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<東京怪談ノベル(シングル)>


白狼夜

【縁樹】

 僕は、どこから来て、どこへと向かっているのだろう?
 気が付いたら、ここにいた。
 今の姿で。今の想いで。
 不思議なことに、不安を感じたことはない。右も左もわからない、真白な景色のただ中に、ぽつりと一人、放り出されているようなものなのに……。
 目的もなく。夢もなく。
 だけど、代わりに、自由がある。誰にも憚らない。何にも囚われない。僕は僕として、確かに、ここに、在り続ける。
 証明は、要らない。保険証とか、戸籍とか、免許証とか、自分を表す手段は、今の世の中、たくさんたくさんあるけれど…………それが、生きていくのに絶対に必要なものではないと、僕は、ちゃんと、知っているから…………何も、要らない。
 
「そうでしょう?」

 肩の上の、小さな相棒に、語りかける。
 
「そうかなぁ?」

 少し生意気な返答も、慣れてしまえば、可愛いもの。
 何事も素直に認めたがらない性格だって、知り尽くしている。
 彼こそが、僕の、証。
 ずっと、たぶん、気が遠くなるくらい長い時を……一緒にいた。
 僕たちだけの歴史を語ったら、止めどなく、キリがないほどに。

「草間のばかの顔でも拝みに行こうか〜!」

 結構世話になっているくせに、無礼なことこの上ない人形に一睨みをくれてやると、僕たちは、既に馴染みになりつつある興信所へと、足を運んだのだった。





【銀の弾丸】

 興信所は、留守だった。
 いつも、草間か義妹か、あるいはもっと別の誰かが、うようよといるはずなのに。
 ドアに鍵はなく、開けっ放しの窓では、はたはたと、カーテンが風に棚引いている。
 気配は、残っていた。ついさっきまで、人がいたのだ。テーブルの上には、カップが二つ並んでいる。灰皿の中の吸いかけの煙草が、少しずつ、少しずつ、その寿命を、主がいないにもかかわらず、律儀に削り続けていた。
「どこ……行ったのでしょう?」
 数歩歩くと、何か固いものが、爪先に触れた。床の上を転がる、銀白色に輝く「それ」は…………弾丸。
 銀の、銃弾。
「何ですか……これ」
 一つではない。テーブルの上を中心に、幾つも幾つも転がっている。相棒と二人、縁樹は急いでそれを拾い集める。
 銃弾は、五発あった。その全てが、ホローポイント弾だった。ダムダム弾の名称でも知られるこの恐るべき弾丸は、より高い殺傷力を追い求めて開発された凶器であり、その目的は、ただ「殺人」を完璧に達成させるための、醜くも卑しい手段でしかない。
 ホローポイント弾は、貫通しない。体内で破裂し、内に留まり、より高い損傷を与える。

「どうして、こんな、物が……」

 背中に、ふと、強い視線を感じた。
 誰かが見ている。じっと、息を詰めるようにして。隠しきれない殺気が、濃密な風となって、吹き付けてくる。血生臭い、と、縁樹は思った。絡みつく悪意。あるいは、狂気か。
 縁樹は、ゆっくりと、振り返る。
 本能で、危険を察知した。ほんのわずかな動作すらも、致命的な刺激になり得る。肌の裏側を、ザラザラした舌で舐められているような、何とも嫌な感触がした。血生臭い風の中に、不意に、低い唸り声を耳にした。

「白狼……」

 開け放しのベランダに、巨大な影が浮かび上がる。月明かりに彩られた、純白の獣。紅玉随の双眸が、じっと縁樹を見つめていた。棚引く鬣の一筋だけが、光沢のある銀だった。光の粉を弾いているみたいだと…………そう、思った。

「おおかみ……?」

 堂々たる体躯は、虎をも軽く上回る。こんな狼が、いるはずがない。優美にして、残忍な、孤高の獣。狼が、すっと一歩を踏み出した。明らかな敵意を剥き出しにして、縁樹に迫る。

