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Spring has come
ぱちり。
藤井蘭は大きな目を開くと、むっくりと、起き出してきた。
カーテンを開けると、さんさんと降り注ぐ陽光。鳥たちのさえずり。真っ白い雲。
ふりかえって、部屋のすみのカレンダーに目をやった。
間違いない。
今日は「赤で書いてある日」だ。
蘭はいそいそと、この部屋の主のベッドへと向かった――。
その夜、葛とその仲間たちは火を吹く山に根城を構える魔法使いを討伐する闘いに赴いていた。
溶岩が煮えたぎる谷をいくつも越え、巨大な生物の骨が累々と重なりあう中、そびえる石造りの城砦にもぐりこみ、邪悪な魔法使いと対峙した。
溶岩の谷では、火トカゲの大群や、大岩を投げ付けてくる一つ目巨人が次々に襲い掛かってきたし、魔法使いの居城ではかりそめの生命を与えられた動く甲冑や、影から生まれた双頭の猟犬、這いずる粘液、武装した骸骨らとの闘いがあった。むろん、魔法使い自身も強敵であった。
そんな闘いを終えた頃には、もう夜は白みはじめていた。仲間たちにねぎらいとお礼のメッセージを送ってから、藤井葛はぐったりとベッドに倒れ込んだのだった。疲労した脳と肉体は、休息を欲し、彼女はあっという間に眠りに落ちる。
しかし、夢の中ではまだ、溶岩が燃え、毒ガスが吹き出す死の谷を、彼女の意識はさまよっていた。
うっかりと火トカゲの体当たりを受けて傷を負った彼女に、追い打ちをかけるように一つ目巨人が岩を投げ付けてきた。この状態でそんなものを喰らったらひとたまりもない、と焦った瞬間、仲間の一人が身を挺して彼女を守ってくれたのだった。
『気をつけろよなァ〜?』
画面に、そんなメッセージが躍った。
『すまない』
短く返した。
相手は、もう何度も冒険をともにしているダークナイトだ。不器用だし、鈍いが、やたら素早く、腕力も体力もある。彼の、魔法の黒い鎧をまとった姿が画面にあらわれると、それだけで安心感があるのだった――。
……と、油断した瞬間、またもや、飛竜が空から襲い掛かってきた。不運は重なる。
避け切れない!
『おりゃああああ!』
怒号。
つきとばされた。
黒い鎧の――いや、黒いスーツの……男だ。
「え……?」
男は仰向けに倒れた葛の上に、のしかかってきた。
「や、ちょ――ちょっと……!」
男の体重がかかる。
逃げられない。大きな、がっしりした身体が視界を覆って――
「わあああああああ」
「……?」
丸い目が、きょとん、と葛を見つめていた。
「あ、あれ……」
「持ち主さん、おはようなのー!!」
元気のよい朝の挨拶。
葛の上にのっかっているのは、小さな同居人だった。
「あ――夢……?」
頭を振った。
昨晩は、いや、今朝ほどまで、いつものようにネットゲームに没頭していて――葛は思い返した――時計を見れば、ずいぶん寝坊をしたものだ。休日だからいいようなものの。
「持ち主さん、おめめパッチリしてるの」
無邪気に、蘭が笑いかけてきた。
「あ、いや――」
さっきまで見ていた夢を思い出し、思わず赤くなった。
たぶん蘭は、葛を起こそうとしてゆすったり、抱き着いたりしていたのだろう。それであんな妙な夢を見てしまったのだ。まったく、妙な夢……。
「持ち主さん、今日はお休みなの!」
「あ、ああ、そうだな」
オリヅルランは、すこしづつ、人間の社会のことを学習している。
もっとも、それは自分に関係することがらからすこしずつ、だ。そして最近憶えたことのひとつが、部屋のカレンダーで日付けが青か赤で書かれている日は、かれの持ち主さんが家にいて遊んでもらえる可能性が高いという法則だった。この、カレンダーで日付けが青か赤で書かれている日を「お休みの日」と言って、お休みというのは、何もしないことだと思うが、それなのに、持ち主さんが遊んでくれる日が「お休みの日」だ、というのは、なかなか難解な謎で、これはまだ解けていなかった。……まあ、それはともかく。
「ちょっと待って。顔を洗ってくるから」
「うん、なのー!」
起き出した葛を、蘭が嬉しそうに、期待をこめた目で見つめていた。まだすこし眠かったけれど、たまの休日くらい蘭の相手をしてやらないと。葛は、窓の外がすばらしい快晴なのに気がついたのだった。
季節は春。
