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誓名の響
……泣いていた。
寂しいだとか早く帰って来てほしいだとか。
そういう言葉は、口にしたことがない人だった。
だから、その時、泣いている彼女の背中を見て、思い当たる原因に対して言いようもない憎しみを抱いた。
どうして、泣かすのか。
どうして、傍に居ないのか。
どうして、一人にするのか。
どうして、寂しがらせるのか。
ねえ、どうしてお父さんはいつも家に帰って来ないの?
お父さんは、お母さんが、嫌いなの?
だから、お母さんを一人にするの?
お母さん、泣いてるのに……寂しいって、言ってるのに……。
僕なら、こんなに寂しい思い、絶対にさせたりしないのに……。
著名なヴァイオリニストとして日々世界中を転々と飛び回る忙しい父と、ピアノの先生をしてはいるがほぼ専業主婦も同然で家にずっといる母。
母が子を身ごもり、産み、そして育てている間も、ほとんど家に戻ることがなかった、父。
その父へ向ける寂しさと切なさと、そして……この上もない愛とを、母はその時生まれた双子にそれぞれ名づけた。
――「しゅう」、そして「れん」……と。
*
独身最後の夜だから、と。
前夜から弟の恋人と夜通し様々な話をし、迎えた、朝。
きちんと睡眠をとった弟が作ってくれた朝食を口に運び、一旦準備をしに家に戻ってから再び弟を迎えに行き、彼の恋人に「いってらっしゃい」と穏やかな微笑みと共に見送られ。
向坂 愁は、一卵性双生児の弟である香坂 蓮と共にタクシーの中にいた。
大事な儀式――結婚式を行う為に、蓮が育った教会へと向かいながら。
結婚に際し多少緊張をしてはいるがそれほど心を揺らしたりしていない愁に対し、自分が姉と慕う女性と、自分の双子の兄との結婚式、という事で当人達以上に何やら緊張気味な蓮は、朝から妙に寡黙だった。それにつられるように愁も車中で暫し黙り込んで窓の外をぼんやり見ていたのだが、ややして、ふと何か思い出したようにその唇に笑みを浮かべた。
「ねえ、蓮。僕ね」
かけられた言葉に、蓮が無言のまま、少し紫がかった青い瞳を愁へと向ける。視線を受けて、愁も蓮へと顔を向けた。
「結婚って、そんなに幸せなものじゃないと思っていたんだ」
「…………、何?」
今から新郎として式を挙げる者とは思えない言葉に、蓮が訝しげに眉を寄せた。
「何を言っている、幸せなものじゃないって、そんな……」
「こっそり泣いている母さんを、よく見てたから」
結婚してもなかなか傍に居られない夫を思いながら寂しさで零すその涙を、幼い頃から何度も見ていた。
子供では癒せない、その寂しさに傷つく様を。
「……結婚したら一緒にいて普通なんだと思うでしょ? でもそうじゃなければ、結婚する前よりももっと哀しくなるんじゃないかな。寂しさを増させるんじゃないかな、って思って」
そんなものを、幸せだとは思えない。
紡がれた言葉に、蓮は数度瞬きしてから、ゆるりと首を傾げた。
「なら、どうして姉さんと結婚する事にしたんだ。幸せじゃないと思うのなら、どうして」
「一緒にいたいと思ったから」
詰まる事もなくさらりと答えて、愁は微笑んだ。屈託のない、子供のような顔で。
「結婚したらずっと一緒にいられると思ったから。子供の頃から父さんと母さんを見ててね、僕はたとえ誰かと結婚しても絶対に父さんみたいにはならないって、ずっと思っていたから」
僕なら、愛する人を一人にしたりはしない。
寂しいと、泣かせたりなんて絶対にしない。
「そういう自信があったから、結婚するんだよ」
眼を細めて微笑む。
「大切な人を幸せにする自信がないのに、結婚なんてしないでしょ?」
「……それはそうだが」
「だから蓮も心配しないでね? ちゃんと幸せにできるのかどうかとかそういうことはね」
「別に、心配はしていないが……。兄さんはきっと、姉さんを幸せにすると……信じているし」
口許に手を当てて呟くように言う蓮に、愁は微かに笑って、ふと自分の膝の上に視線を落とした。
「僕の名前は、ある意味、僕自身への戒めみたいなものになる気がする。僕は、僕が大切だと思う人にそういう思いを抱かせないように、って」
「……名前、が……戒め?」
