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月と桜と黒と黒
それは、少しばかり昔の話だ。
夜の闇よりも、更に黒い人影。
残像のように駆ける影は人ではなく獣だった。
黒い毛並みをした人狼。
名は醍醐守恒と言う。
人通りのない路地で走り、追い詰めるのは人に害をなした妖。
この土地、大阪にて駆除して欲しいと依頼を受けたのだ。
仕事を始めてしばしの時間が経過する。
数匹を屠り、次が最後。
鋭い視線を向けた直後、勝てないと悟り逃げ出した妖を守恒が跳躍し後を追う。
壁を蹴り、地を駆ける音はさして気にとめられる事もなく消えていった。
失踪する影と影。
ビルや路地の間を駆け抜け、ギリギリまで追い詰めた妖が最後の抵抗だとばかりに襲いかかってくる。
それを僅かに体を逸らすだけでかわし、鋭い爪を突き立て切り裂いた。
それは、一瞬の出来事。
悲鳴すら残さずかき消える姿。
これでこの辺りで、謎とされていた傷害事件は起こる事もないだろう。
静まりかえった路地で軽く息を整え上を見上げる。
今日はとても調子が良かった。
空に浮かぶ満月が、彼に力を与えてくれる。
だが、決してそれだけの物ではない。
「………いい月だ」
淡く輝く月の光を見上げながら、守恒は呟いた。
月を見上げていたのは、もう一人。
夜の闇に紛れても、艶のある黒髪と黒く輝く瞳。
通りすがれば思わず見とれてしまいそうな容姿をした少女が、真っ直ぐに月を見上げているその姿はいっそ幻想的であったかも知れない。
だが……。
「どこやの、ここ……?」
あからさまな大阪弁。
違和感を感じるかも知れないが、当然だろう。
ここは大阪なのだから。
真実とはいつだってこう言うものだ。
更に説明するならば、彼女は桜木紀紗という名前のいたって普通の少女である。
受験直前の学生という身分で忙しい時にありながら、道に迷っている最中なのだ。
塾の初日。
夕方は明るかったから道を覚えていたのだが、それは覚えていたつもりでしかなかったらしい。
家路につくために塾を出たら外は真っ暗であり、外の景色はかなり見分けにくい物になっていた。
道という物は一度迷い始めたら、現在地が解らなくなり更に迷ってしまう物である。
「本当、どないしよ……」
ため息を付いてから、自転車にまたがりペダルをこぐ。
さっきから似た様な景色ばかりが続いている。
同じ所を回っている可能性もあるが、偶に見た事がない物を見かける事もあるから質が悪い。
見た事があるようなマンションは、名前が微妙に違うような気もする。
疑い始めたらキリがないのと言うのに、それでも出来る限りは今通った道や建物を覚えつつ行ったり来たりを繰り返しながら進んでいるため、進む速度はそう速くない。
「あれは見たような気が……ああ、でも無いような気も……」
そうしているうちに更に時間が立ってしまう。
必然的に少なくなる人通り。
誰かに道を聞こうか考えていたのだが、どんどん路地裏へと進んでしまい、見かける人影は声がかけずらそうな人ばかりになっている。
次にあったら声をかけようと決めた直後に見た人は……黒塗りベンツから降りてくる男。
「あかん……絶対あかん」
何でこんな事にと思いつつ、僅かに視線が合ってしまい。睨まれた紀紗はその場からわき目もふらずに自転車をこぎ走り去った。
お陰で更に状況が悪化する。
「もっと解らへん様になってもうた……」
さっきの所から移動できたのはいいが、周り全てが見た事のない風景だ。
「あかん、どないしよう」
電話で迎えに来てもらおうにも、こう言う時に限って電話すら見つからないものである。
今頃家族が心配しているかも知れない。
それで何かあった場合、新聞に載ってしまうのだ。
三面記事辺りに書かれる失踪の文字。
「………」
不意に思い出してしまった謎の事件の事も急に怖くなってきた。
近頃は物騒な傷害事件があるらしいから、その犠牲者かも知れないと疑われた場合はニュースで流れる場合すらある。
新たな犠牲者?
