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『千紫万紅 ― 5月の花 カンパニュラの物語・庭園の風鈴に見る優しい想い出 ― 』
貴方は私の心配ばかりして、自分のことは何一つ言ってはくれない・・・
―――――妻は泣き出す寸前の幼い子どものような顔をして、そう手話で俺を責めた。
怒っているわけじゃない。
―――――ただ哀しかっただけ。ショックだっただけ。
――――――――俺の行為がそんなにも彼女を苦しめていた事に気が付けなかった事に。
だって彼女はいつも俺の隣で幸せそうに笑っていてくれたから。
守りたかった女性・・・
守りたかった笑み・・・
守りたかった温もり・・・
ただ隣にいて微笑んでいてもらいたかった、彼女に。
俺は俺が彼女を幸せにできるかどうかなんてわからない。
だけど俺は少なくとも彼女が俺の隣にいて、笑ってくれていてさえすればそれで幸せになれた。
ねえ、知ってる?
俺の笑みなんかよりも、
貴女の笑みの方が何倍も素敵で、
そして俺はだからがんばれるんだって。
前に歩いていけるんだって。
何がいけなかったのだろうか?
俺はただ妻に心配をかけたくなかっただけ。
妻の苦労や悲しみは共に背負いたい。夫婦だから。俺は彼女を愛しているから。守りたいから。守ってみせると誓ったから。今度こそ。失った温もり・・・大切なモノの分まで。
――――――だけど俺は俺の苦労や悲しみを、妻には背負わせたくないんだ。
―――――――――自分の弱みを彼女に見せるのがカッコ悪いとか、そんなひどく子ども染みた想いからじゃない。俺は信じてる。たとえ俺のカッコ悪いところを彼女に見せても、彼女はそれをちゃんと受け止めてくれて、そういう部分も含めて愛してくれるって。そう信じられるのは妻を本当に愛し、そして愛されているからこそ。
そう、そうやって俺は彼女を愛しているからこそ、俺は俺の事で彼女に負担をかけたくなかった。彼女には何の気苦労も無くただ幸せでいてもらいたかったから。
だからこそ、俺は悲しかったんだ・・・
彼女が俺にいつも見せてくれていた笑みの裏には彼女の不安があった事が・・・。
守ってみせるなんて言いながら、
―――――だけどその実、自分が一番彼女を傷つけていた事が・・・。
俺はどうすればいいんだろう?
―――――もう、わからない。
―――――――――ねじれた糸はもうこのまま戻らないのだろうか?
―――――――――――――――失った笑み。世界は再び夜となる?
ただ手を伸ばした・・・指の先はだけど欲しいモノを・・・守りたかったモノを触れることすらできやしない。
――――――――庭園
「風鈴の音色が途絶えてしまった。これは感謝すべき想い出を失ったのではなく、悲しみに押し潰してしまったのだね」
「哀しい、事ですね」
風鈴売りの少女がそう言う横で顔をあげた猫が細めた双眸を風鈴の音色が一つ途切れた場所とは違うとある場所に向けた。
ちりん、と風鈴がその方角で鳴った。
――――――――――――――――――――
【愛しき人の心があげた悲鳴】
病院の受付で簡単な書類を書き、その書類と一緒に診察カードと保険証を提示した。
簡単な診察のための手続きを済ませると、俺は病院の受付カウンターの前に置かれたソファーに座る妻の方にと歩いていく。
彼女はとても穏やかな笑みを浮かべながら隣に座る女性が抱く赤ん坊と握手をしていた。人差し指の先を紅葉のような小さな手で握られる妻の横顔は本当に綺麗だと想えた。
――――それは彼女が持つ母性ゆえであろうか?
