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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


誘拐犯
「お願いがございます!」
 ばたん!と勢い良く事務所の中に飛び込んできた少女が、子供らしからぬ言葉でそう叫んだ。
「……またお前か。今日は何の用だ?」
 つい最近も、友人を伴ってやって来た雨宮翠にちらっと目を送り、草間武彦が嫌そうな顔をする。
「私の大切な友人が――攫われました」
 今日はセーラー服風のワンピース。スカートを小さな手でぎゅぅ、と握り締めながら俯いて唇を噛む。
「…其処に立ってないで入って来い。中で話を聞こう」
 やれやれ、と思いながらも、翠の悲痛な表情を見てしまっては追い出す事も出来ず――それ以上に、攫われたという言葉に放っても置けず。中へと招き入れた。
「詳しい話を」
「翠の――私の、幼い頃から一緒に育った子が、おとといから行方不明になってしまったのです。…昨日…テレビで初めてその事を知り、居ても立っても居られず」
「…其れは…気の毒な話だが、攫われたとは限らないだろう?」
「恵美は、1人で何処かに行けるほど肝が据わって居りません。…常に、私か、他の友人か、親御様かが居ないと何処にも行けず直ぐに泣き出してしまう程なのです。――誰かを探しに行くなどと言う才覚も有りませぬ故…」
 誰かが連れ去りでもしない限り、移動する事など無い。そう主張する翠が、きぃっと強い視線で顔を上げる。
「お願い致します。資金面での問題が有りましたら、此方が何とか致します故」
 ……その年の少女に何が出来るか、と言いかけた武彦が口を閉じ、
「いいさ。事件だとすれば問題もある。金の事は心配するな…子供にどうにかしてもらおうとは思っていないからな」
 ぽむ、と翠の頭を軽く叩いた。安心しろ、と言うように。
「あの日、泊りがけで父御に会いにさえ行かなければ、――悔しゅうございます」
 再び俯いた翠が小さく震えているのにも、気付かないふりをして。
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「新聞に載ってるか?」
「――佐倉恵美(さくらえみ)ちゃんですね。幼稚園の帰りに行方が分からなくなったと書いてあります。事故か事件かは分からないらしく、今も捜索は続けているようですが…」
 新聞に載っている小さな写真は、ふっくらとした頬の、見るからに『可愛らしい』女の子の笑顔。
 心配ですね、と零が呟く。
 翠に少女の自宅の住所と電話番号は聞いている。両親は父親が平凡なサラリーマン、母親は主婦だそうだ。誘拐だとしても、営利誘拐はあまり考えられない。
「難しいかもしれないな」
 ぽつりと、武彦は小さく呟いた。

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 何人かが集まった、と聞いて急いでやって来た翠が、集まった皆の前でごそごそとバッグを探る。
「この写真が以前皆で出かけた折の写真で御座います。この御二方が彼女の親御様…」
 自分の小ぶりなバッグから大事そうに取り出したのは、遠足だろうか同じような格好をした翠の隣ではにかんでいる少女の写真、そしてもう一枚は親子で写っている写真だった。どうやら妹か弟がいるらしく、母親の腕の中にはきょとんとした顔の赤ん坊が抱かれている。
「この子は?」
「恵美の弟御です」
 指さした芹沢青にそう答え、そしてまた再び写真に食い入るように見入る。
「ちょっと変なことを聞きますけど…恵美ちゃんの家族について、詳しい話を知らないでしょうか?」
「それは、どのような?」
 小さく首を傾げて海原みなもを見上げる翠。傍目には年不相応な子供に対し真面目に大人が語らっているような図にしか見えないのだが。
「例えば、養女だとか」
「あ…」
 翠もその点は考えていなかったのだろう、ぽかりと口を開けて、それから首を振り、
「流石にそこまでは存じ上げませぬ。でも…それだと彼女の身内に『鬼』が居やるかもしれないと?」
 眉を潜めながら言う。はっきりとした言葉ではなく、鬼と表現することで少しでも口の苦さを紛らわすつもりだったが、どうにも居心地が悪くなって来たらしい。その様子を気の毒そうに見ながらも、
「不審ですよねぇ。だって幼稚園って送り迎えに親が来るじゃないですか。1人で帰すなんて…おまけに、人見知りするような子なんでしょう?」
「ええ」
 みなもの問いにこっくりと大きく頷き、
「私も通っていた場所故知っていますが、送迎バスが出ています…それに、普段は私も彼の母御と一緒に迎えに上がっておりましたし」
「そう言えば、居なくなったのは、幼稚園ですか?それとも、そのバスの降りた所?」
 これからの行動を考えているのか、視線は少し外れた地点を見ながらのケーナズ・ルクセンブルクの問いに、
「あ…それは送迎バスを降りた後のようですね」
 他に何か情報はないかと調べていた零がその言葉に口を挟んだ。
「となると、やはり誰もいなかったのかしらね…誰も居ない場所に置いて行くなんて、引率の人も軽率な」
 苦い顔をしながら田中緋玻がゆるっと首を振り、
「居なかったとは限らないわよ?」
 シュラインが静かに、表情を崩さないように言う。沈鬱な顔を見せればかえってその場の雰囲気が重くなると考えてのことか、
「――知り合いが居た可能性もゼロじゃないもの」
 そう続けた。
「やはり、一度お話を伺いたいですね。もう警察の人が入っているかもしれないですけど」
 難しそうな顔をしながらみなもが言う。確かに、誘拐事件と断定されているのなら警察が彼女の家に詰めていてもおかしくはない。みなも達が入り込む隙があるとしたら、誘拐と思いつめている翠はともかく、公式には『行方不明』とされている――その現状を期待する他無い。
「俺も行く。聞いてみたいことがあるからな」
 それにしても嫌な話だ、と顔をしかめながら青が立ち上がった。

