コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


POWERS


「――きろよ、武――」

 目覚めよ、と彼を呼ばわる声がする。
 物見の声ではなく、苫地武史の友人のものであるようだった。
 だが、肝心の名前がわからない。もしかすると、忘れているだけなのかもしれない。それでも――わからない、ということはかわりない。
 ――どうしてだろう。でも、とても大切な人間だったはずだ。少なくとも、僕はそう思ってた……。今でも、そう思ってる。

「起きろって、武史!」
「わっ!」
 ばさり、と武史の頭を引っぱたいたのは、あまり厚くはない哲学のテキストと、あまり駆使されていないバインダーノートだった。
「お前が寝るなんて珍しいな」
「あっ……いえ、あれっ……」
「センセー、お前睨んでたぞ。オレが睨み返しときゃよかったな」
 笑う友人の横で、武史は教壇を見やった。黒板に書き殴られている白文字をみとめて、慌てて自分が枕にしていたノートをあらためる。板書のほとんどは、ノート上になかった。教授のありがたい講義内容もだ。
「ほら」
 笑いながら、友人はルーズリーフを2枚差し出す。あまり綺麗とは言えない字で、板書と講義内容が書き連ねられていた。
「いつもなら逆なのにな」
 講堂にはすでに、武史とその友人の二人くらいしか残っていなかった。
 気だるい昼下がりの日差しが、窓側の席を照らしている。そんな日当たりのいい席で、寝ている学生がひとりいた。彼には、起こしてくれる人間がいなかったのだろうか。
「水曜日って、4校目入れてたか?」
「いえ……これで終わりです」
 武史はようやくまともに口を利いた。
「じゃ、帰ろうや」
 彼はスポーツバッグを担ぐと、一足先に講堂を出た。
 武史は迷ったが、結局、窓際の席で寝ている学生を揺り起こしてから、友人に続いた。

 やはり、名前がわからない。
 素性も、自分がいま何をしているのかさえも、靄がかかったかのように曖昧だ。誰かが韜晦しているような気もする。奇妙な視線も感じる。
 武史の横を歩く友人は、武史がいますべてに抱いている違和感や疑問を、何も感じ取ってはいないようだった。
 ――そうだ、ちょっと鈍感なひとだったから。
「なんつうか、今年は空梅雨? だったっけ? ほんと雨降らねぇよなあ。やっぱ梅雨がスカーッと明けてからでないと、なんか夏が来た! って感じしなくねぇ?」
「ええまあ、でも……梅雨は、そんなにいいものでもないでしょう?」
「んー、まぁ、好きなやつなんていねぇけど」
「夏……似合いますよね」
「オレに?」
「はい」
「何だそりゃ」
 友人が、逃げるように空を見た。
 毛糸玉の糸口をようやく見つけた気分だ。武史は微笑んだ。するすると戻ってくる記憶がある。主にこの友人が言っていたことばかりだが、何もわからずに歩くよりはずっとましだ。こうして、友人の反応を楽しむことも出来る。
「……あれ、すげぇな。なんか、天国って感じだ」
 見れば、西の空には分厚い雲からたちこめ始めていたが、その切れ間から光の筋がいくつも飛び出していた。友人はそれに見とれていた。
「『天使の梯子』ですよ」
「へえ、名前なんかついてんだ」
「きれいなんですけど、あれが現れると天気が悪くなるそうですよ」
「梅雨らしくなるんだな」
「たぶん」
 天使の梯子は次第に細く薄くなり、西の空は完全に雲で覆われた。それでも、まだ空は晴れているといえるだろう。空の青さはそのままで、ただ武史とその友人が歩く道が、少しだけ薄暗いのだった。

