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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


 東京湾に浮かぶ島・パズル篇


<オープニング>

 灰色の海から潮の匂いがせりあがってくる。向かってくる波を飲み込む度に、クルーザーは上下に大きくうねり、それと一緒に森山の視界も上下した。
 伝わってくる小刻みな振動で、足の裏が少しむず痒い。重くギューンと不快な音が、森山の耳を突く。
 また、潮の香り。
 東京湾。
 今は海の上に居る。
 森山は風に髪を巻かれながら背後を振り返った。
 クルーザーから伸びる白い波の向こうに、葛西臨海公園の波止場が薄っすらと見えていた。
 追い風が髪を巻いて行く。
 森山はそれをかきあげてゆったりと前方に視線を戻した。

 島。

 丸い島が、ある。
 昨日、あの場所で人が殺されたというのにそんな表情は微塵も見せず島は静かにそこに浮かんでいた。
 東京湾に浮かぶ島。
 島の管轄にあたる江戸川区民からは生垣島と呼ばれている。
 それは島の所有者から頂戴した、愛称のようなものだ。所有者の名前は生垣安蔵。当年とって七十五歳。
 そして昨日。その男妾があの島で殺害された。
 その場に居合わせた森山は。
 草間興信所に殺人事件の調査及び解明を依頼した。


『調査依頼。
 殺人事件発生。事件の調査及び解明。
 場所・東京湾生垣島。
 事件発生時、屋敷内に居たのは依頼者の執事兼庭師である榎本の他に、生垣安蔵の孫ら三人。
 以下に榎本から聞いた三人の現状を簡単に書きとめておく。

・佐久間康23歳。フリーター。安蔵に借金があり、安蔵の財を目当てに別荘へと出入りしている。安蔵の金を我が物顔で浪費する捺が、更に別荘を相続するという話もあり快く思っていなかった模様。
・佐久間透20歳。大学生。康の弟である。東京で一人暮らし。屋敷には定期的に出入りしている。常識人であり世間体を気にする性質であることから、祖父が男妾を囲うことを反対しており、捺のことを快く思っていなかった模様。
・北見幸太17歳。高校生。佐久間兄弟とは従兄弟同士にあたる。心密かに捺を慕っており、その存在自体を否定しているわけではなかったが、祖父の愛人であるという事実には嫌悪していた模様。

 他、詳しい情報は追って連絡する。島への同行を志願してくれる者を要請する』


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<序章>

 大きな鍋が欲しい。
 それは貴方を煮込む為。

 貴方の血も肉も
 骨すらしゃぶって一つ残らず平らげて
 そしたら貴方と一つになれる。

 大きな鍋が欲しい。

 それは唯一
 貴方と変わらず離れず、共に在れる方法だから。

 貴方を煮込む為。
 大きな鍋が欲しい。



<船>

―1―

 臭い。
 志賀は思った。

 東京の街の中じゃあ、どこに居たってこんな匂いに付き纏われてしまう。

 志賀は自分の鼻を引っつかみ、左右に少しばかり揺さぶってからスンと鼻を啜った。
 饐えた生ゴミの匂いがする。
 しかし街中は、まだここよりもましだった。
 東京湾。
 江戸川、荒川、隅田川、多摩川といった街中を走る太い川というパイプから、東京の全てが一挙に流れ着く場所。
 総じて、潮の香りの中に何とも言えない、東京の街の腐臭が混じっては流れていく。
 志賀はもう一度スンと鼻を啜り咳払いで腐臭を払うと、デッキに設置された長椅子の上でぼんやりと島を見つめる森山の顔を見た。
 今回、草間興信所よりの調査依頼の中に死体と出逢えそうな物件があったので、取るものも取らずといった調子で飛びついた。その依頼を寄越したのが、この男だった。
 けれど、直接の依頼者、という位置にはいないらしい。
 あくまで自分は手助けをした。
 そういう立場なのだそうだ。
 余りに自分が持ちえる情報量が少ない為、聞きたいことは山ほどあった。草間興信所の主である武彦から、この依頼に関することが書かれたファックスをむしり取った時には、詳しいことは追って連絡する。と書かれてあったような気もするが、その時にはもう自分はこの依頼に参加することを決めてしまっていたし、他の依頼をそれまでに片付けてしまわなければならなかったしで、忙しかった。
 故に自分はその、追って連絡された情報が何なのか。知らない。
 志賀の他に、草間興信所から派遣された者が後四人ばかり居るらしかったが、その内三人は自らの手段で先に島へと向かっているらしく、このクルーザーには志賀、森山。そして。
「あの」
 か細い少女の声がした。
 志賀は森山から視線を逸らして、その隣に座る青い髪の少女を見た。
 草間興信所から派遣された、もう一人の同行者だ。
 この場所に。いや。こんな腐った東京の街そのものに。居てはいけないと思わず忠告したくなるような、可憐で清楚な雰囲気が漂う少女だった。
 歳の頃は中学生くらいだろうか。どういった経緯でこの事件に加わることになったのかは知らないが、殺人事件という単語とは酷くそぐわない少女だった。
「改めまして。海原みなもと言います。今日は宜しくお願いします」
 少女は、凛とした声で言った。
「島に行く前に」
 風に流される髪を無造作に投げ出して、悲壮も決意もなく少女は淡々と言った。
「ここに居るお二人のことや、島の現状についていくつかご質問したいと思っています」
 志賀は彼女の言葉に少し、面食らいそうになる。
 けれどすぐに思いなおした。
 あぁ。そうだ。草間興信所だったんだ、と。
 似合わなかろうが、可憐だろうが。
 彼女は今、草間興信所から派遣された探偵なのだ。
 草間興信所。
 その言葉は全てを覆す力を持っている。実際、あの興信所に関わっていなければ分からないことなのだが、あそこでは所謂「普通の」という常識を全てにおいて当てはめられない。
 いつだって真実は、自分の想像の斜め上を行く。
 志賀は少女の提案に無言で深く頷いた。
「情報は少しでも多い方がいい」
 それから森山に向き直る。みなもも同じく彼を見た。
 しかしそれでも森山は、素知らぬ顔で島を見続けていた。


<屋敷>

―1―


「知りません」

 エ?

 ミナは思わず、榎本の顔を見やった。
 視界の端で、先ほどまで目を向けていた大きな窓を覆うレースカーテンが、ヒラヒラと潮風に舞っている。
「知らない? 知らないって……ってどういうこと? だって。ボクらは依頼を受けてここに来たんだよ?」
「だって……知らないものは知りませんから」
 榎本が眉を下げて言う。
 窓から入り込んで来た風がミナの顔の前を流れて行った。
 潮の香りがプンと鼻をつく。
 ミナは思わず立ち上がり。けれどまたすぐ席についた。
 顎を摘み記憶を整理する。
 これは一体、どういうことなのだ。
 依頼を受けて来てみたら。その依頼者が事件を知らない?
 前代未聞だ。
 頭の中の記憶を整理しながら、ミナは口に出して榎本に説明する。
「草間興信所っていう。ジムショから、ボクは来たんだ。この島、この屋敷で殺人事件が起こったと報告が入ったからね。事件の解明を頼まれたんだ。さっきも言ったと思うけど。依頼者は他ならぬキミだ、よ? 殺されたのは、秋山捺という人だ」
「だから!」
 榎本は焦れたように声を荒げた。
「そんな依頼、僕は知りません。知りません。知るわけないじゃないですか。まさか……捺くんが殺されてたなんて」
「嘘だよ。どうしてボクに嘘つくの」
「嘘なんてついてません! だ。だったら。貴方の言っていることこそ本当なんですか!」
「どういう意味?」
 ミナは思わず憮然として、眉を寄せた。
「ボクが嘘ついてるってこと?」
 榎本にそう問い返してから、ミナはまた記憶を整理した。
 強く言い返されたので、思わず少し心細くなってしまったのだ。


 屋敷に着き。
 ドアノックの後現れた榎本にミナとケーナズは名前を名乗った。
「草間興信所の者だけど」
「興信所……」
「依頼を受けている。案内して頂きたい」
 これはケーナズが言った。その顔には優しい笑顔が浮かんでいたと思う。
 そのキレイな笑顔に油断した。のかどうかは分からないけれど、榎本は一瞬だけ奇妙な顔をした後に扉を大きく開いた。
 屋敷へ入り、先に中を探索すると言ったケーナズと別れ、ミナは榎本にサロンへ通された。
 そして徐に切り出して。
「じゃあ。事件の話を聞きたいんだけど」
「じ。事件?」
「ここで起こった殺人事件の話だよ」
「さ。殺人事件?!」


 ミナは思わず口元に手をやった。
 何ということだろう。
 正に自分達は、殺人事件があったという事実を掴んでいない。

「じゃ。じゃあ。秋山は死んでないの」
 小さく、呟いた。

 潮の香りがする。
 風がまた。ミナの前を舞った。



―2―


 扉を開けると潮ではなく、血の香りがした。
 血の匂い。
 それは錆びた鉄の匂いとも良く似ているが、一方で酷く生々しさを持っていた。
 足を踏み入れると、生臭い血の匂いが一層ケーナズの鼻腔を突く。
 けれどその合間に、煙草の煙の匂いがした。煙草の煙? ケーナズは小首を傾げながら部屋を見回る。

 もしも生垣家の連中の中に殺人を犯した人間が居るとするなら。
 道を踏み外したいと思ったのかと聞いてみたかった。

 部屋の中はまるで誰かが乱闘騒ぎを起こしたかのように散らかっていた。
 元々この部屋の持ち主の生活スタイルのせいなのか、それはまだ分からない。誰の部屋なのか。それもまだ、分からない。血の匂いに駆られるようにして、ケーナズはここに来た。
 部屋の広さは八畳ほどといったところだろうか。
 奥まった場所に背の低い桐ダンスが置かれている。その上にこけしが三本飾ってあった。その隣に置かれた本棚は透明のプラスチックで出来ており、ハードカバーの本やら文庫本、果ては漫画本までが何の規則もなく並べられてあったのだが、ある所に来るとそれは床に落とされて散らばっている。
 部屋中、誰かが引っ掻いたように血の跡が伸びていた。本棚、桐ダンス、壁に組み込まれたクローゼット。白い壁。
 そうして部屋の中を彷徨っていたケーナズの視線は、中央に置かれたベットの前でふと止まった。
 歪な形の血溜まりが出来ている。

