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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


胡蝶姫


●序

 休日の昼下がり、草間興信所を訪れると、大して広くもないその部屋に、男が一人、倒れていた。
 気絶しているのか。もしや死んでいるのか。慌てて男を助け起こそうと近付けば、不意に部屋の奥から声が響いた。
「早くドアを閉めろ!」
 驚いて声のした方に眼を向ける。窓の前には、虫籠と虫取り網を持った草間武彦が、心底疲れ切った表情を浮かべて、佇んでいた。


 ***


「困ったね。今ので外に逃げちゃったかなあ」
 困った様子は些かも見せず、笑みさえ浮かべて、先程床に倒れていた男が言う。男は名を、乙木と名乗った。
 状況が掴めず、助けを求めるように武彦を見遣れば、彼は事務机の椅子に深く腰掛け一服。けれど乙木が何の説明もしないのを見て、仕方なくといったように、事の次第を伝えてくれた。
「……女の子を、捜しているんだ」

 乙木と云う男は、噂の収集を趣味とし特技として、時折この興信所を訪れる。
 本日もいつものように来て、今回はどんな下らない噂を持ってきたのかと思えば――武彦の前に差し出されたのは、ありふれた色形の虫籠であった。中には一羽の大きな白い蝶が収められている。それだけなら「これがどうした」と問い返したところなのだが、そこは怪奇探偵と呼ばれる武彦の許へ持ち込まれた物である。
 蝶の翅の間から覗いたのは、紅い着物を纏った、少女の姿であった。

「少女……?」
 思わず呟くと、
「うん、小さいんだ。これくらい」
 と、乙木が指で大きさを示した。精々三センチ程度である。
「……そのな、小さい少女をだな、俺が驚いた拍子に、こう……がしゃんっと……」
「武ちゃんが籠を突き飛ばしたものだから、籠が開いて逃げちゃったんだよね」
「しっかり鍵を掛けてなかったおまえにも責任はあると思うぞ」
「鍵なんか掛けたら、かわいそうじゃない」
「……そもそも、そんなものを捕まえてくるな」
 籠を見れば、蝶だけが僅かに翅を震わせている。乙木が倒れていたのは、床に這い蹲って少女を捜していたからだろう。
 そんなことを考えながら二人を振り向くと、
「ということで、捜すの手伝ってね?」
 笑顔の乙木が居た。
 その隣、武彦も別の意味で笑顔である。
「言っておくが、勿論報酬はないぞ」
「うわあ、武ちゃん、相変わらずケチだよねえ」
「なんで俺が出すんだ。捕まえてきたおまえが出すのが道理だろう」
「じゃあ、僕がお土産に持ってきたケーキ。武ちゃんの分、食べていいからさ。よろしくね」
 休日の午後は、いつの間にか一ピースのケーキのために費やすことになったようである。


●本日のお散歩コースは草間興信所行き。

 日頃から草間零や事務員、そして出入りする世話好き家事好きの皆さんによって小綺麗に保たれていた興信所内は、乙木の来訪から半時と置かずに無残な姿を晒していた。
 その有能な事務員であるシュライン・エマは、惨状をざっと観察し、
「ちょうど書類の整理をしようとしていたところだったから、人手も多いし助かるわね」
 と、前向きなコメントを寄せ、ちらりと武彦に視線を投げた。
「武彦さん、逃げちゃ駄目よ」
「……分かってる」
 数時間前に机上に積まれた書類の束だけは整頓を終えたところだった武彦は、再び椅子に腰掛ける。少しでもこの暗鬱たる気分を紛らわせようと煙草に手を伸ばしたところへ、
「ダメなのー!」
 二度目のだめコールが飛んできた。
「女の子もちょうちょさんも、煙はイヤかもしれないのー」
 シュラインの傍らで膨れっ面は、鮮やかな緑の髪色が印象的な少年――藤井蘭である。武彦の机に置かれた虫籠へと走り寄り、驚かせないようにとそっと中を覗いた。蝶は変わらずゆっくりと翅の開閉を繰り返している。
 にこにこと蝶の様子を観察する蘭に、シュラインの視線も手伝って、武彦は溜息と共に煙草を胸ポケットへと仕舞った。
「武ちゃん、ファイト」
「……おまえが言うな」
 乙木の声援を一睨みして片付けて、武彦はドアに寄り掛かる顔見知りの男へ声を掛けた。
「珍しいな、休みの日に顔を出すなんて」
「この近くで予定していた打ち合わせが先方の都合で急にキャンセルになりましてね。なにかお役に立てる依頼があるかと訪ねたのですが」
 モーリス・ラジアルは答えて、私もお手伝いを、と頷いた。
 斯くして、幸か不幸か長閑な午後に興信所に集った三名は、一人の小さな少女の捜索に乗り出すこととなった。


