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<東京怪談ノベル(シングル)>


優しい翼


 桜は咲いていた。
 一件の、さほど大きくはない老人ホームには一枚の絵がある。
 その額縁に飾られた油彩画の下には、絵のタイトルはおろか、作者の名前すらもない。おそらく、ホームの関係者はいつ頃どこで誰がこの絵を買ったのか(はたまた貰い受けたのか)も覚えていないだろう。毎日のように日差しを浴びているというのに、しかし絵は、奇妙なほどに色褪せなかった。
 これから色褪せていくつもりなのかもしれないし、永遠にそのままでいるつもりなのかもしれない。
 桜が散ってしまったのだ。
 だから、絵はもう無い。
「ああ、猫ちゃんが、エリゴネちゃんが大好きな絵だったのに」
 ひとりの老人が、いつの間にか空っぽになってしまった額縁を見て、大きな吐息をついた。


 1匹の老猫が、丸めた紙をくわえてゆっくりと歩いていく。
 桜並木の間を、音もなく、ゆっくりと。
 桜は散ってしまっているし、葉はまだ広がってはおらず、並木の様相は寂しいものになっていた。その年は風が強く、桜の根元に積もっていた桜の花びらも、ほとんどがどこかに吹き飛ばされてしまっている。
 不意に、灰色の老猫は足をはやめた。
 何を振り切ろうとしているのか、褪せた毛皮と痩せた足で、猫は走っていく。


「猫ちゃんを見なくなったわねえ」
「しかしあの猫は、わしがここに入ったときからここにおったぞ」
「あらあ、それなら、ええと、何年になるの?」
「わっからん」
「猫は死に様を、人間に見せないと言うじゃあないの」
「あああ、あたしが先にぽっくり逝くもんだとばかり思ってたけれど」
「猫は寿命が短いもんさ。わしがむかあし飼ってたのは、10年とちょっとしか生きとらんかった」
「いやだねえ、暗い話してえ」
「そのうちひょっこり戻ってくるよ。猫なんて、そんなもんさね」


「彼女は、日曜になれば教会に行くのかな。どう思う、エリゴネ? ――ああ、わかっているよ。この国の人々は大体クリスチャンだ。だから彼女もきっと教会に行く」
 青年はキャンバスに絵の具をのせながら、乾いた声で呟き続けていた。
「……ああ、変だな。ここにこの色は変だった」
 慌しい手つきで、今しがたのせたばかりの橙を拭い取る。
 キャンバスに描かれつつあるのは、ある公園の奥にある教会だった。緑と花に囲まれた、少しだけ古びた建物だ。その教会のみならず、この国の建物は大概が古い。青年の生まれ故郷にある建物よりも、寿命が長いようなのだ。
「僕は日本人だ。亜細亜人は大概が仏教徒だってことはここらの人でも知ってるし、僕が行けばきっと変な目で見られるだろうね。どう思う、エリゴネ?」
 なぁう、
「はは、そうか。やっぱり、変か」
 青年は照れたように笑いながら、橙を拭い取った箇所にそっと朱をのせた。
 キャンバスを眺め、青年の問いに時折声を返す灰の仔猫がいる。
 猫は、けっして、変だとは思っていなかった。


 灰の老猫が踏んだものは、どこかの誰かが千切って捨てた、2010年2月のカレンダー。間違いなく今は2月ではない。2010年であることは、確かだ。猫でさえ知っている。
 随分長生きをしてしまった、と小さな小さな溜息が落ちた。
 年を経た猫の尾はやがてふたつに分かれて猫又となる。猫又は人語を解し、自在に操る。人の姿に化ける。死体を動かすことも出来る。
 自分は、幽霊を見ることが出来る。生きとし生けるものの身体の自由を奪うことも出来る。自分は、猫又なのだろうか。猫なのだろうか。ただのばけものなのだろうか。
 思いを巡らせながら首をもたげた老猫が見たのは、打ち棄てられた教会だった。