俺は妻の名をそっと呼んだ。
それに妻は俺を振り返り、唇を動かせる。その唇の動きのリズムは彼女がとてもご機嫌な時のリズム。
俺はこくりと頷いて、彼女の横に立ってしゃがむと、そっと右手の人差し指を目線を同じ高さにしたその赤ん坊に伸ばした。
するとその紅葉のように小さな手は、そっと俺の人差し指の先を今ある力の限りに握り締める。俺はその手が持つ愛おしいほどの優しく眩しい温もりに微笑みながら唇を動かせる。
「こんにちは、咲子ちゃん」
「あぁやー」
するとそれに応えるように咲子ちゃんが笑う。俺と妻は顔を見合わせあってくすりと笑いあった。
「仲がよろしいんですねー」
そう咲子ちゃんの母親が口にして、俺と妻はまた顔を見合わせあって、俺は頷き、妻は恥ずかしそうに顔を俯かせた。今度は母親の方がくすくすと微笑ましそうに笑った。
そうして三人で簡単な世間話なんかをしていると、スピーカーで妻の名前が呼ばれた。
俺達はぺこりと咲子ちゃんの母親に頭を下げ、咲子ちゃんとお別れをすると、指定された外来用の診察室に向った。
清潔な白で満たされた病院の廊下。
その色と同じ服を着た看護士たちが気ぜわしそうに俺達を追い抜かしていったりする。だけど俺達はゆっくりと。ゆっくりと。
それが俺達夫婦のスピード。出逢った学生時代からの変わらずの。
日常生活には支障は無いが俺は右足が悪い。昔の火事の後遺症。だから俺は歩くのが遅くって、いつも友人達の少し後ろを歩いていた。でも妻は学生時代からこうやっていつも一緒に俺の歩くスピードに合わせて歩いてくれて・・・。
ああ、それがどんなに嬉しかっただろう。
安心できただろう。
その感覚は遠い昔、迷子になって道でしゃがんで泣いていたところを偶然通りがかった人に頭を撫でられて、手を引いてもらって、一緒に親を探してもらえた……そんなほっと安心できる優しい感触に似ていた。
夕暮れ時の雨上がりの優しいすみれ色の空のような・・・そんな心に暖かい色を持つ女性。
それが俺の妻。
ずっとずっとずっといつまでも一緒にいたいと望む人。
だから俺は普段ならマイペースを崩さずに歩いているのに、だけど今日は無理して歩を早めた。大切な人にいらぬ心配をかけないように。
妻が診察を受けている時は、俺はその診察室の隅にいて彼女を見守っている。人によっては過保護な、と言われてしまう事もあるが俺は別にそういう声を気にはしない。
―――――置いていかれてしまう悲しみを俺は知っている。だから彼女にはそんな想いをさせたくなくって、俺はいつも妻の側にいるんだ。
「・・・と、いう事です。何か質問は?」
妻の担当医である初老の医師は事細かに妻の今の病状について説明をしてくれると、次は服用する薬の成分や効果などを一つ一つ説明してくれた。俺達夫婦はこういう医者だからこの人の事を心から信頼していた。
そして妻の診察も終わり、俺は椅子に座る妻の傍らに立って、彼女が椅子から立つと同時に、先生に頭を下げた。
そうして俺は妻と二人、一緒に診察室を後にしようとした。だけど・・・
「あ、ご主人」
静かなそれでいて気遣わしげな響きを持つ先生の声がかけられた。
―――――どきっとした。声をかけられた理由は察しがつくから。
隣の妻が不安そうな面持ちで俺を見つめている。俺は彼女に心配ないと微笑むと、先生を振り返った。
「何ですか?」
「ええ、右足、少し不自然な感じがしましたので。足の具合はどうですか? これからの季節はまた雨とかも多くなるから痛むでしょうし、よろしければ診察をしましょうか?」
先生は俺ににこりと微笑みながらちらりと妻を見て、傍らの看護士に何かを囁いた。看護士は先生にこくりと頷くと、慣れた感じで妻に声をかける。
「それでは奥様はこちらに。これから先生が指定された奥様の薬のオーダーを書くのですが、薬の効果をより効きやすくするために少々奥様にお訊ねしたい事もありますので」
しかし妻はそう言う看護士に素早く手話をした。『すみません。私もここにいます』
妻はとても不安そうな顔で俺を見ていて、そして彼女にどう言えばよいのかわからずに立ち尽くす俺に、先生は優しく父親が息子を諭すように言った。
「正直に言いましょうか、ご主人。今この場を通り抜けたとしてもすぐに微妙な態度でやはり奥さんには伝わってしまうと想いますから。心配する気持ちはあなたと奥さん、変わりませんよ」
「・・・・・はい」
俺は先生に頷いて、そして妻に正直に打ち明けた・・・
「ちょっと右足の調子が悪いんだ」
・・・軽く笑いながら。
―――――だけどそれを聞いた妻ははっと息を呑み込むように両目をわずかに見開くと、俺の顔から自分の顔を逸らした。
