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<東京怪談ノベル(シングル)>


地図にない村

 その村落は地図にも乗っていない。
 いちばん近い隣の村まで、険しい山道を歩けば半日はかかるから、まさに秘境と云ってよいだろう。今日、このような場所があって、人が暮らしていようなどとにわかには信じられない。だが、それも道理である。
 そこは、まさしく、この社会があえて忘れ去り、隠匿した場所であったのだから。
 多くの人々には知られておらぬ、闇に生きるものたちがいる。
 そこは、代々、そうしたものたちが生まれ、暮らす隠れ里であったのだ。
 山間の土地に、民家はまばらだ。あとは前時代的な田畑と畦道。――今、そこをひとりの男が歩いてやって来た。
「おう、帰ったか」
 畑仕事をしていた初老の村人が男に声をかけた。
「仕事は済んだか。首尾は」
「……大事ない」
「そうか。そうだな。まあ、ゆっくり休め。皆、待っておった」
 男は、旅装だ。遠出の仕事から戻ったばかりであることが、村人との短い会話からわかる。顔色が今ひとつすぐれないのは、疲労のゆえか。
「…………皆、達者だったか」
 ぼそり、と、こもった声で男は問うた。
「ここはいつでものんびりじゃわい。外と違うてな。今は鬼伏の坊主もおらんよって」
「……凱刀が――?」
「坊主、千尋谷の老師さまにお弟子に出されておるのさ。おまえさんが出発したすぐ後くらいだったかのう」
「……そうか……凱刀は――おらぬのか」
 ぎゃあぎゃあ、と、騒がしい声が村の空にひびいた。
「なんじゃ。鳥どもがやけに騒ぎよる。おまえさん、長いこと村におらんかったで、鳥どもに顔を忘れられたのと違うか」
「……そうかも――しれぬな」
 男のうつろな目が、不穏な光を宿していたことに、その村人は気づかなかった。

 その村落から、さらに深い山の中に分け入った場所がある。
 渓流ののぞむ崖の上に、樹木の陰に隠れるようにして丸太小屋が建っていた。あたりには路らしい路とてなく、このような場所に人が住んでいるなどととは到底思えない。
 だが、今、その戸口を抜けて入って行ったのは、ひとりの少年である。歳の頃なら十四、五といったあたりであろうが、諸肌脱いだ身体は充分に鍛えられ、また、あちこちに傷跡を残している。
「遅いぞ、凱刀」
 小屋の中で、囲炉裏端に座していた老人から声が飛んだ。少年は無言で頭を下げる。
「早う飯の支度をせい。日が暮れてしまうぞ」
 凱刀と呼ばれた少年は腰に下げた魚籠を降ろした。中で、魚がぴしゃりと跳ねる。
「魚捕りに手間取ったか、凱刀」
 白いひげを長々と伸ばし、ぼろをまとった仙人さながらの老爺であった。彼は嗄れてはいるが、しっかりした声音で、魚を焼くために串を通している凱刀に話しかけた。
「おまえは殺気が立ち過ぎるのよ、凱刀。それでは魚も逃げよう」
「……魚を殺さねば夕餉にはありつけません」
 ぼそり、と、少年は支度の手を止めずに呟いた。
「うつけが。だからいかんというのだ。川の流れに逆ろうてはいかん。流れに乗って進むのだ」
「…………」
「わかったか、凱刀」
「はい……お師匠様」
 この老人こそ、隠れ里のさらに奥深くに隠遁する、老師と呼ばれる人物だった。そして、少年・凱刀は里を離れ、この老人のもとに弟子入りさせられているのである。幼くして力の素質をみとめられた少年は、この一族屈指の術師であるところの老師のもとで、教えを受けているのだった。
 闇を統べ、陰界より力をひきだすのが、かれらの流儀。闇の力をもって呪いをなすこともあれば、闇から生まれたものを闇へと返すわざも心得る。いずれ凱刀も、そうしたわざの使い手として大成し、一族のためにはたらくことになるはずだった。そのなりわいは闇のものであるがゆえに、かれらの一族の名とその村が、史書や地図に載ることはない。
 この十四歳の少年も、だから、世間の十四歳とは程遠い日々を、この人里離れた深山で送っているのだった。