 とりあえず、行動を話し合って二手に分かれることにする。1つは恵美の自宅へ行くみなもと青の2人。もう1つは幼稚園から自宅までの近隣を調べることにしたシュライン・ケーナズ・緋玻の3人で。
 翠は武彦の助言もあり、事務所に留め置くことにして、皆が席を立つ。その縋るような視線を背に感じてやや足を急ぎながら。

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「こんにちは」
 ブザーを押すと、ばたばたと慌てた足音と共に勢い良く扉が開く。一瞬何かがちかりと光り、みなもが目を細める…それは光に反射した胸元の猫のブローチで、
「――どちら様ですか?」
 何か期待したような目を向けた、穏やかな中年の女性がその場に立っていた。てっきり母親が出てきたと思った2人がきょとんとする。
 その女性は、翠の持ってきた写真には写っていない人物だったからだ。
「すみません、突然お邪魔して。…興信所の者なんですが、恵美さんの捜索を依頼されたんです。それで、お話を伺いに来ました」
「そうなんですか…わざわざご苦労様です。どうぞ」
 警察は、近所を捜索しているのだろうが家の中にはいないようで、余計な詮索をされることもなさそうでほっとする。
「その後…進展は?」
「いえ…何も。ですから、心配で心配で」
 真赤に泣きはらした目に浮かんだ涙をふき取る母親、その背を優しく抱きとめた女性が大丈夫ですよ、と労わりの言葉をかける。
 通された居間には、不安げなまま家で待機している夫婦――それに、もう1人、出迎えてくれた女性がその場に居た。まるでその場の主役のように、気落ちしている2人を労わりながら何くれとなく世話をしている様子に不思議なものを感じたか、
「この方は?」
 みなもが首を傾げて訊ね。夫婦が顔を上げるとほぼ同時にその本人が慌てたようにぺこりとお辞儀し、
「あ…近所の者なんですが、他人事とは思えなくてご迷惑を顧みずお邪魔させていただいています」
「邪魔だなんてとんでもない…浅沼さんには、本当に良くして頂いて。恵美も随分懐いていましたし」
 気を紛らわせるためか、その浅沼昌子という女性の話題へ持っていく母親。それによると、子供好きで、ボランティアとして近くの道路の交通整理をほとんど毎日行っているらしい。今回のことも、いなくなったと騒ぎはじめてから何度も顔を見にやってきたのだと、会話中何度か礼を交えながらそんな話をしていった。
 もし、この誘拐事件のことをワイドショーなどで見る機会があれば、すぐ分かっただろう。
 メディアにインタビューを受けて我が事のように声を震わせていたのがこの女性だった、と。