帰りのタクシーの中ではお互いに無言だった。
そして家に帰り、リビングに入ると、彼女はおもむろに俺を鋭く細めた瞳で睨んで素早く両手を動かした。
『足の具合が悪いのに自覚はあったのぉ???』
「ああ」
俺は短く答えた。
すると彼女は口を小さく開けて、そしてその後にきゅっと下唇を噛み締めた。目じりの端に涙を浮かべながら。
そしてそのまま彼女は耐え切れない、とでも言うようにその手で語った。
「貴方は私の心配ばかりして、自分のことは何一つ言ってはくれない!!!」
―――――俺はその妻の言葉にひどく戸惑った。
火傷のせいで右足の具合が悪かったのを黙っていたのは彼女に心配をかけたくなかったから。俺は彼女にはいつも優しく穏やかに幸せそうに微笑んでいてもらいたかったから。そのためにだったら俺は俺の事はいくらだって我慢できるんだ。
だけど・・・
妻は頬に一筋の涙を伝わらせながら俺を睨んで、言った。
『夫婦って、もっと対等なんじゃないの? 支えて支えられてって。なのにあなたは私の面倒ばかり見て、そのくせ私にはちっともあなたの顔を見せてはくれようとしない。信じてくれていないの、私を? これじゃあ私達夫婦は対等じゃないわ。あなたは私の目線に合わせてくれないのだもの。私はあなたの目線であなたと同じモノを見て、一緒に色んな事を共感しあいたいのに。苦しみだってぇ!!!』
「それは……」
俺はぎゅっと両手でスカートを握り締めて細い肩を震わせる妻に手を伸ばして………
―――――ぼろぼろと涙を流しながら震える彼女に触れそうになる指先、だけどその指先が触れる寸での場所で俺の手は止まる…………
視線は何かを囁く彼女の唇に吸い寄せられた。
囁く彼女の唇・・・
――――――『これでは夫婦なんかじゃないわ。あなたは失くした家族にしたかったことを私にしたいだけなのよ。私は……私は………
あなたの家族の代わりじゃない!!!
………わたしはぁ……………』
私は、の後に彼女は何と言いたかったのだろう?
彼女は両目を見開く俺をどこか悪戯をしていたのを親に見つかった幼い子どもが浮かべるかのようなひどく怯えたような表情をして見つめて、
そしてその後はばっと身を翻して、部屋を出て行ってしまった。
走り去る彼女に伸ばした手の指先はただ何も無い空間に触れるばかりで。
――――そして初めて見る走り去る彼女の細すぎる後ろ姿は俺を責めていて、俺はただそんな彼女の後ろ姿を見つめる事ばかりしかできなかった。
心に痛かった・・・
――――愛としき人の心があげた悲鳴と、
走り去る彼女の後ろ姿と、
指先に感じる空虚な感触が。
――――――――――――――――――――
【波のような・・・】
「ふぅー。馬鹿だな、俺は。何をやっているんだ」
前髪をくしゃっと掻きあげながら俺は店の壁にもたれて天井をみあげた。
この店に漂うコーヒーや紅茶の香りと、パンの香り。
普段なら大勢の客の声で賑わう店内も今日は俺だけで、どこか祭りの終わった後のような寂しげな空気が流れていた。
その空気を震わせて、俺はもう一度ため息を吐いた。
そしてそんな空気を震わせるのがもうひとつ。
から〜ん。
扉につけた鐘がその音色を奏でた。
「あ、すみません。今日は休みで」
「え、あ、そうなのですか?」
そう言ったのは最近店に来るようになった綾瀬まあやという少女だった。
「すみません。それでは出直し・・・」とそこまで言って、彼女の声とは違う音が空気を震わせた。ぐぅ〜。
俺はちょっと眼を見開いてしまう。
そして彼女は薄っすらと、頬を赤くしながら言った。
「あたしじゃありませんよ、今の。これです」
彼女はちょっとムキになっているように上に向けた両の手の平を俺の方に差し出した。その上には小さな人形が乗っていた。いや、人形じゃない。これは・・・
「妖精?」
「ええ。知り合いの樹木のお医者さんの助手さんです」
「お、お腹が空いた、でし・・・」
彼女の手の平の上でしごく深刻そうに俺に片手を伸ばしながらそう言ってぱたりと倒れたその妖精に俺は眼を瞬かせると、ついくすくすと笑ってしまった。
「良いですよ。それじゃあ、パンと紅茶を出しましょう。お好きな席について」
「良いのですか?」
「良いですよ。それにその妖精さんがお腹の虫を鳴らす度に説明するのも大変でしょう」
そう意地悪くっぽく言うと、綾瀬さんは笑みを浮かべた。
俺はそんな彼女に小さく微笑むと、さっと彼女に背を見せた。
―――――妻を泣かせたそのすぐ後にそんな笑みを見せられている自分に罪悪感を感じたから。
彼女はまだ泣いているのであろうか?