●作戦1:重要参考人への事情聴取

「の、前に」
 ふとモーリスは右手を胸の前で開いた。
「何?」
 興味津々、乙木が手許を覗くのへ微笑みだけで返す。その掌の上に青みを帯びた朧な光がぽつぽつと出現したかと思うと、やがて寄り集まりひとつの強い光の球体となって不意に――弾けた。
 霧散したかに見えた光は、しかし興信所の四方の天井隅にぴたりと止まり、四つの光は点を結び、興信所の壁を窓をドアを棚を、無数の縦縞で以って取り囲んだ。
「すごいのー!」
「まるで檻ね」
「手軽に刑務所気分が味わえていいね」
 呆然とする武彦を除いて上がった三様の感嘆の声に、モーリスは説明を加えた。
「ええ、ご覧の通りの『檻』です。人が出入りする分には問題ありませんのでご心配なく」
 言いながら開いたままだった掌をぐっと握り込む。途端に檻は跡形もなく視界から消滅した。
「消えちゃったの?」
「いえ、見えなくなっただけで、しっかり機能しています。……お捜しの少女は蝶の背に乗っていたのでしょう? それならば少女自身は飛べないのだと思いますから、移動の手段は徒歩に限られます。まだそんなに時間は経っていないので、そう遠くへは行けないはずです」
 それに、と言葉を継ぐ。
「風に飛ばされるとか、そういったことも考えられますしね。念のため、部屋からは出ないようにと『檻』で囲ったわけです」
 つまり、まだこの部屋を出ていない可能性が高い、と。
 シュラインは傍らの棚を覗いて、同意の声を上げた。
「どうやら武彦さんと乙木さんの二人で随分と張り切って捜したようだけど、書類もファイルも本も、散々かき回された後ね。隙間だらけで少女にとっては絶好の隠れ場処になりそう」
「かき回したのは主に武ちゃん」
「おまえが手伝わなかったからだろうが」
「うん」
 悪びれず乙木が認めると、武彦は脱力し項垂れた。乙木は気にした様子もなく、虫籠を見詰める蘭の横に移動し、一緒になって籠を覗く。
「このちょうちょさん、ずっとかごに容れておくのはかわいそうなのー」
「うーん……かわいそう、かな。やっぱり」
 唸る乙木の背後で、シュラインは手近の書類を纏めつつ言う。
「少女、逃げたってことは怖がってたのね……気の毒に」
 かわいそう、気の毒、との言葉になんとなく罪悪感を感じ始めた乙木は、頭を掻きながら虫籠と室内とを見比べて、肩を軽く竦めた。
「ちょうちょさん、どこで見つけたの?」
「え? えーと……町中」
「空き地、とかではなくて?」
 シュラインは手を止め、問う。春の野山をひらひらと舞う蝶は容易に想像がつくが、都会を飛ぶ蝶というのはそう多くはない。それにここ数日は雨の日が続き、今朝も小雨がぱらついていた。
「うん、町中。横断歩道で信号待ちしてたら、眼の前をふらふら〜って、ちょうちょが」
「それを、捕獲したんですか?」
 モーリスの質問に乙木はやはり頷く。モーリスは武彦の机に立て掛けられた虫取り網と、置かれた虫籠を見、首を傾げた。
「その網と籠は?」
「え?」
「町中で昆虫採集、というわけではないでしょう? 季節でもありませんしね」
「僕もちょうちょさんは見てないのー」
 確かに虫取り網と虫籠のセットは乙木が持ち込んだものである。季節外れに場処外れ、何の目的があってか所持し、そして「偶然にも」信号待ちで蝶が捕まえられるものだろうか。……小さな少女付きの。
 乙木は決まりが悪そうに再び唸ると、
「それが僕の能力」
 ぽつりと告白した。
「能力って……蝶を捕獲する?」
「そんな限定的なものじゃないよ。視える……というより、感じる、に近いかなあ。ちょっとだけ先のことが予想できるんだ」
「いわゆる、予知能力、ですか?」
「うん。ただし僕に関係することしか分からないし、自分ではコントロールできないからはっきり言って使えない」
 予知によって少女の乗る蝶の出現を知った乙木は、昆虫採集セットを持参して出没ポイントへ出向いたのだった。
「すると、どこから来たのか、は分からないのね」
 乙木はこっくりと頷き、
「女の子とちょうちょさん、どうするつもりだったのー?」
 蘭の無邪気且つ純粋さ溢れる声で発せられた当然の問いに、下ろした顎が上げられなくなった。
「……えーと、いや、うん」
「乙木」
 ようやく少し復活した武彦が名を呼ぶ。曰く――なんで俺のとこに厄介事を毎度持ち込むんだ。
「麗香さんのところの方があの横断歩道より近かったら、そっちに行ってたよ」
 あら、とシュラインが意外そうに声を洩らす。
「麗香さんとも知り合いなのかしら?」
「友達が白王社に勤めてるんだ」
「……この興信所にいらして、良かったですね」
 モーリスは軽く息を落として言った。
 碇麗香を編集長に持つアトラス編集部にでも持ち込まれていたら、と思うと、彼女の顔が浮かんだ面々はモーリスの言葉に深く同意した。一人、編集部と係わりのない蘭だけが、不思議そうに首を傾げている。
「えっと、女の子は捜さないのー?」
 そうだった。些か話が横道に逸れかけていた。


