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楽園<パラダイス>の針 〜追憶の天使〜
●章前
鏡に映ったその人の面影は、
ひっそりと識域下に沈んだ遠い記憶の眠りを揺らす――。
誰ダッタカナ?
――思イ出セナイ‥
でも、きっと知っている人。
だって、心がこんなにざわめく‥‥
会イタイ人?
――ソレトモ、待ッテイタ人‥?
ああ、誰だっけ‥
もどかしくて、切なくて
覗き込んだ鏡面に映っているのは、
少し気難しげに眉を顰めた自分の眸。
●優しい悪魔
‥‥ずる‥
動かぬ足を半ば引きずるようにして、彼女は歩く。
ロクに世話もされぬまま放置された生き物のすえた匂いは申し訳程度に付けられた通気穴のキャパシティを遥かに越えて壁に染み付き、部屋全体が凄まじい異臭を放っていた。――もはや誰も好んで近づこうとしないその部屋は、地獄に最も近い場所。あるいは、地獄よりも凄惨な場所であったかもしれない。
ずらりと並べられたケージをひとつひとつ覗き込み、小さな声で言葉をかける。銀鈴を振るような耳当たりの良い優しい声は、彼女が唯一、取り上げられなかったものだ。
その声に、正気を繋ぐ。
明日かけられる言葉を待って、今日をどうにか生き延びる。――もうずっと、こんな時間が続いていた。
ずるり、ずるり‥と。重い身体を引きずって、気配が近づく。足取りがいつもより鈍いのは、自らも深い傷を負っているせいだ。
「‥‥‥みあお‥ちゃん‥‥」
いたわりを込めた優しい声に、みあおはのろのろと瞼を開ける。熱があるのか、衰えた体はひどくかいだるい。視線を上げると、ケージ越しに心配気に覗き込む赤錆色の双眸と視線があった。
禍々しい色を湛えたふたつの瞳は、みあおと目が合うとほんの少し安堵を浮かべてふうわりと微笑む。――彼女自身、本当は他を気遣う余裕などないはずなのに。
細い鉄格子の隙間から伸ばされた手。黒く滑らかな革の光沢を帯びた硬い皮膚と、赤黒い血の色を想わせる凶悪な爪。人ならざる異形の姿を怖いと思う心もとおに凍て付き、差し伸べられた優しさに触れたくて手を伸ばした。傷口に張り付いた瘡蓋のような乾いた皮膚は、はっとするほど冷たくて‥。
わずかに触れ合った指先にじわりと広がる温もりに安堵する。
「‥‥大‥丈夫‥?」
辛いのはどちらも同じ。‥‥否、彼女の方が過酷な運命を背負わされているのかもしれない。
他人をいたわり、思いやる心を持っているから。
彼女の華奢な身体を切り刻み、異形の姿へと作り変えた白衣の悪魔たち。――その悪意の業を持ってしても、聖なる天使を闇に染めることはできないでいた。
「‥‥お水‥‥」
熱のせいか、薬のせいか。乾いた喉からようやくしぼりだした声とは呼べないその音に、彼女は頷く。眸を同じ鈍い赤褐色の髪の間から突き出す、醜く捻じ曲がった角がちらりと視界に入った。薄い皮膜に覆われた蝙蝠のような羽、尖った尻尾。見る度に、その姿は闇に生きる魔物に近づいていく。
――誰よりも暖かく穏やかな心は、そのままに‥‥。
「‥ちょっとだけ‥‥待ってて‥ね‥‥」
‥‥ずる‥、と。癒えぬ身体を引きずって部屋を出て行く異形の後姿を見送り、みあおはゆっくりと重たい瞼を閉じた。
胸の底にぽつりと灯を灯したように、ほんの少しだけ幸せが湧く。――ずらりと並べられたゲージの中で、被験者<モルモット>たちは彼女の温もりに心を満たし、束の間、安らかな夢にまどろむのだ。
●天使の消息
予感にも似た胸騒ぎに、目が覚めた。
夜の静謐に満たされた子供部屋のベッドの上で、海原・みあお(うなばら・−)は暗い天井を見上げる。
