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庭園に住む精霊
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どのようにしてここに迷いこんだのかと、少年はわずかに首を傾げた。
見渡せばそこはどことも知れぬ森の中で、針葉樹がその葉を風に揺らしている。
高く続く木が陽光をさえぎり、空に浮かぶ太陽の光から彼の体を庇うようにして連なっている。
元来あまり強いわけではない身体である少年には、夏の強い陽射しは時に毒となる。
ゆえにこの柔らかな陽射しは、どこか彼の体を護っているかのようで――――
少年・尾神 七重は片手を目の上にかざして空を仰いだ。
――僕は……
おぼろげな記憶を手繰り寄せ、なぜ自分が今ここにいるのかを思い出そうとする。
「そうだ。……僕は授業を休んで、学校の裏手にある林道を歩いてたんだ……」
呟き、手を降ろして前方に目を向けた。
七重の視界に入りこんでくるのは一軒の屋敷。
ロシア風の造りをした白壁のその屋敷は、見る限り周辺を広大な庭で囲まれているようだ。
眉根を寄せながら屋敷へと近付く。
近付くごとに強くなっていく香りは、幾つかの花が放つ芳香だろうか。
鼻先に触れるその香に、どこか薄らボンヤリとしていた頭が隅から順に目覚めていくのを感じて、七重は小さな嘆息をついた。
屋敷のそばまで近付くと、蔦が巻きついた門が七重を出迎えた。
アーチ状になったその門は屋敷を取り囲む壁があるでもなく、ただ無造作にそこに建ってある。
――学校の傍にはこんな建物はなかったはずだ。……となると、やはり今自分が置かれている状況は……。
「これも怪異の一つなんだろうか……」
門の奥に見える屋敷を見やり呟く言葉に、まるで返事を返してきたかのようなタイミングで女性の声が響き渡った。
「どう? そろそろ調査は済んだのかしら」
勝気そうな声は揚々と弾み、屋敷を取り囲んでいる広々とした庭園の中に響き渡る。
その声の主はと視線を向ければ、そこにいた二人の姿が確かめられた。
一人は女性。女性、とはいっても、自分とそれほど年齢は離れていないかもしれない。
レトロなデザインの――言葉を変えれば時代錯誤なデザインの――ワンピースに身を包み、長く赤い髪を風に揺らしている。
彼女は門の外に立っている七重に背中を向ける恰好で、腰に両手をあてがっている。
そしてその奥にいるのは七重からしたら結構な年上だろうと思われる青年。
短めに揃えられた髪は薄い灰色で、適度に鍛えられた体躯は褐色に日焼けしている。
「ええ、もうそろそろ片付きそうです」
女性の問いに対して穏やかな口調で応えると、青年はふと七重に気付いて頭を下げた。
「エカテリーナ様、お客様のようですよ」
青年の言葉に振り向くと、エカテリーナと呼ばれた彼女は整った顔に笑みを浮かべ、七重を手招いた。
「ようこそ、少年。そろそろ誰か来るころだと思っていたわ」
そう言って笑う彼女の声に引き寄せられるように、七重は門をくぐり抜ける。
そして躊躇したような表情を浮かべて足を止め、自分を見つめている二人に向けて丁寧に頭を下げた。
「お邪魔します」
凛とした声で告げると二人も軽い会釈を返してきた。
「ええと……申し訳ありません、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
青年がそう問いてきて、七重は赤く光る瞳をゆらりと揺らす。
「尾神 七重といいます。――――失礼ですが、ここはどこでしょうか? 僕は学校の傍を歩いていたはずなのですが」
-2-
庭先にあったテーブルに招かれて腰を落ち着かせた七重は、青年・ラビが運んできたカップを口に運んだ。
冷えたミントティが喉を過ぎていく感触が心地よく感じられる。
「それでは、ここはあなたの……深奥の魔女と呼ばれるエカテリーナさんのお屋敷なのですね」
