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<東京怪談ノベル(シングル)>


雛罌粟の十三夜

 渇いています。心――あるわけのなきものを宿さねばならぬほど。
 餓えています。躯――木塊をけずったはての形骸を動かさねばならぬほど。
 今宵は十三夜。豊穣の象徴だというあかるい月に誘われたのでしょうか、この時刻には閉じているはずの雛罌粟が、紅の花弁をてのひらのようにして、月の光をつかみとろうと爪先だちしています。わたくしはそれを横目に、いつものごとく夜を泳ぎはじめました。花たちがさらさらと揺れています、風が吹いているのでしょう。わたくしの髪もすこしなぶられます。振袖のたもとが夜気をふくんでふくらみ、くるぐる、鞠のようなたわむれに耽っています。わたくしの紛いの関節が軋んだ音をたてています。あわあわとした時節のけぶりと行き会い、離れます。しかし、わたくしは何の感慨もおぼえないのです。どこにも畏れる必要はありませんから。
 風は何もできやしません。わたくしをあの方のもとへはこぶことも、あの方からの文を届けることすらかないません。
 脚を、とどめます。月を一度ゆっくりと見上げたくなりました。声で、目線ではなく、苦界をたしかにふるわせるよう苟且の口蓋で、尋ねたいことがありました。俯瞰する天体、あれはわたくしよりもはるか多くのことを諒解しているに相違ありません。だから、答えて。おねがい。ことばの不如意が無言の理由ならば、わたくしのものを献じましょう、ですから。

 ――‥‥あの方は、今、どこにおられるのですか?

 追想のなかの四宮の屋敷は、まるで茨の木立にかくされた四阿のように、どこもかしこも仄暗く、ひっそりとしております。病人をはばかる故に昼のうちから障子や襖は閉めきられて、光はやわらかにかげり、大気はのどかにまどろみ、ただすこしでも動的なしずくがあるとするならそれは、花、でした。きらびやかな季節の使者、それは閉鎖空間の内側にも戸外の変成をうつしだします。夏の木槿、秋の南天、冬の雪柳、春、春がいちばん綺麗、梅、桜、藤、薔薇、躑躅、都忘、連翹、花水木、牡丹も春に咲きます。天からきりとった火輪をあえてまた炎に投げ込みいっそうたぎらせたような、情熱的な朱の円陣が細首の磁器に生けられると、ねぇ灯火の着物とおそろいよ、とわたくしを隣に座らせてあの方ははしゃいだ声をあげられました。
 はなびらや蕊を青葉の椀にもりあわせてままごと遊びにいそしんだ、愛しくも懐かしき日々。
 けれども、いつしか花は散ります。はらはらと。
 こんなにもそのままでいてほしいのに、それでも。
 ――気がつくと、だいぶん、ひらけた場所に出ておりました。近頃の都会の空き地となるとどこもそうですが(といっても、わたくしがそれを認識するようになったのはつい最近のことになるのですけれど)、その土地もまんべんなくアスファルトが敷き詰められ、しかし手入れは長い間おこなわれないとみえ、ところどころの線とはしるほつれから植物が力強く首をもたげております。ここにも雛罌粟はありました。街灯より月よりも赤く、今生の夢を咲き誇っておりました。