「興信所の方ですか…」
 2人の若さと、見た目が気になるのか、父親がやや不審そうな顔をしたものの、突っ込んで訊ねる気力も無いのか肩を落とし、
「恵美を探してくれているそうですね。…何か分かりましたか」
 そう、訊ねて来た。
「そのことで、お伺いしたいことがありまして」
 みなもがしゃんと背を伸ばして、ごく穏やかな表情で問い掛ける。
「ぶしつけな質問になると思いますが…強制ではないので、無理に答える必要はありません。宜しくお願いします」
 やや虚ろな目でいた2人に、みなもの言葉でほんの少しだが生気が甦ったようだった。なんでしょう?と小声で聞き返してくる。
「いなくなった当日の事なんですけれど、通常は送迎バスの出迎えに予め居る筈ですよね。その日は何かご用事でもあったんでしょうか?」
 そのことを聞いて、母親がきゅっ、と唇を噛んだ。
「…いつもどおりに出る筈だったんです。けれど、その日は直前に電話が掛かって来まして…普段ならご近所の人や、お友達が何人もいますので、少しなら遅れても大丈夫だろうと…すみません」
 その事がずっと心を締め付けているのだろう、また泣き声になりかかり、無言で父親がその背をぽんぽんと叩く。
「その電話の相手は?」
「遠い場所に居る友人です。久しぶりだったもので、気付いたら随分時間が過ぎていて…急いで行った時には、もう…」
 そうですか、とみなもが考え込むような姿勢になり、
「もし誘拐だとすれば身代金…もしくは、何らかの要求が来たりすると思うんですが、その辺は?」
 青が、これもまた何か気になることでもあるのか首を傾げながら聞いた。
「いや、その辺は全く」
 事態の進展が無いと言うのはそのことも指しているのだろう。これには父親が答え、
「それじゃ…変な話、知り合いで子供を欲しがってるのに恵まれない人とかに心当たりは」
「――知り合いのことを疑いたくは…それに、特にそういった知り合いはいないな」
 母親へと顔を向けたが、聞いているのかいないのか肩を震わせるばかり。
「あの…立ち入った質問なんですが、恵美ちゃんって…お2人との血の繋がりは…」
「それは、もちろん、ある。今は実家に預けてあるが大智だって私達の子供だ。血の繋がりを疑うのは構わないが、例え繋がって無くても大切な娘に変わりは無いんだ。変な言いがかりを付けるのは止してくれないか…」
 一瞬いきり立つかと思った父親だったが、最後には疲れたように肩を落とした。恐らくは、みなも以外の者にもその辺りの探りは入れられたのだろう。

「…どうぞ」
「すみません」
 人数分のお茶を出す昌子。家の電話をぎりぎり身近な位置へ引き、それを眺めている父親は目の前に置かれた湯呑みをただ機械的に口にするだけで、それきり話に加わって来ようとはしなかった。
 暫くお茶を啜る音だけが部屋に響く。
「…ここに来る前は子供もいたんですよ」
 疲れたか夫に凭れ、寝入ってしまった母親を気の毒そうに見ながら、静かに話し始める昌子。遠い目をしながら、
「でも、ある日攫われて、――殺されました」
 今でもその時のことを思い出すと胸が痛むのか、手に持った湯呑みをぎゅっと握り締める。それからふっと息を吐き、
「だから、本当に他人事とは思えなくて。…恵美ちゃんは無事ですよ、きっと…」
 それが願いでもあるのか、薄らと涙さえ浮かべて昌子は言った。

 玄関まで見送ってくれた昌子にお茶の礼を言いながら、何か聞きに行く事があるかもしれない、と彼女の家の位置を聞き出していると、丁度調査を終えたか3人が難しい顔をしながら恵美の自宅前に到着した。ついでに、と3人を昌子に引き合わせる。