(凱刀――凱刀……)
 誰かの――あるいは、何かの呼び声だ。
 ねっとりと、深い闇の中で、なにかが身じろぎをする気配がある。
「!」
 がばり、と、薄い布団をはね除けて身を起こせば、少年は肌にじっとりと脂汗をかいていた。傍の寝床は空だ。
 ちりちり、と、産毛が逆立つような感覚に身震いすると、凱刀は飛び起きるのだった。
 戸口の外では、老師が杖によりかかりながらも、立って、空を睨んでいた。
「気づいたか?」
 問われるまでもなく、凱刀は鋭く夜気を吸い込む。
「里が――燃えてる!」
 夜空の一角が不吉な朱に染まっているのだ。
 一も二もなく、かれは駆け出していた。
「待て!待つのだ凱刀!」
 師の声が飛んだが、脇目もふらず、少年は走った。
 昼間でさえも歩くのが困難な山道を、少年は裸足で、風のように駆け抜ける。枝を避け、岩を飛び越え、沢をまたぎ、茂みをかきわけ、一心不乱に、凱刀は走った。
 視界が開けてみれば、畑の向こうで、いくつかの家から火の手が上がっているのが目に飛び込んできた。そして、それだけではない。
(陰気――)
 少年の身体に緊張が走った。
 里には、邪悪なものの気配がただよっている。
(何かいる)
 だが、もとより、呪いをなりわいとするものの村のこと、里にはそうした災いが入り込むことを拒む結界が施されているはずなのだ。滅多なことでは、魔性の侵入を許すはずなどないが――
「おいッ!」
 凱刀は、よろよろと、畑の中を歩いている人影をみとめ、声をかけた。見知った顔だった(もっとも、小さな村のこと、顔見知りでない住民などおりはしない)。
「どうした!何があったんだ!」
「が、凱刀――か」
 男は苦しげな声を出した。ぜえぜえと喉が鳴る。
「里に……戻った――奴……」
「何――」
「憑かれた――まま、戻って……」
「馬鹿な!」
 男の目が、ありえないほど見開かれた――と、見えた次の瞬間、まるで冗談のように、ごろり、と、目玉が零れ落ちた。ぽっかりと開いた眼窩から、どぼどぼと血と粘液があふれだし、男は崩れた。
「身体の内から――腐ってやがる」
 凱刀は忌々しげに舌打ちした。
 むろん、これが人のわざであろうはずがない。こういうことだ。外へ出て、怪異の調伏にあたった村人がいた。だが、その村人は任務を全うし切れず、あまつさえ、敵に憑依されたまま里に戻ってきてしまったのだ。みすみす、敵を自身の懐に招いてしまったのである。
 凱刀は男の屍体を捨て置いたまま、田畑を横切って走った。
 道々に、累々とよこたわる里のものたち。
 男も女も、子どもも老人も関係ないようだった。いや、そうした識別がついておればまだいいほうで、木の枝や軒先きに、臓物だけがひっかかっていたり、腕や足といった人の身体の部分だけが地面から突き出していたりするのも、いくつも見受けられるのだった。
「誰かいないか!生きてるやつはいないのか!」
 叫び、呼ばわりながら、凱刀が目指したのは、自身の生家だった。
 そこは村のはずれにある。周囲はひっそりと静まり返っており、あるいは、災禍はまだ及んでいないかに見えた。
 縁側に駆け上がり、障子を開け放つ。
「……!」
 暗い広間の、畳の上に、凱刀に背を向けてひとりの男が座していた。
 凱刀は、駆け続けて乱れた息を整えながら、油断なく男の背中を睨みつける。
「貴様――」
「凱刀か」
 男は言った。
「里の大事と知って千尋谷から飛んできたか」
「馬鹿野郎」
 かみしめた奥歯の間から、絞り出したような声だった。
「死ぬなら自分ひとりで死にやがれ」
 くくく――押し殺した笑いに、男の背中がふるえた。
「そういうわけにもいかぬのよ。……この男の脳から、この里の事を知った以上はな。――鬼姓を冠し、鬼道をよくする古き民。彼奴らが肝、たいそう美味であったわ」
 ぎし、ぎし、ぎし、と、厭な音を立てて、男の首が凱刀を振り向いた。そのまま、180度回転し、薄笑いを貼付けたままの面が、凱刀をねめつける。
「最後はおまえよ、鬼伏凱刀――」
 言い終わらぬうちに――
 闇夜に、ぱっと、青白い炎の閃きが舞った。
 少年の指が流れるように印を切り、唇からは呪言の囁きが発せられた。
 鬼火でできた蛇のようなうねりが、男を――すでに人ならぬものに変じた男を襲った。だが――。
「馬鹿め!」
「――ッ!」
 凱刀は息を呑む。
 炎は畳を焦がしたが、男は真上に跳躍し、天井に貼り付いていた。それだけではない。男の身体からは昆虫を思わせる節のある腕が何本も生えており、それは、男の胸のうちにひとりの幼い少女を抱きかかえていたのである。
「き、貴様!」
 少女は生きている。だが恐怖に声ひとつ立てられぬ様子で、身動きひとつしないままだった。
「凱刀」
 男の口の中から、長い舌とも、触手とも、昆虫の口吻ともつかぬ器官がぞろりと伸びてきた。指差すように、凱刀の眼前にその先端が向く。
「大人しくわしに肝を差し出せば、この娘だけは命を助けてやらんでもない」
「小賢しい!」
 凱刀の拳に、鬼火が宿った。腕の筋肉に力がこもる。そして全身をバネにして、嘲笑を浮かべた男の頭をめがけて――
「お――」
 しかし。
 怪異の腕にからめとられた幼い少女は、涙に濡れた目で凱刀を見返したのだ。
 そしてその口が開かれ――

