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<東京怪談ノベル(シングル)>


鞍馬の幻影

 さわさわさわ――

 紫堂家の屋敷は、京都の郊外にひっそりと建つ。
 周囲を囲む竹林によって、街の喧騒からは守られている。
 まして、おだやかな春の午後ともなれば――庭をのぞむ縁側に聞こえてくるのは、笹を揺らす風の音ばかりだ。

 さわさわさわ――

 春といっても、風はまだすこし冷たい。
 だが、縁側の障子はすべて開け放たれ、凛、とした張り詰めた空気をあえて部屋に取り込んでいる。
 青々とした畳の上に坐っているのは紫堂皐だ。
 やわらかな風合いの袷に、紬の袴を合わせた出で立ちは、歳のわりにはずいぶんと和装に慣れた様子をうかがわせる。長着に袴のみという格好はどことなく書生を思わせたが、皐はこの屋敷の息子であった。

 さわさわさわ――

 皐はやがて縁側に居場所を移すと、そこに胡座をかいて、ぼんやりと庭を見ていた。
 風が、彼の髪を揺らしていく。
「ん……」
 風の音にまじって――
 声を聞いたと思ったのは気のせいか。――否。

 呵々々々々々々々――

 なにものかの笑い声だ。じっと耳をすませていると、しだいに数が増えてくる。
(天狗笑いか)
 そのうちやむだろうと捨て置いたが一向にその気配はなく、それどころか、みしみし、ぎしぎし、と屋敷の中からも怪音がひびくようになる。
「騒がしい」
 低く、おだやかだが、有無を言わせぬ一喝。
 するとピタリと一切の音がやむではないか。あとは再び、笹の揺れる音ばかり。
「旗日はあやかしどもも暇と見える」
 面白そうに呟いた。
 その声に応えるように庭の木陰や、襖の隙間、軒先、柱の陰などに、かさこそと、あやしい影のようなものがうごめきはじめるのを、皐は見た。
 あるいは、ここにまったくの常人が(例えば皐の大学の友人たちなどがそうだ)いたら、その影を目にすることはできなかっただろうし、先ほど、皐が聞いた笑い声を聞くこともなかっただろう。
 ばさり、と、翼のはばたく音がして、庭の柏の木の枝に、一羽の烏がとまった。
 カア、と黒い嘴が鳴くのへ皐は手を振って、
「よい、よい。気にするな。おおかた、俺の匂いにひかれでもしたのだろう」
 片頬をゆるめた。
「――天狗の匂いにな」
 のそり、と、柱の影からあらわれたのは、人の腰ほどまでの背丈の、奇怪な肉色をした生き物だ。短い手足をそなえた、粘土の塊のようなすがたで、ひたひたと縁側へ寄って来る。
「ぬっぺらぼうか」
 庭の端に植えた茂みの中からは、どこかの寺から迷い込んできたかのような小坊主がひとり、じっとこちらを見ている。だが、その顔には眉間にたったひとつの目があるきりだ。
「一つ目小僧だな」
 軒下から、のそり、と濡れぼそった毛におおわれたなにものかが這い出してきた。
「ほう。毛羽毛現(けうけげん)とは珍しい」
 いつのまにか――
 静かな日本庭園をのぞむ縁側には、あやかしの群れが集っているのだった。時ならぬ、真昼の庭に現出した、百鬼夜行。皐はそれでも、動じることなく、まるで迷い猫でも見るかのように、かれらを面白そうに眺めているばかり。
「息災か。達者だったか」
 まるで旧友にでも会ったかのように、皐は云った。口に出してから、自分の言葉に苦笑を漏らす。――妖怪相手に、息災か、とは!
(呵々々々――)
 笑われた。
(人の世の、色ある限り)
(われらは空じゃ)
(色即是空――空即是色)
 声ならぬ声のいらえ。ざわざわと、あやしい気配がゆらめいた。
「ぬしらは良いな」
(さても、さても)
(坊のまた、頓狂な)
(やれ酔狂な)
(呵々々々――)
「そう笑うな」
 皐は困ったように眉を下げた。
「俺はこれでなかなか苦労も絶えぬのだ。……そう、大学の“れぽーと”もあるしな。――と云って、ぬしらにはわからぬな。わかるまい」
(人の世の、空ある限り)
(われらは色じゃ)
(色即是空――空即是色)
(呵々々々――)
「やれやれ」
 紫堂皐は知っている。
 魔界は、こうしてつねに、人の世に寄り添っていることを。
 なにも、皐のように、特別な血統、特異な力を持たなかったとしても。ほんのすこし耳を澄ましさえすれば、いつでもかれらの聲を聞くことはできるのだということを。
 だが、そのことを感じるには、人の世はいささか忙し過ぎるのだった。
 皐でさえ、こうしてけだるい休日の午後でなければ、かれらの気配をつかみそこねることがある。

