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<東京怪談ノベル(シングル)>


交替の時間がきたら

 硬い足音が響く。
 懐中電灯の光の輪が、無人の廊下をなめてゆく。
 誰も居ない建物は、しいんと静まり返っていた。無人のビルが、有佐ユウシの仕事場だ。闇の中に浮かび上がる、黒に近い濃紺の制服と、制帽。
 昼間であれば、建物には人があふれている。
 そこかしこで鳴り響く電話の呼び出し音、紙をはきだすFAX、うるさいシュレッダー、そして、声高な会議のざわめきや、給湯室のささやき、応接室の談笑、バイク便のライダーが駆け込んでくる足音――。
 そんな昼間の姿を、ユウシは知らない。一転、真夜中ともなれば、そうした人間社会の営みはまぼろしであったかのように消え失せ、かわって闇と静寂が支配者の座につくのだ。
「…………」
 ユウシは足を止める。
 廊下のつきあたりにある窓の外を、ふわり、となにかが降りていった。
 短い嘆息。
 そして、歩き出す。
 誰もいないはずの、夜更けのオフィスビル。真新しい廃墟のようなこの場所が、ユウシの今夜の仕事場なのだ。


 制服に着替えて詰め所に入ると、先に来ていた初老の男が、かすかに怪訝な視線を送ってきた。あいまいに会釈して、ぼそぼそと、ほとんど聞き取れない声で挨拶する。
 本来、この曜日のシフトでないユウシがあらわれたことを、男は疑問に思っているのだろうが、上から申し送りがあったはずなのだ。
「――くんは休みか」
 本来、今夜の夜勤にあたるはずだった同僚の名をぼそりと呟く。
 ぎしり、と、パイプ椅子が軋んだ音を立てた。
 時刻はすでに夜半。だが、有佐ユウシの平穏にして退屈な一日はこれから始まるのである。
 警備員といっても、そこはそれ、治安大国・日本のことだ、本当の意味で警備員が必要になることは少ない。
 警備を頼む側にとっては、それでも万一にそなえての保険のようなものだし、働く側にとっては、それは時間を切り売りする仕事である。――そんな言い草は、情熱を持って警備の仕事に取り組むものたちに礼を失するものだったかもしれないが、今夜、ユウシの相棒となった男などは、定年後のあり余る時間を、どうせなら金に変えようというだけの動機でこの職に就いているに違いないのだ。
 だから、這うようにしか進まない夜ふけの時間を、ムダ話で潰すことしかできない。
「有佐くんは、どこの出身だね」
「…………K――市です」
「ん……、そうか。K――な」
 出身を聞かれたときはいつも、郊外のニュータウン――比較的、歴史の浅い街の名を答えることにしている。ささやかな嘘は、それ以上、話題がはずむのを避けるため。
 独り暮らしかね――そうですね――食事はどうしてる――適当に――ちゃんと食わんといかんぞ――はあ――。
 おっくうそうに、適当な答や相槌を返しておけば、意味のない会話はだんだん間遠になっていく。
 そして、やすらかな沈黙の天使がふたりのあいだを通るのだ。
「あ。俺、そろそろ、見回り行ってきます」


「有佐――、悪いんだけどさ……明日の夜勤、代わってくんないかな」
 おずおずと言い出した同僚の声は怯えを含んでいた。
 べつだん、何の予定があるわけでもないから、ユウシはただ頷くつもりでいた。だが、彼は聞かれてもいない理由を告げたのだ。
「こないだのアレ……さ……。オレ、なんか、おっかなくって……」
 思い出すのに、時間がかかった。
「ああ……。飛び降り――?」
「ホント、悪いんだけどさ……」
「別にいいけど」
 投げやりに返したが、奴はおおげさに、涙ぐまんばかりに感謝の言葉を述べるのだった。
 先日――
 彼が夜勤だった日のことだ。
 4階を見回り中、廊下のつきあたりの窓の外を、なにかが落ちるのを見た。
 かけつけて、窓から見下ろせば、下の駐車場にぼんやりと白いなにかがある。嫌な予感がしたが、職務上、確認しないわけにはいかない。
 行ってみれば、はたしてそれは――
(たまんねぇよ、オレ……。あんな――。人間って……人間の頭の中、って、ああなってんだな…………だのに、そいつ、目を開いたまんまでさ……)
 飛び降りがあったのは、このビルではなく、向いの建物だったが、ふたつのビルの谷間の、結果として遺体がよこたわっていた場所はこちらの敷地だった。
 そしてそれが、今夜、ユウシが代勤になった理由なのである。