そんな見出しの後に、桜木紀紗(中3)と書かれたり、色々な推測が飛び交ったりするのだ。
「……絶対に嫌や」
運動神経には自信があったが、それで何とかなるだろうか。
早くなり始めた心臓の音がとても騒がしい。
深呼吸をして息を整えてから、今度は人の気配がする法に向かって自転車をこぎ始めた。
誰でもいい。
今度こそ……犯人と思えるような人物でなければ、声をかけよう。
人に会いさえすればいいのだ。
そう思考を切り替え、今度は建物を見ずに下に注意しながら直感だけで走っていく。
転々とある街灯と、自転車のライトだけが頼りだ。
暗闇を走り抜ける内に、次第に近くなる人の気配や車の音。
「よかった……」
安心しかけた余裕からか、周りを見る余裕がも出来てくる。
街灯と月明かりに照らされた桜の木。
時期遅れの桜は今まさに散りきろうとして、地面を淡い桜色に染めるほどに降りそそいでいた。
「きれ……」
もうすぐ表通りに出る事が出来るのだから、少しだけならいいだろう。
自転車を止め、かごから鞄を取り出し桜の木の下へと駆け寄った。
近づけばハラハラと舞い散る花びらに、うっすらと視界が桜色に染まる。
ドキリとさせられた事があったばかりなだけに、安心出来る瞬間だった。
宵闇に浮き出る桜の木はとても綺麗で、出来る事なら誰かに教えたいほどだったが、ここに連れてくるまでに散ってしまうかも知れないし、昼間だと見え方が違ってきてしまうかも知れない。
写真を持ってない事を惜しくも思ったが、そう言う残し方もどこかもったいない気がした。
サワと髪を撫でる風に大通りからは反対の、人気のない道から感じる気配。
「……?」
それが気になったのはどうしてだったかは解らなかった。
ほんの少し、桜か月に迷わされたのかも知れない。
のぞき込んだ路地裏。
「――――……」
月明かりに照らされた人影に言葉を失う。
夜の闇よりも暗い、漆黒の毛並み。
人の物とは異なる構造の……動物のような耳。
あれは火の姿をした、狼だ。
月を見上げている鋭そうな目は、ほんの少しだけ柔らかく変化しゆっくりと閉じられる。
深呼吸を一度。
その瞬間から、獣から人へと変化していく。
鋭い牙を持つ口肌を覆う黒い毛並みが消えていった。
映画やドラマの中でしか起こりえ無い光景が、今確かに紀紗の目の前で繰り広げられているのである。
不思議と叫ぶという考えには至らなかった。僅か数分前まで思考を満たしていた傷害事件の犯人と言う予想も頭を過ぎったが、そうではないと言う考えの方が強かった。
偶然そこにいた、別の何か。
予想を超えた出来事というのは、思考を停止させるらしい。
口を開けずにいた間に、獣は完全に人の姿へと変化する。
黒い狼は、人の姿に戻っても黒いままだった。
髪だけではなく、スーツにYシャツ、靴までもが黒で揃えられている。
僅かに乱れた髪をかき上げた男が、振り返って紀紗を見た瞬間。
ザァ……!
一際強く吹き抜けた風が、足下の桜を舞い上がらせた。
「―――っ!」
視界一杯に覆い尽くされる桜の目隠しに目を閉じ、乱れた髪を押さえる。
風が止み、次に目蓋を開いた時には誰も居ない。
「……え?」
咄嗟に人影を捜すも、辺りを満たすのは穏やかな沈黙。
「今の……」
まるで夢を見ていたようだ。
残像のように記憶に焼き付いた出来事を必死で思い出そうとするが……振り返った顔は思い出せなかった。
「ああ、でも……」
瞳は黒だったかも知れない。
顔は……やっぱり良く思い出せない。
今となっては確かめる術もなかった。
鮮明な、残像のような出来事。
マンションの屋上から、少女の姿を静かに見つめていた。
暫くあたりを見渡していたその少女は大分困惑していたようだったが、誰も居ない事が解ると諦めたように自転車を漕いでその場を立ち去る。
「………」
あれほど近くまで来て気付かなかったのは珍しい出来事であったが故に、しばらくは記憶に残る事になるだろう。
守恒は少女の姿が見え無くなるまで見届けてから、慣れた動作で取りだしたサングラスをかけ背を向けた。
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