 犯人は。道を踏み外したいと思っていたのか。
 有り余る金を持ち、生活に何の不自由もない彼等だからこそ。
 心にぽっかりと空く穴がある。
 彼等の中身は、からっぽだ。

 ケーナズは血溜まりの中に浮かぶ、それを手に取った。
 ねっとりとした弾力が、指に伝わる。
 ニュチュっと小さな音を立てて、血が、伸びた。

 幼い頃、ケーナズが垣間見ていた貴族の暮らしは歪としか言い様がなかった。
 名門と呼ばれる学園も、外見ばかりを取り繕った人間が集まる社交界も。何一つ、ケーナズにとって有意義だと思えたものはない。
 社交界で逢う、同年代の青年らは、血の滲むような努力をしていた。
 それはひとえにその公爵家に相応しい人間となる為だ。
 決して自分の知的好奇心を満たすため、自分の中身を有意義な物にするためじゃない。
 彼等は潰されそうなプレッシャーの中、名門と呼ばれる学校に籍を置き、人を蹴落とすことだけを学ぶ。
 そうして出来上がる人間は見た目だけ、優雅で気品ある王子様。
 けれどそんな仮面を一皮捲れば、彼等の中身はからっぽなのだ。
 からっぽ。
 いや。からっぽの方がまだ、マシだろうか。
 他人に嫉妬し、人を蹴落とすことしか頭にない、プライドという殻に覆われた醜い化け物。
 気品? 優雅? 全く、笑わせる。
 闇に包まれた裏の賭博では、妊婦を孕ませ生まれてくる赤子が誰の子供かなんてことに金を賭け、ワインを片手に歪んだ遊びに金を投じる。
 そのくせ自分の娘が子供を孕み、相手の男を知らないと言えば目くじらを立て責め立てる。女性の伴侶など許さぬと、大声で責め立てる。
 彼等のプライドは。
 自分より下だと思う人間を嘲笑することで保たれる。決して自分がそこに落ちない為になら。彼等はどんなことだってする。

 ケーナズは摘み上げたそれを無表情に眺めた。
 目。
 人の、目だ。

 そんな彼等なら。
 人の目を潰すことくらい。
 さらりとやってのけるかも知れない。

 これは秋山捺の目の玉だろうか。

 人里離れたこんな屋敷で。
 金に有り余る彼等の餌食となり。
 秋山捺はどんな気持ちで死んでいっただろう。


―3―


「ねぇ。聞いていい?」
 長い沈黙を破り、ミナは言った。
 頭の中を整理していて、整理するのが面倒になってしまった。
 実際自分は依頼を受けてやって来たに違いないのだし、それに榎本は。
「なんですか」
「どうしてキミは、『捺くんが殺されてたなんて』なんて言い方をしたのかな? 秋山捺は死んでないんだろう? だったら最初にそう言ってくれても良かったんじゃない?」
 そう。そうなのだ。
 榎本は確かに死んでいたなんてと言った。
 生きてるなら生きてると、そう言って自分を追い出してくれれば良かったのに。
「だ。だって!」
 榎本は目を見開いて、声を荒げた。
「貴方が殺人事件だと言ったんじゃないですか!」
 ミナは思わず吹き出した。
「なんでなの? 生きてるなら生きてるって……いくら殺人事件だと言われたからとはいえ、そう言えばいいじゃないか」
 榎本はしかし、悲壮な面持ちのままブルブルと首を振った。
「生きてる。生きてるかどうかなんて僕は知らなかったから」
「どういうこと?」
「ぼ。僕は今朝。この島に戻ってきました」
「今朝?」
「はい。今朝、です。一昨日から屋敷を空けておりました……昨日、本土の方で用事があったので。それは主人……あ。当主の生垣安蔵ですが。その主人に頼まれた用だったんですが。その為ずっと江戸川区のビジネスホテルの方におりました。それで……その用事が済んだので。僕はここへ戻って来たんです」
 榎本はそこで頭を抱える。
「そしたら。突然……貴方達が見えて。さ。殺人事件だなんて……」
「じゃ……」
 ミナはそこで言葉を切る。
 電池の切れた人形のように目をパチクリとさせ、あ、と声を上げ、手を振った。
「じゃ。じゃあ。じゃあ。キミは秋山捺が今現在、生きているかどうかすら分からない……ってこと?」
「……はい。僕はこの島の中で今朝から今まで。彼の姿を見てはいません。だから……貴方達が言う事件に捺くんが巻き込まれたのかどうか……も」
 榎本は抱えた頭をブルブルと振る。そしてあぁどうしたら。こんなことを主人が知ったら、などと呟いた。

「だったら……どうして森山はあんな依頼をしたんだろう」
 ミナは呟く。
「そんなこと。私に言われても知りません」
 榎本は泣きそうな声でそう言った。


<パズルの断片>

―1―


「おい。今の」
 廊下を歩いていると、同僚がふと志賀の耳に囁くようにして言った。
「何だ」
「お前、覚えてるか。ちょっと前話題になた。ウエの揉み消した事件よ」
「あぁ……」
 志賀は頷いてから、記憶を探った。
 ウエ。つまり上層部が揉み消した事件。
 そして思い出した。
 一年ほど前。新宿署管内で一人の女性が殺された。その事件は解決に向かう程に大きく発展し、結局。暴力団関係者を巻き込み死者二十余名という大きな事件に発展した。その事件には、二人の刑事が関わっていたがその内の一人は暴力団員と癒着しその事件に加害者として関わっていたという経緯があったため、不祥事の露出を恐れた上層部の判断で、その事件はヤクザの抗争事件ということで揉み消されてしまっていた。
 けれど人の口とは恐ろしい。今では大抵の刑事がその事件のことを知ってしまっている。男という生き物でも、閉鎖された中に居れば噂をがなりたて女々しく落魄れる奴が出てくるということなのだろう。
 この男も好きだな。
 志賀は内心でやれやれと溜め息をついて、話を促した。
「それが。どうした?」
「今、すれ違った男。あいつらしいぜ」
「あいつ?」
 志賀は思わず立ち止まる。同僚も同じくして立ち止まり、ニタニタと下品な笑いを浮かべた。
「ヤクザもサツも関係なく人を射殺しまくった男だよ」
 背後を振り返り顎をしゃくる。
 それにつられ志賀も思わず振り返る。
 廊下を歩いていく細長い長身の男の後ろ姿が見えた。

 信じられない。

 幾度となく人を殺した人間というものを見てきた志賀であったが、その男がマル暴でさえ手をやいていたあの組の人間を何人も射殺し、その上同僚の刑事までもを射殺した男だとは、到底見えなかった。
 背中に、色がないのだ。もちろん、灰色のスーツを着ているのだが、けれど色がない。表情がないとでも言うべきか。白。真っ白だ。
 同僚の言った言葉が嘘じゃないかとすら、思った。
 事件に関わった刑事は二人。その内の一人は事件現場で暴力団員に射殺されたことになっている。もちろんそれは、表面上。なのだが。
 そしてもう一人の刑事が、その。色のない背中の男。
 決して。あの男が事件を解決したわけではなかった。
 逮捕者は誰もなく。事件は暴力団の抗争として処理されている。
 あの男はただ。
 人を射殺しただけだった。
 経緯も事件に隠された真意も噂では分からないけれど、ただ事実として言えることは、あの男が事件と癒着していた刑事を射殺。その上、最終的に二十余名もの暴力団関係者を射殺したということだ。
 男は廊下を歩いて行く。志賀はその無味無臭としか言えないような背中に視線を注ぐ。
 どうしてあの男にはあんなにも、色がないのだ。
 もちろん。表面上は何の事実もなかったとしたい警察は、何としてでもあの男を囲うと決めて、辞職することも許されず、平然とした顔を作らねばならないという事情はあっただろう。
 けれど。もっと悲壮な。色が。
 もっともっと苦しみの色が。
 そうして、人を殺したのだという重みのようなものが。
 滲み出るのではないのだろうか。
 そうして、志賀は気付いた。
 人から自分がどう見られているか、という。人間として当たり前の外へ向けられる衝動が。
 この男には全く、無いのだ。と。