「苫地――武史」

 彼は、天使の梯子を使って降りてきたのだろうか。
 光り輝くようなのか、闇に包まれているのか、よくわからなかった。
 気づけば、ふたりの学生は何かに突き飛ばされ、河川敷の雑草群の中に転がっていた。
「何だてめぇ、この野郎! 何すんだ!」
 武史の友人は臆することなく、がっと上体を起こして、獣のように吼えた。男は、わずかに首を傾げたようだった。
 ――だめだ――くん。そいつに、手を出しちゃ――
 根拠を思い出せない。
 というより、あの男が今から何をするつもりなのか、何故自分はわかるのか――武史にはそれすらもわからない。擦り剥いてしまった左手を伸ばして、武史は友人のシャツを掴み、とめようとした。
「この、何か言ったらどうなんだよ!」
「使いだ」
「あァ?!」
「主の、使いだ」
 かおかたちすら杳として知れない――いや、武史が思い出せないだけなのかもしれない――男が、虚空からずるりと得物を抜いた。
 怒りを剥き出しにしていた友人も、呆気に取られて一歩退いた。
 『使いのもの』が抜いたのは、刃渡り七尺の長刀だった。
「な……てめ、そんなもの……」
「苫地……武史。おまえは、この地上の歪みだ。堕ちたものに魅入られしものよ――禍を呼び起こすまえに、滅ぼしてくれる」
 男は、はっきりと武史を見つめ、武史の名前を呼び、武史自身が知らない罪を申し渡した。男は、未だに雑草群の中に腹ばいになったまま硬直している武史に、ゆっくりと近づいた。
「武史! 逃げろ!!」
 その声に、武史ははっとし、立ち上がった。友人が男に飛びかかったのだ。虚を突かれたか、男はまともに体当たりを食らってよろめいた。
 武史は――逃げられなかった。
 男の、燃え上がる光の目に射抜かれた気がしたのだ。
 男が、武史の友人を突き飛ばした。木っ端のように吹き飛んだ青年は、再び河川敷の雑草の中に埋もれたが、すぐさま猛然と立ち上がった。
「馬ッ鹿野郎、何してんだ! 早く逃げろ、武史!!」
 友人はまず己のスポーツバッグを男に投げつけたあと、草むらに落ちていた錆びた鉄パイプでもって、男に立ち向かった。
 男が、ぎらりと武史から視線を移した。
「われに、武器を向けるか」
 七尺の長刀が、ちゅん、と横薙ぎに振られた。
「さすれば、おまえもつみびとと成るのだぞ」
 友人が持っていた鉄パイプの長さが、一瞬で半分になった。切られた先がアスファルトに落ち、間の抜けた音を立てる――
 友人の顔に、呆然とした覚悟が宿った。
 男が、目に見える速度で長刀を振りかぶる。
「――!!」
 ようやく、武史の身体が動いた。
 思い出せない名前を叫びながら、武史の友人が望んだ方向とは、まったく間逆の方向へ。


「――きなさい、苫地……武――」


 目覚めよ、と彼を呼ばわる声がする。
 ノートを濡らすものは涎ではなく、涙であるようだった。
「起きなさい、苫地武史くん!」
「わっ!」
 ばさり、と武史の頭を引っぱたいたのは、あまり厚くはない倫理学のテキストだ。見上げれば、呆れたような表情の教授がいた。
「もう講義は終わったよ」
 その声に、チャイムが重なる。この教授の講義は、大概チャイムが鳴る直前に終わるのだ。周りでは、テキストを鞄にしまい、ぱたぱたと席を立つ音がする。
「あっ……す、すみませんでした」
「きみが寝るとは、珍しいな」
「あの、いや……本当にすみません……」
 武史はいそいそとノートやテキストをしまい、席を立った。
 思わず、自分の胸を確かめながら。

 もちろんその胸を貫く刀など、そこにはない。

 そして自分を起こしてくれた友人、自分の亡骸を抱いて泣き叫んだあの友人の姿も、その名前もだ。あれがいつ起きた出来事で、それともこれから起こる未来のことなのか、それを教えてくれる天使の囁きもない。
「なんて……なんて夢だろう……」
 目頭がわけもなく熱くなって、胸に痛みがこみ上げてくるのを感じながら、武史はその場に立ち尽くしていた。

 天使の梯子に見とれている男子学生がひとり、窓際の座席に座っていた。




<了>