美猫の中には、まるでまどろみに揺られるかのような感覚が満ちてきた。
 ―これは、本当? それとも夢?
 そのどちらも判別がつかぬまま、美猫はその流れの中で、身を任せるようにして、もう一度ゆっくりと目を閉じた。

 おわり