「ちょっと、お待ちくださいね」
彼女をわずかに振り返りながら…だけど無意識に彼女の顔を見ないようにして…俺はそう言って、厨房の方へと入っていった。
「わわ、すごく美味しいでし♪」
綾瀬さんが細かく千切ったクロワッサンをスノードロップの妖精は美味しそうに食べていた。
もしもこの場に妻がいたのなら、きっとこんなにも美味しそうに自分のパンを食べてくれているスノードロップをとても嬉しそうに眺めているに違いなくって、
――――――そして俺にはその姿が容易に想像できて、それがとても心に苦しかった。
「今日は、奥様は?」
「え、あ、ちょっと出かけているんですよ」
俺はそう彼女に言った。だけど彼女は小さくため息を吐いて、肩をすくめる。どうやら俺達に何があったのかは見通されているらしい。女の子はそういうのは敏感だから。
彼女は何かを言おうと口を開こうとして、
だけどそこでから〜んとまた扉につけた鐘が鳴った。
午後を少し過ぎた時分の日の光を浴びながらそこに立つ人の顔は俺にはよくわからない。だけどその姿はどこかで見たような感じがした。どこでだろう?
「おわぁ、白さんでしぃー。聞いてくださいでし、ここのパンはすごく美味しいんでしよ♪」
「そうですか。それは良かったですね」
銀色の髪の下にある顔に涼やかな笑みを浮かべて立つ青年は俺に頭を下げた。
「こんにちは。今日はお店はお休みのようなのに、わざわざこの娘たちのために用意してくれたんですね」
「あ、いや。別にいいですよ」
俺は頭を軽く横に振って、そして白さんと顔を見合わせると、にこりと笑いあった。二人自然に。
「なんとなく雰囲気が似てますね。店長さんと白さん」
「「え、そうですか?」」
と、思わず二人一緒に声を揃えて言ってしまい、そして俺達二人はまた顔を見合わせて、くすくすと笑った。
その感覚は波に似ていた。
確かに彼と一緒にいると、
とても懐かしいような感じが俺の心をそっと指先で撫でていって、
だけど俺がその俺の心を撫でる懐かしい感触に触れようとすると、
さぁっとそれは引いていく。
そんな足先を撫でて引いていく波のような言葉にできないだけどとても懐かしく大切な感触が俺の心を震えさせた。
そしてだからという訳ではないが、
俺は彼に妻との事を話してしまった。
彼にはなぜかそういう雰囲気があった。
――――――――――――――――――――
【鳴らない風鈴】
そこは百花繚乱という言葉が似つかわしいほどに色取り取りの風鈴が宙に吊られた空間だった。そしてその色の数だけの音色があって、
不思議な事に俺はその音色の一つ一つを聴き分ける事ができた。
その音の一つ一つがそれぞれの風鈴が持つとても大切で愛おしい想い出を俺の心に見せてくれた。
「さあ、こちらだよ」
「ええ。さあ、新さん。行きましょうか」
「ええ。白さん」
猫さんに導かれてやってきた狭間の向こうに存在する場所『庭園』。その場所にやってきた俺はさらに猫さんに案内されて庭園の奥へと行く。
そこは想い出を封じ込めた風鈴の場所。
その場所で少女がひとり立っていって、ひとつの風鈴を見上げていた。
色も柄も無い透明な風鈴を。
「少女、お客さんだよ」
「はい」
静かに静かに少女はそう返事をして、俺を振り返る。
「こんにちは」
「こんにちは」
俺は少女さんに挨拶をすると、彼女が見ていた風鈴を見た。
―――――無意識にわかった。それが俺の想い出を封じ込めた風鈴だって。
「でもどうして透明? 音色も奏でないし・・・」
「それは新さんがあなたの想いを疑問に想ってしまったから」
「俺が俺の想いを疑問に想ってしまったから?」
「そうだよ。あなたが、あなたの想いを取り戻さない限りその風鈴に色も柄もつかない。そしてその音色も奏でない」
「ゆっくりと、ゆっくりと、新さんの中にある想い出を今一度見つめて、そしてその想いを思い出してください」
「俺は……だけど………」
妻の体に触れられなかった……指先………
抱きしめてあげられなかった…両腕………
見せられた後ろ姿………
―――――――それが俺を臆病にする。
――――――――――――――怖いんだ。自分の想いを見るのが・・・
――――――『これでは夫婦なんかじゃないわ。あなたは失くした家族にしたかったことを私にしたいだけなのよ。私は……私は………
あなたの家族の代わりじゃない!!!