 内なる、狂気。
 志賀はその背中に当てはまる言葉を、それしか思い浮かべられなかった。


<船>

―2―


「森山さん?」
 志賀はみなもの声で我に返った。
 焦点の合った視線の先に、島を無表情に見やる森山が居た。
 森山はみなもの声に、やっと視線を島からデッキ上へと視線を移した。
「はい」
 淡々とした声が言う。
 みなもが訝しげな表情をした。小首をかしげ、何とも言いがたい顔で森山を見ている。
 そんなに淡々と返事をされても困るだろうな。
 そのやり取りを見ていた志賀は、内心で苦笑した。
 とはいえ志賀にしても、みなもの心中は良く解る。
 船に乗り込んでからずっと。この森山という男は一切口を開いていないのだ。
 それだけではない。
 先ほどみなもが自己紹介したにも関わらず、ずっと島を見つめたままで素知らぬ顔を決めていたのだ。
 人が話をしているというのに。
 それも。自分が依頼してきた事件の話をしているというのに。
 この男はどうしてこうも素知らぬ顔をするのだろう。
 みなもの心が読めるわけではなかったが、きっとそんな所だろう。
 まさかこんな男が調査を依頼してきたなんてな。
 志賀はL字にした指で顔を支えながら、その横顔を注意深く観察する。
 そして一つ、咳払いをした。
「俺の名前は志賀、哲生だ。そして」
 志賀はみなもに手を翳す。
「彼女の名前は海原みなもだ。草間興信所から、お前の作成した依頼書を見てこの島に同行することを決めた」
「宜しくお願いします」
「はい。宜しくお願いします」
 また森山は色のない声でそう言った。
 どうでもいい。
 丁寧に返答はしたものの、森山の顔からはそんな呟きが聞こえてくるようだった。
 志賀はフンと鼻を鳴らす。
「調査書には。お前の情報が全く無かったが」
「えぇ」
 森山は当然のことのように頷いた。それがどうかしたかとでも言いたそうな顔だった。
「お前は透明人間じゃない」
「えぇ」
「言わば俺達のツアーコンダクターだ」
「はぁ」
 間抜けな返事。
 志賀はやれやれと内心で溜め息をつく。
 人からどう見られ、自分が存在していることすら自覚していないような。
 信じられないが、そういう人間は存在するのだ。
「俺達も名前を名乗った。順番から言えば、次はお前だ。俺達は初対面だ。何も知らないような人間と、同行するのは俺も気分が悪い」
「あぁ……」
 森山はそこでやっと合点がいったという風に頷き、小さく会釈した。
「すみません。僕の名前は。森山和明と言います」
「それだけか」
「……それ以上に何か」
「質問があります」
 折り目正しくみなもが口を挟んだ。
「そもそも貴方は。どうしてこの事件を草間興信所に依頼なさったのでしょうか。つまりは貴方も、この事件に関係している。この事件発生時にあの島に居た。そういうことですよね」
 森山は、少しも顔色を変えず淡々と答えた。
「はい。居ました。仕事で。草間興信所に依頼をお願いしたのは……所長と知り合いだったからですよ」
 みなもは二度ばかり頷いた。
「草間さんもそう仰ってました」
「仕事の関係で以前お付き合いがありましたので」
「貴方の職業は、江戸川区環境推進課の職員、でしたね」
「えぇ」
「では。お仕事の関係であの島にいらっしゃったということでしょうか」
「そうです」
「そのお仕事は具体的にどのような内容なのでしょうか」
「参ったな」森山は作り物めいた笑顔を浮かべた。「僕も容疑者の一人ですか」
 その言葉に志賀は思わず笑ってしまう。
 二人の視線が自分に向いたので、志賀は「いや」と小さく呟いて顎を摘んだ。
「いや。そういう時に刑事は決まってこう言わなければならないんだ。形式上の質問ですよ」
 肩を竦めて見せてやる。
「けれどまぁ。ハッキリ言わせて貰えばお前も容疑者の一人ということだ。悪いがな」
 森山は「そうでしたか」と無表情に答えて頷いた。
「すみません。気が気が利かずに」
「全くだ。そもそも容疑者以前の問題で、お前が依頼書を寄越したくせに、まるでお前は事件に協力する気がないように見えたからな」
「すみません。良く、言われます」
「何を」
「やる気が感じられない、と」
「そりゃ、苦労するな」
「すみません」
 これほど謝罪に誠意がないと、こちらとしては逆に気持ちいい。
 志賀がそんな皮肉を呟いた向かいで、みなもがまた切り出した。
「それで。森山さん。お仕事の内容を具体的にお願いします」
「はい……生垣島。この島は別名、麻島と呼ばれていますが……」
「麻島?」みなもが問い返す。「麻島……」志賀も小さく呟き返した。
 麻島。
 妙に引っかかる。
 その名を何処かで聞いたことがあった気がした。
 志賀の追憶を、森山の声が遮る。
「生垣島は、江戸川区の管轄にあります。ですから、島に住んでいらっしゃる榎本さん、秋山さんのお二人は江戸川区民となります」
「えぇ」
「江戸川区は。月に一度、あの島へ不燃焼ゴミの回収に向かいます」
「なるほど」
「その時に、島の実地調査も行います。買い取られたとはいえ、区民の安全を守るのが区員の仕事ですから」
「それで貴方はあの島に居たんですね」
「はい」
 みなもは何を思うのか、そこでじっと森山の顔を見た。
 それから、問うた。

「お仕事で居た。本当に。そうなのでしょうか」

「僕が……嘘をついていると?」
 森山は苦笑した。
 言葉使いは至って無味無臭だ。
 何故みなもがそんな問いを返したかは分からないけれど、もしも何か意図があるとするならば、この問いかけは全く意味を持たなかった。
 みなもにもそれが分かったのか、折り目正しくまた、次の質問をする。
「では次に。貴方と秋山さんのご関係についてお聞きしたいと思います」
 みなもという少女には初めて出会ったが、案外的を得たことをする少女だと志賀は思った。
 柔軟に状況判断ができ、対応できる。彼女の口調は終止テキパキと刻み良く、余計な心情を挟まない。
「草間さんから聞きました。お二人は幼馴染だったそうですね」
「あぁ……えぇ」
「それで」
「それで? それだけ、ですよ」
 森山が苦笑する。志賀は思わず声を荒げた。
「それだけじゃあないだろう。お前が秋山をただの幼馴染程度にしか思っていないなら、興信所に連絡するよりも警察に連絡する方が手っ取り早いだろうが」
 そう。そもそも何故、警察に連絡がいかなかったのか。みなもも志賀を見、頷いている。
 森山は二人の顔を見比べてから
「警察が……介入できないから、ですよ」
 当然のことのようにそう、言った。
「警察が……介入、できない?」
 志賀は呟く。

 麻島。

「まさか」
 そして。思い出していた。


―3―


『緊急事態発生』

 その件名に、取立て驚いたわけではなかった。
 けれどその先。青白く発行する画面に表示された内容を「よむ」内に、セレスティは思わず微笑んでしまっていた。
 とは言え実際、それを「目」で見て読んでいるわけではない。どちらかと言えば「感じている」に近いだろうか。
 しかしそれにしても。
 セレスティは顎を撫でながら、その完結で衝撃的なメールに思わず苦笑する。
 屋敷の中に居る、ケーナズがそれを打ったことは明白だったが。
 ゆったりと背もたれに背を打ち付けて、微かに首を振る。
 読む限りでは、それは中々の緊急事態だ。
 依頼者が事件を知らず。
 死体が行方不明。とは。

 セレスティは細い指先で器用にパソコンを操作して、液晶画面を切り替えた。
 メール表示されていた画面が、生垣島に関する情報画面に切り替わる。

 生垣島。
 別名麻島に関する情報。
 知的好奇心もあり、島に着く前に少し調べていた。
 依頼に入る前。セレスティにはどうしても解せないことがあった。それは、警察の存在だった。
 殺人事件が起こったのだから、どうして草間興信所ではなく警察に連絡しなかったのか。
 そして島を調べているうちに、それに関するある事実に辿り着いていたところだった。

 ガラスのような青い瞳で画面の光を反射しながら、セレスティは次に、メールで要請された内容について調べにかかる。
 榎本は本当に屋敷を開けていたのだろうか。

 その線は案外簡単に調べることが出来た。
 何せ、榎本が泊まったビジネスホテルというのが、リンスターの配下にある企業が運営するホテルだったからだ。
 こんな事で自分の立場を利用することがあるとは思わなかったが。何もセレスティ自身の名前を出さずとも、宿泊客の名簿くらいは簡単に見ることが出来る。
 実際にそのホテルに行き、榎本の行動を追えないことが気になるが。まず、彼の言葉の中に真実を一つ、見つけることが出来たわけだ。

 そして。生垣島について、だが。
 生垣島。別名麻島。
 生垣家は、江戸時代初期。この島で麻を栽培し生計を立てていた。麻の需要は当時、相当数あった。何せ医療にも用いられていたくらいだ。多摩川で麻が栽培されていたことは有名だが、この麻島でもその名の通り麻が栽培されていたのだ。
 そして第二次世界大戦を迎え、その後麻は表面上この島から姿を消す。大麻取締法の制定があったからだろう。
 しかし生垣安蔵がなぜまだこの島を維持出来るほど財力を持っているかをすれば。
 麻が消えたのはやはり表面上であったことが伺える。つまりは。今でもこの島では麻が作られ、流されている。
 だから、あの島に好んで警察を入れることは無かったのではないか。セレスティはそう判断する。
 これで屋敷の見取り図があれば言うことはなかったのだが、まぁ焦ることもないだろう。
 船は少しの揺れも見せず島へと向かっている。
 仕事の関係上で、少し時間には遅れることとなってしまったが、直この船は島に着く。
 今もあの島で麻が栽培されていること。
 その憶測が事実であるかどうかをセレスティはまず知りたい。
 まさか屋敷内で栽培されているということはないだろうが、見取り図から何かを「読み取る」ことが出来ればその事実も突き止めることが出来るだろう。

 船が着けば。
 全てが始まり。そして終わる。
 そう、思った。


―4―


「つまりは。安蔵氏は警察があの島に入り込むことを酷く嫌悪しています」
「金で押さえられない正義感溢れる奴も中には居るからな」
 志賀は首を振り、嘲笑するように呟いた。
「そういうことです。いくら上層部を金で買ったとはいえ警察は一度あの島の中に入れば、いつ手帳を出しワッパを出すか分かったもんじゃない。そんなところでしょう。だからあの島に置いては。安蔵氏の判断なしに警察を介入させることは出来ない。しかしそのまま秋山捺の死体を放置することも出来ない。そう榎本氏が言ったので。僕は草間興信所に依頼をしたわけです」
「そうですか」
 みなもは無表情に頷いている。
 そうして志賀は。
 警察の介入できない島。
 その言葉を思い出していた。
 志賀もその話は小耳に挟んだことがあった。管轄内ではなかったので、時折所轄に出入ってくる噂程度だったが。
 そう。警察の。介入できない島がある、と。
 全く、警察というところは閉鎖されたとんでもない場所だったんだと、刑事を辞めてから志賀は特に思う。
 自分達の身守る為なら、どんな悪人でも囲い込み。
 自分達に害の無い人間ならば、一刑事の首くらい簡単に切ってみせる。
 金を流されれば、快く受け取り。貧乏人には正義という名の暴力を振るう。
 もちろん。それは警察の中のごく一部だ。けれど、その「一部」は力を持っている場合が多い。
 土台人間が正義を振りかざすことなんて間違っているんじゃないかと志賀は思うのだ。人は正義を持ち、悪も持つ。むしろそれで人間は出来上がっているんじゃないのか。どちらかに傾かそうとするなんて、無理があるんじゃないのか。
 その無理は、人を壊してしまうんじゃないのか。