空になったグラスをテーブルに置くと、中に残っていた氷が小さな音を立てる。
晴れ渡った空からは容赦のない陽光が降り注ぎ、氷はゆっくりと溶かされていく。
「――七重は賢い子ね。順応する力に長けているというのは、良きにしろ悪しにしろ賢いことの裏付けだと思うわ」
そう言ってエカテリーナはゆったりとした笑みを浮かべた。
突然、何らかの偶然でこの場所に迷いこんでくる客人は多くはないが、少なくもない。
中には突拍子もない出来事に順応できず、少なからず精神に異常をきたしてしまう者もいるのだと、彼女は困ったように笑った。
七重は彼女の言葉に対して頷くでもなく、言葉もなく、ただ真っ直ぐな視線を向けているばかりだ。
エカテリーナは七重の視線を見据えて小首を傾げ、小さく笑う。
「それじゃあ、私は一度部屋に戻るわね。――もしも私に用事が出来たら、あとで来ると良いわ」
どんな望みも叶えてあげることの出来るものをあげる。そう言い残し、エカテリーナは庭を後にした。
去っていく彼女の背中に会釈をすると、七重はテーブルからは少し離れた場所で何か作業をしているラビに目を向けた。
レンガで舗装された細い道の両脇には、植樹されたばかりだろうと思われる果樹が並んでいる。
「ラビさん――でしたよね。……さっきから何をなさっているんですか?」
果樹を眺めては何かをノートに書きとめたりしているラビに問うと、ラビは頭をあげて七重を見やった。
そしてノートを閉じて頷くと、小さな嘆息を一つついて腕を回す。
「エカテリーナ様からお仕事を受けたんです。ご自分の庭園にある実り達に住みついた精霊達について知りたいのだ、と」
応えつつ苦笑すると、ラビはぐるりと庭園を見渡した。
「この広い場所に、どれだけの実りが――植物があるというんでしょうね。……想像するだけで疲れてしまいますよ」
「……はあ」
グチを口にしているところを見ると、ラビは随分と疲労しているのだろうか。
そんなことを考えながら自分も庭園を見渡してみる。
「……広いですよね……森にあいまって、どこまでが庭なのか……」
ラビのグチを肯定する言葉を返し、七重も嘆息を一つ。
七重の言葉通り、屋敷と庭を取り囲む壁がないためか、庭は周囲を囲う森と一体しているように見える。
風にざわめく木々を仰ぎ、視線を再びラビへと向ける。
「あと、どのくらいで調査は終わりそうなんですか? 僕に出来ることがあればお手伝いさせてください」
ごく自然に告げられた七重の言葉に、ラビは意外だと言いたげな表情で彼を見返した。
「本当ですか? いや、あのですね。……いや、でも七重君には学校がありますし」
ラビの言葉に対し、七重は表情を変えることなく手を振った。
「それなら大丈夫です。……不要でしたら遠慮しますが」
「不要だなんて、そんなことは決して。……それでは、少し手伝っていただけますか?」
返事を返す代わりに首を縦に振ってみせている七重に、ラビは安堵の笑みを見せた。
「申し訳ありません。正直、一人ではキツかったんです」
「それではまず、精霊について説明します」そう言って歩き出したラビに続き、七重もゆっくりと足を進める。
レンガで舗装された小道は森から抜けてくる涼やかな風にさらされ、心地よい気温に保たれていた。
その両脇にある果樹は若々しい幹を風に揺らし、目をこらせばその中に飛び交う小さな羽虫のような光が見える。
「あの小さな光が精霊なのでしょうか」
歩きながら問うと、ラビは振り向いて頷いた。
「七重君が精霊を見ることの出来る方で助かりました。……そういう家系なのですか?」
何気ない返事。
口を閉ざしたまま応じようとしない七重を眺め、ラビはそれきり家系や能力といった事柄に関する問いを口にしなくなった。
「それでは、この小道にある植物の精霊を確認していただけますか。
果樹のほうはもう確認済なので、その下にある植物をお願いします」
小さく頭を下げて告げられたラビの言葉に頷くと、七重はそっとその場で膝を曲げた。