 ずいぶんとさびれたところですが、ここはどこか、という言問いは、わたくしには無用です。所書きは表掲以上の意味をもたないのですから、が、ただひとつだけ、気になることはありました。土地の片隅に置き去りにされた建築物が、赤い十字をかかげていたのです。それが『病院』を示すしるしだ、ということぐらいは、そろそろわたくしも知識として得ておりました。そして、あの方が屋敷を去ってむかわれたさきが『病院』だということは、わたくしのなかに記憶――つくりもののなかに生まれた不可視の瑕をそう呼んでもよいのなら――としてしっかりとねづいています。
 自然、ひきよせられます。
 赤錆を浮かせた有刺鉄線は、侵入者をこばむでなく、むしろ娼婦めいた挑発をしかけていて、わたしはそれを越すのになんの躊躇いも感じませんでした。こんなに浅薄な誘導に応じるのは自分だけかと思っておりましたら、場違いに無邪気な声がふたつほど、建物の内部いっぱいに響き渡ります。
「うわ、すっごいボロ。なんか今にも崩れ落ちてきそうじゃない?」
「バカ。それがいいんだよ」
 まだ春先だというのに肌の露出のおおい女性と、西洋たんぽぽの色の髪の男性。気のおけない口ぶりから恋仲であろうと知れましたが、過度にべたついた関係ではないようです。
「あー、あたしって不幸。廃墟マニアの彼なんかもつもんじゃないわよね、せっかくの夜にこんなところに連れてこられるんだから」
「そんな言い方はねぇだろ。こんなすごいものを見られる機会つくってくれてありがとう、ってなふうに気をきかせらんないの?」
「でも、これって違法でしょ。無断侵入なんだから」
「まぁ、そうだけど。だから二人で来たんだろうが。おい、誰か来たら教えろよ」
「え。あたし、見張り番?」
 まったく自分勝手なんだから。女性は小さくこぼすと、思いのほかすなおにあたりを警戒します。
 蜘蛛の巣状に罅入った硝子窓、すべりどめのはずれた中央階段、食虫植物のような粘り気をはらんだソファ、下品な落書きが全面にまぶされた開放されたままの扉。健康を呼びかける色褪せた張り紙や、からっぽの小さなアンプル、骨格標本のような輪郭の点滴架台、そういったわずかな痕跡がかつてここがそこそこ整った施設であることを示します。興の乗ったらしい彼女は使命を超えて建物の物色にあたりだしたので、元は受付であったらしい場所で佇むわたくしが発見されるのは時間の問題でした。
「あ」
 一度は大袈裟な身振りで胸をおさえましたが、わたくしがただの人形であると知ると、やはり芝居がかった仕草で息をゆっくりと吐き出しました。
「なーんだぁ。よく見ると、けっこうかわいいじゃない」
 彼女はわたくしに近づき、抱き上げると前髪をやさしくかきあげて、わたくしの貌をしげしげと眺めます。
「青い瞳だ。へー、めずらしい」
 あ、こういう唄があったなぁ、と繰り言ひとり。