「では」
 沈黙を破り、みなもが言った。
 志賀はふと我に返り、その顔を見る。
「森山さん。貴方が知っている秋山さんの情報を教えて下さい」
「情報……」
 森山は無表情に小首を傾げた。
「氏名。秋山捺。年齢、二十七歳。最終学歴高校中退。現在、生垣安蔵の愛人」
 そんなことは知っている。そう言い出してしまいそうな情報だった。けれどみなもに焦った様子はなく、折り目正しく問い返した。
「秋山さんの性格や生垣氏の愛人となった経緯などは?」
「性格……性格は」
 呟きながら森山は、記憶を辿るように空を煽る。
 その時。
 志賀は見た。
 森山の瞳が一瞬だけ濡れたように輝く様を。
 志賀は見逃さなかった。色だ。真っ白だった森山に、色が。
 灯った。
「破天荒、でしたね」
 空を見たまま、森山は呟いた。
「破天荒?」
「えぇ。彼とは幼馴染でしたが二人の性格は全く違っていました。だからそれほどずっと行動を共にする友人でもなかった。彼は元々群れることを嫌っていましたし、けれどだからと言って一人で行動する、ということでもなかったのですが。何だか楽しそうなことを思いついては、仲間を集めて遊んでいましたよ。いつも自分勝手で。なのに何故か人の中心に居る。そんな男でした」
「では。自殺などを考えるタイプでは」
 みなもの問いかけに、志賀は聊かギョッとした。
 自殺。
 そんな可能性を思い浮かべていたのか。
「自殺? さぁ……僕は彼ではないので。彼の気持ちまでは分かりかねます。誰だって死にたくなる時はあるでしょうし、それを実行に移してしまう時もあるかも知れない。彼は自分勝手だったから。とっとと死にたくなって自殺したのかも知れないし、そうではないかも知れない」
 そこでふっと森山は溜め息をついた。
 次に顔を上げた時には、瞳の色はまた無くなっていた。
「愛人となった経緯は知りません。彼が高校を辞め姿を消してからは。連絡も取り合っていませんでしたから」
 みなもは何を思うのか、暫くじっと森山の顔を見つめていた。
 それからふと視線を逸らし。「そうですか」と呟いた。
「性癖については。お前は知っていたのか」
 今度は志賀自身がそれを切り出す。
 少女にそれを聞かせることは、余りに酷だと判断したからだ。
「性癖?」
「秋山は安蔵の妾だ。つまり、そういう関係だった、ということだ。昔から秋山にはそういう性癖があったのか」
「ゲイだったか、ということですか」
 志賀は肩を竦め促した。
「それは……僕にも分かりませんね。恋人を紹介されたこともなかったし。あえて恋の話をするような関係でもなかった。皆さんは幼馴染という関係を誇大して想像しているみたいですが。僕等はただ。幼い頃から近所で育った。それだけなんです。だから。僕に言えることは。そういえば彼の回りに女性の姿を見たことがない、というだけです」
「じゃあお前は薄々は感じてたんだな。秋山が。ゲイだってことを」
「彼がゲイかゲイでないかを疑うよりは。女性の方に問題があったんだと思ってましたから」
「相手の女性? あー……つまり」
「いえ。違いますよ」
 森山は笑って言葉を遮った。
「女性が皆、彼の好みではなかったとか。彼につりあいが取れないとか。そういう話ではないんです。中学も高校も公立の共学でしたから、女性が少ないという問題でもない……ただ」
「ただ?」
「彼は……特有のモノを持っていたのかも知れません」
「特有のモノ?」
「具体的に説明するとなると、難しい。ただ、美しかったとしか言えません。容姿が美しい、なんてことじゃなくて。もっと。滲み出るものが」
「言ってる意味が良く」
 それまで黙って耳を傾けていたみなもが、口を挟む。
 確かに。彼女には分からないかも知れない。
「彼の顔だけを純粋に見れば。それほど飛び抜けて整った容姿をしているわけではありません。けれど、その唇。瞳、睫、鼻。白い肌はその白さ故に、にきびや荒れが目立つんですよ。猛々しいのに、時に妙に色っぽい。妖艶な。健全なのに妖艶な……いや。健全だからこそ、妖艶だったのかも知れない……そんなものを彼は持っていた」
 熱に浮かされたかのようにそう言って、森山はプツリと口を閉ざす。
 しかし志賀は確信する。この男は秋山を愛していたんだ、と。
「だから。そんな彼の美しさは。女性からしたら、親近憎悪とでも言うのか。そういう類に値するのかも知れないと。それで。女性の方が敬遠して、彼に近寄らないのか、と」
「お前は……」
「え?」
「お前はその死体を見た、のか」
 志賀は呟くようにして問いかける。

 その時志賀の脳裏に、真っ赤な鮮血を垂らし横たわる女の、死体が思い浮かんだ。
 女の……かつての恋人の……。

「それをきれいだと。お前は……感じたか」
 呟きは、桟橋の手前でふかしたエンジン音にかき消され、流れて行った。


<パズルの断片>


―2―


 マンションの郵便受けに、みなもはチラシを投函していた。
 オープンしたばかりのカフェのチラシを配るという、それは何とも簡単なアルバイトだった。ただしそのアルバイトにありつく為には一つだけ条件があった。それはカフェの制服が似合う女性ということ。
 カフェの女性オーナーには母を介して知り合った。その時は全く別の用で逢ったのだったが、気がつけばみなもの分の制服も用意されていた。
 もちろん。他にも町に出てチラシを配っている女性は居る。ポストに投函するでなく、実際に手渡ししている女性も居る。ただ皆一様に、黒いワンピースに、白いレースのハイソックス。白いエプロン、カチューシャというそのカフェの制服を来てプロモートさせられるというだけで。
 そうしてみなももその可愛らしい制服に身を包み、マンションの郵便受けにカフェのチラシを差し込んでいるのだ。
 何軒かのマンションと、表に郵便受けを出している一戸建てにチラシを配った。枚数的に見て、ここが最後のマンションになりそうだった。

 それにしても。
 みなもは銀色の郵便受けの扉を見て気付く。
 郵便受けの中には南京錠をつけているものもあったが、個人的な防御策らしく勝手に開けようと思えば開けてしまえる物の方が圧倒的に多い。
 ストーキングや悪質な悪戯には、ポストを利用することだってけっこうあるのに。
 みなもは他人事ながらそんなことをふと考える。
 オートロックでもないマンションならば、南京錠をつけるのが良いに決まってる。
 あたしは幸いにして泥棒でもストーカーでもなかったから良いけれど。開けられて勝手に中を調べられたらどうするのかしら。
 けれどそれは時として役立つ場合もあることを、みなもは思い出した。
 草間興信所でアルバイトをし出してから知ったのだが、郵便物を調べると出てくる事実が結構ある。泥棒と探偵は紙一重。そんな言葉をふと思いついた。
 けれど幸いにして、今日は興信所のバイトでこの場所に居るわけではない。全くの善意者というわけでもないけれど、人の郵便受けを勝手に開けることはないだろうと思っていた。
 思っていたのだが。
 一番端に位置するポストの中に、チラシを投函した時だった。
 カサッという音がする。チラシがポストの中へ落ちた音だろうか。
 いや違う。
 カサ。カサカサ。
 何かが蠢く音。
 みなもは頭に浮かんだ黒い物体に、眉を潜めた。
 まさか。こんな所に居るはずないわ。
 そうして片付けていればよかったのだが、怖いもの見たさとでも言うのだろうか。視線はその音の方を向いてしまっていた。
 白い壁に這う、ゴキブリ。
 大嫌いな『太郎ちゃん』がそこに居た。
 ヒッ。と声にならない悲鳴を上げて、みなもは思わず後退る。その時、郵便受けの扉についたつまみを引っ張ってしまっていた。
 扉が開き、バサッと郵便物が地面に散った。
 あ。いけない。
 拾おうとしてしゃがみ込む。
 その時。突然ゴキブリはブンと勢い良く飛んだ。
「キャッ」
 甲高い悲鳴を上げて、みなもはその場に落ちた郵便物を引っ掴むと一目散に駆け出した。


<交差>


 ケーナズは二階の部屋を全て見終えると、ミナと榎本が待つサロンへと足を運んだ。
 ケーナズが見た所、この屋敷に人の姿は全く無い。
 ただ、血の海となった部屋があっただけだ。
 一体どういうことだろう。ケーナズは頭を捻らずには居られない。秋山捺の死体はおろか、三人の容疑者の姿すらないなんて。
 もしかして、榎本が?
 第一発見者を疑うのは鉄則のはず。考えすぎと思っていたが、ミナ一人に話を聞くことを任せたのは失敗だっただろうか。
 出来ればまだ。誰も動かしていない事件の真相を見たいと思っていた。だから誰よりも早く、屋敷内を見回ることにしたのだ。
 しかし得られたことは思ったより少ない。
 ケーナズは足早に階段を下りる。
 その時一階のサロンで衝撃的な事実が判明していることは、まだ知らない。

×

 無表情に。けれど颯爽と登場したケーナズに、ミナはことの真相を明らかにした。
 最初こそ、「どういう意味だ」と眉を寄せていたケーナズだったが、「だから榎本は知らないんだってば」というミナの言葉足らずな説明から、彼は真実を読み取ってくれた。
 榎本は事件当日屋敷に居なかったこと。
 佐久間兄弟はこの島には居なかったこと。
 捺の死体が行方不明であること。
 同時に北見幸太も行方不明であること。
 依頼書は森山が勝手に作成してあったこと。
 依頼書に記載されていた情報は、榎本なら絶対言わないだろうこと。
 ケーナズはミナの報告を受け。終止穏やかに相槌を打ってくれた。
 草間興信所で初めてケーナズに逢った時、ミナは正直、彼が少し怖かった。
 決して人見知りをするタイプではないのだけれど、オトナの男は誰だって少し、怖い。けれど会話をしてみると、彼の言葉使いは終止上品で、ミナはすぐにそんな懸念を消すことにした。自分を襲って来た男達とは、まるで違う。それさえ分かれば、ミナはもう怖くない。
 ケーナズは更に、素敵な思いつきをしてくれた。
 セレスティに連絡を取ってみよう、と。彼はとても聡明だから、何かしらこの島の情報を掴んでいるはずだ。と。そう言ったのだ。
 二人は兼ねてから友人だったとは、草間興信所でこの依頼の話を聞いた時、知った。ミナは二人と一緒にこの依頼の話を聞いていたのだ。
 長身で、肌も体もキレイな二人を、ミナはうっとりと眺めていた。セレスティもケーナズも、二人ともオトナの男だったのだけれど。
 セレスティの柔らかい口調はママのようであり、ケーナズの上品な中の強さはパパのようだった。
 ママと、パパ。もしもそう呼んだら。二人は嫌な顔をするだろうか。