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 その変化にすぐ気付いたのはシュラインのみだった。『音』を聞くために感覚を研ぎ澄ませていたせいもあっただろう。
 ケーナズと緋玻の2人の表情がごく微量ながら不審げな顔になり――其れと同時に心拍数が少しの間だったが跳ね上がったのを。
 恵美の家から離れるに従って、穏やかな表情だったものを変化させていった2人にみなもと青も気づいて行ったが。
「何か、気になることでも?」
 互いの情報で分かった事を言い合いながら、次第に辺りへ聞かせまいと輪が小さくなっていく。
 その中で、緋玻が調べたと言う、恵美が持っている筈の幼稚園の名札――それがあるらしき方向を告げた途端、みなもと青が奇妙な顔をし。
「偶然…でしょうか。その方向って…あの人の住まいがあるんですけど」
 ちら、と恵美の家を見ながらみなもが言う。そう、と呟く緋玻。
「疑うのは気が引けるのだけれど…どうも気になるのよ」
「…彼女ですか」
 ケーナズがすぐに応じた。少し驚いた顔をし、
「あなたも気になる?」
 緋玻が勢い込んで訊ねる。
「私も確信はないんですがね…」
 くい、とそれが癖でもあるのか眼鏡に触れ、
「彼女の胸に付いているブローチ…アレ、会う前に見たんですよ」
「何処で?」
 青の言葉に其方へす、と目を向けると、
「恵美ちゃんの行方を『力』で探っている最中に」
 静かにそう答えた。
「そうだとすると、分かっていて彼女の家に行ってることになるわね」
「何でですか?だって…本当にあの人が、恵美ちゃんを連れて行ったんだとしたら…」
「それは分からないけれど。ただ、本当に心配であの家に来ているのなら、あんな鬼気が彼女から発せられる筈は無いのよ」
「あ…あれか」
 青も何か感じていたのだろう。顔をしかめ、そして昌子が住んでいるという辺りへ目を向けて。
「一度、彼女の家にも行ってみた方がいいようね…それも早いうちに」
 シュラインが少し首を傾げ、何か口実はないかと考え出す。
「恵美ちゃんのことだけじゃなく、交通整理をしてるってことはあの辺りのことに詳しいってことよね。それなら不審な人や車を見なかったかどうか、聞きに行く口実にはなると思うわ」
「そうですね…両親の前では話しにくいことでも聞けますよね」
 みなもがこっくりと頷いた。