日差しは明るく、風は心地良い。
ふたりが出掛けたのは、すこし郊外に足をのばしたところにある大きな公園だった。
噴水べりでは恋人たちが語り合い、ベンチでは親子連れがスフトクリームをなめている。すこし向こうの芝生ではフリスビーを追い掛けているゴールデンリトリバー。
のどかな光景を、ざっくりと薄手のデニムを羽織った葛は、日差しに目を細めて見回した。
「うわーい! うわーい!」
蘭は、子犬のように、葛のまわりを走り回っている。
木陰の、芝の上に、葛は腰を降ろした。
「んー、気持ちいい」
思わず、そんな声が漏れた。
見上げると木漏れ日が、きらきらと輝いている。
抜けるような青空をわたってきた風が、さやさやと草木をそよがせ、蘭のさらさらした緑の髪もそれになびいた。
ふと、かたわらに、タンポポのわたぼうしが、ふわふわと揺れているのに、葛は気づいた。
見れば、タンポポだけではない。野には、季節の草花が一面に芽吹き、咲き、茂っているのである。
オオイヌノフグリの小さな青い花。
レンゲソウの可憐な赤紫。
ハルジオンの白――。
そしてその中をはしゃぎまわっている、緑の髪の、オリヅルランの精……。
ふっ、と葛は頬をゆるめる。
昼間は大学の図書館と研究棟にこもり、夜はネットゲームの世界にいりびたり……なんていうのは、やっぱり、あまり健康とはいえなかったかもしれない。
別にそれをすべて否定するつもりはないけれど――たまには外に出てみるべきだな、と葛は思った。
いつのまにか季節はうつろい、世界はこんなにも美しいものであふれている。
そして、それらは皆、生きているのだ。
ただ、残念ながら、この春の野草たちの声は葛には聞こえない。同族である蘭だけが、それを聴き取ることができるのだ。だから、ほら。あの子はあんなに楽しそうに、嬉しそうに、蝶々か蜜蜂みたいに花から花へ飛び回っている。
この花たちは、あの子とどんなお喋りをしてるんだろう。
春の日差しの下で思いきり花を咲かせる喜びを――
野を渡る風に吹かれる心地よさを――
どんな歌にしてうたうんだろうか……。
「持ち主さーん」
「あ、ああ」
われに返った。
あまりに風が気持ち良いので、思わずまどろみに引き込まれそうになっていたようだ。
蘭が駆けてくる。
「あんまり走ると転ぶよ」
言ったそばから、こてん、と、倒れる。
「ほらほら」
助け起こしてやると、にこにこ笑っている。
土と草と風の匂いの中でたわむれるのは、この少年にとって何にも変えがたいことなのだ。
「ね、蘭。わたぼうしさんを、飛ばしてあげたら?」
「うん、なのー!」
息を吸い込み、頬をぷっくりふくらませてから、思い切り、白いふわふわへと息を吹きかける。
折よく吹いた風に乗って、綿毛の群れがぱあ……っと飛び散った。
「わあ! わあ!」
「おー、飛んだ飛んだ」
「ね、ね、持ち主さん、みんなが、ありがとう、ありがとうって」
「そう? よかったね」
「たんぽぽさんたち、元気でねーーーーっ」
蘭は叫んだ。そして空へ向けて思いきり手をふる。
葛は微笑を浮かべて、蘭と、旅立ってゆく綿毛たちを見つめていたが、ふと、思い出したように、傍のバスケットへ手を伸ばした。
「蘭、お昼にしよう」
「わーい、なの!」
バスケットの中身は、出がけにありあわせのものでつくったサンドイッチ。ちょうど胚芽パンがあったので、ひとつにはハムと卵、もうひとつにはサッと茹でたアスパラガスとレタスにツナをはさんだ。魔法瓶には紅茶、バナナとオレンジ、チョコレートも持って来た。われながら、完璧なピクニック仕様のランチバスケットであった。姉にも見せてやりたいものだ、と思ったが、妙な対抗心を燃やして真似されても困るな、と、想像して、葛は内心で笑った。
あるいは、あの黒い鎧のダークナイトはどうか――。
(良かったらサンドイッチ、つくってきたんだけど)
(うお、マジか!マジなのか!!)
くすっ、と笑いが漏れた。
むしゃむしゃと胚芽パンサンドにかぶりついている蘭を横目に、魔法瓶から紅茶を注いですこし飲んだ。
おだやかな春の日時計は、ゆっくりと、針を進めてゆく。
ふわり、と、鼻の頭になにかが降ってきた、と思えば、それは小さな小さな、たんぽぽの白い綿毛だった。
(了)
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