………わたしはぁ……………』
ちりん、どこか遠くで、俺のモノではないけどなぜか懐かしく感じる風鈴の音色が聞こえたような気がして、
そしてその音色が流れると同時になぜか涙を流したくなった。
ちりん。
その風鈴の音色に合わせて言葉を紡ぐように白さんが口を開く。
「大丈夫ですよ、新さん」
「え?」
「大丈夫。自分を信じて。誰か大切な人を守りたいと想うのなら、まずは何よりも先に自分を信じないと。そうじゃないと誰も幸せにする事なんてできやしない。自分を信じて、人を信じて、そうやって二つの信じる心が、輪となって幸せとなって自分に帰ってくるのだと想います。だからまずは自分を信じましょう。人を好きになるのは理屈じゃないですから。声にならない言葉を伝えたいと想える自分を信じて・・・」
白さんは俺の手にそっと自分の手を重ねると、俺の想い出の風鈴にそっと俺の指先を触れさせた・・・。
『あの。そこ、俺の席なんです』
―――――最初に妻にかけた声はそれだった。
その時の彼女の様子は今でも思い出すことができる。
――――――彼女は今にも消えてしまいそうな気配でベンチに座っていた。そのままにしていたらまるで透明になって空間に吸い込まれて消えてしまいそうな・・・。
そう、だから最初はただ何か力になれはしないだろうかと思って声をかけた。
――――――そんな想いはただの傲慢だったのかもしれない。事実俺は彼女を苦しめていた・・・
そしてそんな想いを抱きながらも本当は助けられたのは俺の方で。
そう、俺の方だったんだ・・・
俺はどこか消えてしまいそうだった彼女を俺が繋ぎとめるつもりだった。
だけど俺の心を繋ぎとめてくれたのは妻の温もりの方だった。
過去の火事で俺は失った・・・
家族を。
自由に動く右足を。
だから俺はこの足だったから、いつも人とは違う場所を歩いていた。
『新ぁー。俺らも、もう少し歩くスピード落とそうか?』
そう言ってくれる友人はいた。だけど俺はいつもそう言ってくれる友人たちに軽くあげた右手を横に振って、笑みを浮かべていた。
――――そう言ってもらえることは素直にありがたいと想った。
ただ…だけどこれは俺の歩くスピードだから、そのスピードに皆を合わせるのが躊躇われた。
俺は俺のスピードで歩きたかったんだ。そして無理に自分のスピードに他人を巻き込みたくなかったんだ。たとえそれがただ独りで友人達の背中を見つめる位置でも。
………それでも―――――――――――
「ごめん。俺、歩くの遅いから」
『いいえ。これが私の歩くスピードだから、気にしないで』
ずっと独りで歩いていた大学のキャンバス。
若い声と、
光りと、
緑に溢れたその場所をだけど俺は彼女と一緒に歩けた。
それまでどこか遠くに見えていたモノが、
広すぎた世界が、
だけど手が届く距離にあるように思えた。
そう、それだけ嬉しかったんだ。
一緒に隣を歩ける人がいる事が。
自分のスピードで、
彼女のスピードで、
一緒に歩いていけることが。
繋いだ手と手。
かわされた約束。
そして俺達はずっと一緒に歩いていくために結婚した。
「新さん?」
白さんの声。
俺は頬を一筋の涙で濡らしていた。
「ああ、俺は彼女と一緒に……同じ位置で歩けるのが嬉しかったんだ。俺は彼女を愛しているから、だから彼女と幸せになりたくって、彼女を幸せにしたくって、ずっと隣を歩いてくれる彼女が浮かべている笑みを守りたくって、だから俺は彼女に心配をかけないように足の事を黙っていた。だけどそれは彼女にしてみれば……うん、彼女の言う通りに同じ位置じゃないんだよな。俺はちゃんと彼女の笑みを見たいのなら…守りたいのなら、俺は俺の目線も彼女に合わせて、彼女に俺を見せなくっちゃいけないんだよな」
そう言うと白さんが頷いた。
「それでは帰りましょうか。新さんが帰りたいと望む場所。いつでも帰れる場所。家族のもとへ。そう、家族、のもとへ」
「ああ」
俺が頷くと、
透明だった風鈴が蒼銀色の輝きを放ち、そしてとても澄んだ音色を奏で出した。
ちりん。
「猫。新さんを」
「ああ。それでは送ろうか。あなたをあなたの家族のもとへ」
俺は白さんと少女さん、猫さんにぺこりと頭を下げた。
――――――――――――――――――――
【ラスト】