 この辺りだけが、まるで未だに秋であるかのようだ。いつでも冬を迎える覚悟を決めているらしい。
 誰もこの教会を使ってはいないが、この町はこの教会をこのままの姿でとっておくつもりでいるようだ。何でも、一風変わった建築方式に基づいて建てられたもので、要するに文化財なのだった。そういった旨を伝えるための看板も、入口の前に立てられている。その案内板もすっかり錆びつき、木々の影にうずもれていて、誰も読むことはない。
 猫ですら、読めない。
 いくらその蒼眸を細めても、どうにも何もかもが霞んで見えてしまって――読めないのだ。
 ぼんやりと霞んだ視界の中の教会は、老猫がむかし飼い主とともに遠目で見たものにそっくりだった。
 猫は確かに、そのときの景色の中にいた。



 鐘が鳴っている――
 また一組の男女が、祝福されながら階段を下りてくる。はにかんだふたりの顔に、ライスシャワーと花びらが振りかかる。
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
 たとえその男女を知らずとも、教会の前をたまたま通りがかった老紳士や子供でさえ、笑顔でそう言い残していく。笑い声がこだまし、クロッキー帳に木炭を滑らせていた青年の手が、そのとき止まった。
「どうだろう、エリゴネ。もしもだよ、今あの階段を下りているあの花嫁が彼女だったとしたら?」
 なぁう――
「ああ、そうだろうね。とても綺麗だろうな。きっと……素敵だろう。絵になんか残せないくらいに」
 青年はその日はそれっきり、木炭を置き、クロッキー帳を閉じてしまったのだった。
 猫は、ほんとうに、その通りだと思っていた。
 けれど、青年なら絶対に絵に残せるだろうとも思っていた。それに美しいものであけばあるほど、絵に残しやすいはずなのだ。
 猫のそのときの一声も、青年の呟きも、矛盾をのせていた。



 青年はそして、それから少しあとに成し遂げたのだった。
 老猫が、くわえていた紙を芝生の上に落とし、かさかさと広げる。老女のように、ゆっくりと、器用に。
 油彩で描かれているのは、灰の猫を抱えた白人女性だ。美しく、質素なようで豪奢な、矛盾したドレスをまとった貴婦人だ。瞳は悲しみを湛えているようで、深い慈しみを湛えているのだった。心地良い矛盾ばかりが揃った絵だ。
 これ以上の名画を、猫は知らない。マネやルノワールを見る機会に巡り合ったこともある。だが、高名な裸婦画や風景画の中に、彼女がいま手元にある貴婦人画以上の価値を見出せることは、ついになかった。

 なかった、

 そうとも、すぐにすべては過去になる。


 ――貴方の生きたあかし。私の生きたあかし。あの方の生きたあかし。この絵は、おおくのものが生きたあかしです。待っていれば、きっとこのあかしを託すときがくるかと思っていました。
 けれど、世の中はそう甘くはありませんのね。何て馬鹿だったのかしら。そんなこと、ようく知っているはずでしたのに。
 ごめんなさい。私たちの生きたあかしは、ここできっと潰えてしまうの。
 私が、絶やしてしまったのです。


 灰の身体が、ゆっくりと絵の前に横たわった。
 鐘が鳴っている――
 鳴るはずなどないのに。
『おめでとう』
『ありがとう』
 最期の息は漏れたきり、吸い込まれることはついになかった。


 やかましく喚きたてながら、昼下がりの芝生の上に鴉どもが降り立つ。漆黒のくちばしは、都会の中に残るなけなしの自然の掟に従い、灰の毛皮と、その下の枯れた肉をついばもうとした。
 そのときだ、
 都会には不釣合いな白い大鳥が飛来し、打ち棄てられた教会の前に降り立ったのは。
 白く輝く翼が鴉どもを打ち据え、猫の前に広げられていた絵を吹き飛ばした。2010年2月のカレンダーも、やがてその絵についていった。
 拾い上げたものは、いただろうか。


 緑とその影が、灰色の身体をやさしく覆い隠す。
 あばら骨が土になる。
 猫というものは、そういったものなのだ。




<了>