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<東京怪談ノベル(シングル)>


塞いだ耳の奥に残る声

 たとえば世界に神様なんているものがいるとしたら
 そいつはきっとひどく悪趣味な奴なんだと思う

 風呂無し四畳半の狭い部屋に躰を横たえ、有佐ユウシはぼんやりと一点を見つめていた。
 こんな生活に陥るに至ったそもそもの原因はなんだったろうか。
 これまで何度となく繰り返した自問。
 借金の保証人になった経緯はもう思い出せないけれど、それが事の始まりだった。
 これまで何度となく繰り返した自答。
 他人の借金の返済に明け暮れ、自転車操業でもなんとか自分だけで生きていられた頃が懐かしい。闇金に手を出したのは血迷ったとしか思えない。マスコミが騒ぎ立てるせいもあって、社会には無頓着な自分にも闇金がどんなものであるかというぼんやりとしたイメージはあった。借金の上塗りどころか、それ以上に大変なことに陥るのは目に見えていたというのに、どうしてあの時、まるでレンタルビデオを借りるような気軽さで闇金から金を借りるようなことをしてしまったのだろうか。それまで辛うじて自由だった自分の首を自分で締め上げ、身動きが取れないような状態にしたのは紛れもなく自分自身。ユウシはそんな自分の浅はかさに涙もでないほど呆れていた。
 このまま何も食べずに、水も飲まずに、干乾びていけたら死ぬことができるだろうか。疲れきってぼんやりとした頭が無意識のうちにそんなことを考え出している。いつからか死ぬことが身近になって、暇さえあればそんなことばかりを考えている自分がいる。借金の返済だけに明け暮れていた頃は、そんなことを考える暇もなかったというのに回収業者のあいつが現れてからというもの、無意識におかしなプログラムが組み込まれてしまったかのように無意識は完全な逃亡を望むようになってしまった。
 重たい躰は物理的な逃亡にはもう耐えられそうにないほど疲弊している。
 第一どこまで逃げればあいつの手から逃れられるというのだろうか。閉じた目蓋の裏側に不意にあいつの厭な笑顔がよぎる。それが不快ではっと目蓋を押し開く。精悍な顔立ちはいかにも喧嘩慣れしていると云っているような武道派の気配を漂わせ、無言の内にユウシを脅迫し続ける。蛇に睨まれた蛙という言葉があるけれど、今の自分の状況はきっとそれにぴたりと当て嵌まると思った。逃げたいと思う心とは裏腹に、逃げ出すその前から逃げることなど無理なのだと諦めている自分がいる。
 拝み屋の真似事をさせて、あいつは果たしてどれくらいの金を手に入れているのだろうか。赤貧どころの話しではない自分とは裏腹に、あいつはきっと満足するだけの儲けを得ているのだろう。いつの間にか知れていた自分の能力。それを利用するあいつの狡猾さがたまらなく憎らしい。
 睦言を囁くようにして耳元に注がれる言葉。
 本職に頼むよりも安く上がる。
 その言葉が自分の価値のような気がする。借金の保証人。闇金。そんな言葉の先に這いつくばる自分の価値など、きっと安いものだ。そんな気持ちに拍車をかけるのが、都合のいい愛人として扱われていることだろう。借金を返済してやれば自由にしてやるという決り文句。自分の安さを象徴するような行為。総てが肌に染み付いて、耳に残って、眼に焼きついて離れない。
 今ここで死ねたら、楽になれるだろうか。
 ぼんやりとした頭は暇ができればそんなことばかりを考えている。しかし考えるばかりで行動に移すことができないのは、何故なのか。躰が疲弊しきっているということばかりが理由ではない。単純に死を恐れているからというのもある筈だ。死ぬということ。終わるということ。哀しませる相手などもうない誰一人としていない自分なのに、結局自分が大切であるがゆえに死を選ぶことができない。
「おい」
 不意に乱暴な声と共に薄っぺらいドアが開いて、さも当然といった体でいかにもという装いのあいつが立っている。靴を脱ぐこともなくずかずかと部屋に上がりこみ、毛羽立った畳の上に横たわるユウシの腕を無造作に掴んで引き上げる。
「仕事だ」
 ぶっきらぼうな声に返事もせずに手短に身支度を整え言葉に従う。そんな自分を惨めだと思う気持ちさえもいつの間にか麻痺してしまっていた。
 鍵をかける必要も無い部屋を出て、あいつの背中をぼんやりと眺めながら階段を降りる。
 外はいつの間にか夜。
 暗い道で等間隔に並ぶ街灯だけが明るい。
 ひと気もない道。
「ちんたらしてんじゃねーよ」
 云われてはっと我に返った。
 殺してしまえばいいんじゃないか。
 思うと躰はそれまでの疲労感など嘘のように軽くなり、伸ばした腕は易々とあいつの頸を目指した。両の掌の内側で感じるあいつの頸の皮膚の感触。生温かさと呼吸のリズム。それをせき止めるように締め上げると、あいつはすぐ目の前で苦しげに眉根を寄せる。ユウシは薄ら笑いすら浮かべていた。無表情が常の自分が笑っていることにも気付けないくらいに、おかしかった。
 単純なことだ。
 今この状況から逃げることができないのないなら、自ら死ぬことができないなら、あいつを殺して、消し去ってしまえばいいんじゃないか。
 両手に力をこめて、だんだんといたぶるように骨ばった頸を締め上げる。掌のなかであいつが、一人の人間が終わっていく気配。歪むあいつの顔。それまでの余裕が失われていく。
 死ねよ。
 思って、ユウシは不意に怯えを感じて手の力を緩めた。
 あいつが笑った。
 まるでそうされることを望んでいたかのようにして、笑って見せた。やっと死ねるとでもいうように、潔い笑顔だった。
 後退さるユウシを咎めるでもなくあいつは笑う。
「どうして殺さなかったんだ?」
 耳の奥に焼きつくような強さで、その言葉はユウシが行為を中断させたことを責めていた。
 聞かなければ良かったと思う。
 聞かなければ殺せた筈だと。
 どこまでも逃げられた筈だと思うのに、両の掌に残る感触と声の余韻が殺せないという現実を突きつける。震える手。手ばかりではない全身が震えている。止まらない。怖いわけではないのに、震えが止まらない。停止した感覚が、今まで敢えて目を背けていたものを捉えてしまったような心地がした。
 重たい腕を持ち上げて耳を塞ぐ。
 それでも一度聞いてしまった声は消えない。
 震える腕をあいつの手が掴む。
 その強さに顔を上げると、そこにあったあいつの顔はついさきほど告げられた言葉を再度告げるようなものだった。
 ―――どうして殺さなかったんだ?
 きつく、強く耳を押さえても聞こえる。鼓膜に張り付いてしまった音のようにして響き続ける。
 長い余韻。
 それはどこまでも、まるで夜の奥底まで響くような音としてユウシの耳の奥深くに染み付いていくようだった。