   青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド

「あんたがアメリカ生まれでもセルロイドでもないのは分かってるけど」
 見かけによらず、もの、をいつくしむ性質なのか、彼氏に捨ておかれて退屈なのか、彼女は童謡をつづけます。歌詞をきちんと頭にいれているようで、戯れ唄ではありましたが、唄いぶりにあぶなっかしいところはありませんでした。

    日本の港へついたとき いっぱい涙を浮かべてた
   「私は言葉がわからない 迷子になったらなんとしょう」

 人形であるわたくしにはあたりまえながら呼気も吸気もなく、血液を循環させる器官も必要ではありません。ですから、ひとのいう『はっとする』や『どきりとする』といった心慮をただしく理解することはできないだろうと、それまで卑見しておりました。ですが、彼女がくちずさんだ節は、まるで神のくだした裁きのように、わたくしのがらんどうの真芯をつらぬきます。自然の摂理に反して魂をもったものへの罰だというように、無慈悲で苛烈な閃光です。逃れようのない。
『迷子になったらなんとしよう』
 ――‥‥どうしようもありません。迷い子はどこまでも彷徨いつづけるだけです、求める土地、あるいは人、を見つけだすまで。見つけられるまで。いつか聴かされた民話のひとつに、夫のいいつけを守らなかった報いとして11足の銅の靴をはきつぶすまで漂泊を課せられた女性がいましたが、彼女にはまだ目に見える尺度があたえられただけよかったのかもしれません。
 水をもたずに沙漠を横断する苦悶、刺草の敷き詰められた道を素足で渡る激痛、眼を陽射しで直に灼かれる白い闇――全部、なにかが違うような。それはすべて人の子の背負う業であり、たとえにつかっても意味がない。わたくしのなかにあるものは、わたくしだけのものです。
『あなたは‥‥』
「ん?」
 尋ねずにはおられませんでした。わたくしに示唆をあたえた女性に。
 わたくしの旅が遠い星の巡りのように、あてどないものであることを晒した女性に。
『あの人の居場所を、あなたは御存知なのでしょうか』
「きゃっ!」
 彼女はわたくしを放り出します、わたくしの体は宙にゆるやかな弧を描き、ですが最後は祝福をうけてふわりと地に降り立ちます。微粒の埃も、長年の塵も、わたくしをなにひとつけがすことはできません。あの方にふたたび出逢うときまで、わたくしはわたくしでなければならないのです、でなければ、あの方をこまらせてしまうでしょう。女性は突如の怪異に対し、瘧のように体をふるわせます。
「な、なんなのよ。これ」
『‥‥御存知ないのですね』
 それは、しかたがない。罪ではありません。
 罪があるとするならわたくしを故意に落とそうとしたことでしょうが、この方は、でも優しく髪をなでてくれました。唄を教えてくださいました。すべてを許しても物足りないくらいです。笑う、ことができたなら、わたくしはそうしていたでしょうが、残念なことにわたくしのかしらはそのようにできておりません。代わりに、塗料の瞳で彼女をひたすら見詰めます。
「‥‥あ」
 緊張からその場に縫い止められた女性は、次第に、表情をとかしてゆきます。たえまない戦慄は、陶酔の弛緩にとってかわられます。いつしか彼女は座り込んでしまいました、むきだしの膝にあやしげな泥をつけるのもかまわずに。なんとも顕しにくい貌が、一点の感情へと収束してゆきます。極限まで純化された、快。たったひとつの感情を手に入れた、赤ん坊の充足。
 どんどん、と廃墟には似つかわしくない噪音が、あちらの方角から直線にとどきます。
「おい、なんかあったのか?」
 異変を察したのでしょう、建物をさぐっていた男性が、戻ってこられました。女性の様子がおかしいことにはすぐさま気がつかれましたが、体の小さなわたくしは彼の視界におさめられなかったようです。女性の肩を左の腕でかかえて、右の手を頬にあてがいます。「なに惚けてんだよ」置き去りにした罪を悔い、歯を食いしばる男性。此方には訊かずともよいでしょう、わたくしは退去を決めました。
 けれども、たったひとつの伝言を託すぐらいならば。
『せめて‥‥やさしくしてあげてください』
 そこでようよう、男性はわたくしの存在に気がつきました。あ、と短く声を呑んだかとおもうと、だんだんと女性に似た顔つきになってゆきます。とろけるような、消えることを満足するような、わたくしにはあんな真似はできませんけれど。
 この場所に用件は残されていません。入ったときのように、わたくしはすべらかに去りました。
 瓦礫が一欠片、有刺鉄線の結界をやぶる音が、かすかにします。

 夜もだいぶ更けてまいりました。外では、雛罌粟が先程とおなじ角度で揺れています。月もおなじあかるさを保っています。どこからか、犬の遠吠えが聞こえます。こよりのように細い声です。それは雛罌粟ののびやかな茎と、ほどよく調和して、月をほしがる雛罌粟を高みにおしあげようとしています。
 おそらくもう、二度とここに来ることはないでしょう。予感ではない、確信でした。手懸かりのないところに、用事はないのです。しかし、わたくしは世界の広さに気がつきはじめていました。そのなかでたったひとりでくだけてゆく孤独の意味も、なにげなくつかみはじめていました。似たような特異点を、これから先、いくつもめぐることになるのでしょう。そのさきになにがあるかは知りません、けれども、あの方はきっとそのうちのどこかにおられる、と信じてゆかなければやってゆけません。
 その気持ちをなにかにたとえるとするなら、手折られて暗色の海に沈む赤い雛罌粟ひとつ、ゆらゆらと。

 ――‥‥十三夜の嫦娥を、不調法な叢雲が覆い始めておりました。


※ ライターより
 納品がおそくなってしまい、申し訳ございません。‥‥このことばの呪いから解き放たれるのはいつなんだろう。
 一人称でもよろしいということでしたので、おことばに甘えて全編一人称で書かせていただきました。わーい、OMCで初です(嬉) イメージがくずれてなければ、という思いではらはらですが。いちおう以前のシチュノベの続きのつもりなんですが‥‥そのあがきがちらっと出てきたイヌあたりだったりします。す、すいません。雰囲気をたもてなくって。