「――お兄ちゃん――」

 鬼伏凱刀の、血と争いに充ちた人生の中で、
 それは数えるほどしかない、
 彼が躊躇した瞬間だった。

 火のついた鉄を突っ込まれたような痛み。
 怪異の脚のひとつが、凱刀の脇腹をかすめたのだ。
 少女の――妹の顔が涙に歪む。そして、視界におおいかぶさってくる影。
「お、お師匠――」
「凱刀!」
 老師が、凱刀と敵のあいだに立ちはだかっていた。老人とも思えぬ雄叫び。しかし、同時に放たれた、虫の脚の鋭い爪が老人の身体を何カ所も貫いていた。さらには――残忍な腕は幼い少女の首をもくびりあげ、少女が、小さな口から血を吐くのを、凱刀は見た。
 ごう、と、炎が唸る。
 凱刀の手が、男の頭をむんず、と掴んだ。
「ぐはっ、お、おい、待て――」
 それはなにか喚いたようだったが――構わず、凱刀は渾身の力をこめて握り潰していた。
 血飛沫が、凱刀の頬に飛ぶ。屋敷の畳から、柱、そして天井へと火が這っている。足元に転がっているのは三つの屍。なかば人ならざるものに変じた男、血まみれの老師、そして――眠っているかのように動かない妹。
 今年で五つだった。
 炎に照らされ、帰り血を浴び、荒い息で仁王立ちしたままの凱刀。その姿を見たものがいたならば――これこそ鬼だ、と、思っただろう。だが――。すでに里には生きている人間はいない。凱刀の他は、そのときすべて死に絶えていたのである。
 地図にない村は、そうして、名実ともに消え失せてしまったのだ。


 それから幾年かの月日が流れ――
 世の闇に息づくものたちのあいだで、ある男のことが畏怖をこめて囁かれるようになった。男は大陸に渡って外法の術を身につけ、みずからの身の内に鬼を封じて力となすのだという。その呪殺の腕にかなうものはなかった。
 男が、かつて、魔性の災いによって滅びたかの村の出自であるという噂が流れたことがあったが、噂する者たちがことごとく死ぬにおよんで、そうした話題も人々の口に上らなくなった。男はつねに独りで――決して、誰ともつるんだり、組もうとはしなかった。
 ある命知らずなものがそのわけを問うた時、こう答えたという。
「誰かといれば足を引かれる。人は足枷にしかならん」
 そう言って、強い酒を呷るように飲んでいたそうだ。
「だから独りだ。――つまらん足枷など、金輪際いらん」

 ――その村は地図にも載っていない。
 遠い昔に、その住人はすべて死に絶えたのである。

(了)