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スタンド・バイ・ミー
空気を切り裂く、独特の音。
月の光を、一瞬だけ反射したのは鋼の糸だ。それはフライフィッシングの釣り糸のように、少年の手から夜へと放たれた。
だが、それが吊り上げるのは魚ではない。人の命だ。
湿った音を立てて、人の首が――壊れたマネキンのようにごろりと転がる。
東雲紅牙は糸を巧みに操って、こびりついた血を飛ばしながら、それを手元に回収した。するすると、てのひらに収まる繊細な凶器。
紅牙の目は、まったく無感動に、たったいま彼自身によって屠られた屍体を見下ろしている。任務完了。彼はきびすを返した。だが――
「…………!」
黒い嵐のような力が、紅牙をさらった。
太い腕が喉にくいこむ。こめかみに、ごりっ、と硬く冷たいものが押しあてられた。
(まだ仲間がいたのか)
そのときまでに紅牙が、いったいいくつの命を奪ってきたのか、彼自身もとうに数えるのをやめていた頃だった。どんなに異常なことであっても、それが繰り返されれば人は馴れるものだ。あるいはその馴れが、油断にならなかったかといえば、否とは言い切れない。
「この――化け物め」
背後で男の声が言った。憎悪のこもった声だった。
いっそう強く、銃口が紅牙に押しあてられ、そして――
「――ゥ」
男が喉の奥で、妙な呻き声をあげると、あっさりと拘束はほどけた。
「…………」
目を見開いたまま倒れている男の首すじに、金属の針のようなものが深々と突き立っている。
紅牙は無言で男を見下ろし、そして、ゆっくりと歩み寄ってくる少年へと目を移した。
「さ、帰ろうぜ」
少年は、紅牙と同じ歳の頃で、似たような黒ずくめの格好をしていた。
かれらはこの夜、同じ任務を分担していたのである。しかし――
(帰ろうぜ)
少年はごく簡単に言った。かれらが帰る場所といえば、決まっている。それは家庭などではなく、かれらをこの残虐な任務へと送り出してくる、あの黒々とした闇に充ちた、この世の奈落のようなあの場所だけだ。
(どうして)
その問いは、しかし、紅牙の口から出ることはなかった。
たとえ、少年の助けが入らなくとも、あの一秒後には、男の銃が火を吹くより速く、紅牙の影の中からあらわれるものが、男をずたずたに引き裂いていただろう。
第一、組織においては、たとえチームを組んであたる任務であっても、お互いの分担には立ち入らず、余計な手出しはしないことを指導されている。万一、紅牙があのとき油断から命を落したとして、それは彼の責任でしかなく、あの少年が紅牙を助ける理由も必要性もなかったはずなのだ。
だが紅牙は何も問いかけず、少年も応えようとはしなかった。
ただ、少年たちは無言で、帰途に着いたのである。
かれらが帰るべき闇の中へ。
そんなことがあったのが、数週間も前の話だ。
その日、紅牙は廃墟になったビルの、崩れかかったフロアの端に腰掛けて、遠い街並を眺めていた。そこは、組織の拠点のひとつからほど近く、足を踏み入れるものとていない場所であり(不運にも迷い込んだ人間はすみやかに消された)、そして、紅牙の気に入りの場所でもあった。
気に入り――などという言葉が正確かどうかはわからない。ただ、紅牙はよくそこでそうやって、夕陽を見ていることが多かった、それだけの話だ。
夕陽は血のように紅く、それを映す紅牙の紅い瞳は燃え盛るような深紅だった。
「!」
はっと振り返ると、彼が、そこに立っている。
「よお」
簡単な挨拶をすると、紅牙の隣に並んで腰を降ろす。
普通人なら建物に入った段階で、紅牙に気配を読まれ、場合によっては攻撃を受けている。ここまで紅牙に気づかれることなく登ってこれたのは、さすが“同業”というべきか。
「ほらよ」
同業の少年は、紅牙に紙袋を差し出した。
手に取ると温かい。中を覗けば、なじみのない、しかし食欲を刺激する匂いが、紅牙の鼻をくすぐった。
「これ……」
「ひとつやるから食えよ」
おずおずと、取り出したのはハンバーガーだったが、それは今の紅牙には珍しいものだった。長らく、歳相応の生活を送ってこなかったからだ。それは相手の少年も同じはずだが――
続いて少年は、二本のコーラの瓶を出してきて、やはりひとつを紅牙に渡した。
日に何時間か、ある程度の自由があるとはいえ、街に出て買物をすることなどは禁止されていたはずだった。第一、必要がなければ金銭を渡されることがない。彼はどこでどうやってこれを手に入れてきたのか。それも不思議ではあったが、それよりも、そもそもなぜ、危険を冒して(組織の上のものたちに見つかったら大変なことだ)こんなことをするのか、そして紅牙にその分け前をくれるのか。そのほうが大いなる謎だった。
「いい眺めだな」
紅牙の喉元まで出かかった問いかけは、少年のそんな言葉に挫かれて行き場を失う。
「……血みたいな色だ」
そして、にやりと唇だけで笑った。
そういう彼の横顔も、血の色に染まっている。
「おれたちと一緒だな」