「縁樹!!」

 相棒の声が、縁樹の中から、躊躇いを奪い去る。
 愛用のコルトを漆黒の上衣より引き抜き、無慈悲にして精密な一撃を放つまでが、奇跡にも似た秘技だった。
 弾丸は、狙いと寸分違わず、獣の眉間を貫いた…………貫いた、はずだった。が、狼は、煩わしそうに、ぶるりと首を振っただけだった。続けざまに撃った銃弾が、全て致命傷の位置に当たったにもかかわらず、獣は、傷一つ、無かった。
「そんな!」
「縁樹! 来る!!」
 獣が、跳躍した。相棒が、咄嗟に牽制のナイフを放ったが、そもそも銃弾を受け付けぬ相手に、これはどう考えても役不足だ。
 縁樹は相棒を力いっぱい壁際に投げつけ避難させると、自分はまともに真正面から獣を受け止めた。獣の真下に滑り込み、襲いかかってきた相手の反動を利用して、渾身の力で蹴り上げる。
 狼が、悲鳴を上げた。脆弱な人間という生き物に、まさかこれほどの反撃を食らうとは、夢にも思っていなかったのだろう。怯んだ獣の隙を、そして、見逃す相棒ではなかった。ナイフが、深紅の双眸の片方を、鋭く抉った。
「縁樹!」
「避けて! 危ない!!」
 獣が、一声咆吼し、身を翻す。巨体が、ベランダの窓の外に、あっと言う間に消えた。何も言わずとも、縁樹の肩に、相棒が飛び乗る。追う気だった。獣を、野放しにしてはおけない。

 あれは、血の臭いがした。

 そして、唐突に消えてしまったような、草間たち。落ちていた、銀の弾丸。
 何かが、おかしい。
 縁樹の中で、恐怖にも似た焦燥が、沸き上がる。
 何が起きた?
 何が起きている?
 真白な獣を追いつめるしか、謎は、解けない。
 縁樹が、獣と同じく、ベランダ窓から身を翻す。夜気の中に、ほっそりとした人影が、ふわりと舞った。全身を耳にして、獣の行方を、探る。遠く、遠く、悲しげな声が、幾重にも響いた。
 哭いているのか。
 悔いて、いるのか……。
「白い獣…………どんな理由があろうと、草間さんたちに手を出したのだとしたら……」
 撃ち尽くしてしまった自前の弾の代わりに、手に入れたばかりの銀の弾丸を、装填する。
 狼に、銀の弾。
 まるで、全てが、誂えた舞台のようだ。縁樹は、一人苦笑する。相棒が、殊更に大きな声で、叫んだ。

「縁樹……! あそこ!!」

 これといって目印もない、ただ広いだけの原に、女が、いた。
 真っ白な、鬣のような長い髪。深紅の双眸。ただし、片方の瞳は、何かに抉られ、既にその機能を放棄してしまっている。顔の半分を真っ赤に染めながら、女は、なおも走り続けた。縁樹に気付き、立ち止まる。端から見て、一目でそうとわかるほど、激しく全身が震えていた。
「怯えているの?」
 縁樹が、女に語りかける。
 我が儘を言う幼い子供のように、女は、いやいやと首を振った。

「……来ないで!! これ以上は……無理よ……私…………私、もう、人ではいられない……!」

 自身が流す血の臭いさえ、甘く薫って、心を狂わせる。
 まして、他人が流す血は、どれほどの快楽をもたらしてくれるのだろう?
 自分は人間だと、獣ではないと、何度も何度も、言い聞かせた。
 だけど、それにも増して、畜生の本能が、強く、囁きかけてくる。

 無理だよ。諦めなよ。
 お前は、獣だ。人狼だ。人に、なれるはずがない。
 殺戮こそが、喜び。獰猛な殲滅者……!

「だ、だから、草間さんに、頼んだの……私を殺すことの出来る、銀の弾丸を、預けたの……!!」

 五発の弾丸全てを埋め込めば、人狼とても、命を絶てる。
 本能のままに人を殺してしまうよりは、その方が、いい。
 意を決して、草間に託したのに、探偵は、それを拒否した。俺では決められないから、俺の信頼できる友人に任せると、そう言い残して…………徐々に「獣」に浸食されて行く彼女を一人残して、逃げるように、出て行ったのだ。