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「あら、わざわざ訊ねてくださって。どうしたの?」
 夕刻前に彼女の住居まで行くと、にこやかな笑顔と共にドアが開いた。辺りから良い匂いが漂っている時刻だったが、昌子はまだ作っていないのか開けたドアからはそういった類の匂いは無く。
「少し聞きたいことがあって…今忙しいですか?」
「いいえ、大丈夫。上がってくださいな」
 あっさりとアパートの一室に皆を通した彼女に、少し不審気な顔をする皆。もしかして、読みが外れたのか、と。
 だが、その疑問は新たな疑問にあっさりと打ち消された。
 最初は大きな人形かと見えた、襖をへだてた隣の室内。開いた隙間から覗く、部屋の奥で静かに座っている子供の姿に。行方不明の時の服ではなく、よそ行きの女の子の服を着せられていたその顔は、写真で見た少女そのまま。僅かに唇を開いた、無表情な姿で――目をぱっちりと開いたまま前方を見つめ続けている。その両脇に山と積まれたぬいぐるみに囲まれて…。
「聞きたいことって何かしら?」
「あの…すみません。それよりも、奥に見えるあれは何ですか?」
 みなもの戸惑った声に、客に出すつもりなのか、林檎の皮をくるくると剥きはじめるた昌子が同じく首を巡らせて奥を見。
「あら。…見てしまったのね」
 服のほころびを指摘された、そんな軽い口調で返すと、にっこりと笑いかける。――だが、その目は。
 笑っているのに、酷く虚ろ…穏やかな顔なのに、何故だか室内の空気がすっと冷えた、そんな感覚に囚われそうになる。
「本当、可愛い子でしょう?私のあの子もそうだった。可愛い盛りだったのに…ちょっと目を離しただけだったのに」
 にこにこと、笑いながら告げるその言葉に冷たいものが走る。彼女の瞳はどこも見ていない…其の事に気付いたためだろう。
「あの人は5分待っても来なかったの。5分もよ。そんなに目を離したら攫われたって仕方ないじゃない。ねえ?そうでしょう?」
 それは自己の正当化なのか、それとも――過去の自分が同じように責められたのか。推し量る術はないが…だが、今の状況が良くないことだけは分かる。
「で、でも…あなたが、見ていてくれたんじゃないですか。それなのにあなた自身が恵美ちゃんを攫って…どうしてなんです?」
「どうして?そんなの、攫った人じゃないと分からない…そう思いません?どうして、あの子が攫われないといけなかったのか。――どうして、殺されないといけなかったのか」
 だからね、と一瞬だけ怒りに満ちた表情を浮かべた後、再びほんわかとした笑顔に戻り。
「同じ目に合わせたら分かるかもしれないって。そう思ったの」
 ――『誰』を?
 同じ目に合わせると言うのは誰のことか。恵美の母親か、それとも――昌子自身か。
「あの子は攫われて3日目にはもう死んでいたの。犯人がそう言ったそうよ。仕方なかったんですって」
 まるで、他人事のように。歌うように、言葉を撒き散らす。
「だから、今晩を予定していたの。これからその支度をするところよ。皆さんもご一緒します?」
「遠慮させてもらうわ。あなたも…こんなことをしていないで、恵美ちゃんを返してあげて。同じ想いをしているあのご両親を見てるんでしょう?」
 ようやく言葉を挟めた緋玻が、静かにそう告げる。感情を押し殺したその言葉に何も感じないらしく、「そう」とぽつんと呟いて、
「それじゃあ帰っていただかないと、邪魔になっちゃうわね」
 にこりと笑って、無防備そのままの姿ですたすたと近づいてきた。――本気で見送るつもりらしく、笑みを湛えたままで。
 …どうする?
 皆が、顔を見合わせる。武器を持って手向かいされるよりもずっと危険な雰囲気がある…だが、ここで追い出された後の事を考えると、警察を呼んでも間に合わない可能性が高い。
「帰りません。あの子を連れ帰らないと」
 近づいてくる昌子に圧倒されつつもきっぱりと言い切ったみなもにぴくりと身体を動かすと、
「あの子は――あの子はもう死んだのよ。殺されたの――こんな風に」
 ちかりと光が目を打つ。一瞬彼女の胸に付けたブローチかと思った、が、
「危ない!」
 襟元を掴んで思い切り後ろに引張られた――みなもの目の前、首筋があった辺りをシュッとナイフの刃筋が線を描いた。一瞬の出来事に、みなもも、其れを見ていた皆も――引張った青でさえ、呆然と昌子を見つめる。
「不思議ね。相手が動けば当たらないこんな安物で、どうやって殺せたのかしら」
 ぺちぺちと刃を手の平に当てながら、さっきまで林檎を剥くのに使っていた果物ナイフの感触を、楽しむように弄んでいる彼女。その背後、襖の隙間から覗く恵美…数歩昌子が下がれば届くであろうその距離を危うく感じながらもすぐに行動に移せなかったのは、彼女の笑顔と、狙われた今ですら感じない殺気のせいだっただろう。
 襟を掴まれたままだったみなもがこほんと咳き込んだ。
 それが、合図になった。
「そのナイフを渡してください」
 みなも、シュラインがすっと下がり、青が一歩前に出――ケーナズが昌子に手を差し出す。
「そんなことをしたらまた買いに行かないといけないじゃない」
 安物だって無料じゃないのよ、そう言いながらゆっくり首を振る昌子。が、その意思に反して手だけがねじ上げられ、ぽろりと取り落とす。
 ころころと不自然な動きで転がってきたナイフを拾い上げたのは、いつの間にか眼鏡を外していたケーナズ。
「あ…っ」
 ナイフがその手から離れて初めて、昌子の顔に焦りが浮かんだ。武器を取り戻そうと一旦足を踏み出しかけ、そのまま思い返したかくるりと振り返って恵美の居る部屋へ飛び込もうとする。
「――させるかっ」
 青の言葉と、手がその背中に向かい――
 バシィィン!
 何かが盛大に弾ける音がして、昌子が小さな悲鳴を上げてその姿勢のまま床の上に崩れた。それと同時に、バチン、と音がして室内が薄暗くなり、この部屋以外の周辺からもやや遠いが悲鳴が上がってくる。
「あ――ブレーカー…」
 暗がりの中で青が言うなり、ぱちん、と音がして再び灯りが室内に点った。そこには呆れた顔の緋玻が腕を擦っており。
「広域スタンガン、という感じでしょうかね…」
 取り落としたナイフが畳に突き刺さっているのを見下ろしながらケーナズがぼそりと呟いた。
 肝心の昌子は、と言うと、これは青の思ったとおりに軽い感電に全身くまなくかかって気を失っており、それだけが救いと言って良かっただろう。
 …この時間、アパートの他の部屋でも急に手足が痺れたりブレーカーが落ちたりと言った怪現象が起こったようで、後々この部屋で捕まった犯人と関連付けられた噂となって飛び交ったのだが、それは別の話。