ぽつりと呟いた言葉は、まさに、紅牙がそのとき考えていたことだったので、目を丸くして少年を見た。彼はハンバーガーにかぶりついていた。
そうだ。
自分たちはいつでも血の色に染まっている。
その意味で、ふたりは同じだった。
まるで兄弟のように似通ってもいる。
命ぜられるままに、人を殺すことをなりわいとするを余儀無くされた、世の中の影に棲む、血の兄弟。
ごくり、と彼がくれたコーラを飲み下す。
久々に味わう炭酸が喉をくすぐる感覚に、紅牙は目を細めるのだった。
そして、それは妙に風の生ぬるい夜のことだ。
指令は単純。数十分後、この道を通る二台の車がある。それに乗っている人間をすべて抹殺せよ。
紅牙は、その山道を挟む森の、樹に登り、車が通るのを待った。
反対側の茂みの中には、彼が潜んでいるはずだった。この夜も、ふたりは同じ任務についたのである。
やがて、目標のリムジンが、情報通り二台、スピードを落し加減で道の向こうにあらわれた。先を行く車を彼が、後のを紅牙が担当する手筈だった。
それ以上は打ち合わせたおぼえもないのに、ふたりの少年が行動を開始したのはほぼ同時だ。少年の針と、紅牙の糸が、それぞれの車のタイヤをパンクさせるや、暗殺者たちは闇の中から飛び出すのである。
すみやかに、死をもたらすために。
蒼い月光の下でさえ、紅牙の瞳は血の色に輝いていた。それは、彼に相対するものの運命の預言だったかもしれない。そして、夜の闇よりもなお濃い、彼の影の中には、獰猛な獣が息づいている。
クラクション。ガラスが砕け散る音。銃声。悲鳴。
夜の静寂を乱すのは、そんな凶悪な音だけだ。
紅牙は運転席と助手席からあらわれた、銃を持った黒服を片付けると、後部座席のドアを荒っぽく開けた。うしろにもう一人いる気配があったからだ。
「――……」
息を呑む。
そこにいたのは、ひとりの少女だった。まだ幼い。
フリルとリボンのいっぱいついたワンピースを着て、手にはくまのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めていた。そして、まったく事情を飲み込んでおらぬ無垢な瞳で、突然の闖入者である紅牙のほうを、きょとんと見つめているのである。
「…………」
迷いが――迷いのようなものがよぎったのは、ほんの一瞬のことだった。
まばたきよりも、短い間だったが、しかし、それはひとの心に傷を――傷のようなものを残すのには充分過ぎる時間なのだ。
鋼の糸は、今夜も巧みに動いた。
ぼとりと落ちた少女の首は、やはり何事も理解しておらぬ表情のままで――それだけに、まるでアンティークドールのように見えた。
彼女の小さな手が抱いたままのテディベアが、ゆっくりと血に染まってゆき、ただひとり、少女の死を悼んでいるかのようだった。
任務、完了。
少年たちは、月の光の中を無言で歩いていた。
真夜中の、電車が通らぬ線路が、かれらの帰り道だった。
仕事からの帰り道は、いつだって、すこしの倦怠感と、かすかに、胸の中に澱のようなものが溜まったような感覚に支配されている。
その感情を、何と呼ぶのか、紅牙は知らない。
「……何人くらい殺した?」
ふいに、彼が訊ねてきた。
紅牙は彼を振り返った。
少女を殺した後、そこにじっと立ち尽くす彼のそばから、少年は車の中をのぞきこむと、紅牙の肩を叩いて、彼は言ったのだった。さ、帰ろうぜ――と。
「……わからない」
紅牙は答えた。本当だった。
「そっか。――おれもだな」
彼は答えた。それも本当だろう。
「どうして…………これを――?」
紅牙は問うた。
これ、とは、この仕事ということだ。だが他に表現のしようがなかった。組織の少年たちにとって、これは仕事であり、生活であり、人生そのものであったから。
「さあねぇ」
少年はチェシャ猫のように、にやにや笑った。
「忘れちまったな。おまえはどうなの」
「…………」
紅牙は応えなかった。
数日後、紅牙は新しい任務についた。
現場で、パートナーの到着を待て、と指示されていたので、そのとおりにした。
やがて、夜の闇の中から、見たことのない顔があらわれたとき――紅牙は、それまで知らなかった感情を持った。
てっきり、彼が来るものだと思っていたのだ。だがそうではなかった。
問題なく任務は終ったが――帰り道に感じるあの名前のない感情が、より深まったような、そんな気がした。
結局――
それ以来、紅牙があの少年に会うことはなかった。
理由はわからない。
別の任務に失敗して死んだのかもしれないし、なにかの事情で紅牙とは組まさないことになったのかもしれない。
それから数十年の月日が過ぎ――
東雲紅牙もあの組織の人間ではなくなった。そしてもちろん、とっくに、少年ではなくなっていた。
けれども、ときおり、明け方の夢の中に思い出すのは、あの少年の日々のことだ。
血のような夕陽の中で見た彼の横顔。今は遠い思い出でしかない、血の兄弟。
あのときのハンバーガーは、そう言えば、本当旨かったな、と、東雲紅牙は今でも思うのである。
(了)
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