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<東京怪談ノベル(シングル)>


すべてのはじまりのできごと
 湯気にかすむバスルームで、新藤カレンは鼻歌をうたいながら入浴を楽しんでいた。
「……ふぅ、いいお湯……」
 カレンはそっと、お湯をすくう。
 今日の湯は、うっすらとした琥珀色をしている。
 人からもらった、紅茶の香りだという入浴剤を入れてみたのだ。澄んだ琥珀色の湯からは、ほのかに紅茶の香りがただよってきている。
「……そういえば、あのときの紅茶も」
 たしか、こんな香りだった。
 カレンはゆっくりと思い出す。
 自分が、今のような姿になる前のできごとを。

   *

 当時のカレンは、入学したての男子大学生だった。
 ふと、駅前に貼ってあった事務アルバイト募集の広告を見つけて、あけのレデーィスクリニックへと訪れたのだ。
 あけのレディースクリニックは、クリニック、という言葉からは少し離れた印象の、洋館風の建物だった。
「あの〜、すいませ〜ん」
 とりあえず、カレンはそう声をかけながら、あけのレディースクリニックの中へ足を踏み入れたのだ。
 カレンはとりあえず、ということで奥へと通されて、紅茶を出されて説明を受ける。
 説明をしてくれたのは、院長だという美女だった。
 きれいな人だなあ、とうっとりしながら、カレンは院長の顔をながめる。
 そうしているうちに、身体がだんだん熱くなってきた。
 ……まずい。
 とっさにそう思って、カレンは中座しようと、立ち上がろうとする。
 だが、うまく身体が動かない。
「え……?」
 カレンは思わず小さくつぶやく。
 いったいどうしたんだろう。
 自分のつぶやき声までが、妙に高音に聞こえてくる。
「大丈夫ですか?」
 院長が尋ねてくる。
「あ……はい」
 その声を聞くと身体がとたんに楽になって、カレンは小さくうなずいた。
 だが、答えたときの自分の声に、なんともいえない違和感がある。
 カレンは思わずのどもとを押さえた。
 すると、そこには、いつもならば指先に触れるはずののどぼとけが存在しない。
 どういうことなのだろうか。カレンは眉を寄せる。
「……さあ、お座りになって」
 院長がカレンへ椅子をすすめてくる。
 どうやら、院長は特になにも不思議には思っていないようだ。
 だとしたら、気のせいなのかもしれない。
 そう思いながら、カレンはまた、椅子にかける。
「それで、できれば住み込みで……」
 院長がすずやかな声音で条件などを口にする。
 その声を聞いているうちに、カレンの中で、相手を慕う気持ちがわいてきた。
 これまでに感じたような、恋愛感情とは少し違う。
 恋愛感情は恋愛感情でも、どこか、ベクトルが違うのだ。
 自分の気持ちはなんなのだろうか。そう思いながら、カレンは自分の胸元に手を当てる。
 するとそこには、ささやかなふくらみがあって、カレンは思わず声を上げそうになった。
 どういうことだろうか。
 自分は、男だったはずなのに!
 だが、そうは思うものの、特に違和感はなかった。
 これは自然なことなのだと、カレンはあっさりと受け入れてしまっている。
「……よろしいですか?」
 院長が尋ねてきた。
「は、はい!」
 カレンはいちもにもなくうなずく。
 この人のそばにいたい、と思っていた。
 住み込みで働くなんて願ってもないことだ。
「では、まずは部屋を案内いたしましょう」
 院長がやわらかく笑って、手を差し出してきた。
 カレンはそっと、その手を握った。そんなささいな動作にすら、胸をときめかせながら。

   *

「ん……ぅ」
 カレンは小さく、うめきを上げた。
 どうやら、いつのまにかのぼせてしまっていたらしい。
 身を起こして、軽く頭を振る。
 どうやら、誰かが部屋まで運んでくれたようだ。院長だろうか。
 だがどういうわけか、いつもに比べると視界が低い。
「……にゃ」
 なんでかしら、といおうとしたのに、口からこぼれたのは猫の鳴き声だった。
 まただわ、とカレンは思った。
 こういったことははじめてではないのだ。
 あけのレディースクリニックにはじめて来た日から、カレンはありえない目にばかり遭っている。
 どうしようかと考えた挙句、とりあえず、カレンは院長のもとへ行くことにした。
 院長ならば、きっと、なにか知っているか、でなければなにか言ってくれるかするに違いない。
 そうして立ち上がりながら、カレンは、まずはどうやってドアを開けるべきなのかと、白猫の身体で思案するのだった。