×

 船から伸びたロフトを伝い桟橋の上に車椅子で降り立ったセレスティは、鼻腔に流れる潮の香りに母なる海を思い浮かべていた。
 出来るだけこの匂いに近い場所で生活をしていたい。コンクリートに阻まれ暗い部屋の中にこもるほどそう思う。
 もう人の姿となって久しいが、やはりこの香りの根底には開放感がある。
 セレスティはもう一度大きく潮の香りを吸い込むと、ゆったりと車輪を押し桟橋から砂浜へ移動した。
 車椅子の車輪に砂が噛み、これ以上は前には進まない。
 それは予想していた事態ではあった。だから屋敷へ情報メールを返信する際に、直着くだろうこと。車椅子なので迎えが欲しいことを申し出ていた。
「タイミングが宜しいですね」
 セレスティはゆったりと微笑んでそう言った。
 砂浜の先にある防波堤。その間にうねるように通る細い道からミナが駆けて来て居た。
 そして背後では、クルーザーのエンジン音がする。
 役者が揃う。

 風とともに反対側の桟橋に着いた小型のクルーザーをセレスティは振り返る。
 人魚。
 同じ、種族の匂いが、した。

×

 みなもは郵便受けから取って来てしまった郵便物を、どうしようかと悩んでいた。
 さっさと返しに行けば良かったのだが、太郎ちゃんのことを思い浮かべると中々どうして足がすくんでしまう。
 返しに行こう。返しに行こう。
 アルバイトが終わってからも、脳裏の片隅でみなもはそんな事を思う。
 けれど脳裏の片隅は、やっぱりただの片隅だった。
 草間興信所に足が向いたのは、これを返して貰えるかどうか。そんな頼みを聞いてくれるのかどうか。それを確かめる為だった。
 けれどみなもはそこで出会った。
 郵便物の持ち主である、森山和明。に。
 そして依頼への参加を決めた。同行者は。志賀哲生という男性らしかった。

×

 砂浜に降りた途端、志賀の鼻はその「匂い」を嗅ぎ取っていた。
 死体の匂いだ。死の匂い、だ。
 志賀の異常な嗅覚が、それを嗅ぎ取る。確かに分かる。ここには死体が、ある。
 早くこの匂いを辿って死体のある場所へと行きたかった。
 美しいというその男の死体を。志賀はその目で確かめてみたかった。


<揃った断片>


―1―


 林の中は涼しかった。
 足を踏み込む度、サクっという小気味良い音がする。
 浜から屋敷へと向かう細い道を、みなも、セレスティ、ミナの三人はゆっくりとした速度で歩いていた。
 杖をつき歩くセレスティに、ミナがちょこちょこと付き纏う。どうやら彼の足を気遣い、世話をやているようだった。
「こんな時こそパパの出番なのにね」
 ミナは柔らかくはにかみながらそう言った。少し、照れているようだ。
「パパ?」
「ケーナズ、だよ」
「パパです、か」
 セレスティが眉を上げて問い返し、それから柔らかく微笑んだ。
「キミは。ママ」
「ママ!」
 セレスティは声を上げて笑っていた。
 みなもも、こっそりそれを見て笑った。嘲笑などではなく、微笑ましいと。素直にそう思った。
「ちゃんと屋敷まで連れて行ってあげるからね」
 ミナが緑色の大きな瞳でセレスティを見上げる。セレスティは柔らかく微笑んで「ありがとう」と言った。みなもにしても、彼の足が活発に行動出来ないことは理解できたので、そのボランティアに協力することにした。
 そんな調子で三人は、ゆったりと榎本とケーナズが待つ屋敷へ向かう。
 みなもと一緒にこの島へ上陸した志賀と森山の二人は先に死体を探しに行っていた。
 桟橋に降りるなり、
「俺はこのまま、この匂いを辿ることにする」
 志賀は断定的な口調でそう言った。もう他のことはどうでも良い。そうとさえ言い出しそうだった。
 それは確認というよりは、報告といった体だった。
「僕も、行きます」
 そして森山も、相変わらず何を考えているのか分からない顔でそう申し出た。
 その時、みなもは考えた。ここで森山を行かせるべきか否か。そんなことを。
 例えばここで彼を泳がせるとどうなるか。泳がせなければどうなるか。
 例えば彼が逃げ出した時、自分の力だけで捕捉するのは可能か否か。
 例えば一瞬の捕捉は可能だったとしても長時間その体制を守れるか否か。
 そうして彼を捕捉しておいて、得られる情報はあるのか否か。
 自分が持つ情報と兼ね合わせ、あらゆる可能性を素早く考えた。
 そしてみなもはその「報告」に深く頷く。
「私はここに残って、お手伝いすることにします」

「それにしても。森山が居なくなっちゃたのは困ったなぁ」
 ミナは空を煽りながらポツリと言った。
「そうですね」
 セレスティがゆったり頷く。慌てた様子は微塵も無かった。
「どうして困るんですか」
「だって。榎本ったら。依頼を知らないって言ったんだもん」
 やっぱり。
 みなもは心の中で頷いた。
「セレスティさんはご存知だったんですか」
「えぇ。船の中でメールを頂いていましたから。しかしそれにしても。びっくりしたでしょう?」
「したよ!」
 ミナは地団駄を踏むように足をバンと踏み込んだ。
「だって。依頼を受けて島に来てみたら、榎本は知らないって言うし。死体は無いっていうし。あ。ねぇ。あのオジサン達、死体を捜しに行ったんでしょ?」
 志賀のことだろう。
 みなもは「はい」と頷いた。
「見つけられるかなぁ。屋敷の中には無かったんだよ?」
「それなら心配には及びません」
 口を挟んだのはセレスティだった。
「え。セレスティ知ってるの?」
「検討は。ついていますよ」
 ゆったりと笑みを浮かべたまま、セレスティは暢気とも言える口調でそう言った。
「ケントウ? 知ってるの? どういうこと?」
「今はまだ。断定出来ません。屋敷に着いたら教えてあげましょう」
 林を抜ける細い一本道は、途中で舗装された石敷きに変わった。そのエメラルド色の石敷きを辿ると、数歩も歩かない内に辺りを覆っていた木々がなくなり、みなもらの視界はパッと開いた。
 楕円形に切り取られた空間の中央に、大正時代ということばが酷く似合いそうな洋館が建っている。
 あれが。石垣家。
「やっとついたね」
 ミナが無邪気に声を上げた。


―2―


 死体の目は潰されていた。そして顔中に傷がついていた。
 本来ならば、そこに横たわるそれは酷くグロテスクなのだろう。
 しかし志賀はおろか森山でさえ、その死体を見た時に悲鳴一つ上げなかった。
 横たわるそれは、顔だけを真っ赤に染めて息絶えていた。
 志賀はそれを舐めるように見つめる。
 大口を開け、苦悶しているようにも見える顔。血管の浮き出る首筋。気味が悪いほど浮いた鎖骨。肋骨の浮かび上がった腹。細長い手足。
 ざっと見た限りでは。顔以外の損傷は見られない。
 血と肉と汚物の匂いが暗い空間にこもっている、四方をゴツゴツとした石の壁に囲まれた、洞窟の、中。
 こんな場所に。
「こんな場所に居たんだ」
 志賀の思考と重なるようにして森山が呟いた。
「秋山捺に間違いないのか」
 志賀は森山の顔を見やる。
 死体を照らす懐中電灯の明かりが反射してその顔を照らし出した。濡れたような瞳がキラキラと輝いている。
 森山は、熱のこもった吐息を滲ませ「はい」と頷いた。
 うっとりとした。何かにとりつかれたような表情。自分も今。こんな顔をしているのだろうか。
「もっと小柄だと思っていたがな。男妾なんてもんは」
「普通です。何処にでも居る、普通の標準の男ですよ」
 そうは思っていないだろう。思わずそう言ってしまいそうな顔で森山は呟く。
 例え、世間では標準であっても。お前にとっては特別だったんじゃないか。
 志賀は傍らに置いてあった黒い大きな鞄を開いた。
 それはこの島に上陸する際持ち込んだものだった。懐中電灯で照らしながら、志賀はその中から一本のメスを取り出した。
「何をするんですか」
「検視だよ」
 森山の眉が寄る。
「やめて下さい」
 初めてその声が荒げられた。
「事件の解明には必要なんだよ」
「こんな暗い所でやる必要は何処にもないでしょう」
「ここでやる」
「冗談やめて下さいよ」
 森山は途端に無表情になり、志賀の手からメスをすっと抜き取った。
 それは余りに俊敏というよりは、影のない無味無臭な動作だった。志賀がハッとした時には、メスは森山の手に渡っていた。
「一先ず。外に出しましょう、志賀さん」
 森山は手にメスを握ったまま、死体の頭を持ち上げるとそう言った。