●作戦2準備:担当区域は

「……さて」
 仕切り直してシュラインは、ぐるりと部屋を見渡した。事務机に応接セット、向かって左の壁に並ぶスチール棚。反対側の壁には隣室へ続くドアが二つある。
「私は室内を捜すつもりだけど、他の人たちはどうする?」
 まだ興信所内に居る可能性が高いが、シュライン、蘭、モーリスが入室したことによって都合三回、ドアが開かれている。その短い間に少女が外へ出てしまったことも考えられた。
「誰か、外も捜してきた方がいいかもしれませんね」
「僕が行くのー!」
 モーリスの言葉に、蘭は元気良く手を挙げて立候補した。モーリスは微笑みと共に了承する。
「室外の捜索は蘭くんにお任せしましょう。室内はシュラインさんと草間さん……乙木さんはどうしますか?」
「僕は蘭くんと外を見てこようかな」
「分かりました。では私は室内組、ですね」
 興信所内、そして外と、二手に分かれての捜索ということになった。
 蘭はお気に入りの熊のリュックを背負い直して、「あ」と思い出したように大人たちを見上げる。
「ケーキ、僕も食べたいのー」
 シュラインと武彦は思わず顔を見合わせて、小さく笑みを零した。
「誰も先に食べたりしないわ。女の子が見付かったら皆で食べましょうね」
 蘭の頭を撫でながら、シュラインが言う。蘭はぱっと笑顔を咲かせて返事をした。
「はいなの。がんばるのー」
 蘭は早速と、乙木を伴い興信所を後にする。ドアを出る直前、室内捜索組にひらひらと手を振るのへ、三人は笑顔で返し蘭と乙木とを見送った。
 ――捜索開始。


●作戦2:少女捜索(草間興信所近辺)