夕暮れ時の公園で彼女は真っ白なベンチに座って、俯いていた。その横顔は髪で隠れていてわからない。
俺は一度立ち止まり、小さく息を吸うと、そこの花屋で買った花束を後ろに隠して、ゆっくりと妻の下へと歩いていく。そして俺の足音でわかったのだろうびくりと肩を震わせた彼女に、俯いたままの彼女に言った。
「あの。そこ、俺の席なんです」
―――――そしてその俺の台詞を聞いてぎこちなく顔をあげた彼女に、俺は後ろに隠していた花束を渡した。
カンパニュラ。
花言葉は感謝。
「いつもありがとう。そしてごめん。これからはちゃんと何でも話すから。だからこれからもよろしくお願いします。奥様」
それを聞いて、泣き笑いのような綺麗な笑みを浮かべて、横にずれた妻の隣に座って、そして俺達夫婦は他人が聞いたらひょっとしたら他愛の無い色んな事も笑いながら語り合った。
― fin ―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
2967 / 山際・新 / 男性 / 25歳 / 喫茶店マスター
NPC / 白
NPC / 風鈴売りの少女
NPC / 猫
NPC / スノードロップ
NPC / 綾瀬・まあや
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、山際新さま。はじめまして。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回はご依頼本当にありがとうございました。
前回山際ご夫妻さまのノベルを担当なされたライターさまの山際ご夫妻さまがあまりにも素敵で、
とても書くのに緊張したのですが、いかがでしたか?
PLさまのせっかくのイメージを壊していなければよいのですが。^^
プレイングを拝見させていただいて本当に深いストーリーだな、と想いました。
余計な心配をさせたくないから黙っていた事で逆に喧嘩となってしまって・・・。
人の優しさが時には痛いということはあると想います。
向こうはこちらの事を想ってやってくれたのでしょうけど、
逆にこちらはどうして言ってくれなかったんだ、ってショックを受ける時ってありますよね。
そこら辺は本当に難しいです。
またその逆もとてもショックですよね。ショックと言うか本当に哀しくって、自分を責めると想います。
言われてしまうとどうすればいいのかわからなくなってしまうし。
僕が好きな小説でも主人公の少年がさらりと人が人を想う気持ちは常に一方通行で、
だから悲劇は無くならないし、喜劇も無くならない。人間とは不合理な生き物だ、
というような台詞を言っていたりします。
確かに奥様からしてみれば本当にたまらないですよね。
ちゃんと言って欲しいですよね。
言ってもらえなければわからないし、
そしてそういう優しさがかえって本当に仇となって時にはずっと自分は気付いてあげられなかった、と心の傷をつけてしまう時があるから。
だからこそやはり同じ目線に立ち、何でも話すのは大切かもしれません。
しゃべりあう、という行為はお互いをよく知る最高の手段でもありますから。
ここら辺は本当に難しいですね。うん。
守りたい、という想いは何よりも尊いですが、ですがこの想いは同じ目線には立ってはいない感情だから、
だから本当に時として守りたいモノを傷つけてしまいます。
だから試練はそこですよね。
そこで終わりになってしまうのか、
それともそこから一歩また一緒に前に進めるのか。
山際ご夫妻は後者であったようで、だから本当にほっとしております。
一番書いてて印象にあるのはやはりラスト。
ベンチに座る奥様に、初めてかけた言葉と同じ言葉を新さんがかけるシーンは、
本当に自分自身で書いておきながら、とても大切で愛おしい感情の詰まったシーンで、
こういう事がやれてしまう新さんは本当に優しい人なのだな、と想いました。
それとカンパニュラの花束を渡す彼も好きです。
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
本当にご依頼ありがとうございました。
失礼します。
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