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<東京怪談ノベル(シングル)>


 朝夢

 ゆっくりと目を開くなり、笑みを浮かべながら自分を見つめていた女性と目が合って、少年は何度か瞬きをしていた。
 彼女の背後に見える空間は見慣れた自室の一部でしかなく、肌で感じる空気からも自分が現実の世界に戻ってきていることはわかっていたのに、一瞬まだ夢を見ているのかと思ってしまった。目の前にある状況が、あまりにも自身に都合のいいもののように感じられたからだ。
 おはようございます、と彼女に言われ、あ、おはようございます、と幾分掠れた声で彼は返す。そして、緩慢に起き上がろうとしたところで、背中に鈍い痛みを感じて目を眇めてしまった。
 床の上で寝てたからか……そうだった、ここで勉強してて、そのまま……と昨夜のことを思い返してから、彼は上半身のみを起こして首を少し動かした。そして、道理で痛いはずだと思いながら、続けて軽く背筋を伸ばす。
 そんな彼の名前を、女性は穏やかに口にした。
「遮那さん」
「はい」
 彼女へと視線を向け、遮那はぼんやりとした表情のまま言葉を紡ぐ。
「何かあったんですか、恵美さん」
「大丈夫ですか?」
 恵美が口にした言葉に、遮那はわずかに首を傾げた。
「……大丈夫?」
「ええ。ちょっと気になって、ここまで入ってきてしまったんですけれど」
 少し困ったように笑いながら、恵美は続ける。
「あ、部屋の鍵がかかっていませんでしたよ。世間とは違う意味で物騒なところですから、鍵なんてかけても意味がないかもしれませんが、一応気をつけた方がいいと思います」
 いくら勉強で疲れていても、と恵美が言うのに、はぁ、と遮那は返す。
「鍵がかかっていなかったとはいえ、勝手に部屋に入っていいということにもならないですけれど……今回は、私が管理人だということで多目にみてください」
 はぁ、と再度返してから、遮那は不思議そうに言った。
「それで、何が問題なんですか?」
「え?」
 目を見開いた恵美に対して、僕の体のことを心配してくれたんですか、と遮那は問う。
「こんなところで寝ていたのに、幸いと体調はくずしていないみたいですけど……あ、それとも、お金のことですか?見たところ、誰かに盗みに入られたということもなさそうですが」
「そうではなくて、大丈夫なのかどうか聞いたのは時間のことです」
 言いながら、恵美は部屋の壁にかけられている時計を指差した。
「今日も学校はあるんですよね?」
 普段この部屋を出る時間の数十分後を指している時計の針を目にしたのと同時に、穏やかに紡がれた恵美の言葉を耳にした瞬間、遮那の顔から血の気が引いた。
「あ、ありますっ!」
 叫ぶのと同時に立ち上がり、壁の方へと視線を移動してくれた恵美に心の中で感謝しつつ、遮那は大慌てで着替え始めた。机の上に散乱していた教科書や筆記用具を急いで鞄に入れ、つっかけるような状態で靴をはく。
「行ってきます!」
 そう叫んでから部屋を飛び出した遮那は、言葉をかけるタイミングを逃した恵美の視界から一瞬消えたものの、遠くに消えていくかと思われた彼の足音が再び聞こえはじめたのに不思議そうな顔をした彼女の目の前に、突然姿を現した。
「あ、あのっ!」
「はい!」
 つられるように高い声で言ってしまった恵美へと、遮那は続けた。
「ありがとうございます!」
 わずかに目を見開いた恵美を残し、今度こそ行ってきます!と叫んだ遮那は、全速力で走り出したようだ。瞬く間に彼の足音はきこえなくなった。
 もう遮那の姿は見えないことはわかっていたが、その後ゆっくりと外に出た恵美は、行ってらっしゃい、と彼の走っていった方向を見つめて呟いてから、更に静かに言葉を紡いだ。
「鍵は閉めておきますから」
 そして、今更のように遮那の慌てる様を思い出してしまい、薄く笑みを浮かべる。
 あんなに慌てるのなら、もっと早く起こしてあげればよかった、と恵美は思った。彼女が掃除をしている自分に声をかけてくる遮那の姿を今日はまだ見ていないという事に気づいたのは、この部屋に来る十数分前のことだったからだ。
 外から何度声をかけても部屋の中からの返事はなく、試しに軽くまわしてみたドアノブが抵抗なく回転した為、スペアキーも使わずにすんなりと遮那の部屋の中に入れてしまったものの、彼女はしばらくは何もできずにいたのだ。
 眠っている彼の顔を見つめること以外は。
 なんだか、その寝顔があまりにも可愛くて。おまけに、非常に気持ちよさそうに寝ていたものだから、本来の目的を棚上げして座り込んで見つめてしまっていたのだ。
 まぁ、どちらにしろ遅刻は免れなさそうだったし……何十分も見つめていたわけじゃないからいいわよね、と自己弁護をしつつ、恵美は放置していた掃除を再開する。
 箒を手にしたところで、学校までの道のりを必死に走っている遮那の姿を何気なく思い浮かべ、頑張って、と彼女は心の中で呟いていた。