 興信所のドアをぱたりと閉めて、蘭は視線を足許へ、きょろきょろと彷徨わせた。
 小さな女の子なのだ。興信所の外へ出ても、あまり遠くへ行ってはいないだろう。まだビルの外へも出ていないかもしれない。
 熱心に床を見る蘭の後ろで、乙木はとりあえず階段付近を捜すことにする。
 蘭は廊下突き当たりの窓脇に置かれた観葉植物――アレカヤシの前にしゃがみ込み、そっと声を掛けた。
「こんにちはなのー」
 ――こんにちは、蘭。今日もあの探偵のところへ遊びに来たのかい? それとも依頼かな?
 蘭の挨拶にすぐさま反応を返したのは、アレカヤシ自身である。長く連なる緑の葉が風もないのに僅かに波打つ。
 折鶴蘭の化身である蘭は、植物と心を通わせることが出来るのだ。何度も訪れるこの興信所の近くの植物とは、特に仲が良かった。
「うんと、依頼かな。お手伝いなの」
 ――そうか、お手伝いか。偉いな。
「それでね、女の子を捜しているの。アレカヤシのおじさんは、知らないかな?」
 もし階段の方へ行ったのなら、この植物の前を通った筈だ。
 ――女の子? どんな子だい?
「すっごく小さいのー」
 ――それは珍しいな。蘭より小さい子か。
「うん。すっごくすっごく小さいのー」
 ――そんなに小さいのか? 赤ちゃんなのか?
 蘭はふるふると首を横に振って、先程の乙木の示した少女の大きさを思い出し、自分も真似して指で大きさを表した。
「違うの。これくらいなの」
 乙木との手の大きさの違いによって、蘭が作った「これくらい」は二センチ足らずとなってしまったが、どれだけ異常に小さいかはアレカヤシにも伝わっただろう。
 ――ほうほう。成程、人間の女の子じゃないんだな。
「ちょうちょさんに乗って来たんだって。見つけてお家に帰してあげるの。……おじさん、見てない?」
 ――探偵のところには毎日のように色んなものがやって来るがなあ。小さい女の子、小さい……ううむ。
 葉の波打ちが多くなる。必死に思い出しているようだ。
「女の子がいなくなったのはね、さっきなの」
 ――さっき?
「うん、三十分ぐらい前だって聞いたの」
 ――それなら私は見てないね。
「そっか……」
 ――おお、そうしょげるんじゃない。お役に立てずすまないな。
 蘭の近くの葉が、ふわりと動いて蘭の髪を掠める。アレカヤシより少しだけ淡い色合いの緑の髪は、微風に煽られてさらさらとそよいだ。
「ううん、ありがとなの」
 にっこりと笑って撫でられた頭に手を遣る。アレカヤシはそんな蘭を見て、安心したように葉を揺らした。
 ――女の子、早く見付かるといいな。
 投げかけられた言葉に、蘭は大きな声で返事をして立ち上がる。
 階段を振り返ると、ちょうど乙木が昇ってきたところだった。
「蘭くん、そっちはどうだった?」
「見つからないの。おじさんも見てないって」
「おじさん?」
 首を傾げる乙木へアレカヤシを示す。乙木は首を更に深く横へ傾けることになったが、「まあ、いいや」と悩むのを放棄した。
「僕はね、階段を見てきたんだけど、いなかったよ。一番上から一番下までね。それと隣の階のフロアも一応捜してみたけど収穫なし」
「女の子、どこにいったのかな」
「興信所内で見つかるといいね」
 他の部屋へ紛れた可能性は低いだろう。休日ということもあって、ほとんどのテナントは閉まっていた。
 一旦部屋に戻ろうか、との乙木の提案に頷き、蘭はビルの狭い廊下を戻る。ふとその場を去りかけて、振り向き、アレカヤシへ手を振って改めて礼を述べた。
「ありがとうなのー」
 蘭の横でまた盛大に首を傾げた乙木だったが、
「ありがとうなのー」
 蘭の真似をして観葉植物に手を振ってみた。……最たる違いは、可愛げがまったく無いという点であろう。
 さわ、と微かな葉音が返った気がした。


●こちょうにのった おひいさま

 興信所のドアを開けると、シュラインと武彦が隣室の方を見たまま固まっていた。モーリスの姿はない。
 蘭の後から入ってきた乙木が、玄関のドアを閉めたところで、ちょうどその隣室からモーリスが戻ってきた。
 その手にはティーセットの並べられたトレイが乗っている。否、セットはひとつだけではない。近付いてやっと見えたが、もうひとつ、人形用より小さな極小サイズのティーセットがあった。その脇に、ちらりと見えた黒と紅の色彩――少女。
 モーリスはトレイをテーブルへ置いて、言った。
「……冷蔵庫の中、ケーキの箱に付いてました」