―3―


「この依頼書を読んだ時。私は何か。誘導されているような違和感を覚えました」
 紅茶から出る湯気を見ながら、みなもは言った。
 それは榎本が用意してくれた紅茶だった。殺人事件の解明をする時に紅茶もどうかと思ったが、それはセレスティの提案だった。
 落ち着いてお話しましょう。
 まるで、ピクニックに来ているかと錯覚しかけたくらいだ。
 けれどそれは中々名案だったのかも知れないと今は思う。
 テーブルに並べられた三つのカップからは、アッサム独特の甘い香りが漂ってくる。カップの中でユラユラと揺れる紅色の液体を見つめながら、みなもは更に付け加えた。
「北見幸太さんが犯人であるように、誘導されているような。そんな感じを」
「どういうこと?」
 ミナがテーブルから身を乗り出して問いかけてくる。みなもはそこでミナの顔、セレスティの顔を見た。
 榎本は席にはついているものの、視界には入らなかった。
「皆さんは。この依頼を見られた時、どんな印象を受けましたか?」
「あの依頼書が本物であるならば……、北見が殺人を犯したのかと。私は思いましたが。嫌悪と読み取れるのは彼だけでしたから」
 セレスティは穏やかに言い、紅茶を口に運んだ。
「うん。ボクも。犯人の動機は、財産や世間体とかじゃないと思った。それを重視するなら殺人なんて、高いリスクは避けるハズなんだ。だって捕まったら全てを失うだろう? だから犯人は北見と思った」
「そうでしょう」
 みなもは頷いた。
「草間探偵事務所で聞いた志賀さんの言葉を借りれば、殺人の動機には金や単純な憎しみよりも、愛情のような深い感情の方が相応しい。というわけです。けれど私は。この依頼書を読んだ時。先ほども言いましたが誘導されているような違和感を覚えたんです」
 みなもはテーブルの上に置かれた依頼書のコピーを手に取った。
 それはどうやらミナが持って来ていた物らしく、所々に皺がいっている。
「私は。これを読んだ時。この三人を犯人にするには性格や動機の面で弱いだろうなと思っていたんです。事故死に見せかけられていない限り、彼等は犯人ではないと。けれどもちろん、私がそう思ったのはこれだけを見てだけではありません。どちらかと言えば、私の知っていたある事実が、この依頼書を私にそう見せた。そっちの方が正解かも知れません。つまりは。私はある事実を知っていて。それからこの依頼を受けて。志賀さんが言った、殺人の動機には金や単純な憎しみよりも愛情のような深い感情の方が相応しいという言葉を聞いて。誘導されている。そう思った。ということです」
「なるほど」セレスティはゆっくりと頷いてから、ミナに噛み砕いた説明をした。そしてみなもに顔を向け「では、貴方の知っていた事実とは何でしょう」と聞いた。
「はい」
 みなもは深く頷いた。
 それから紅茶を一口運び、深呼吸する。ジーンズのポケットから、ある一枚のハガキを取り出した。
「私は。この依頼を受ける前の日に。違うアルバイト先で。今回、この依頼を草間興信所にFAX送信してきた森山和明さんの家の郵便物を手に入れてしまっていたんです」
「郵便物」
「はい。これは……全くの偶然でした。ちょっと……事情があって。返しに行こうとは思ってたのですが行けなくて。私はこれを持ったまま、草間興信所に行きました。そして依頼を知った。見るつもりは無かったのですが、ハガキだったため、目に入りました。読んでみて下さい」
 みなもはついっとハガキを差し出す。
 セレスティがそれを手に取った。その隣に座るミナがそれをくいっと覗き込む。
 細い指先で摘んだハガキをスリスリと撫でていたセレスティはふと声を上げた。
「被害者の秋山氏が……森山氏に当てた手紙」
「はい」
「早く来いよ。待ってるんだぜ。お前が俺を食べてくれる日を」
 ミナが抑揚なくそれを読み上げる。そして小首を傾げた。
「森山さんは。船の上で仕事でこの島に来たと言っていた。確認してもそう断言しました。秋山さんとの関係についても、高校を辞め秋山さんが姿を消してからは連絡を取り合ってないとも言っていた。だとしたらこれは。どういうことなのでしょう」
「確か。森山氏は今、志賀氏と一緒にいらっしゃるのですね」
「はい」
「秋山の死体を捜しに行ってる」
 ミナは横からそう説明して、「あ」と声を上げた。
「ねぇ。死体の場所。分かったんじゃなかったっけ」
 セレスティはミナの問いかけにゆっくりと頷くと、テーブルの上にある屋敷の見取り図を自分の前に引いた。
「私が島のことをここに来るまえ調べていたことは、メールで打った通りです。私は、この島で麻が栽培されていることを知った。そしてこの見取り図からそれを読み取りました。つまりは今でもこの島で麻が栽培されているかどうか。されているのだとしたら、それは何処か」
 見取り図の上を細く白い指先が、流れるようにゆったりと滑った。
「それは何処なんですか」
 セレスティは人形のような顔に微笑を浮かべる。
「何処だと思います?」


―4―


「何故なんだろう」
 ケーナズの声に男はギョっとしたように体を揺らした。
「嫌いな物の匂いというのはどうしてこうも、鼻につくんだろうね。嫌いなら、意識から抹消すればいいものを」
 ケーナズは話ながら前へ進む。室内の明かりをつけた。そして隅に蹲る少年が見える位置に、適当な物を見つけ背を預けた。
「嫌いな物ほど鼻につく。目に入る。けれど私はこうも思うんだ。ずっと目に入るから、嫌いなんだとね。だってそうだろう。目につかない物のことは人は大抵忘れて行くんだ。忘却の生き物だからね」
 目を見張り、ケーナズを見る少年を、ケーナズもまた、見た。
「しかしまぁ。今回は嫌いだったことに感謝せねばなるまい。お陰でキミに逢えたんだからね」
 白いレースのカーテンが、潮風にあてられ揺れている。
 煙草の匂いがプンと鼻腔に漂って来て、ケーナズは薄っすらと眉を潜めた。
 懐から携帯用灰皿を差し出すと、少年に向かい差し出す。それとケーナズを交互に見た少年は言った。
「誰だ」
「興信所から派遣された通行人A」
「興信所?」
 少年が訝しげに眉を寄せる。
「初めまして。北見幸太くん。お目見えできて嬉しいよ」
 ケーナズはその顔に微笑んで、優雅な仕草で一礼してみせた。
「どうして……僕の名前を知っているんだ」
「おっと。本当にそうだったのか」
「どういうこと、だ」
「一先ず煙草を消したまえ」
 そう言って、灰皿を差し出してやる。
 幸太はフンと鼻を鳴らした。
「煙草は二十歳になってから。なんてくだらないことを言うタイプかい」
 ケーナズはその顔を無表情に見つめる。
「私は煙草が嫌いでね」
 たっぷりと間を置いてそう言った。
「大体。煙草という者は他人に害を与えるだろう。それが私は気に入らないんだよ。煙草は二十歳になってから? そんな標語を口にする気はない。自分の体だけを痛めつけるなら。それはまぁ」
 そこでケーナズは肩を竦める。
「致し方ないだろう。気にもならない。個人の自由というものだ。しかし。副流煙はいけないよ。分かるかね。それは私にも、害を与えてくるということだ」
 幸太の持つ煙草から立ち上る煙を、ケーナズは無表情に見つめる。
「私が副流煙を吸い込めば、それは私も喫煙したことになる。間接喫煙。もしくは受動喫煙と言ってもいいがね。私が煙草など少しも吸いたいと思ってなくとも、煙は勝手に私の肺に入りそれを侵す。眼症状ではかゆみ、痛み、涙、瞬目といった症状。鼻症状ではくしゃみ、鼻閉、かゆみ、鼻汁といった症状。その他、頭痛、咳、喘鳴、呼吸抑制、指先の血管収縮、心拍増加、皮膚温低下といった症状が出て、大変な迷惑を私は被る。今や間接喫煙が、肺癌の原因となる可能性だって指摘されているんだ。分かるかね。キミのその一本のせいで。私は明日、肺癌になっているかも知れない」
「たかが一本で」
「たかが一本で。皆そう言うな」
 ケーナズは顔には出さずとも、喜々としてその上げ足を取った。
「しかし。限りのあるバケツからはいつか水が零れるものだよ、キミ。そのバケツの大きさは人それぞれとはいえ」
 そこで言葉を切って、幸太を見る。
「キミのその今吸う一本が。私のバケツの最後の一滴にならないとは言い切れない。違うかい? 何だってそうだ。積み重ねだ。積み重ねた事実の上に全ては成り立つ」
「貴方が生きようが死のうが僕には関係ないから」
「私だってそうだ。しかし、自分の悪事が下で死ぬのと。人の煙草に侵されて死ぬのとでは酷く違うよ。そんなことになったらキミ。それは殺人だ」
 幸太が指の間に差し込んでいた煙草から、長くなった灰がポッと。落ちる。
「さぁ。煙草を消したまえ。そして話をしようじゃないか。秋山捺が殺された日の話を」


―5―


「だって分からないから」
「まぁ。そう焦らずに。ケーナズが発見した血にまみれた部屋というのは何処ですか」
「ここだよ」
 ミナの紅葉のような手が、部屋の一つを指差した。
「秋山氏の部屋ですね」
「分かるの?」
「えぇ、まぁ」
 セレスティは見取り図の上に指を滑らせて行き読み取った情報を口に出す。
「ここからここまでが客室。ここが安蔵の書斎。一階の今居る場所がここ。食堂、厨房、そして榎本さんの生活スペース」
 みなももその指を追い、配置を頭に入れる。
「じゃあ。これは何なの?」
 ミナがその紙の中に記された、屋敷から別離されたような四角い建物の見取り図を指差した。
「何処のことを書いてあるのかな。地下室?」
 セレスティは無言で首を振った。
「じゃあ何処?」
 セレスティは細い指で顎を摘んだ。
 たっぷりと沈黙してから、言った。
「防空壕」
「防空壕?」
「あるの?」
 ミナが榎本に問いかける。
「い。いや。僕には分かりません……だいたいこの島に来てそんなに長くないし……」
 榎本がモゴモゴと答える。ミナは興味を失くしたようにテーブルに顔を戻した。
「ま。期待はしてなかったけどね」
「本当に知らないんですか。おかしくはありませんか。執事なのに、貴方は余りにもここのことに無頓着すぎます」
「そんなことを言われても……そんな。執事なんて良いもんではありません。僕は……ただ安蔵さんに拾って貰っただけなので。捺くんと一緒です」
「じゃあ貴方も安蔵氏と肉体関係が」
「いやいやいやいやいやいや!」
 榎本はブルブルと首を振り、気持ち悪そうに顔を顰める。
「そういうことをしない為に、いろいろ世話をやいてるわけでして!」
「あぁ……なるほど」
「でも。防空壕なんて何処にあるんだろう。ここに来るまで一本道だったよね?」
「えぇ」
「一先ず見るとしたら。屋敷の裏からではないでしょうか」
「屋敷の裏……そうか」
「それとも、森山さんと志賀さんが戻ってくるまで待つか」
「しかし。先ほどみなもさんがおっしゃった推理を辿ると。行き着く先は森山氏ということになるのではないのでしょうか」
「犯人は森山だってこと? でも。森山が依頼してきたんだよ!」
「そうです。森山さんが殺害したとして。それならどうして依頼なんかをしてきたか」
 みなもはそこで言葉を切り、間を置いた。
「殺したのは森山さんではなく。他の人物だった」
「じゃあ。どうなるの? だって森山は怪しいじゃないか」
「しかし、依頼してきたのは森山氏、ですよ」
 セレスティは笑いながらミナに言った。ミナはムーっと唸りながら小首を傾げる。
「しかし。どうしてそんな回りくどいことをしたのでしょう」
「死体を捜して欲しい。なんて依頼を、素直に受けてくれる探偵事務所があるとは思っていなかったか」
「でも。草間探偵事務所は何でもありだよ」
「それは草間探偵事務所を知っているから、とも言えます。でも」
「でも?」
「幸太さんが犯人であるという誘導、依頼書の嘘。つまりは佐久間さん達がこの島に居るということと、榎本さんが死体の第一発見者ということですが。それから依頼書の真実。これはたった一つ、秋山捺さんが殺害されている。ということ。これを踏まえると。森山さんは何かを守りたかった。それでこんな回りくどい方法をすることになった。と。そういうことではないのでしょうか」
「北見を捕まえて。秋山の死体を見つけて。それで守るもの?」
 ミナは一人呟き眉を寄せる。
「森山は。一体何を守りたかったんだ?」