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「恵美さん、だいじょうぶですか?」
 警察を呼んでいる間、ケーナズがかけてくれた上着に包まれながら、無表情のままでいた少女にみなもがそっと語りかける。その声に気付いたか、焦点の合っていない目がみなもを見上げ。
 そのまま、暫く無言の時が過ぎた。相変わらず何も言わずみなもを見上げている恵美は、虚ろな視線から戻る様子が無い。
「…この子、様子変じゃない?」
 ややあって、ぽつりと口を開いた緋玻が気がかりな様子で呟いた。はっ、と周りに注意を払っていた面々が少女に注目する。
 先程まではそこで気を失っている犯人に押さえられ、あまつさえ刃物まで突きつけられていた状況であったのだから緊張のあまり固くなっていた、と言えなくもなかったが、見知らぬ者とはいえ味方と分かる人々の好意にあっても虚ろな目が戻る事は無く。
 いや、たとえ緊張した続きだとしても、新たな侵入者に警戒の表情や触れた時の抵抗があってもおかしくはないのだが…。
 警察に連絡を入れていたシュラインが、
「すぐ来るそうよ」
 ぱちんと携帯を畳んで言い、やはり気がかりなのか恵美の目の前まで行き、目線を合わせるようにしゃがみこんで、
「恵美…ちゃん?」
 ごく穏やかにそう話し掛けた。――今までみなもに目線を合わせていた恵美が、すう、と顔の位置を変えて今度はシュラインの目を覗き込むようにまっすぐ見つめる。やはり変わらず目に力はなかったのだが。
「――すみませんが」
 その場の緊張を破ったのは、ケーナズの…普段に似ず固い声だった。
「彼女の首か腕に針の跡はありませんか」
「針?」
 不思議そうにかくんと首を傾けるみなもと、対照的にきつい視線を少女に向ける緋玻とシュラインの2人。
「ごめんね」
 男2人に見えないよう、さりげなく視線から盾になった緋玻にこくりと頷いたシュラインが、少女のブラウスのボタンをぷちぷちと外し、そして襟をくつろげた後に腕をまくり。
 そして、顔色を曇らせた。緋玻の動きに合わせ自分でも壁を作って覗き込んでいたみなもにも其れは見えた。
 透き通るような白さの腕にぽつぽつと浮かび上がる、赤い点に。
「…少なくとも3回」
 その部分を指で触れると初めてビクッと少女が竦みあがり、そして奇妙な程ゆっくりな動きでもってシュラインの指から逃れようと身体をよじらせる。
「やはり」
 最悪だな…そう呟くケーナズの口は苦いものを口にした時のように歪んでいた。ほとんど刃物に近い視線を、まだ気を失ったままの犯人へと向ける。いっそ、切り刻んでしまいたい、とでも言うように。
「もしかして…麻薬か?」
 ケーナズの呟きを聞き止めた青が、横たわる女性から目を離して聞き返す。
「ええ。調べればすぐわかると思いますが」
 ケーナズの視線は、引き出しの中に仕舞いこまれていた其れに注がれていた。半ば開いていたその引き出しから覗くのは、大量に詰め込まれた薬と、それに混ざるように無造作に置かれた粉末が入った袋で。それ以上開こうとしないのは後の警察の捜査を思ってのことらしく、再び戻ってくると元通りの服装になった恵美を見、そして溜息を付いた。

 警察への引渡しは少しばかりごたつきがあったものの比較的スムーズに運んだ。ひとつには捜査に対する妨害と見られたことであり、また不法侵入ではないかと疑われたためで。だがそれも彼らの説明と、無表情ながら捜査陣が手を伸ばしてもぎゅっとみなもに抱きついたまま離れようとしなかった恵美の行動で次第に納得した様子に変わっていった。
 後日、調書を取ると言う事にも抵抗する様子を見せなかった皆の態度も相手の警戒を解くのに貢献したのだろう。
「容疑者を見つけた時点で連絡をいただければもっと良かったんですけれどね」
 ちくりと嫌味を言われつつも、
「まさか、彼女が関わっていると思わなかったものですから」
 しおらしげにそう言って見せた。一方で、薬の入った引き出しを見せたケーナズが、恵美の症状を見て薬を使われた可能性が高いと言う事、早いうちに病院へ搬送した方が良い、などとその場の責任者らしき警官へ話していた。