小さな黄色い花がひっそりと咲いている。
「ハハコグサですよ」
七重の前に咲いている花を見やり、ラビが告げた。
七重はラビの方に顔を向けて目を細めると「七草ですよね」と頷いた。
風に揺れながら静かに咲いている小さな花。
ハハコグサ。
その名前を呟くと、胸のどこかがかすかに痛む。
七重は首を横に振って、脳裏をかすめる言葉を払拭しようとした。
――――アナタ、悲しそうな顔――――
ふいに聞こえた言葉に七重は動きを止めて声の主を探した。
そこにいたのはハハコグサの花の上に座っている、小さな女性の姿をした精霊だった。
-3-
「……悲しそうな顔?」
精霊を見下ろして言葉を繰り返す。
すると精霊は小さく頷いて頬づえをついた。
小さな日本人形のような外見。
真っ直ぐな黒髪は肩の位置ですっきりと揃えられ、七重を見上げている瞳は淀み一つないぬばたま色。
――――アナタの目、沈んだまま――――
頬づえをついて七重を見上げたまま、精霊は言葉を続けた。
――――アナタ、名前は?――――
「……人間でない存在に、安易に名前を教えるわけにはいきません」
毅然とした口調で応えると、精霊は頬づえを解いてふわりと飛びあがった。
山吹色の着物をつけた精霊は、エカテリーナの屋敷に住んでいるわりにはどこまでも和的な存在のようだ。
――――確かにね――――
クスリと笑って七重の顔のすぐ前まで飛びあがると、精霊は大きな黒い瞳をゆらりと細める。
そして少しの間七重を見つめると、満面の笑みを浮かべて口を開いた。
――――アナタの心を慰めてあげる。……お母さんのお腹にいた時の記憶は持っていないでしょう?――――
そう言うと精霊は七重の返事を待とうともせずに片手を伸ばし、小さな掌で七重の額をそっとひと撫でしてみせた。
「お母さ……? やめてくださ――」
精霊の手を払おうとしたが、その手は精霊に届くことなく宙を舞うばかり。
宙を舞う手が何度目かの往復を繰り返した後、七重の目の前が薄暗くなり、聴きたくない言葉がどこかから響き出した。
それは七重がまだ羊水の中で穏やかに眠っていた時の記憶。
本来であれば絶対的な安息の場であったはずの楽園は、そこを護る神とも言える母親が繰り返す言葉によって牢獄へと姿を変えていた。
耳を塞いでも聞こえてくる呪いの言葉。
体を包みこむ生ぬるい粘膜はまだ生まれ出てもいなかった七重を縛り付ける楔となった。
「止めて……やめてください」
頭を抱えてうずくまって聞こえてくる声を振り払おうとする七重を、精霊は不思議な目で見つめている。
――――なぜ?――――
一年近い時間を母親の守護の元で過ごしてきているはずの七重にとって、それは安息であったはずだ。
ハハコグサの精霊はさらに手を伸べて七重に触れる。
「やめてください……」
その手を振り払おうとする七重の動きは、もはや力なく伏していくばかり。
「思い出したく……ないんです」
伏していく視線をようやく持ち上げて精霊を見上げ、七重は赤い瞳に暗い影を宿して言葉を告げた。
「僕にとって胎内での記憶は苦痛でしかないんです。……ご好意はありがたいのですが、やめてください」
安息。それゆえの牢獄。
精霊は七重の瞳を覗きこみ、眉根を寄せて首を傾げていた。
苦痛であるという、その言葉が理解できないといった風だ。
それから間もなく、七重の異変に気付いたラビが駆けつけてくるまでの短い時間、七重は精霊を見据えたまま
――精霊の姿すら見ていなかったかもしれないが――、まるで自分に戒めるかのように、言葉を繰り返していた。
「望んではいけない……僕には何も望めないんだ」
……優しさは胸を穿ち、実りは毒となる。決して見てはいけない甘い夢。
一度望めばそこに捕らわれてしまいそうで。僕は耳を塞ぎ拒絶することしかできない。
……僕には何も望めない。望んではいけない……
-4-
気付くと、七重は柔らかなベッドの上に横たわっていた。
開け放たれた窓からは涼やかな風が入りこんできていて、七重の髪を穏やかに梳いていく。