「二つを同時に考えるから分からなくなるんだよ」

 突然、沈黙を遮る声がした。声は、サロンの入り口の方から聞こえて来た。
 皆、一様に扉を振り返る。
「志賀さん!」

 志賀がそこに居た。


―4―


「殺された? どうして」
「隣の部屋でね。乱闘騒ぎがあったようなんだ。キミ。ずっとここに居たなら、知らないか」
「そんなこと、知らない」
「隣の部屋は血まみれでね。どうやら。秋山捺の部屋らしいんだ」
「知らないったら」
「では。質問を変えよう。キミはどうしてこんな所に居る? ここは安蔵の書斎だろう。しかも。物置の中。かくれんぼでもしていたか」
 嘲笑するかのようにふっと笑う。
「僕は隠れてなんか居ない」
「じゃあどうしてこんな場所に居る」
「探し物をしていたんだ」
「探し物とは?」
「鍋」
「鍋ねぇ」
「キミこそなんでこんな場所に居る!」
「言っただろう。私は煙草が嫌いなんだよ」
「だから?」
「キミに出逢う少し前。私はこの屋敷の見取り図を拝見させて貰ってね。この屋敷をくまなく調べたつもりだったんだが、まだ。そう調べてないところがあることに気付いた。それがこの物置だ」
「煙草とどう関係がある」
「キミは合いの手を挟むのが上手いな。焦らないで話をしようじゃないか」
 幸太を見やる。冷たい大きな黒目がケーナズを見返していた。
「ところでキミは。秋山捺という青年を知っているのか……とは愚問だったな。知っているに決まっている。キミはあの青年を酷く慕っていたからな」
 ケーナズが手を振ると指の間から便箋が現れた。
「異次元ポケットだ」
 ふざけるように言ってそれを幸太の方へ投げた。
「秋山捺の部屋を少々調べさせて貰ったよ。いや失礼、漁りの趣味があるわけじゃない。理由は先ほども言ったが……秋山捺殺害に関する情報を集める為、だ。私はそこに死体があるものだと思っていたんだ。そして死体を見ようと。殺され方で加害者の気持ちを推測できることもあるからね。しかし、予想に反して彼の遺体はなかったよ。代わりにこんな手紙を見つけたわけだ。更に、煙草の匂いも。私は異常に嗅覚が優れているわけではないんだ。ただね。嫌いな物の匂いはどうやったって鼻につく。喫煙者の女性がね。禁煙主義の彼氏の前で香水を振り撒くようなものだよ。血の匂いの中にあったって、煙草の匂いは消せはしない。キミはあの部屋で煙草を吸っていたんじゃないだろうか。私が来る少し前まで。それから、まぁキミの言葉を借りればキミは探し物をしにこの部屋へ移動した。そして私が来た。そういうわけだ……しかし。この手紙だけれどね」
 もう一度手を振って便箋を取り出すと、また投げ。何枚かそれを繰り返した。
「分かるよ」
 ケーナズは空いた両手を空に翳して、溜め息交じりに言った。
「キミのこの手紙に込められた気持ちは痛いほど分かるな。けれどもう少し言葉を覚えた方がいい。ありきたりすぎるよ、キミ。だから相手にして貰えなかったんだ」
「相手にされなかったわけじゃない」
 幸太はそこでやっと口を開いた。
「相手に出来なかっただけだよ」
「相手に出来ない?」
「あの爺が居るからさ。男妾だって調べはついてるんだろう? 僕の祖父だよ」
「安蔵が邪魔だったわけだ」
「邪魔だったね」
「安蔵を殺そうと思ったことは?」
 幸太はふっと笑った。
「それこそ愚問だ。あるに決まってる。何度も思ったさ。でも……捺が悲しむと思ってね。やめたんだ」
「安蔵と愛し合っていたからか」
「違う!」
 幸太は立ち上がり。やれやれといった風に首を振った。
「違うよ。分かるだろう。愛し合ってるわけがない。捺が悲しむのは。あんな爺を殺して僕が警察に捕まることさ」
「そりゃまた、都合の良い解釈だ」
「捺は悲しむんだ。僕が傍を離れると。彼は悲しくなる。辛いんだ。僕が傍に居ないと生きていけないんだよ」
「けれど。事実は違った」
「違ってない!」
「では何故。秋山捺を殺したんだ」
「ころ。殺し、殺してなんか居ない!」
 ケーナズは自分のスーツの襟を撫でた。ゆっくりとそのまま前方に手を突き出すと、その手の中には一枚の紙があった。
「手品だよ。種も仕掛けもある」
 おどけたようにそう付け加え、今度はスーツのポケットから普通にハンカチを取り出した。
 片手に四つ折された紙。片手にこんもりと膨らんだハンカチを掲げ、幸太に問うた。
「どっちから先に見たいかね」
 幸太はじっと両手に視線を注ぎ黙っている。
「ならば私が決めよう。まず、こちらから」
 ハンカチを開くとそこには人の目玉があった。それは水分を失い、干からびかけている。
「私の母は貴族の出でね。そこにも居たよ。人の痛みの分からない人間が。生きたまま目を失うというのは想像するだけで恐ろしい。むしろそんな事が実際に出来るかどうかすら想像が及ばないよ。しかしキミはやってのけた。居るんだ、そういうことが出来る人間が、ごく僅かだが。その「少数」ということを、違う意味で捉え「自分達は選ばれた人間だから」と思っている場合も多いがね。キミもその一人なのかな? 全く。素晴らしい勇気だよ。讃えよう」
 ケーナズはわざとらしく拍手した。
「キミが彼の目をこんな風にして何処へとやったかは分からないが放置すればね。人は確実とまで言えなくとも死ぬ確立の方が高いんだよ。それでも殺していないなんて言うならキミ、それは冗談が過ぎるというものだ」
 ケーナズは傍に置いてあったダンボール箱の上にハンカチごと目玉を置いた。そして今度は四つ折された紙を開く。
「次はこれだね。筆まめなキミにしては珍しい。機械文字だ」
 そして詩を朗読するようにそれを読み上げた。
「大きな鍋が欲しい。それは貴方を煮込む為。貴方の血も肉も骨すらしゃぶって一つ残らず平らげて。そしたら貴方と一つになれる。大きな鍋が欲しい。それは唯一、貴方と変わらず離れず、共に在れる方法だから。貴方を煮込む為。大きな鍋が欲しい」
 紙から視線を幸太に移すと、ケーナズは短く笑い声を立て笑った。
「それで鍋かね。自分がからっぽだからと人の肉まで食うつもりだったのか?」
「知らないよ!」
「何を知らないのだね。反論があるならば順序立てて説明して貰おう」
「そ。そんな目もそんな詩のことも僕は知らない! い。いや。違う。詩のことは知っている。それは……捺が書いたんだ。僕も見たことがある。始めは……捺が。捺がそれを爺からか渡されたんだと思ってた。だから僕は……言ったんだ。気味が悪いねって。そしたら捺は笑った。『気味悪ぃかぁ。普通そうなんかなぁ』そう言って。ずっと笑ってた。じいちゃんにその手紙を渡したんだ。捺が。捺が書いて渡したんだ」
「ほう」
「その目玉も捺のじゃない! 僕は捺の目を潰しただけだ。僕じゃない……僕は殺してない。捺は死んでない」
「潰した、だと」
 幸太はそこでふっと笑った。ぞっとするほど醜い笑みだった。
「捺にね。言ったんだ。嘘だよ。気味悪くなんかないよって。愛したら、食べたくなるよねって。それは捺に合わせただけだったけど。でも僕は。こうも思った。愛されて、愛され過ぎて。捺に食べて貰えるなら。それでもいいかなって。僕はその時、確かに捺の気持ちを理解してあげられていた。やっぱり僕だけだったんだ。捺の気持ちを分かってあげられるのは……愛する人を食べたい。それは捺流の愛の印さ。そうなんだよ。僕は。僕には分かるよ。だから。だったら僕を食べればいいって言ったんだ。だって捺は僕を愛してるから。きっと僕のことも食べたいはずなんだ。そうだろう? 人の肉を食べたいなら僕の肉を食えばいい。そう言ったんだ。あんな爺のじゃなくて。僕だよ。僕の肉を、僕を食べればいいって」
 ケーナズは嫌悪に眉を寄せつつも、一方でそれほどまで何かを愛した幸太を哀れに思っていた。
 自分が食べられてもいい。そう思えるほど彼は捺を慕っていた。例えそれが、思春期故の青臭い思い込みなのだとしても。
「でも。捺は笑ったんだ。大声で、笑った。僕を笑った。『は? それって俺、ただのあれじゃん。サイコじゃん。チゲーって。もうマジ全然ちげぇ。愛してるからオイシイんじゃん。愛してるから。食べたいんじゃん、ねぇ。愛してない人の肉なんて気持ち悪いよ。食べたくないよ。何言ってんの。気味悪ぃ』そう言って僕を笑ったんだ。許せなかった! 僕は許せなかったんだ! どうして? ねぇ。どうしてさ。愛してるはずだろう? 僕を食べたいはずだよ。僕を愛してるんだから。なのに何故? あの爺にはあんな手紙送ったのさ。嘘だよ。捺が、食べたいほどあの爺を愛してたなんて……嘘だ! どうして僕の肉を食べない。どうして僕を愛してくれない?! だから……目を潰されて。何も見えなくなればいい。そう思ったんだ。僕は僕だけが傍に居て。そしたら彼は僕に依存する。僕しか見えなくなる。僕しか感じなくなって、僕しか愛せなくなる。それでね。防空壕に閉じ込めてやったんだ。可愛い捺。カッコいい捺。僕だけの捺。いいよ。食べてくれなくても。僕が捺を食べればいいんだ。それだけのことだよ。でも。まだ食べない。時間ならあるんだ。僕を見ないなら……僕だけを見れるようにすればいいだけさ。捺はその無駄な目をなくしたことで本当の愛に気付くんだ。僕を愛するんだ」
「しかし。キミ、秋山捺は死んでい」
「わーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 信じられない大絶叫がケーナズの耳を突く。幸太は耳を塞ぎながらその場に蹲った。
「聞こえない。聞こえない。何も聞こえない。僕は悪くない。捺を殺してなんかない。捺は生きてる。僕だけのものだ。わーーーーわーーーーわーーー」
 絶叫の中でケーナズは小さく溜め息をつく。
 しかしそれにしたって。
 だったらこの目玉は……誰の物なのだ?