「僕に、代わりを、努めろということ……?」

 ずるいでしょう……草間さん。
 苦々しげに、縁樹は、笑う。
 そんな役回り、僕だって、御免です。

 だが、縁樹の見ている前で、変化は唐突に訪れる。女の細い体の節々が、みしみしと音を立てて、歪んだ。三倍にも膨れ上がった巨躯の上を、ざあっと純白の毛が覆って行く。
 嫌、と、彼女が叫んだ。仰け反った喉から迸り出た甲高い悲鳴は、やがて、低い唸り声に変じた。赤い双眸の傷は、癒えていた。人の姿の時にはあった理性が、跡形もなく消し飛んだ濁った瞳を、爛々と輝かせて、獣が、跳ねた。
 縁樹の想像を遙かに超えた、凄まじい跳躍だった。
「…………っ!!」
 手加減をしたら、こちらが、殺られる!
 銀の弾丸の一発目が、火を噴いた。持ち前の鉛玉は弾いてしまった強靱な皮膚にも、銀の弾は、易々と食い込んだ。だが、白狼は、まだ倒れない。それどころか、一発程度では、ほとんど堪えていないようだった。痛みはあるが、それすらも、怒りと狂気が凌駕してしまう。
 手負いの獣、だった。
 この世界で、最も危険な存在……!
「この…………っ!」
 


 私は、もう、獣になりたくないの……。



 四発目まで撃ち込んで、初めて、獣の生命力に、翳りが見えた。
 全身を朱に染めた白狼に、寂しげに微笑んでいた女の影が、交錯する。
 五発目を撃ち込めば、全てが終わるのだ。さっさとそれをすれば良いのに……この期に及んで、縁樹は、未だ、迷っていた。
 最後の弾丸。
 これで、終わる。
 人でいたいと望んだ、彼女の言葉そのままに。
 引き金を引くことこそ、きっと、正しい選択なのだろう。

「縁樹……縁樹。撃つのか?」
「…………撃た、ないと」
「だけど、縁樹」
「撃たないと、終われないでしょう……っ!」

 獣が、不意に、その場に座った。
 まるで、主に付き従う従順な犬のように、大人しく、最後の瞬間を、待つ。
 細い声で、一声、哭いた。
 獣の言葉など、縁樹はむろん知りようもないが……何故か、わかった。

「終わらせて……」

 目を瞑り、縁樹は、引いた。引き金を。
 弾は、発射されなかった。
 五発目は、空砲だった。
 まるで、何かの意思が働いたように……五発目の弾丸だけが、弾倉の六番目に装填されていたのだ。

「死ぬな、って、いうこと……?」

 縁樹が、銃口を降ろす。最後の弾丸を取り出すと、足下に、落とした。
 獣が、のろのろと立ち上がる。無防備に背を向けて、歩き始めた。立ち去る後ろ姿に、縁樹は、声をかけずには、いられなかった。

「どこへ、行くのですか?」
「さぁ……」
「どこから…………来たのですか?」
「知らない」

 この血が、何処から来たのか。
 この血が、何処へ向かうのか。

 獣自身も知らないし、縁樹も、答えられるはずが、無いけれど……。

「五発目が発射されなかったのは、奇跡みたいな、確率だから……」





【草間】

「嫌な役回り、させたな」
 戻ってきた興信所には、草間がいた。二つ分のカップを、不器用な手つきで、片付けているところだった。
「いきなりは、きついですよ。せめて、事前に、伝えておいてくれないと」
「あいつ…………死んだのか?」
「いいえ。生きています。……たぶん、誰よりも、懸命に」
「そうか……」
「草間さん。草間さんは、彼女を、獣だと思いますか?」
「…………獣、だろう。あいつは、あの姿で、既に五人を食い殺しているんだ……」
「そうですか……」

 でもね、草間さん。

 縁樹は、誰にも聞こえない心の声で、ひっそりと呟く。

「獣の性を持たない人間なんて、いないって、そうは、思いませんか……?」

 だったら、彼女も、特別な存在などでは、決してない。
 獣は、全ての人の中に、潜んでいるのだ。
 それが、目に見えるか、見えないか、ただ、それだけの話で……。





【約束】

 純粋故に苦しんだ、真白な獣に伝えたい。
 いつでも来て。
 僕の元に。

 最後の弾丸は、名すら聞かなかった貴女との、約束。
 人でいれなくなったその瞬間に、僕が、必ず、努めを果たそう。

 だから、安心して、行って来て。
 好きな場所に。
 望むままに。

 僕は、変わらず、ここにいるから……。