 暫し場に沈黙が流れた。
 しかしそれもほんの僅かな間のことで、シュラインはハンカチを取り出して少女の傍へ敷いた。
 少女は長く艶やかな黒髪を結いもせず流し、眩しいほどの紅の、丈の短い着物を纏っていた。白すぎる肌に、爛とした金色の瞳からは、絶え間なく涙がほろほろと落つ。そして、震えているようであった。
「冷蔵庫ってことは、凍えているんじゃないかしら?」
 シュラインは慌ててハンカチを少女に寄せる。少女は特に抵抗する様子も見せず、シュラインの手の動きで察したのか、大人しくハンカチに乗った。そのまま窓辺の武彦の机の上に移動し、蝶の入った虫籠の傍らに少女を下ろす。
 午後の陽の光が少女を照らす。
 全員が見守るなか、少女の涙は少しずつ勢いをなくし――やがて泣き止んだ。体の方も温まったようで、震えも消えている。
 少女はごしごしと袖で目縁を拭うと、きょろきょろと辺りを観察するよう、はっと虫籠に気付いて近付こうとしたが、その向こうに見えた顔にびくっと体全体で恐怖の表情を表した。
 虫籠の向こうに居たのは、乙木だ。
「……乙木さん、しばらくは部屋の隅に居てくれるかしら? 少女の視界に入らないところに」
 小声でシュラインに言われ、乙木はすごすごと玄関近くに後退する。自業自得である。
 視線を再び少女に戻すと、素早く虫籠の格子に手を掛けて内側の蝶に向かって何事か囁いていた。声は小さく、シュライン以外には聞こえない。
「彼女、蝶に大丈夫かって声を掛けてるわ」
「ちょうちょさん、出しちゃダメなの?」
 蘭が虫籠へ手を伸べる。
「いいわ。女の子を驚かさないようにね」
「はいなの」
 少女はその動きにも警戒したが、蘭が銀色の瞳でにっこりと笑いかけると、僅かに迷いながらも籠から身を離す。そればかりか、蘭が蝶を籠から出してやると、ぺこりとお辞儀をしてみせた。
 ひら、と蝶は音もなく籠から放たれ、翔ぶ。一度高く舞い上がったものの、すぐに少女の近くに無造作に転がっていたシャープペンシルの先に、ふっと器用に留まった。
 少女の方も、大分落ち着いたようなのを見て取って、まず蘭が挨拶をした。
「こんにちはなのー」
 少女が口を動かす。都度、シュラインが聞き取って繰り返した。
『こんにちは』
「僕は藤井蘭っていうの。よろしくなの」
『……私は、ナオ。よろしく』
 順にシュライン、モーリス、武彦とも挨拶を交わす。一応乙木も紹介したが、まだ怯えているようなので変わらずに離れていてもらうことにした。
 シュラインとモーリスが交互に少女――ナオへゆっくりと質問をし、ナオは最初こそ躊躇いがちだったが、徐々に打ち解け、乙木とも話せるようになった。元来、人懐こい性格のようである。
 ナオの隣で、蝶も心做しか嬉しそうに、ゆうるり、翅を動かした。