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「ご苦労だった。こっちにも警察から連絡が来ていたぞ」
 武彦が取調べを終えてぐったりした皆を労い、扉が開くなり声をかけた。零と翠がぱたぱたと全員分の飲み物の用意をするために歩き回っている。
「様子は…如何でしたか」
 カップをテーブルに並べながら、恐る恐る聞いてくる翠にややあいまいな笑みを浮かべながら、
「今病院にいるわ。暫くは入院と言う事になると思う」
 シュラインが、そう告げた。さぁっと顔色を青ざめさせる少女、その様子を見て慌てたようにみなもが口を開き、
「怪我とか、病気じゃないんです。検査とかそういうものだと思います」
 ――それが真実かどうか、翠の目が奥まで探ろうと訝しげに見…そして。
「そうですか…それなら、良いんです」
 ほっ、と息を吐いた。
 言うべきか否か、迷いが走る。
 誘拐された恵美が何をされて病院へ送られたか…その内容を。知りたがるのであれば誤魔化すよりは言ってしまったほうが後々のために良いのだろうが、今はお互いに探るような目で、言い出しかねているような状態だった。
「良かったな。大事な友人が無事に保護されて」
 その空気を察したか、青がにっと笑って翠の頭に手を置き――そしてぴくっと手を離した。手の平で受けた奇妙な感触に驚いたためだろう、ほんの少しだけ後ずさり、そして照れ隠しに小さく笑いながら手の平を見つめる。
 何かが動いたようだったが、手に何も付いてはおらず、また少女を見ても特に何が変わったわけでもない。
 ようやくそれに気付いたのは、とうとう翠の口から入院した訳と犯人のことを質問した時だった。気のせいか、目が先程見たときよりも赤く見え…特に室内に風が吹いてもいないのにその黒髪がゆっくりとのたうっている。
「…犯人は、翠ちゃんも知ってる人よ」
 そこへ、緋玻が静かに言った。直後、強い視線がそこへと向く――まるで、緋玻自身を犯人と見立てるように。
「どなたです」
「浅沼昌子…あなたが知ってる名前だと、『交通整理のおばちゃん』ね」
「!」
 彼女にとっても意外な人物だったらしい。目を丸く見開き、そして直後ぞわりと黒髪が渦を巻いた。
「あの女なら恵美も随分懐いていましたが…それでも、家に戻されないと知れば泣きそうなものですが」
 まさか、と小さな言葉が口を付いて出、
「注射したんですよ。――大人しくなるような薬を」
 その上で自分好みの服に着替えさせていたのだが、そこまでは言わず。
「そうでしたか…」
 何か考えていた翠が、そこでぴょこんと立ち上がり、
「有難う御座いました」
 深々と皆へ頭を下げた。
「――皆様のお陰で彼女も無事救い出されて、これ以上のお礼の言葉も出ませず…礼は後日改めて」
「待った」
 急いで事務所の外へ出ようとする翠へ、背後から武彦の声がかかった。
「何で御座いましょうか?」
 くるりと振り返った翠――その目は、ぞっとするような赤に満ちていて。緋玻でなくともその背に纏った焔が見えそうだった、が。
「何をする気だ」
 鋭い武彦の視線にややたじろいだ様子を見せながらも高らかに、
「決まっております。あの女に思い知らせてやらねば、気が済みませぬ」
 きっぱりと、赤々と輝いた瞳のままで言い切った。――こうして見れば、はじめ顔を合わせた時の子供らしさはかけらも見えず、ただその体から溢れようとしている夜叉の如き怒りを持つに相応しい、もう1つの貌が窺えた。
「もう、十分だと思いますよ」
 みなもの言葉にきっ、と睨みつけ、
「足りませぬ!よりにもよってあの女となれば…恵美の人見知りが悪化するのは目に見えていると言うのに」
「だからと言って、おまえがあの女をどうにかしたいって言うのは筋違いだろうが。俺だって出来るなら思い知らせてやりたかったくらいだというのに」
「ですが…」
「それよりも」
 シュラインが、うつむいた翠に語りかける。
「早くお友達が良くなるように、見舞ってあげる方がずっと良いと思うわよ?」
「そうそう」
 少女の瞳が揺らいでいる。怒りをもてあましてか、うろうろと視線が各自の顔に移り、そして最後に武彦を見た時にはその目はすっかりもとの黒さを取り戻していた。悔しげな表情までは消せなかったようだったが。
「…分かりました。法の手に委ねることに致します」
 そう言いながら、もう一度深く頭を下げると気落ちしたか先程の威勢の良さは消え、何故だか小さく見える背を向けて事務所から立ち去って行った。
「気持ちは分かるけどね」
 姿が消えてから、やはりもやもやした気を紛らわすように窓を開けて空気を入れ替えるシュライン。
「けど…これ以上はまずいしな。あいつに怪我をさせないように気を失わせるのは…正直勿体無かった」
「そうですね。わが身可愛さのあまりこういったいたいけな子供に手を出すような者には」
 言いながらもきらっと目を光らせるケーナズに、やっちゃいけないけどな、と青がやや白々しい笑い声を上げて牽制した。