「気付きましたか?」
ドアを開ける音と共に聞こえた声はラビのものだ。
七重は声がした方に顔を向けて上体を起こした。……少しだけ頭がフラつく。
「僕は――……」
片手で頭を押さえながらラビを見やると、彼は申し訳ないと頭を下げてからベッド脇の椅子に腰をおろした。
手にしているのは冷えた茶の入ったグラス。それを七重に差し伸べてラビは口を開いた。
「精霊との相性が悪いということは、僕にもよくあることなんです。……七重君の場合、それがどうも最悪だったようで」
七重がグラスを受け取るのを待ってそう言うと、ラビはもう一度頭を下げて謝罪を述べる。
「相性とか、そういった部分への配慮が届いていませんでした。申し訳ありません」
鎮痛なおもむきでそう告げるラビの言葉を慌てて制し、七重は茶を一口飲み込んだ。
「僕も考えていませんでした。……こちらこそ、初めてお会いした方にご迷惑をおかけしてしまって」
アイスティが体を静めていく。
グラスの中の氷が転がる音。
窓から入りこんでくる風が一瞬だけ強さを増した。
「七重君」
ラビがふいに重々しげに口を開く。
返事をする代わりに視線を彼にぶつけると、ラビは言い出しにくそうに眉根をよせて、片手で髪を撫でつけた。
「――――過去に囚われているのでしょうか。それともご自分がおかれている状況に……?」
ラビの問いに、七重は無言を押しとおす。
返事がかえってこないことを知ると、ラビは小さな嘆息をもらして睫毛を伏せた。
「エカテリーナ様の庭には、ご存知のように沢山の植物が息吹いています。そのどれもが、望めばどんな夢でも
見せてくれるものなのです。……いや、僕が訊きたいのは七重君の環境ではなくて……」
言葉を選んで告げているのか、ラビの口調はやけに重い。
七重は時折口ごもりながら頭を掻いている彼を見つめ、目を細めてみせる。
「――僕は何も望まない」
絞り出すように告げた言葉。
ラビへの返事を呟き、七重は睫毛を伏せた。
「……ええ、それは構いません。ただ、その……良かったらの話なのですが」
伏せられた目線を気にしながら、ラビは思いきったように口を開く。
「ここは七重君の環境など一切関係のない場所です。だから、もしも息苦しくなったりしたら、
いつでもまたここに来たら良いですよ、と、言いたかったんです。お茶くらい出せますし」
そう言い終えて息を吐くと、ラビは立ちあがって小さな礼をしてみせた。
七重はやはり言葉もなくラビを見ていたが、アイスティをもう一口飲み込んでからラビを呼びとめた。
庭に咲く数多の花の芳香を、窓から吹き込む風が運び入れてくる。
涼やかな初夏の午後のことだった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2557 / 尾神・七重 / 男性 / 14歳 / 中学生】
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■ ライター通信 ■
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尾神 七重さま
二度目の依頼、ありがとうございました。
今回「庭園に住む精霊」を書かせていただきました、高遠です。
まずは、納期ぎりぎりの納品になってしまいましたこと、お詫びいたします;
どうもここしばらく、ぎりぎりまで使ってしまうようになってしまいました。
精進いたします。
お待たせしてしまいましたが今回の物語が、少しでも尾神様を楽しませることが
出来たらと願います。
……いえ、あの、すいません。
七重君可愛いです。書きながら、ケーキとかお菓子とか出してあげたくなりました。
よろしければまた機会がありましたら、お声などかけてくださいませ。
今回は本当にありがとうございました。
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