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胡蝶の夢
夢が現で現が夢。
どちらも起きたら消えてしまう。
眠ったら――消えてしまう。
憧れて止まない背中も、それと同じようなもの?
ううん……違うと思いたい。でも。
(……何処で区別がつくのかしら…? 憧れと言う、気持ちも。夢も……)
追いかけて、話し掛けてみたい。
それが無理ならせめて一目、姿を見るだけでも。
だけど。
せめて一目……と、願う、この感情が何なのか私は知らない。
憧れている――のだけれど、時折……そう、本当に時折、だけれど。
(何か違う別の想いと、感情がある様で……)
解らない。
解らないけれど、追いかけ続けていたい、人。
何処か……遠く、あの人が朗々とした声で歌う「胡蝶」が聞こえてくるような気がした。
――春風の文読む窓に吹入りて
――読み残す書の幾枚か ひらりひらりひらひらと
+
温かな湯気が頬を撫でる。
陽射しは心持ち、柔らかさを増し窓から降り注ぐ。
暖かで、麗らかな午後の昼下がり。
一番お気に入りの喫茶店で、大好きなオレンジティーとチーズケーキ。
ささやかな、本当にささやかな、自分一人だけで行う誕生日祝い。
友人たちが祝ってくれる誕生日も素敵だけれど、と口に微かな微笑を浮かべながら柏木・アトリはカップに口をつけた。
仄かなオレンジの香りと、そして喉に流れ込む温かさに柔らかで穏やかな、幸福を感じ、
「ふぅ……」と、息をつき、カップを置くとチーズケーキへと手を伸ばす。
しっとりとした、けれどチーズの味が濃いケーキに舌鼓を打つと、再び窓の外を見る。
街並みの街路樹は、もうすっかり、冬の枯れた色合いから春の、いいや――初夏が近づいているかのような鮮やかさを見せている。
人が着ているものも、それぞれ涼しさをもつ物へと変化を見せ――ふと、アトリは一瞬「あら?」と首を傾げた。
…和服を着た人物が歩いていたのだ。
和服で歩く人、と言うのは、この街では中々居ない。
着付けが自分自身で出来なければ無理、と言うのもあるけれど実際は、着物と言うものが今は高価で手に入れにくいものだからでもある。
そんな中で見かけた和服の人物――もしや、と思いながらも追いかけてしまう、後ろ姿。
背格好が似ているだけの人かも知れない。
けれど、瞳で追ってしまうのを、抑えられなくて。
(……まさか……?)
振り向いてくれたら、良いのに。
それなら、解るのに。
きっと、私は――あの人なら、どんな服を着ていても見間違えないのに。
……アトリ自身、気付かぬ内にこんな事を考えていたからだろうか。
まるで、アトリの心の声が聞こえたように。
その人物が、ゆっくり振り向いた。
忘れたくても忘れられない、その姿。
そして。
偶然、なのだろうか……一瞬彼は、アトリに向かい…微笑んだように、見えた。
まるで視線に気付いたような、深い微笑にアトリは一瞬、何処かを鷲掴みされた様な気持ちになり。
「――………ッ!?」
カタン……。
抑えられぬ驚きがテーブルを微かに揺らす。
せめて声が出ないよう、掌で懸命に抑えながらも、逸る心を止める事が出来ぬまま。
瞳で追い続ける「あの人」の姿が、どんどん遠ざかってゆく。
(嘘――……まさか、逢えるなんて……!)
本当に…嘘みたい……。
(…誕生日のお祝いに、思いがけない幸せをもらえた様な……ううん、まるで――)
…胡蝶の夢のよう。
目覚めて荘子は思ったのだ、と人に語ったと言う。
果たして自分は、本当は夜毎夢に見る、あの胡蝶なのではなかろうか。
実は胡蝶が――人となった私の姿を夢と見ているのではないだろうか。
……この美しい夢は――何時、醒めるのだろう……?
いいや、もし夢も現も区別がつかないものならば。
どうか、いっそ、このまま。醒めないままで。
柔らかな気持ちが告げるものさえも、彼を見るだけで瞳が追ってしまうほどの想いも、全て、全て。
夢とし、現として……繰り返し、見続けていたい。
そうして、アトリはすっかり温くなってしまったカップを持ち、瞳を閉じる。
先ほどまでの事を、瞳を閉じ、夢になっても思い出せるように。
今日と言う日に逢えた奇跡を感謝するように、静かに。
再び聞こえゆく、唄。
アトリの中に、甘く柔らかく、何処までも朗々とした声が響き渡る。
+
――花も昔の花なれば 其身も元の胡蝶なり
(かくもあれ花に遊ばん……)
――花に狂ふ 蝶こそ春の姿なりけれ
(人とさますな)
――夢よ春風
+End+
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