不思議そうに問い返す。それに、こくりと愁は頷いた。
「『しゅう』。愁い、って、寂しい心配とか不安とかって意味でしょ。僕の名前はね、母さんが父さんに対して持っていた思いの半分を、つけたんだよ」
「半分?」
「そう、半分。もう半分は……蓮の名前に入ってる。蓮の本当の名前に」
「…………」
言われて、蓮は愁から少し視線をずらし、傍らにあるヴァイオリンケースを見やった。
自分の、本当の……名。
『香坂 蓮』という名は、生後親によりつけられた名ではない。それは赤子の頃に捨てられていた蓮を拾った人が、蓮に持たされていた『こうさか・れん』と平仮名で書いた紙を見て、つけてくれた字。
泥の中でも清らかな花を咲かせる蓮の花。そのように、俗世の煩悩という穢れの中でもそれに染まず、清廉さを保つ人になるように……と、蓮の育ての親がつけた名。その蓮の花が発する神秘的な香りのイメージも込めて――『香坂 蓮』と。
だが本当の名は、愁と同じ『向坂』という姓に、……。
「好き? 恋人さんのコト」
「……え?」
唐突に訊かれて、蓮は忙しなく瞬きし、薄く頬を染めて膝の上に置いた左手に視線を落とすように俯いた。
そこに光る、銀の指輪。
その銀輪の内側に、隠されているかのように収まっているのは、蓮のその瞳の色に似た透明な青を帯びた石。
そして今は見えないが、そこに刻まれた約束の言葉を思い、ゆっくりと眼を伏せ。
「――――……」
車の走行音で容易くかき消されてしまうほどの声で答える蓮に、愁はくすりと笑った。
「相変わらず照れ屋さんだなあ、蓮は」
耳には届かなくても、彼らが今日、結婚する自分達と同じくらいに思い合っていることはよく分かっている愁である。こつんと蓮の頭を拳で軽く小突いて、その手で彼の髪を撫でた。
「あ、今日『香坂 蓮』って名前をつけてくれた神父様に逢えるんだよね」
「……そうだな」
手を払いのけるでもなく大人しくされるがままになりながら、蓮が答える。
蓮にとっては、育ての父。
その父が、つけてくれた、名。
――蓮をその教会前に捨てたのは、蓮に名をつけた母親自身。それも『捨てた』のではなく、妙なモノに付け狙われる事が多かった我が子を教会という神聖な場所で保護してもらうことを願って、だったのだが……。
なんの説明もなく置き去りにされた蓮は、ごく最近までずっと『捨てられた』と思い続けてきた。それが心傷になり、彼がヴァイオリンで奏でる音色から「情感」という部分と、彼自身から「感情」という部分を、削ぎ落としてしまった。
今はその双方共を取り戻したのだが――本当の名を知ってもそれを名乗らないのは、やはり、事実は違っていたとはいえ、今更そんな自分を捨てたと思い込んでいた者がつけた名など名乗りたくない、ということだろうか。
「……蓮。今日、君のお姉さんは、僕のお嫁さんになるよね」
「ああ」
「じゃあ、僕と同じ名字になるわけだよね」
「……そう……なるな」
「君、彼女と本当の姉弟になれるのが嬉しいって言ってたよね?」
言葉や心の繋がり、という見えないものだけの姉弟という関係ではなく、双子の兄の妻――つまり義理の姉弟という実際の絆を持つ事が出来る、と。
そういう喜びを、蓮は持っているのだが。
「でも君は、香る坂の蓮の花……。香坂 蓮、なんだよね」
「…………、そう……、そうだな。分かってはいるんだ」
全部聞かなくても、兄が言いたい事も、蓮には分かっていた。
言いたい事、そして今から言おうとしている事も。
頭を撫でる兄のその手の下から、蓮は冷静な眼差しを彼に向ける。
「……言いたいんだろう? それじゃ戸籍上では本当の姉弟にはなれない。だから本当の名前に戻れ、と」
本当の、名。
「……『向坂 恋』に戻れ、と」
――恋……レン。
それが、蓮の本当の名。
母が父へと向ける恋情を、織り込んだ名前。
蓮の言葉に、愁が頷こうとしたその時、それより少し早く蓮が言葉を続けた。
「だが俺は今の名を捨てるつもりも変えるつもりもない」
「…………、やっぱり、母さんがつけた名前は嫌だとか、そういう……」
「そうじゃない」
緩く頭を振る。そして一度双眸を伏せて、ゆっくりと愁の顔を瞳に映す。微かな笑みを浮かべて。
