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<東京怪談ノベル(シングル)>


気にしません。

 かげる情景が後ろへ後ろへ流れてゆく、秒の単位でこまぎれにされた人、物、ちぎれる、まともに起立してはいられぬほどのおそろしい勢いで。
 それはとりもなおさず、前進しているということのまちがいのない証だ。よくよく己を見つめなおしてみると、なるほど、たしかに立ってはいない。目礼をするかのように体をいくぶんかしげ、呼吸を平生の倍以上のサイクルでおこない、足をぺたぺた左右まじりの前後に動かしながらも、短いからやりにくい、と誰にともなくぼやく。
 彼は、走っていた。
 全身全霊、ありったけの真心を自らの体組織に捧げて奔走していた。それはまったくべつにかまいはしないが、と、やはり特定の相手を決めず心のなかで再度ぼやく。
 自問する。我輩、どうして、こんなに一生懸命なのだろうか?

 仄昏い潭に投げ込まれた雛の小石がゆらゆら濁り水のまなかをただようたあげく、一度だけこつりと無音の水底をざわめかせた、そういうふうなこころもち、
 が、
 かすかにする。

 ※

 はたと真正面を見据えれば、そこはどこぞの公園のようだった。塗装の欠けたブランコ、ジムをくみこんだすべりだい、まごうことなきただの砂場、これらから競馬場という見込みもひきだせようが(あるよな、ファミリー層むけに大型遊具をとりそろえた競馬場って)、とりあえずは無難に一般概念を選択する、とても常識的な物語の主人公。
 さすらいのぺんぎん・文太(―・ぶんた)、イワトビペンギンにみえるけどじつは温泉ペンギンなんですの文太、っていきなり常識がどっかいったかもしんないの文太、かすかに小首をかしげ、く、と吐息。
 おやおや。いったいどんな手続きでこんなところへでてしまったのだろう。――などと、気にしなかった。だって、おぼえていない、おぼえていないからわからない、わからないからしかたがない。ないづくし。幸いにして『まだ』地球上における現実三次元の一点にとどまっているらしいから、その気になればリーマン幾何学でしめすことの可能な、いつかのどこかのなにか、それでじゅうぶんだ。
 承知はしたが。
 ところで。《りぃまんきかがく》とやら聞き覚えはあるが、サラリーマンを科学する学問のことであったろうか。
 似ても似つきません。たぶん。
 文太、知識がないわけではないを肯定するにやぶさかでないが、いまいち、きんだいちはじっちゃんのなにかけて、活用にむいておらずむしろ誤用にたけている。本人、いいえ、本ぺんぎん、なにもしゃべらないからめだった被害もないが、つか、ペンギンがシチュエーション考えずにべらべらしゃべられても文明社会はひじょうにこまる。うん。
 って、こまかいこと気にしてると大きくなれないぞ☆ 文太は一歩を踏み出した。
 いくら文太がぺんぎんだからといって、歩いたあとからぺぺんぺんと講釈の合いの手が入ったり、ぺんぺん草がにょきにょき芽吹いたりはしない。そりゃあ、とってもあたりまえ。けれど、日本のごくふつうの公園、ぺんぎんがぬくぬくおひとりさまで徐行する図像はなかなかにあたりまえでない。
「ぺんぎんさーん♪」
 が、あたりまえでないからといって、排他する理由にはならない。祖父らしき老輩の男性とお散歩途中の女の子が、日常にまぎれた非日常の光景をよろこびいさみ、両手を文太にふってきた。文太はあわてずさわがず片方の、湯桶を持たぬがわの「‥‥‥‥。( _ )ノ」手。ではなく、翼を、飛べない(飛ばない?)翼を、ひら、とはためかす。
「おじーちゃん、ぺんぎんさんがいるよ」
「そうかそうか。ちゃんと挨拶はしたかい?」
「うん。ぺんぎんさんがヤッホーって」
「よくできたのぅ。じゃが、朝の挨拶は『おはよう』じゃよ、『ヤッホー』は山での挨拶じゃ」
 ――‥‥マイペースな目撃者たちはさておき、文太はやっぱり歩く。人間のそれとはずいぶん異なる様子であったが、と、と、と、と暢気的・不器用的・こけつまろびつ的、それだけはいかにもペンギンらしい闊歩。と、と、と。
 目的の地は、はなから決定されている。
 種の名の示すとおりに。温泉、いずこ?
 首をまわす。目に入る時の徴は、東の空からゆるやかにくゆる鴇色。朝焼けだ。が、待てよ。朝焼けとはたしか、降雨の予報を顕するものではなかったか。頭をひねるまでもない。そこらじゅう気化した水の匂いがたちこめている、朝、足元には鏡面のごとき水溜まりがひろがって、そういえば羽根もしっとり濡れそぼり、突如の自覚は全身を総毛立たせる。そうすると、ちょっと自慢の羽毛(温泉ペンギンですからっ毛繕いはパーフェクトですっ)がつやつやと照る日にほこった。
 体をふるわせる。滴、八方に拡散し、散散に爍爍と、朝の光を七つの波長に分断する。
 はて、昨夜は雨だったのか。いっしゅんだけそう思ったものの、