●休日の、午後。

『花を伝いゆくうちに、迷ったのだ』
 そう、ナオは言った。
 片付けられた室内にそれぞれ落ち着き、テーブルの上、ナオは桃色の花柄座蒲団にちょこんと座った。シュラインが少女のために縫った座蒲団は、サイズも綿の詰め具合も程好く、ナオは甚く気に入ったようだった。
 再び奥の部屋から今度は紅茶とケーキをトレイに乗せて、モーリスと乙木が戻ってきたのを合図に、続きを話す。
『シノと遊びで、花から花へと渡っていたら、いつの間にか見知らぬ土地に迷い込んでしまったのだ……』
 しゅんとしながらも、ケーキを忙しく口に運ぶ。ナオの使うフォークも皿もカップも、モーリスが能力で小さくしたものだ。
 シノとは、蝶の名前であろう。
「人間の多さに驚きふらふらとしていたところで、乙木さんに拉致監禁されてしまったということですね」
 そうモーリスが冷静に要約すると、
「らちかんきんってなあに?」
 こちらもケーキに夢中だった蘭が、あどけない顔を上げる。
 シュラインは苦笑して、僅かに逡巡してから訊いた。
「誘拐って分かるかしら?」
「知ってるの。ニュースで見たの。とっても怖くて、とってもいけないことだって持ち主さんが言ってたの」
 少し興奮したように蘭は強く答えた。
 隣に座った乙木(二十四歳)は最早ぐうの音も出ない。
「……ゴメンナサイ……」
「蘭、こういう大人になっちゃダメだぞ」
「分かりましたなのー」
 武彦がここぞとばかりに言ったのに、蘭は素直に大きく頷いた。
「乙木さん、そういった趣味がおありでしたか。あまり良い趣味とはいえませんね」
「いや、小さい子は好きだけどね? そんな趣――」
「まあ、そんなことはどうでもいいのですが」
 モーリスは自分で振っておいてあっさりと切り捨てて、手馴れた仕種で紅茶を淹れながらナオに向き直った。
「なぜ、冷蔵庫の中に居たのですか?」
 この問いには、ナオは何やら顔を赤くして俯く。
『……不覚にも、ケーキに釣られたのだ』
「お腹が空いていたのかしら?」
『私は甘いものしか食べぬのだ』
「ちょうちょさんはなにも食べないの?」
 ふと、ナオの隣で虫籠の縁に留まった蝶を見て蘭が尋ねた。
『うむ。シノも私と同様、蝶とは違うものなのでのな』
 えっとね、と蘭は食べ終えたケーキの皿を置いて、身を乗り出す。
「ナオさんとシノさん、お花をたどって来たの?」
『そうだが?』
「じゃあね、二人がどこから来たのか、お花さんたちに訊いてあげるのー」
 爛漫たる笑顔で言われた申し出に、ナオは一瞬きょとんとして、おずおずと訊き返した。
『……できるのか?』
「植物さんたちとお話するのは楽しいのー」
 微妙にずれた返答だが、蘭はその正体ゆえに植物との会話を可能とする。花を伝ってきたのなら、乙木がナオとシノを見付けた交差点付近の植物を当たれば、確かにどこから来たのか、その場処――故郷が分かるかもしれない。
 蘭の提案に、その場に居た全員が同意する。
『帰れるぞ、シノ!』
 途端に明るくそう叫び、ナオは黒髪を舞わせ大きくシノを振り仰いだ。
 白き蝶は、己の友である小さな少女の上で、くるり、すい、と翔んだ。


●忘れぬ「音」

 その日の夕方、乙木の案内で一行は連れ立って件の交差点へ向かった。
 蘭は近くの街路樹や道端の草木を見付けては、その度に熱心にナオとシノに見覚えはないかと尋ね、応の返事あればどこから来たのかと問う。その繰り返しが幾度も――否、何度か続いて、ついにナオの見覚えのある処へ辿り着いた。
 隣の区である。
「……蝶にしてみれば、大冒険かもしれませんが」
『故郷』であるほんの小さな雑木林に飛び込んではしゃぐナオとシノ、そして蘭を眺め遣りながら、モーリスは呆れ半分に微笑んだ。
 辺りにはすっかり夜の帳が下り、そうと認識できるほどには、周囲にネオンの光は少なかった。小さな林とはいえ、ナオにとっては立派な森なのだろう。
「あら」
 シュラインが洩らした声に、傍らの武彦が振り向く。問おうとして、しかしすぐに武彦もそれに気付いた。

 虫の声。
 木々の音。
 そして流水の。

「……近くに川でもあるのかしら」
 あるいは葉音がそう聴こえるのかもしれない。
 薄闇の中、森に戯れる蘭の周りを、ひらひら、蝶の背に乗った少女の姿が残像のように曳く。
 淡いまぼろし。
 ひらり。


 <了>


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2163/藤井・蘭(ふじい・らん)/男性/1歳/藤井家の居候】
【2318/モーリス・ラジアル/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】

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■         ライター通信          ■
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こんにちは、ライターの香守桐月(かがみ・きづき)です。
草間興信所調査依頼『胡蝶姫』へのご参加ありがとうございました。
今回は珍しくライトな乗りを目指してみたのですが、書き上がってみればいつもと大して変わらぬ出来です……少しでも読みやすくなっていればいいなと思います。
紅い着物の少女の居場処については、ええと、そういうことでした(笑)。オープニングでヒントというか答えを出していたのですが、あまりにもストレートすぎて皆さん微妙に惜しかったです……す、すみません。
ちなみに、蝶に乗る少女、というのは中国の伝承に由来します。

■藤井・蘭様
初めましてのご参加ありがとうございます。
元気な少年というものを普段ほとんど書かないので、なんだかとても新鮮でした(笑)。反面、イメージを壊さずに描写できていたか不安です。如何でしたでしょう?
執筆中、蘭さんの可愛らしい口調がずっと頭から離れなかったので、代わりに乙木に真似させてみました。←…。
それでは、またお会いできる機会がございましたら、どうぞ宜しくお願い致します。