 さわさわさわ――

 誘い出し、からかうような、風のくすぐり。
「どうれ――」
 皐は鷹揚に、膝を立て、腰を上げる。
「せっかくだ。たまには御山に挨拶でもするか」
(呵々々々――)
(やれ珍しや)
 あやかしどものざわめくのへ――
「騒がしい」
 と一喝した。

 その日――
 休日の参拝者でにぎわう鞍馬山を、一陣の風が過ぎた。
 多少、勘のいいものたちは、風が通ったあとに、ふと、ひかれるような気がして振り返ったり、なんとなく誰かに呼ばれたような気になったりして、首を傾げたりしていた。
 さらに強い力を持つものがいたとしたら、風の中に、せつな、駆ける青年の姿を見たであろう。
 紬の袴も凛々しい青年が、子どものように無邪気に、参道を駆け上る様子だ。
 それに呼応して、石段の両脇に立ち並ぶ灯籠に、青白い鬼火のような炎が、彼を迎えるがごとくに次々と灯っていったように見えたのは――白昼の夢か幻か。
 それはただ貴船川のせせらぎの上を、うねる木の根が浮き出す山道を、風が通ったに過ぎぬ。樹々から樹々へ、苔むした社殿の屋根から屋根へ、石の鳥居から鳥居へ――まさしく、かつてこの山に修行したという若き義経のように飛び回るその姿を、はっきりと目にしたものはいないのだ。
 だが。
(呵々々々――)
 山は笑った。
 久方ぶりに、類縁の子を迎えた家のように、上機嫌に笑ったのだ。
 昼なお暗き、と形容される奥山の道が、その日は妙に白々とあかるく、風に木の葉の揺れる音はなにかの囁きのようであった。
(久しいの)
(紫堂の坊主か)
(見ぬ間に大きくなりよって)
「しばらく」
 皐は山に向かって云った。
 しん、と静謐な空気に支配された鞍馬山・奥の院。本尊・魔王尊をまつる魔王殿の屋根に彼は立った。
「鞍馬の御山の御歴々。俺はこの通り息災だ」
 そして、飛んだ。
 見えざる黒い翼がはばたいたような、そんな幻想が虚空に浮かぶ。
(なんの、ちょこざいな)
(やれ、こざかしい)
 ごう、と、風が唸り、宙を舞う皐の身体に吹き付けたが、彼はものともしなかった。
 遠く、もやがかかって見える下界の、京の街並み。
 人の世界を遥かに見下ろす空の高みを、青年は散歩するようにたゆたっている。

 さわさわさわ――

 紫堂家の屋敷は、京都の郊外にひっそりと建つ。
 周囲を囲む竹林によって、街の喧騒からは守られている。
 まして、おだやかな春の午後ともなれば――庭をのぞむ縁側に聞こえてくるのは、笹を揺らす風の音ばかりだ。
 青々とした畳の上に、皐は仰向けに寝そべり、両のてのひらを枕に、午睡をむさぼっている。
 邸内はしんと静まり返り、そうしていると、すべては一時の夢であったかのようにも見える。
 だが、床の間の花入れには、深山より手ずから採った山椿の花が一輪、花びらを濡らして活けられているのである。

(了)