 気にしない。

 ほどなくして、文太はまた別のたまもの、もとい、なまもの、これまた違った、生き物、やっと正解だ、に遭遇する。今度は、群集。赤、黒、まだらにぶち、白、の順番に味がよいといわれている彼等。
 野生の犬の集団である。それも、しまりきらない口腔から気泡まじりの唾液をたらした、やばそうなの。なんでこんなのをこの街の公共機関はいままで放っておいたのか、そんな疑問は次の一文で解決する、温泉ペンギン御一羽様がここまで何事もなく来られたのが良い証拠です。
 やはり、文太は動じない。
 先程ののんきな二人組にそうしたように、かすかに翼をひらりとさせ、それを免状代わりに通りすぎようとする。もくろみは半分成功した。見たこともない生物が、そりゃ、あのいばりちらした人間どもと同じような威嚇――本ペンギン、ただの挨拶のつもりですけど――をしてくるのだ、あっけにとられてもしかたがなかろう。文太は、本来どこまでも容赦がないはずの都会の野生児たちのすきまを、悠悠閑閑、縫おうとする。
 が。
 ここで、文太の天分『鳥頭@鳥だもん・烏じゃないもん・もののけではあるけど』が、ふたたび、刮目されることとなる。彼の忘却は、そんじょそこらの記憶の欠損とは格が違う。あとから事実関係を教えられて、あぁそんなこともあったかしら、と懐かしんだり恥じらったり、そんなことがいっさいない。
 まったくおぼえていないから、しかたがない。しかたがないから、許したまえっちゅうか許せ。堂堂たる、けれども根拠の行方ははたして未詳の、三段論法に置換してしまうのだ。
 そして、今。
 地へ降ろした蹠から、水音がやけに音高く、ちらちらとしたこまかな冷気が羽毛のうえにたちのぼり、降り注ぐ、いや、大部分の冷気は文太とは別の方角へ持ってかれる。
 よーするに、さっき視認したはずの水溜まりの存在をすっかり忘れ去った文太が、無遠慮にそのなかへと足をつっこんだ。水かきのついた足、これ、水を蹴るのに最適だったもんで。はねあがった水飛沫は一匹の野犬の鼻面をピシャリと撲った。不幸なことには、その一匹とはとりわけ体格がよく、野犬の群れの統率者らしき風格をそなえており、それを証明するように一度っきり低くうなると、仲間もそろって肩を怒らせる。これには、もののけではあっても攻撃力は並のペンギンとそう変わらない文太、危機感をおぼえる。