昔々の夢を見ていた。
この家にもらわれてくる前の、狂った科学者に実験動物として飼われていた頃の夢。――悪夢のような現実と、たったひとりの親友。
悪魔の姿と天使の心を持った少女は、今、何処にいるのだろう。
暗がりに吐息をひとつ。喉の渇きを自覚して、みあおは傍らにかけられたカーディガンを肩に羽織ると部屋を出た。
薄暗い闇に沈むよう途切れた廊下に、零れた光が細い縞模様を描く。
おとうさんの書斎。まだ、起きているのだろうか。――とても忙しい人だと知っていたけど。
いつもなら、通り過ぎるその部屋を覗いてみたのは、ほんの気紛れ。革張りの椅子に腰掛けたおとうさんは、扉に背を向け電話の向こうの誰かと話をしていた。
「――そうか‥」
ぼそぼそと押し殺した低い声。どことなく周囲に憚っているように声を潜めた話し方は、いつものおとうさんではないようで‥‥。
「‥‥あるいは‥その方が、良いかもしれないな。――あの子が生きていける場所は、この街にはないだろうから‥」
この街‥‥否、世界中のどこを捜しても。
おとうさんの声には、どこか痛々しい響きがあった。
あの子って、だあれ?
もしかして、みあおのコトかな‥‥違うよね。
だって、みあおは幸せだもの。
お金持ちのおとうさんと、優しいおかあさんに大事にされて。
名門と呼ばれる学校に通っていて。
素敵なお友達もたくさんいるもの‥‥。
怖いことも、悲しいことも知らない。
だから、みあおはとても幸せな子、なんだよ‥ね‥‥?
間接照明のぼんやりした光の中で、誰かと話すおとうさん。
手にした万年筆が重厚な机の天板を叩く、こつこつと乾いた音が天井に滞る薄暗い闇に静かに響いた。
「‥‥わかった‥」
こつり、と。机を叩く音が途切れる。
「‥明後日、×××で‥‥」
反芻するように小声で呟きながら、おとうさんはそれを手近なメモ用紙に書き止める。囁くような小さな声がどうして、みあおの耳に届いたのか。するりと滑り込んできた音は、確かに胸の底に収まった。
訪れたこともないその場所が、何故だかひどく懐かしい。
誰かがみあおを呼んでいる。――この街から本当にいなくなってしまうその前に。そんな、気がした。
●邂逅
郊外の閑静な住宅街。
高い塀と広い敷地を有する大きな家が互いのプライバシーを守りながら並ぶその街は、午さがりの穏やかな5月の陽光に抱かれ、のんびりとまどろんでいた。
小学生のみあおにとって、耳覚えた住所を頼りにここを探し当てるのは思いがけず困難で。手に汗握る大冒険の末、ようやく辿りついたのは、おとうさんが電話の相手に約束していた時間とほぼ同じ頃。
鬱蒼と枝葉を広げる広葉樹と高い塀。
重厚な鉄の門は来訪者を拒むかのように硬く閉ざされ、みあおの前に塞がる。呼び鈴に応える者はなく、焦燥だけが刻々と膨らんで‥‥。
おとうさんの隠し事。
訊ねれば、おとうさんは真実を教えてくれただろうか。――目の前の全てが消えてしまうような漠然とした不安が、口を塞いだ。知らないままでいる方が、きっと安らかでいられるのだろう。それでも、胸騒ぎの答えが知りたくて。
当ても無く閉ざされた門の前をうろうろしていると、スモークで目隠しした車が2台、屋敷の前に横付けされた。慌てて近くの電信柱の影に姿を隠す。
先導するのは見覚えのない大型の外国車。その後に続く黒塗りのセダンは、おとうさんの車だった。
数秒後、重たげな金属音を響かせて、ゆっくりと門が開く。
奥へと続く車道<くるまみち>へと連なって入っていく車列を見送り、みあおも急いで軋みながら閉まる扉の脇をすり抜けた。
木立を迂回するように敷かれた、ゆるやかな坂道を走る。