―5―


「はぁあ。やれやれ参った参った」
 志賀は暢気にそんなことを言いながらサロンに入り椅子にどっかりと腰掛けた。
「おい。俺の分も紅茶を頼む」
 榎本に向かい言う。
 真っ先に食いついたのはミナだった。
「ねぇ! 森山は?」
 志賀はふっと笑い肩を竦める。
「逆上した異常者を捕まえようなんて馬鹿げた考えは、警察を辞めた時に一緒に置いてきたんでな」
「逆上」
 セレスティが小さく呟いた。
「それに。死体を持ち去られるのを阻止してくれ、なんて依頼書には書いてなかった」
「持ち去る。持ち去るって! じゃあやっぱり森山が犯人だったの?!」
「犯人……ではない。が、犯人でもある」
「どういうこと?」

 コンコン。
 ミナの声を遮るようにして、ノックの音がした。開け放たれたドアの方を皆。見やる。
「上にも錯乱したのが一人居る。誰か助けてやっては貰えないかな」
 ケーナズが立っていた。
「パパ!」
 ミナが声を上げる。その隣でセレスティが苦笑した。
 ケーナズは唖然としてミナを見る。
「まだ。そんな歳ではないんだが」
 苦笑しながらも柔らかい口調でそう言った。志賀同様、サロンのテーブルにつく。向かいに座るセレスティが小さく会釈した。
「名探偵集結、ですか」
 そしてそんなことを穏やかに言った。
 志賀は立ち上がり、廊下に出る。厨房に向かい歩いて行った榎本の背中に「紅茶もう一つだ!」と大声で言った。
 戻って来てテーブルに座ると「さて。種明かしをしよう」と言う。
「森山はいいんですか!」
 みなもが言うと、志賀は溜め息を吐いた。
「行ってもいいが。グロテスクな物を見ることになるぞ……逃げる心配はない」
「どうしてそういいきれるんですか」
「犯人じゃないからだ」
「秋山捺を殺害したのは、北見幸太だ。上で錯乱しているが。話は出来るだろう。心配なら聞いてくればいい」
 ケーナズが横から付け加えた。
「つまり。トリックも何もなく。この島には、秋山氏と北見氏しか居なかった。自動的に北見氏が犯人となる。そういうわけですか」
「ま。後から考えればそうなるな。始めに分かっていればこんなに苦労することは無かった。そこに、今回の事件の種がある」
「秋山氏の死因は?」
「大量の出血による失血死だ」
「幸太は。明確に捺を殺そうと思っていたわけではなかったようだ。まぁ。彼の言葉を借りれば、彼の目の自由を奪い彼を支配したいと思っていた、らしい」
「怖いねぇ」
 志賀が全然そうは思ってないような顔つきで呟いた。
「目を潰してあんなところに放置して、人が死なないわけがない」
「防空壕ですね」
 セレスティの問いに志賀とケーナズは同時に頷く。
「しかし殺された秋山捺は、暫くの間、自室に放置されていたと見える。部屋中が血の海だった。多分、暴れたんだろう」
 みなもは顔を顰めた。その光景を頭に描いてしまったのだ。
 そしてチラリとミナを見た。しかしミナはランランと瞳を輝かせ、ことの真相を明らかにされるのを待っているだけのようだった。
「そして。そこで息、絶えた」
「悲鳴とか。は?」
「上げたって聞こえないだろう。ここは東京湾の上、だぜ?」
「その上榎本氏は仕事で外へ出ていたわけですから」
「あ。そっか」
「そしてだ。そこに森山がやって来たんだ」
 そこで志賀はテーブルの上に視線を走らせた。
 秋山捺が森山に対し出した手紙をその手に取る。
「これは、誰が持ってた物だ?」
「私です……」
「ふん」
 志賀は鼻を鳴らした。
「通りでなぁ。お前はこれを持っていたからあんなに森山に突っかかったんだ」
「突っかかったわけでは……真実を、知りたかっただけです」
 志賀はただ頷き、言った。
「森山は……秋山捺という男を愛していたんだ。それも……ただの愛じゃない。憧れだ」
「憧れ」
 ケーナズは頷く。
「森山と秋山は男同士だ。普通の人間なら……そこで一本の線を引こうとする。彼を慕う気持ちは憧れであると。恋というのは……肉欲を伴う。恋というのは……綺麗ごとだけでは済まされない。相手の全てを見ることだ。醜い姿ももちろん、醜くない姿も。憧れのまま線を引くというのは、男女の恋愛でもあることだろうが……男同士ではそこへ踏み込むまでにまた一つ、大きな壁があるものだ」
「その通りですね」
 セレスティも深く頷いた。
「この手紙から推測するに……恐らく。森山氏も出来るだけ秋山氏と距離を置こうとしていたのでしょう」
「でも。森山は秋山が殺されたことを知ってしまったんだ。仕事でこの島を訪れた時だったと言っていたな。森山は動揺し……その錯乱する気持ちの中で……男同士だと踏み止まっていた壁を越えた。死体を持ち帰りたかったんだとよ。その辺の心理は俺には分からないがな。しかし。それは出来なかった。何故だ? 仕事で来ていたからさ。一先ず誰にもそれを知られず仕事を終えて、またこの島に来よう。そう思った。けれどそう出来ない事態になったんだ」
「死体が無くなっていた。ですか?」
 セレスティの問いに志賀は深く頷く。
「森山は防空壕でこう言ったんだ。こんな所に居たんだ、とね」
「では……あの依頼は。秋山さんを殺した犯人を突き止めて欲しいのではなく。秋山さんの死体を見つけて欲しかった、と」
「そうだ。それに警察は元々この島に上げることは出来ないが、緊急事態で上げるにしても、警察なら秋山の死体を持ってっちまう。森山にとってもそれは都合が悪かった」
「となると。佐久間兄弟に至っては完全なフェイクということですね。もし犯人が北見だけだとするならば、何故捕まえないんだ、となるでしょうからね」
「そうだ」
「しかし……何故、では死体を見つけてくれ。と素直に依頼してこなかったのでしょう。あんな嘘をつく必要が何処にあるのでしょうか」
「話が一番最初に戻ったな」
「はい」
 そこでケーナズは徐に一枚の紙を取り出した。
「本当かどうかはわからんが。捺が安蔵に当てた手紙らしい。詩とも言うがな」
 一同にそれを回す。
「安蔵は気味悪がったらしい。確かに、こんなラブレターを貰ったら困るだろうな」
「まさか……」
 ケーナズはそこでハンカチに包んだ目玉も取り出した。
「秋山捺の部屋にあったものだ。これを私は、秋山捺の目だとずっと思っていた」
「じゃあ……安蔵氏は」
「食べられちゃった?!」
 ミナが口元に手を当て声を上げる。
 暫くの間、沈黙がサロンを包んだ。
「しっかし。遅いな紅茶は。何やってんだ」
 志賀は溜め息交じりに呟いた。
「あんなんだから森山に第一発見者に仕立て上げられるんだよ。頭軽そうだからなぁ。森山にしたって騙せると思ったんだろう」
「騙す?」
 みなもの問いかけに志賀は笑った。
「しかし森山の誤算は、榎本の頭が予想以上に軽かったことだ。榎本は毎日、メールチェックしなければならなかったそうだ。それは安蔵に言いつけられていたことだ。と、いうのは秋山から聞いた情報らしいがね。あの依頼書に書いた佐久間らや北見のことも、秋山から聞いた通りを書いたそうだ。秋山はな。森山に毎日メールを送っていたらしい。それは日記のような物だったらしいがね。手紙とメール。マメなこった。秋山は多分。森山を特別に思ってたんだろう……おっと。話題が逸れたな。それでだ。秋山からそう聞いていた森山は、口裏を合わせるように榎本にメールしたんだ。勿論、自分の名を偽って、だが。脅迫メールといった所だろう」
「しかしそれを榎本は怠っていた」
「そうだ」
 志賀が深く頷く。
 そこで廊下からバタバタと人が走ってくる足音がした。
「た。大変です! しゅ、主人が行方不明で!」
 泣きそうな顔で榎本が訴える。
 不謹慎だが。
 みなもは少し、笑ってしまった。
「事件の真相は腹の中ってか」
 志賀の一言がまた、皆の失笑をそそった。




FIN




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号2151/志賀哲生/男性/30歳/私立探偵(元・刑事)】
【整理番号1252/海原みなも/女性/13歳/中学生】
【整理番号1481/ケーナズ・ルクセンブルク/男性/25歳/製薬会社研究員(諜報員)】
【整理番号1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【整理番号3099/ミナ・ロスト/女性/14歳/時の旅人】


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■         ライター通信          ■
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 初めまして。
 東京湾に浮かぶ島にご参加頂き有難う御座いました。
 執筆者、下田マサルで御座います。

 素晴らしい名探偵の方々に囲まれまして、事件は何とか解決出来るに至りました。
 有難う御座います。
 ご意見ご感想などありましたら、メールフォームをご利用頂けると有り難いです。


 それではまた。何処かでお逢い出来ることを祈りつつ。
                           感謝△合掌  下田マサル