 と、と、と、ですんだらよかったんだけど。
 逃げるっきゃなさそ。で。

 ※

 そうだった、逃亡中なのだった。
 いろいろな意味でさすがの文太も、ようよう事態を思い起こせる範囲の昔に、そういうことがあった。ですから。

 さぁ、文太がいちはやく飛び抜けたぁ! そのあとを野犬どもも追う、奔り、猛り、狂い、うっわーお友達になりたくなーいってそれは向こうの言い分だろ、しかして文太、瞬発力は大特異だ(誤字じゃないの)瞬間最高速度はなんと時速80kmにもおよぶ、犬のほうはいちばん俊足そうなやつでも時速50kmというところか、その差30km、30kmといわば大阪⇔神戸間がだいたいそんなもの、たこやきと神戸プリン、大阪ドームと神戸グリーンスタジアム、京都もくわえりゃ夢の三都紀行が完成する。
(注:これは『東京』怪談ですってば)
 そう、ものの単位は時速なので――あと一時間、余裕があったならば、せめて迂回ができることなら、見果てぬ夢におぼれてもよかったろうが。哀しいかな、というより、笑っちゃっていいかな、文太の誇るは咄嗟の突進だけであり、持続の安定とは縁もゆかりもなしのつぶてよ。
 一分。
 で、おしまい。有名カップラーメンの生成よりも、カラータイマーを胸に光らせた遠い星雲の超人よりも、短い。
 タフな野良たちは一度はひらいた差を、確実につめる。その様子をはたから観察するものもいる。
「おじーちゃん、ペンギンさんと犬さんが鬼ごっこしてるよ〜♪」
「はっはっは。それじゃあ、邪魔しちゃいけないな。ここで応援していようかのぅ」
 あまりに意味がない、通りすがりだった。
 そもそもどうやってこの土地にはいりこんだ経緯も憶えておらぬ文太が、効率のよい逃げ道をたどれるわけがない。反対に、野犬らは、地元へ上手に寄生して矮小ながらに生き延びてきたものたちのあつまりだ。袋小路へ追い込まれる、文太、
「‥‥く」
 望まぬながらも、覚悟を決めざるをえなかった。力及ばずながらも相手をしよう、それがおたがいの矜恃を護ることにもなるから、と。
 ‥‥で、きょうじ、とはなんぞや。湯治とどこかちがったか? 鳥頭でも、温泉とそれに付随する事柄はわりに忘れにくいらしい、というか、みごとなる勘違いなんだが。
 湯桶。つめこんであった手ぬぐいや煙管やをいったんとりだす、しかし、大切なこれらを地面にばらまくわけにもいかぬし他の方法も急には思い当たらぬ、文太、とりあえず煙管は銜える、手ぬぐいは水に濡らして武器の代用とし、残りのいつまぎれこんだものともしれぬ小物の類は頭にのせる、そのうえに湯桶をさかさまにして蓋。これなら落とすこともあるまい、脳天の保護にも役立つ。
 そして生まれた湯煙戦士・ぺんぎん文太。自分の妙案が、おもわず通報したくなっちゃいたいくらい珍妙な光景を生み出した(‥‥だって、ぺんぎんが桶かぶってるんですが)ことを、文太は知らない。知ったとしても、関わっちゃいられない。目下の敵は、眼前にせまる。
 向こうさん、勝利を確信して。一匹が咆哮すると、たちまちのうちに唱和が始まる。まるで、朝の馳走、ごっそさんといいたげに。うん、文太、まるまるっとしててふかふかっとしてて食いでがありそうだし、ちーがーうーー、そうならないために文太は戦おうとしてるの。いちおう(いちおう、か)。
 しかし、邪魔が入った。

 落果する、水滴の色と形をした、微少の果実たち。
 いいえ、それは本物の水。銀の滴。つ、と細い糸を引き、だけどそれらは縒りあい、たちまちのうちに鎖となる、地上の汚れをちからいっぱい撲つために。

 雨が降ってきた、しかもいきなりの暴風雨であった。朝焼けの予報は、必要以上にたしかだったのだ。
 怖いもの知らずの野良犬たちだが、さすがに自然の驚異のまえにはなすすべもない。このままではただ濡れるどころか、体のあちこちを傷みつけることにもなりかねない。空腹は問題だが、病気や負傷はのちのちまで尾をひくし、野生の身には治す方法もかぎられている。しかたなく、犬たちは徐々に撤退する。飯は惜しい、が、雨があがったときにまた探せばよろしい。
 とりのこされる、文太。彼は――各自、胸に秘めるところはあるにせよ――やっぱりペンギンだった。風はすこしばかりきつかったが、雨は平気、水はだいじょうぶ、眉、目の上の黄色い羽飾りを迷惑そうによせただけ。桶を頭にかぶせたことで、雨合羽の帽子だけを身につけたようなものでもある。主観的に、被害は、すくない。
 よく分からないが、助かったらしい。だが、偶然の救いを神に祈るような、他者依存的な真似はおこなわなかった。まぁ、そういうこともあるのだろう、と淡泊に結論をくだして、また歩き出す。
 文太は、ペンギンはペンギンでもやはり温泉ペンギンなのである。雨にじゃんじゃん降られるよりは、湯につかってぬくぬくしたい。思う存分、ほくほくしたい。わきあがる欲のままに温泉をもとめてゆらゆらと、そうしてことの五分後には、もう、犬を怒らせたきっかけを忘れてる。七分後には、怒らせたことそのものを、忘れてる。羽をつたって流れる雨水とともに、なくしてる。
「おじーちゃん、ペンギンさんが行っちゃう。バイバーイ」
「そうじゃのぅ、『梅雨』はバイウとも読むのぅ」
 だから、無意味だって。だけど、文太はそんなことは気にしない。それだけでない、温泉がどこにあるのかも、そもそもこの街に温泉があるのかどうかも、いつ雨が上がるのかも、この放浪がいつまで続くのかも、潰えた記憶の行方も、あふれんばかりに道ばたの水が流れていることも、そこに小さく自分のおとした10円玉が光っていることも、

 気にしなかった。


※ ライターより
 コメディと日常譚、どちらつかずのできとなってしまいました。なんだか中途半端で申し訳ございません。
 告白すると、執筆中のの仮タイトルは『めざまし東京怪談・今日のペンギン』でした。‥‥我ながらあんまりだと思ってつけなおしましたが、意味不明なところはほとんど変わりありませんでした。