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<東京怪談ノベル(シングル)>


かんのんさまのおじひのみちに


 ゆうらりゆらり。
 しとりしとり。
 白い衣が、ゆうらりゆらり。
 黒い夜に、しとりしとり。
 ぼんやりと影が、ゆうらりゆらり。
 ぼんやりと雨が、しとりしとり。


 ぺんぎん文太がその夜に、ふと目を覚ましたのは何故だったのかはわからない。雨の匂いの強いねっとりとした夜の、その湿り気は、ヒトにはともかく文太には不快というほどのものではなかったので。
 露を集めて雫が落ちるような五月雨を神社の軒でしのいで、夜が明けたなら当て所もなく再び旅立つつもりであった。行く先は明石か六甲か、それも定めてはおらず、湯の風の吹くままにと思っていた。
 不思議とぱちりと目が開いた。何の気なく腹這いのまま、ぬぅと首を伸ばすと、白いぼんやりとした光が目に入った。
 遠くの外灯とは違う。
 光。いや、影だ。
 雨を映してさらに白い。
 あれは巡礼の白衣だ。
 輪袈裟に南無観世音菩薩と書かれているのが不思議と読めた。それは、どこまでも白かったのに。

 ゆうらりゆらり、うしみつに、巡礼の列は進んでゆく。

 西国巡礼三十三箇所。
 眼前を行くその列が、生者の連なりでないことなどは容易に知れた。
『また巡ってきたんやネェ』
 文太が太い首を巡らすと、いつのまにか少し離れて猫がいた。かなりの老猫だった。
『若かった頃に一度見たで。尻尾の分かれた婆様がウチらの寿命じゃあ二度は見られへんて言うてたけど』
 めでたいネェと、猫が言う。
 めでたいのかと、文太は視線を戻した。
 列は通り過ぎてしまっていた。
 十数年かに一度、巡礼の列はここを通るらしい。
 ここを……こんな神社の軒先を?
 道からは外れているだろうに。
『あれまあ、どうしたんや』
 猫は再び、大仰に言った。
『先頭が戻ってきよるやないの』
 猫の言うとおり、ゆうらりゆらりと白い巡礼の列は一度行ったはずの道を戻ってくる。
『そういやあ、前に見たのはここじゃなかったネェ。あれはどこやったかナァ。ここいらはここ数年で、だいぶ道も変わっとるさかいナァ』
 区画整理とか言うんやと、猫は問わず語りに語っている。
 列は再び通り過ぎようとしていた。
 迷っているのだ。
 彼らが知っている道が失われて、迷っているのだ。
 髷と結い髪の一行は、幾度巡礼の道を辿ってきたのだろうか。
 どれだけ人と町が変わっても、街道さえ見失わなければ辿れたのだろうか。
 それは観音様のお慈悲だろうか……
 文太がそんなことをつらつらと考えているうちに、三度巡礼の列は戻ってこようとしていた。
『なんや、あれやネェ。迷っとるんや』
 巡礼の一行は浄土への道にも迷い、今また地上の道にも迷っている。

 しとりしとりと、雨は降り続いていた。

 文太は立ち上がった。
 人ならぬ身に、雨は不快なものではなかったので。
 街道に出る道筋は知っていた。
 それは文太が来た道だったので。
 傍らに置いていた手桶を取り、段から降りる。
 迷う巡礼の列の前に出て。
 文太は黙って、おいでおいでと手招きした。
 そして、えっちらおっちら歩き出す。
 数歩歩いて、振り返った。
 巡礼の列は文太を認めたのか、足を止めていた。
 もう一度、おいでおいでと手招きする。
『案内してやろってかい、優しいんやネェ』
 猫が言った。
 先頭の髷を結った男が、深々と礼をした。
 もう一度、えっちらおっちら歩き出す。
 次に振り返ったのは、街道の辻だった。

 白い巡礼の列は、最後の一人が一度だけ振り返って礼をした。
 だが道を見失っていたことなどなかったかのように、白い列はゆうらりゆらりと進んでゆく。
 街道のその先の、札所を目指して。
 揺るがぬ、忘れえぬ地へ。
 観音様のお慈悲にすがり、いつか満願を果たして浄土に至る日まで……

 文太は、その白いオイヅルの影たちが見えなくなるまで見送っていた。
 かたや文太の旅が目指すべきものは、すでに記憶から失われて久しい。
 いつかには、確かにあったもの。
 だが、もはや、欠片も思い出せぬ時の彼方のもの。
 ……永劫の放浪は、地獄にも極楽にも行き着かぬ。
 さて案内した方された方、これはどちらが迷っているものか。
 どちらが憐れと言うべきか……


 文太は首をぬぅと上に伸ばした。
 いつのまにやら雨は止み、雲の切れ間に月が覗いていた。
 文太は神社に戻って眠るのでなく、月灯りの射す街道を歩き出した。
 お月さんはきっと、文太の忘れた行く先も知っている。
 観音様のお慈悲の道では、あらゆるものが観音様の化身だそうな。
 それは一つ一つが、あるべき道を指し示すための縁だそうな。
 だから、ゆうらりゆらりと進んでみようか。

 観音様のお慈悲の道に……
 ゆうらりゆらり。