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 数日後、再び翠が顔を出す。何やら袋に包まれた品を手に、先日のことが面映いのか照れ笑いを浮かべつつ。
「これは些少ですが、先日の礼に…皆で分けて下さりませ」
 開けてみると、形はいびつだったが動物らしき型抜きのクッキーで。
「菓子折りを持参したかったのですが、この身ではなかなか思うようになりませず…」
 小学生にはさもあらん、と武彦がおかしそうに口の端を歪める。小遣いから出して買えるものと言えばせいぜいが駄菓子程度だろうし、それを持ってこられても…いや、皆意外に喜ぶかもしれなかったが。
「それと、これは依頼料になります。お納めくださいませ」
「いや…子供の小遣いから取るつもりは無いが」
 言いながら、翠に返そうと紙に包まれたモノに触れ、ん…?と眉を潜め。そして、手に取って中を開いた。
「――おい」
「不足でしょうか?」
 包装紙にきちんと包まれていたものは、何処から持ってきたのか鈍い金色を見せる四角い固まり。本物なら、結構な価値のある古銭だろうと言うのは武彦にも分かる。
「これはどうやって」
「秘密です。今なら骨董としての価値もそれなりにあるかと思いますので、お好きになさってくださいませ」
 そう言い、にこりと笑ってみせる翠。…こう言ったものがあるなら菓子折りでも…と一瞬思ったが、良く考えれば子供がコレを持っていたところで換金の手段は無に等しいのだし、まあ良いかとあっさり受け取り。
「ところで、見舞いには行ったのか?」
「ええ。最初は会えませんでしたが、昨日ようやく面会が叶いまして」
 後遺症の類もないらしく、今は大事を取っているだけとのことで、相当暇だったのだろう、翠を見つけて嬉しそうに見舞いの間中話し続けていたと語る。
「そうか、それは何よりだ。…もう1人には行ってないだろうな」
「それはもう。何より、冷静に考えてみましたら翠の手を汚すなど出来ませんし」
 思い直す時間をもらって良かったと…あの時居てくれた皆へ礼を言って欲しいとそう告げ。
「今日もこれから面会なのです。それでは失礼致します」
 すっかり蔭が消えた朗らかな顔でもう一度ぺこりと頭を下げると、今度は年相応の表情に戻ってぱたぱたと事務所から出て行った。弾むような足取りが、事務所内に反響する程。
 その変わり様に、武彦の口から意識せず、くす、っと笑いが漏れた。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ    /女性/ 26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1252/海原・みなも      /女性/ 13/中学生              】
【1481/ケーナズ・ルクセンブルク/男性/ 25/製薬会社研究員(諜報員)     】
【2240/田中・緋玻       /女性/900/翻訳家              】
【2259/芹沢・青        /男性/ 16/高校生・半鬼?・便利屋のバイト  】

NPC
草間武彦
  零

佐倉恵美
  両親

浅沼昌子

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■         ライター通信          ■
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お待たせしました、「誘拐犯」をお送りします。
幼児誘拐の話は以前から考えていたものだったのですが、サンプルを書き上げた直後に現実でも起こってしまい、暫く様子見をしていたものです。…結局今回のタイミングもあまり良いものではなく現実でもまた同じような誘拐騒ぎがあったようでしたが。あちらも無事保護されてほっとしています。
今回はホラーと一口には言い切れない話になりましたが、いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけたのなら幸いです。

それでは、また別の場所で出会えることを願って。
参加ありがとうございました。
間垣久実