「そうじゃない。母さんが俺の事を要らなくて捨てた……という訳じゃなかった事も分かっているし、今は母さんの事、俺も大切な人だと思っているし。でも、変えられないんだ。この名前だけは」
頑なな意思のこもる言葉に、愁は緩く首を傾げた。
「どうして? 本当の名前に戻ったら、君の大好きな姉さんとも同じ名字になるのに。それこそ、本当の姉弟に――」
「あの人が好きだと言ってくれたから」
告げられた言葉に、愁が瞬きする。そして、ああ、と微かな声を零した。
今の蓮の基準が全て「恋人」である事を知っているため、それ以上言っても無駄だと分かったのだ。蓮の恋人は、自分の親友でもある。その人が好きだと言うものを、幾ら兄弟だからとはいえ無理矢理に変えさせる事はできない。
何より蓮が、恋人よりも兄の言葉を取るわけがない。多分、そこに大好きな姉の事が加味されたとしても、だ。
蓮にとっては、恋人こそが何よりも優先すべきものだから。
「それは変えられないね」
ごくあっさりと納得した兄に、それに、と言葉を足し、蓮は再び手許に視線を落として苦笑した。
「別に名字による繋がりが欲しい訳じゃない。姉さんは、今までもこれからも俺の姉だと言ってくれているからもうそれで十分だし……何より、実際に俺と兄さんは血がつながっているんだから、それだけでもう兄さんと結婚する姉さんは確かに俺の姉な訳だし。……というか、それより『恋』なんて名前……似合わないからな、俺には」
「そう? 可愛くていい感じじゃない?」
「可愛いから似合わないんだ。それなら神父様につけてもらった名前の方がいい」
「蓮、可愛いから似合うと思うんだけどなあ」
ブラコンゆえの言葉を真顔で紡ぐ兄に、蓮は呆れたような顔で溜息をついた。が、そんなこと構わず、そういえば、と愁は蓮の手をそっと取る。
「神父様といえば、その人の前で、僕と彼女は永遠を誓うわけだけど」
「あ、それなんだが」
言いかけた愁の言葉にまた声を被せて、ふと神妙な顔で蓮が愁の方へと視線を向けた。
「大丈夫か? カトリックは離婚を認めていないんだが」
「…………。……離婚」
ぽつりと長い沈黙の後でその単語を口にし、愁はがくりと項垂れた。
「何で『今から結婚式!』っていう時にそういう言葉を出すかなー……ヒドイよ蓮、お兄ちゃん泣いちゃうぞっ」
「あー……兄さんが泣くのはどうでもいいが、姉さんが泣くのは困る……」
「あああまたそういう兄を蔑ろにするような事を言うっ」
真顔で答える蓮に泣き真似をして言ってみるが、彼には通用しないらしく、しれっとした顔で窓の外へと顔を向けている。
ふ、と。
穏やかな笑みを浮かべて、愁は小さく頷いた。さらと少し長めの黒髪が揺れる。
「心配ないよ、離婚についてのことは何も。僕は彼女を決して一人にはしないから。ずっと傍にいるから」
にこ、と眼を細めて微笑み。
「愛しているから、彼女のこと」
きっぱりとなんの衒いも迷いもなく言う兄に、弟もまた、穏やかに微笑んで――そうか、とだけ答えた。
やがてタクシーのフロントガラスの向こうに、蓮にとってはよく見慣れた、愁にとっては初めて見る風景が広がり始める。
青く晴れた空に向かうかのように、白い屋根の上に設えられた十字架。
もう、花嫁はその下にいるのだろうか。
刻々と迫り来る約束の時を、どんな想いで迎えるのだろう。
幸せだけを見つめてくれているだろうか? それとも花婿が迷わないでそこへ辿り着けるかどうか心配している? 式が上手くいくかどうか、不安に思っている?
否。
きっと、芯の強い彼女の事。いつもと変わらぬ風に穏やかで優しい微笑を浮かべて、この爽やかな季節の光の中にいることだろう。
そんな事を思い、愁は笑みを零した。
今、そこに行くから。
これからの時を、共に歩んでいくために。
寂しさ、切なさ、哀しみ……その全てをあなたの中から取り去り、永遠にそこから遠ざけ、護るために。
この世で一人、僕を選んでくれたあなたを誰よりも幸せにするために。
愁いなど抱かせはしないと、この名に誓うから。
新緑の季節の光を受け、純白のウェディングドレスを纏うあなたはきっと何よりも綺麗な……、
――僕だけの、白百合の花。
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