「………………」
 4階の廊下の端にある窓からのぞきこむ。
 ふっ――と、風にさらわれたシーツのように見えたそれは、まぎれもなく、墜落してゆく人間の姿だ。
 声にならない叫びをあげて……彼は落ち続けているのだ。
 ユウシは無言で非常扉を押し開け、階段を下ってゆく。
(人間って……人間の頭の中、って、ああなってんだな…………だのに、そいつ、目を開いたまんまでさ……)
 冷たいアスファルトの上によこたわった無惨な骸。
 むろん、それは過去のまぼろしにすぎない。
 ユウシは無感動に、それを見下ろした。
 かっと虚空を睨む目……はぜた柘榴のような傷口からあふれる血と粘液……土気色の肌……赤黒い血の染みた服は、ワイシャツにネクタイの、何の変哲もないサラリーマンのものだったが。
『どうしろっていうんだ』
 いつのまにか、ユウシの隣にならんで、その男が立っている。
 そして、自分の遺骸を見下ろしているのだ。
『おれにこれ以上、何をしろっていうんだ。部長も……課長も……勝手なこと言いやがって……クソっ……』
 怨嗟のつぶやきから顔をそむけるように、ユウシは男が落ちてきたはずのビルを見上げる。こちらのビルよりも高い。あの屋上から、フェンスとともに、彼は命の境界を乗り越えてしまったのだ。
「そこまで――」
 われ知らず、つぶやく。
「追い詰められていたんだな」
『畜生……畜生……』
 詳しい事情はわからない。
 彼の死を哀しむものたちがどの程度いるのかも。
 自殺という選択の是非も、また。
「…………」
 ユウシはそれは、問わない。
 ただ静かに、目の前の光景を見るだけだ。

「ずっと、此処にいるつもりかい」

 意外なことを問われたように、彼がユウシを振り向いた。
 やせた男だった。青白い顔で、思いつめたような目で、じっと、ユウシを見つめる。
「もう戻れないんだ」
 善かれ悪しかれ……すでに一線を越えてしまった以上は。
 あのビルの屋上から、こちら側へと、飛び出してしまったからには。
「だからって、ここにとどまり続けるのは、望んだことじゃないだろう」
 それが正しいかどうかは別にして、彼は自由へと飛翔したはずなのだ。
 それは、現世的には無惨な墜落死であったかもしれないけれども、それによって彼の魂は世俗の束縛からは逃れたはずなのだ。
 それなのに――
 彼はいまだ、闇の中を落ち続けている。
 冷たい骸をさらしたまま、此処に立ち尽くしている。
「此処にいるべきじゃ、ないだろう……?」
 相手は何も応えない。だが、その瞳が、かすかに、揺れて……
『おれ……は……』
 遺骸は消えていた。
 ただ、不吉なしみだけをかすかにとどめる、アスファルトの上に、男は立っている。その輪郭が、かすむようにぼやけてゆく。
「ほら」
 ユウシは言った。
 導くでも、指図するでもなく、ほんのすこし、背中を押すだけ――。
「もう、行きなよ」
 ユウシの表情と口調は変わらない。いつだって淡々と、さざ波ひとつたたぬ山中の湖面のようだ。
「行きたかったところへ、さ――」
 彼が頷いたように見えたのは、気のせいだったろうか。
「望むところに、行けるといいね」
 夜風が、つぶやきをさらっていった。

 ビルの狭間の空が、うっすらと藍色に変じてゆき、星たちが輝きを失う。
 夜というものは、明け始めたと思えば、あっという間に朝になってしまう。それは驚くほど簡単で、さきほどまで、重たく世界を覆っていた闇は、潮が引くように、緞帳が上がるように消えてしまうのだ。
 光が差し込み、空が未明特有の澄んだ青空に変わっていった。
 この時間――、この風景がユウシは好きだ。
 やがて、街は再び、人間たちの活動する場となり、このビルにも早起きな社員が出社してくるだろう。
 そして、その頃、夜勤シフトの警備員はひっそりと姿を消すのだ。

(了)