戦前に建てられたかのような厳しい石作りの古い洋館。建物までのほんの数十mが、みあおの足にはとても遠くて‥‥。
車は2台とも玄関ポーチに止められ、数人の大人が忙しく出入りを繰り返していた。大きな旅行鞄がふたつ、運び出されて車へと積み込まれる。
おとうさんは少し離れた場所で、みあおの知らない女の人と話をしていた。
「‥‥あちらの用意は‥?」
「‥問題なく‥‥‥では、あの子の‥‥でも‥‥‥は‥‥です‥から‥‥」
途切れ途切れに、会話が聞こえる。
しばらくそうして言葉を交わし、やがて荷物が積み終わるのを見届けて女の人は建物の中へと入っていった。おとうさんは、少し顔をしかめたまま、その場所を動かずに。――家にいる時は見たことのない、厳しい顔に胸がざわめく。
やがて、女の人に手を引かれて建物の中から姿を現したのは‥‥
目深に被った帽子の下の、血を想わせる錆びた赤褐色の髪。
服の合わせ目、手首や首に見えるのは、なめした皮のように硬く黒光りする皮膚。凶器にも見える長い爪。
薄い皮膜に覆われた、蝙蝠のような禍々しい羽――
大きく見開いた瞳に映る異形の姿は、寸分違わずあの日のまま。
逢いたくて、恋しくて。ずっと、心の底で求め捜し続けていたあの子が、今、みあおの目の前にいた。
「―――ちゃんっ!!!!」
抑えきれず開いた口から、絶叫が迸る。
●追憶の天使
彼女は外国に行くのだ、と。おとうさんは教えてくれた。
日本‥‥東京には、彼女が生きていける場所はないから。何処へ行ってもたぶん、適応できない。
外から隔てられた箱庭の中で生きて行くしかないから、せめて、地上の楽園へ。話し合って、そう決めたのだという。
「‥‥みあおちゃん‥?」
突然、あらわれたみあおの姿を見止め、彼女はふうわりと微笑んだ。
昔と同じ、少しも変わらぬ穏やかな笑顔でと銀の鈴を振るような優しい声で――
‥‥大丈夫‥? みあおちゃん‥
親友だもの。
きっと、そう言って笑うだろう。――そういう子だから。
「今でも親友だから」
伝えられたのは、それだけ。
やっと逢えたその人に‥‥数え切れない優しさと温もりをくれたその人に、それだけしか言えない自分が口惜しくて。
死ぬよりも辛い道。それを全て受け入れてなお、あの子は誰かを気遣い微笑むことができるのだ。
――ずっと、ずっと親友だから‥。
=おわり=
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■ ライター通信
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みなさまそれぞれ辛く苦しい過去があるのですねぇ(しみじみ)。
発注文書を読ませていただき、親友さんが可哀相で思わず泣いてしまったことは内緒です。――PCさまと立場が逆なら、そりゃもうかなり美しい自己犠牲の物語が書けそうな勢いで‥‥。
能力の因果律を使うとPCさんが酷いことになりそうでしたので、マイペースで自己中な性格を優先させていただきました。――調子にのって思い出話など書いてしまいましたが、あまり宜しくない感情の消滅しているPCさんは過去の嫌な経験とか思い出されるのでしょうか…設定と齟齬がありましたら、気の迷いだと忘れてください。
タイトルは同名の小説より。機会がありましたら、ぜひ、ご一読下さいませ。
楽しい再会ではありませんでしたが、なにがしかPCさまの心に残るものであれば幸いです。
26/May/04 津田 茜
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